武田修宏
武田 修宏(たけだ のぶひろ、1967年5月10日 - )は、静岡県浜松市出身の元プロサッカー選手、スポーツコメンテーター、タレント。現役時代のポジションはフォワード。元日本代表。 Jリーグ通算94ゴール(8位タイ)、日本サッカーリーグ(JSL)新人王、MVP、ベストイレブンはJSL時代3回、Jリーグ時代1回の記録を持つ。 経歴選手時代小学 - 高校時代静岡県浜松市で、トラック運転手の父と看護婦の母との間に生まれる。兄がいる[1]。小学校1年の頃にサッカーを始めた[2]。少年時代から静岡県内では天才サッカー少年と呼ばれ、浜松市立丸塚中学校2年時には東海選抜に選出され全日本選抜中学生サッカー大会で優勝、3年時には 日本ジュニアユース代表に選出されシンガポールで開催されたライオンシティカップに出場し、得点王となった。 中学卒業後は地元の浜松を離れ、静岡県立清水東高等学校へ進学。当時越境進学するケースは少なく「故郷を捨てる裏切り者」と新聞に叩かれた[2]。当時の清水東の3年生には清水東三羽烏と称された大榎克己、長谷川健太、堀池巧らがいるメンバー内で1年時からセンターフォワードのポジションを獲得すると全国高等学校サッカー選手権大会静岡県予選では9得点を挙げる活躍で得点王とMVPを獲得。本大会では5得点を挙げる活躍で準優勝に貢献[2]、大会優秀選手に選ばれ高校選抜の一員としてヨーロッパ遠征に参加した。国体には1年時から出場し、1年時と2年時には準優勝、3年時には中山雅史らと共に参加(中山は当時DFとして参加後述)、準決勝の三重県選抜戦にて7得点を挙げる活躍などで優勝に貢献した[2]。しかし、清水東高では3年時に主将を務めたものの、冬の高校選手権予選では準決勝で敗退した。 日本ユース代表には1年時から選ばれ、1983年のAFCユース選手権予選に出場したが、3年時は年齢制限(1967年8月1日生まれ以降の選手を対象とした)のため代表には招集されていない[3]。 JSL時代高校卒業後の1986年に、静岡第一テレビ(NNN・NNS系列で、読売新聞東京本社や日本テレビ放送網などの読売グループが主要株主)の子会社静岡第一ビデオ(現・SDTエンタープライズ)に入社。静岡第一テレビの内山信一社長の取り計らいもあって社員として勤務する傍ら、静岡第一ビデオからSDT東京支社への出向社員という扱いで日本サッカーリーグ(JSL)1部の読売サッカークラブに入団した[4]。進学校として名高い清水東高校から高卒で実業団入りするのはJリーグ創設以前の当時としては異例であった。この頃は午前中に一般業務を行ってから、小田急線でよみうりランドまで通った[2]。入団初年度からポジションを獲得すると、1986-87シーズンに11得点を挙げる活躍で2シーズンぶりのリーグ優勝に貢献。この活躍により武田は新人王とベスト11[2]、日本年間最優秀選手賞を受賞した。また1987年には日本代表にも選出され[2]、ソウルオリンピック予選に出場、第1戦のインドネシア戦で代表デビューを飾ると、この試合で代表初得点を記録した。 これらの活躍で武田は、1987-88シーズンのJSLのPRポスターのモデルに選ばれるなど新たなスター選手として扱われるようになった。またルックスの良さやファッションセンスからサッカー以外の雑誌やテレビで紹介されるようになり、1988年1月15日の成人の日には日本テレビ系列で『サッカー青春賛歌「ストライカーへの道」武田修宏20歳からの挑戦』と題したドキュメンタリー番組が放送されるなど[5]、異例の扱いを受けた。 その後一時期不調に陥るが、1989-90シーズンには13得点を挙げ復活を果たし、翌1990年に代表へ復帰。同年にブラジルから三浦知良が加入すると三浦とのコンビで1990-91、1991-92シーズンのリーグ連覇に貢献した。 Jリーグ発足後日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)創設に伴い読売クラブがヴェルディ川崎と改組された後も、三浦、ラモス瑠偉、北澤豪らと共に中心選手としてチームを支え黄金時代を築いた。1993年5月15日、Jリーグ開幕戦となった横浜マリノス戦で先発したが、前半のみの出場となった。第3節のサンフレッチェ広島戦でJリーグ初得点を挙げた。セカンドステージ、第11節のマリノス戦では決勝ゴールを挙げ[6]、数年間勝利出来ずにいたライバルから勝利した。当時の武田の年俸は1億2千万円と言われ[7]、JSL時代よりも多くの収入を手に入れると共に人気選手として注目を集めた。日本代表にも引き続き選出されたが、ハンス・オフト監督の下では高木琢也や中山雅史といった同年代の選手に比べ出場機会は少なく、控え選手としてベンチを温めることが多かった。後に「ドーハの悲劇」と呼ばれたW杯アメリカ大会のアジア最終予選・イラク戦では試合終盤の81分に中山と交代で出場するも、試合終了間際の致命的な判断ミスがロスタイムでの失点につながり非難を浴びた[2]。その後、1994年のパウロ・ロベルト・ファルカン体制での出場を最後に、日本代表に招集されなくなった。 1996年、武田は出身地の浜松に隣接する磐田市のジュビロ磐田に移籍、磐田では中山雅史、サルヴァトーレ・スキラッチがツートップを組んでいたこともあって、オフト監督により、主にDFの右サイドバックとして起用された[8]。この年のJリーグオールスターサッカーに先発で選抜され、その試合でも背番号9ながら、DFとして出場した[9]。その後、一旦ヴェルディに復帰したが、ラモス瑠偉が移籍した京都パープルサンガに移籍、シーズン途中にラモスがヴェルディに復帰したため武田が取り残される形となった。1998年にジェフユナイテッド市原へ移籍した。市原では、2年間のリーグ戦で19ゴールと活躍したがチームはJ2降格の危機にさらされるなどの苦難も味わったJ1参入決定戦ではアビスパ福岡との2回戦第1戦でゴールを決めた[10]。1999年のシーズン終了後、市原から戦力外通告を受ける。その後、古巣のヴェルディに市原時代の1/4の年俸で移籍復帰する(ヴェルディ川崎としての最終年)。ヴェルディで出番を与えられなかった2000年の途中にはパラグアイのスポルティボ・ルケーニョに移籍して活動の場を求めたが、3か月後に監督が交代、退団した[2]。その後、ブラジルに留学し、ネルシーニョ監督率いるポンチ・プレッタで修行した。 2001年、武田は川崎から本拠地を移転した東京ヴェルディ1969へ3度目の復帰を果たし[11]、チームでの活躍と日本代表復帰を目指したが、同年を最後に現役引退。引退は相談したホリプロの会長に勧められたという[2]。2001年のJリーグ終盤にエジムンドが加入すると、ベンチ入りメンバーからも外れた。Jリーグ最後の試合となったリーグ最終節のFC東京戦ではベンチ入り、試合終了間際から出場した[12]。よみうりランドで行った引退会見[2] では涙ながらに心情を吐露し(「できれば、辞めたくなかったです」の台詞)、その場にいた記者から拍手が湧き上がり、チーム本拠地の東京スタジアムで行われた第81回天皇杯準々決勝の後で引退セレモニーが行われた。読売クラブ時代に同期入団し、ヴェルディを共に支えた菊池新吉と共に引退。Jリーグ通算成績は、237試合94得点[13] 引退後引退後は日本テレビで2002年日韓W杯、2006年ドイツW杯、2010年南アフリカW杯などでサッカー解説者を務め、東京スポーツで『武田修宏の直言』と題するサッカー解説コラムを執筆している他、タレントとしてバラエティ番組や旅番組などに出演している[2]。NHK教育テレビ『スペイン語会話』の生徒役(2004年度)としてもレギュラー出演していた経歴をもつ。 引退後、地元静岡県の民放単発番組(街中を自由に散策して地元の人と触れ合う、いわゆるお散歩番組)でレポーターを務めたことがある。その際、JR清水駅前で清水エスパルスとの遠征試合にやって来たJリーグチームの選手バスと遭遇した。選手たちは著名選手の武田との偶然の遭遇に喜び、バスに乗っていた監督まで呼び出してはしゃいでいた。しかし監督はマスコミ取材と思って出てきたものの、単なるお散歩番組の道程中に遭遇しただけ、と知って「現場の仕事に復帰してくださいよお」と皮肉を言った。 2004年から2009年まで日本サッカー協会が認定するJFAアンバサダーとしてサッカーの普及に貢献している。2005年日本サッカー協会公認S級ライセンスを取得した[2]。 プレースタイルフィジカル・テクニックなどの能力に特筆すべき点はなかったが、ポジショニングの上手さやゴールへの嗅覚は非常に優れており、仲間からのパスをはじめ、仲間のシュートミスしたボール、敵のパスミスに素早く反応してゴールを奪った。このプレースタイルから「ごっつあんゴーラー」とも言われた。これについて武田は、「往年のイタリア代表FWであるパオロ・ロッシやサルヴァトーレ・スキラッチのようなラッキーボーイ的な活躍をする選手とプレースタイルに通じるものがある」と自著で語っている[14]。 磐田では背番号2をつけ右サイドバックでプレーすることが多かった。当時の磐田監督はオフトで、自分が指揮した時の日本代表のBチーム(控え選手のチーム)でサイドバックをやっていた武田を評価して磐田へ招いたとされる[15]。ただし、後半に得意のセンターフォワードの位置に上がったり、先発時からセンターフォワードで出場した試合もあった。FWでの出場の多くは、同じチームにいたスキラッチとの交代だった。 人物サッカー選手・指導者
私生活・タレント活動
ファッション
所属クラブ
個人成績
その他の公式戦
その他
個人タイトル
代表歴試合数
出場
得点数
指導歴
出演テレビ番組
ウェブテレビCMゲームJリーグ開幕当初、武田の名前を冠したサッカーゲームが発売された。 実在の大会名(ワールドカップ、(日本の)高校サッカー選手権、その他)、実在のリーグ・組織名(FIFA、セリエA、Jリーグ、その他)、実在のチーム名などを冠したサッカーゲームは多数ある。また有名選手を起用し、ゲームタイトル名に選手名を冠したゲームも多数発売されている。(ジーコ、ラモス瑠偉など) しかし実在の選手名が冠されたテレビゲームが3本も発売された選手は武田修宏をおいて他になく、2021年現在、「世界で最も多数(3本)の個人選手名を冠したテレビゲームが発売された選手」である。
映画
著書
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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