塩森俊修塩森 俊修 (しおもり としのぶ、1960年4月24日[1] - ) は、東京都大田区出身の元オートバイ・ロードレーサー。1988年の全日本ロードレース選手権TT-F3クラスチャンピオン[2]。 エントリー名を 塩森 俊伸 としていた時期もある (1989年より)。 経歴小学生のころから早くオートバイに乗りたいと思っていた少年時代を経て、16歳になると運転免許を取得。レースにも出たが、体制が整わず休止する。7年後、実家近くのオートバイショップのチームからロードレースに再デビューすることになるが、そのショップとはヤマハモトクロスで有名[3]な鈴木忠男の店「SP忠男・羽田店」であり[4]、塩森は以後SP忠男のトレードマークである「目玉ヘルメット[5]」を着用して筑波選手権ニュープロ(NP-IIクラス)などで経験を積み、筑波サーキットを得意とした[6]。 1984年、全日本ロードレース選手権のノービスクラスにヤマハ・TZ250で参戦すると、筑波では国際B級やA級のポールポジションタイムより速いタイムを刻むなど、「ノービスでは規格外の存在」や「スーパーノービス」と呼ばれ注目を集める[6]。全日本戦終了後のシーズン末に開催された筑波フェスティバルでは、直接国際A級とB級の選手に混ざって250ccクラスを走る機会があったが、A級250ccクラスのトップランカーを抑えてポールポジションを獲得。同年はオートバイ雑誌で度々記事になるなど、レース関係者やファンに塩森の名が知られる年となった。この年のMFJ競技ライセンス制度ではノービスで特筆すべき成績を残した選手に適用される国際A級への飛び級(特別昇格)制度が無く[7]、翌年は国際B級への昇格となった。 1985年はSP忠男より全日本の国際B級250ccクラスとA・B級混走のTT-F3クラスにダブルエントリー。250ではチャンピオンを獲得。TT-F3は国際A級のワークスチームとも混走だったが、特に第9戦筑波ではホンダワークスRVF400に乗るポイントリーダーの山本陽一とトップ争いを演じ、A・B級あわせた総合での2位表彰台(B級優勝)を獲得。前年に引き続きスーパーB級の塩森と報じられる[8]。筑波フェスティバル250ccクラスでは、ノービスだった前年大会に続いてA級ライダーと対等に混ざり上位を走り、3位表彰台を獲得してB級での最終レースを締めくくった。 ![]() 1986年より国際A級に昇格。エントリーはSP忠男からであったが、ヤマハファクトリー契約ライダーとしてワークスマシンのYZF400でTT-F3クラスに参戦[9]。1年目のA級初優勝は挙げられなかったが、コンスタントに上位でポイントを獲得し、同年と翌1987年の2年連続で全日本ランキング2位に入る。'87年の第6戦鈴鹿ではヨシムラ・スズキGSX-Rの大島行弥を振り切り待望のA級初優勝を挙げ、第10戦菅生でもヨシムラ・スズキの高吉克郎と大島を破り2勝目を挙げた。F3クラスではホンダ・RVF400の黄金期であり、その牙城をヤマハ・YZFで崩すのが使命となっていた[10]。1988年、HRCの田口益充とのタイトル争いに勝ち、A級3シーズン目にしてTT-F3クラスチャンピオンに輝く。3年続いていたホンダ・RVFの連続タイトルを阻止するもので、ヤマハにとっては1984年江崎正以来のF3クラス王座獲得であった[11]。 1989年より発効されたレギュレーション改正により改造範囲が厳しく制限されたことを受け、ヤマハワークスがF3クラスからの撤退を決めたため、全日本250ccへと参戦クラスを異動[12]、B級時代以来4年ぶりとなる2スト250ccマシンに乗ることになった。この年250ccクラスでヤマハファクトリーマシンYZR250[13]に乗るのは前年の250チャンピオン本間利彦とF-3チャンピオン塩森の2人のみであり、メインスポンサーに大手飲料メーカーのキリン「メッツ」が付くなど、ホンダ勢とのタイトル争いに加わる存在として期待された[14]。しかし開幕から予選・決勝とも10位前後の順位が続くなどトップ争いに絡めず、苦戦のシーズンとなった。1990年も同チーム体制で参戦したが、マシンはTZとなり、ヤマハ250のエース格としてタイトルを狙うのはSP忠男の後輩でもあるA級2年目の原田哲也[15]の任務となっていく。塩森にとって同年がフルシーズン参戦最後の年となった。 2000年代以後ロードレースの後進育成に尽力、モータースポーツ専門学校にて講師を務めた。また、2019年には同じく元ヤマハワークスライダーだった片山信二と共に、丸山浩が主催するイベントレースに参戦した[16]。 主な戦績全日本ロードレース選手権
ロードレース世界選手権
鈴鹿8時間耐久ロードレース
脚注
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