御木本伸介
御木本 伸介(みきもと しんすけ、1931年5月22日[1] - 2002年8月5日[1])は、石川県金沢市出身の日本の俳優。本名は鈴木 脩一(すずき しゅういち)。 来歴・人物
石川県生まれ。出生地については、羽咋郡押水町[2][3]とするものと、金沢市[4]高岡町[5][6]とするものがある。 一男一女の長男[2]で、日舞藤間流名取の姉がいる[5]。父方の鈴木家は、代々加賀前田家の御殿医を務めた家柄[脚注 1][2][5][7][8][9]。父の武も医師だった[2]が、太平洋戦争末期には、海軍に徴用されていた日本郵船所有の貨客船筥崎丸に機関士として乗船していた[10][11]。1945年3月19日、筥崎丸はアメリカ海軍の潜水艦による雷撃を受けて沈没し、父は戦死[10][5]。 松ヶ枝国民学校初等科[脚注 2] 卒業後、旧制金沢第二中学校から学制改革の為、新制石川県立金沢第一高等学校を経て石川県立金沢二水高等学校を卒業[5]。医学部志望だったが経済的理由で断念し[5]、1950年に立教大学経済学部に進学[2][5]。大学に進む頃には、父がいてくれればと何度も思ったが、それと同時に、自分の力で生きていくのだという思いを強くしたという[11]。 大学在学中の1953年、アルバイト中に知遇を得た映画監督阿部豊の誘いで、阿部が監督を務める『戦艦大和』に本名で出演[2][12]。複数いるエキストラの青年士官の一人だが、一言だけ台詞があり、同じ役柄で同じシーンに出演していた丹波哲郎よりも頻繁に画面に収まっている[脚注 3][13]。 この経験をきっかけに演劇に興味を持ち、1954年に文学座附属演劇研究所[脚注 4]に入所[2][3]。鈴木紳也[脚注 5]の名前で、阿部豊の監督作『叛乱』[脚注 6]、『日本敗れず』、『花真珠』、松林宗恵監督・須崎勝弥脚本の『人間魚雷回天』に出演した。 1955年、大学卒業と同時に文学座研究所を退所し、阿部豊の助言で新東宝と契約[2][3]。阿部の命名で芸名を御木本伸介と改め[2][14]、松林宗恵初の喜劇作品となる『風流交番日記』の新人巡査役で本格的にデビュー。 新東宝以外の映画作品では、1962年公開の大蔵映画2本に端役で出演している[脚注 8]。また、東映の任侠映画にも多く出演しているが、新興ヤクザの横暴に苦しめられる善良な老舗の若旦那や、袖の下の通用しない堅物の軍人や役人といった真面目な役柄が殆どである。若山富三郎主演の『極悪坊主 人斬り数え唄』には、柔術家の弟子という役柄で出演している。『人間魚雷回天』の須崎勝弥が脚本を担当した『あゝ予科練』では、普通学の国語担当の教官役で、死地へと赴く生徒達への精一杯の思い遣りと、送り出す者の苦しさを表して印象を残した[16]。 日活三人娘の一人、松原智恵子主演の『涙でいいの』では、松原演じるヒロインに想いを寄せられる写真家を演じている。 特撮作品に『スーパー・ジャイアンツ』二作品と『まぼろし探偵 恐怖の宇宙人』、『ゴジラ(1984版)』がある。 ![]() 新東宝解散後にはフリーとなり、テレビドラマを中心に活動[2][3]。1961年に出演した『新選組始末記』での伊東甲子太郎役がドラマ製作者に好評で、講道館柔道の創始者嘉納治五郎とその高弟達を描いた『柔道一代』の主人公・真野修五郎役に選ばれた[4]。嘉納についての資料を読み込み、フィクションではあっても「なんとか講道館柔道の精神だけはぜひ本物を伝えたい」という御木本の意気込みもあり、適役となった[4]。当初は全26話、半年間の放送予定だったが、村田英雄の歌う主題歌とともに人気になり、延長が重ねられて2年間続いた[17]。御木本自身の柔道経験は、旧制中学時代の正課で習ったのみだったが、番組開始後に講道館から初段を授与された[4]。また、番組終盤には講道館の機関紙「柔道」に御木本のインタビュー記事が掲載された[4]。 『柔道一代』終了後には、大島渚が手掛けた唯一の連続テレビドラマ『アジアの曙』に主演。中国大陸で革命に身を投じる主人公の中山峯太郎を演じた。『柔道一代』の成功を受けて日本電波映画が制作した柔道もののうち、『柔一筋』と『柔道水滸伝』にも出演している。1967年には明治100年を記念したNHK大河ドラマ『三姉妹』に桂小五郎役で出演。ほかのレギュラー出演作に、松村達雄と沢村貞子演じる老夫婦の磊落な次男を明朗に演じた松山善三原作のホームドラマ『ひげとたんぽぽ』、坂口良子主演の『幸福ゆき』のヒロインの父親役などがある。2時間サスペンスにも出演しているが、中でも1986年制作の『夜に頬よせ 過去を抱いた女』は、撮影から2年近くを経て深夜に放送されたことに加え、池田敏春監督・石井隆脚本の作品であり、役柄的にもやや異色である。 テレビ時代劇では家老や陰謀の黒幕といった悪役で度々出演しているが、『水戸黄門』では善人役がほとんどであった。『必殺シリーズ』では闇の元締役だった一回を除き、全て仕置きされている。 『鬼平犯科帳』には、萬屋錦之介版と中村吉右衛門版の両方に与力・天野甚造役でレギュラー出演した。他のレギュラー出演に、中野誠也主演の『次郎長三国志』(大政)、『長崎犯科帳』(与力・三島与五郎)、『お耳役秘帳』(同心・志波京之介)、『暁に斬る!』(夢助)などがある。 1960年代後半から商業演劇の舞台にも立ち、長台詞の上手さと、短い出番でも強い印象を残せる演技力で、立役から悪役、喜劇もこなし[18][6]、渋さと重厚さを備えた押し出しの良い助演者として[19][20]江見俊太郎、遠藤太津朗らと並ぶ名脇役となった。特に萬屋錦之介公演では要となる脇役として錦之介を支え、錦之介作品の演出を多く手がけた沢島忠は「錦兄とわたしを信頼しきった名脇役」と綴っている[21]。 1996年末に心筋梗塞で倒れたが、療養後に復帰[3]。1998年には、翌年放送のNHK大河ドラマ『元禄繚乱』で小野寺十内役にキャスティングされ、第三次出演者発表(1998年4月27日)にも出席していたが降板[22]。その後は、それ以前と比べて出演作が大幅に減り、主に鈴木伸太郎プロデューサーの現代劇に出演したが、2002年の「太陽と雪のかけら」へのゲストが最後の出演となった。 2002年8月5日、肺癌のため都内の病院で死去[23]。71歳没。 アクの強さや強烈な個性には欠けたが、上品さと落ち着きを感じさせる俳優で[24][25]、黒目がちな大きな目とサビのきいた低めの声が特徴[4]。情に厚く智に富んだ役柄から、他人には言えない秘密を抱えた翳りのある人物や、善人に見せかけた悪人を演じられることが持ち味の一つとされ[20][25]、映画・テレビドラマ・舞台を問わず、どの様な役柄でもオールマイティにこなせる俳優として信頼と評価を得ていた[26]。 趣味は読書、長唄、和装。1960年頃のインタビューで自分について、「年齢のわりに地味な感じ」と述べている[12]。 俳優としての自身については「不器用」と称し、人間的な深みを演じたいと心掛けていると綴っていた[5]。また、「出過ぎてよくなく、目立たなくても困る」をモットー[19]としていた。いくぶん頑固であったのか、映画監督の加藤泰が御木本から舞台公演の相談を受けた際の記述に、「ユーズーの利かなそうな御木本君の顔を見ているうちに」とある[27]。1982年、萬屋錦之介版の「鬼平犯科帳」第3シーズン撮影中に、番組制作を担っていた中村プロダクション(社長は萬屋錦之介)が倒産。出演俳優への総額1億円を超える出演料が未払いとなる事態に陥り、多数の俳優が債権者として名を連ね、番組を途中降板する出演者もあったが、御木本は「ギャラは一銭もいらない」と言い、最終回まで出演を続けた[28]。 桂小五郎役を複数回演じるなど幕末・明治ものにも多く出演したが、城下町金沢の出身で伝統文化に親しんで育ったことが幸いし、明治時代の雰囲気には入り込み易かったと述べている[4]。1986年には地元の石川県金沢市で行われている金沢百万石まつりで3代目前田利家になった。 1960年に[脚注 9][2][29]。 知人の紹介で知り合った美容師の女性と結婚[30]。結婚直後に出演した『爆弾を抱く女怪盗』では、主人公の高倉みゆきを強姦しようとするシーンがあったため「妻に悪くて」と撮影中に浮かない顔をしていたという[29]。 二男があり[2][30]、夫人には「やさしくて、とてもたのもしい方」、「百点満点なら百五点の主人」と評されている[30]。弟子に引地薫。 出演映画
テレビドラマ
舞台
以下は萬屋錦之介公演の作品
吹き替え
ラジオドラマその他テレビ出演
脚注脚注
出典
関連項目外部リンク |
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