1990年のロードレース世界選手権
1990年のロードレース世界選手権は、FIMロードレース世界選手権の第42回大会である。 シーズンの概要89年までマールボロのサポートを受けていたヤマハのチーム・アゴスチーニが500ccから撤退、前年度までラッキーストライクのスポンサードを受けていたチーム・ロバーツがマールボロのスポンサードを受け、ラッキーストライクはそれまでペプシのスポンサードを受けていたスズキのスポンサーとなるなど、各チームの体制が前年度から大きく様変わりした。そのヤマハには前年度ホンダでタイトルを獲得したエディ・ローソンが復帰。しかしタイトル争いを終始リードしたのはチームメイトのウェイン・レイニーで、既にタイトルを決めた後のハンガリーGPでリタイヤした以外は全てのレースで表彰台に上がるという圧倒的な強さで7勝を挙げ念願の初タイトルを獲得。レイニーの時代が始まったことを世間に知らしめたシーズンであった。ローソンはシーズン初戦の日本GPで左足を、続くアメリカGPで右足を骨折するという不運に見舞われて長期離脱を余儀なくされ、タイトルを守ることができなかった。 レイニーと直接タイトルを争ったのはスズキのケビン・シュワンツであったが、前年同様優勝かクラッシュかという不安定なリザルトに終わり、長年のライバルであるレイニーの後塵を拝する結果となった。ホンダは前年度不本意な成績に終わったワイン・ガードナーが2勝を挙げ巻き返しを図ったもののまたしても怪我に泣き、代わって同胞のオーストラリア人ミック・ドゥーハンがハンガロリンクでグランプリ初勝利を挙げるなど大きな成長を見せるシーズンとなった。 2サイクルV4エンジンのパワーがますます強大になった結果、1990年はクラッシュが頻発したシーズンでもあった。ホンダは最高峰クラスを排気量375ccの3気筒エンジンに制限することを提案したが、他からの賛同は得られなかった。しかし、ラップタイムはやみくもに上がり続けており、なんらかの対策が必要なことは明らかだった。 250ccでは、ケニー・ロバーツの秘蔵っ子と言われたマールボロ・ヤマハチームのジョン・コシンスキーが、カルロス・カルダスとの激しいポイント争いを制し、フル参戦1年目にして250ccタイトルを獲得。チーム・ロバーツは500/250の両クラスでタイトルを獲得することとなった。125ccではこちらもWGP初参戦となったチーム・ピレリのロリス・カピロッシが17歳と165日でタイトルを獲得。1977年のジョニー・チェコットの記録を13年ぶりに更新する史上最年少チャンピオンとなった。 GP
最終成績500ccクラス順位
250ccクラス順位
125ccクラス順位
エントリーリスト500ccクラス[1]
# メイヤーは42番も使用 250ccクラス[2]
# プレイニングは39番、35番も使用 125ccクラス[3]
# カピロッシは48番、67番、75番、47番、59番も使用
脚注外部リンク |
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