山本隆義
山本 隆義(やまもと たかよし、1960年12月6日[1] - )は、愛知県出身の元オートバイ・ロードレース選手。 全日本ロードレース選手権に参戦しながら、1987年のロードレース世界選手権ヨーロッパラウンドにプライベーターとして挑戦した。鈴鹿8時間耐久ロードレース出場12回[2]。 経歴1978年、17歳でロードレースデビュー。1982年の国際B級125ccクラスでランキング6位に入り、1983年からの国際A級昇格を果たすとともに、250ccクラスにステップアップ。1985年の全日本選手権250ccクラスで、ダイシン(大真工業)製オリジナルアルミセミモノコックフレームのヤマハ・TZで参戦し注目される[1]。6月に開催された第7戦筑波大会では予選から好調で、決勝レースではA級250初優勝を挙げる。同年はシリーズランキング5位となり、ベストプライベーターとして活躍した。全日本選手権終了後の筑波フェスティバルでは、500ccクラス3年連続チャンピオンを達成した平忠彦が翌年型TZ250でワークスチームより250に参戦し話題となる中、山本は平を抑えてポールポジションを獲得。決勝レースでも優勝しキャリアベストのシーズンを締めくくった。 ![]() 1986年、これまでのTZに替わり、ホンダ・RS250Rで参戦する。加えて、シーズン途中でHRCよりワークスマシンNSR250を貸与されるが、これまで乗ってきたマシンとの特性の違いから12位でゴールと上位を走れず、結局はシーズン中にヤマハ・TZへマシンを再々変更するという歯車の噛み合わないシーズンで終える[3]。 1987年、3月に鈴鹿で開催された世界選手権(WGP)250ccにワイルドカード参戦したが、このレースでヘビーウェットのコンディションを10位で走り抜き入賞、1ポイントを獲得する。同年の世界GP参加資格には、そのシーズンでのポイント獲得者は以後のグランプリへの参戦資格があるという規定があり、鈴鹿での10位によりその資格を得たことをきっかけに、「手作りの1ポイントを目指して」という企画書を製作しスポンサー獲得に奔走。ヨーロッパでのグランプリに参戦するべく動く。レース誌「レーシングヒーローズ(CBS・ソニー出版)」では特集記事が組まれ、スポンサー獲得交渉に悩み難航する様子も報じられた。8月から9月にかけてヨーロッパへ遠征し、4つのグランプリに参戦した。純プライベーター参戦かつ、初訪問・初走行のコース[4]が続く厳しさにより4戦中3回の予選不通過だったが、スウェーデンGP(アンデルストープ・サーキット)では予選を突破し、本場のグランプリレースを走った[5]。10月末に富士スピードウェイで開催された国際格式レース「スーパースプリント'87」では、悪天候の中行なわれた予選でWGPのトップライダーを抑えポールポジションを獲得した(決勝レースは濃霧のため中止)。 1990年、750ccのマシンで争われる「TT-F1クラス」に参戦カテゴリーを変更。鈴鹿8時間耐久レースにチーム・シンスケより参戦し、千石清一のペアライダーとしてサポート[6]。1994年からはクレバーウルフ・レーシングチームで斉藤光雄とのベテラン・コンビで参戦、鈴鹿8時間耐久には2007年まで参戦を続けた。 引退後は、地元である愛知県で建築会社「アーキテクト」の経営者を務める[7]。 レース戦歴全日本ロードレース選手権
ロードレース世界選手権
鈴鹿8時間耐久ロードレース
脚注
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