横浜深谷連続殺人事件
横浜深谷連続殺人事件(よこはまふかやれんぞくさつじんじけん)とは2008年(平成20年)、2009年(平成21年)に神奈川県横浜市と埼玉県深谷市で起きた殺人事件である。埼玉県の裁判員裁判で、初めて死刑が求刑され[1]、また初めて死刑判決が宣告された[2][3]。また、「裁判員裁判で、完全無罪を訴えながら死刑が確定した初めての例」でもある[4][5]。 概要2009年8月、埼玉県深谷市の民家で男性Y(当時64歳)が胸に包丁が突き刺さったまま死亡しているのが発見された。10ヶ月後、Yを殺害した容疑で逮捕されたのは、Yの甥であるA(当時41歳)とB(当時37歳)だった。逮捕後、2人は2008年にも神奈川県横浜市の会社事務所で女性X(当時46歳)を殺害し、生命保険金を詐取したことを供述し、再逮捕された。Xは生前Bと養子縁組をしていた[6]。 公判に際して、Aは完全無罪を主張、Bは起訴事実のほぼ全てを認めて、2011年7月の裁判員裁判で無期懲役判決(求刑死刑)を受け、控訴しなかったため、Aの裁判が始まる時には刑が確定していた。2012年1月から開かれたAの裁判にBは証人として出廷し、Aへの心酔を語り、Aの指示に従って犯行したことを供述した。さいたま地方裁判所はBの供述を信用できるものとして、Aを事件の首謀者と認定、死刑判決を下し、控訴審、上告審でも一審の死刑判決が支持され、Aの死刑が確定した[7]。 事件の経過Aは、高校卒業後、母親が経営する内装工事を営む会社で働きはじめた。Aの従兄弟であるBも、1992年から3年間同社で働いていた[8]。Bはその後、暴力団に所属したり、デリヘルを経営したりしていた[9]。 2000年6月、Bは道路交通法違反、業務上過失傷害罪により、懲役1年執行猶予4年の有罪判決を受けた[10]。 2003年2月、Bは恐喝、傷害、銃砲刀剣類所持等取締法違反罪により、懲役2年6ヶ月の有罪判決を受け、先の執行猶予も取り消された。Bは2006年7月に出所した[10]。 2006年11月、BとXは出会い系サイトで知り合い、BはXの養子となり、 Xに生活保護を不正受給させるなど、Xを金銭を得るための道具として扱っていた[8][11][12]。BはX以外の女性にも金を貢がせたり売春をさせていた[13]。 2007年6月、Xは詐欺罪で逮捕・起訴された。Bは情状証人として出廷し、Bに頼まれたAも同行した。Xは保護観察付き執行猶予の刑を受けて釈放され、Bの実家など各地を転々とした後、2008年1月30日から同年3月13日に殺害されるまでAの母親の会社事務所で寝泊まりしていた。XはAの母親にBから売春を強要されていること、BがAに命令されたと言っていることを告げた。Aの母親はすぐにAを呼び出し問いただしたが、Aは否定した[14]。 2008年3月13日、BはX(当時46歳)を睡眠薬で眠らせ、Aの母親の会社事務所の浴槽に沈めて水死させた。そして保険会社を騙し、保険金約3600万円を受け取った[15]。神奈川県警察は、「泥酔して水死した」という説明をうのみにし、司法解剖を行なわず、後日保険会社から問い合わせが来た時も再捜査を行わなかった[16]。 2009年8月7日、Bは金銭トラブルで揉めていたおじY(当時64歳)を、埼玉県深谷市のYの自宅で包丁で刺して殺害した。8月9日、Yの死体が発見された。 12月3日、金を貢がせていた女性への傷害容疑でBは逮捕された。同22日、改造拳銃を所持していた容疑で再逮捕、翌2010年私文書偽造容疑で追起訴、5月26日に詐欺の容疑で3度目の逮捕。これらの取り調べと並行して、埼玉県警はBに対してY殺害の容疑を追及し続けた[17]。 2010年6月3日、Bは、Yと金銭トラブルを抱えたAの指示によりYを殺害したとする上申書を提出してY殺害を自白した[18]。6月20日、Bは再び上申書を提出し、Aの指示を受けてXを殺害したことを自白した[19]。7月21日にはAもX殺害に関する上申書を提出し、犯行を自白した[20]。 6月25日、埼玉県警はYに対する殺人容疑でAとBを逮捕した[21]。2人は別の交通保険金をだまし取った詐欺容疑で逮捕されていた[22]。 11月4日、埼玉県警はXに対する殺人容疑でAとBを再逮捕した[16]。神奈川県警は初動捜査のミスを認め、遺族や関係者に謝罪した[23]。2011年1月21日、埼玉県警は保険金をだまし取った詐欺容疑でAとBを再逮捕した[24]。 裁判刑事裁判では被告人Aが自白を撤回して無罪を主張、Bが起訴事実を認めたため、公判は分離された[25]。 AとBの公判供述X殺害、Y殺害に関するAとBの公判での供述は以下の通りである。
Bの裁判さいたま地裁(田村眞裁判長)の裁判員裁判で2011年7月6日、検察側はBに対し、永山基準を挙げて結果の重大性や被害者感情、前科などに言及し、殺人を直接実行するなど犯行態様が極めて悪質で、動機に酌量の余地は全くないとして死刑を求刑した[1]。埼玉県の裁判員裁判で、初めての死刑求刑である[1]。7月9日、最終弁論で弁護側は、Aが主導的立場であり、Bは服従する関係にあったことと、Bの自白で事件の全容が解明できたとして、情状酌量による無期懲役を求めた[30]。 7月20日、さいたま地裁は弁護側の主張をほぼ認め、Bに無期懲役の判決を言い渡した[31]。検察側、弁護側ともに控訴せず、判決は確定した[32]。 判決はBの犯行を「強固な殺意に基づく冷酷、非道なもの」とした一方で、「主導的役割を担った」のはAであり、Bは報酬を得てはいるものの「完全に従属的立場」で、刑事責任はAと比較して「相当程度低い」とした。また、神奈川県警が事故死として処理していたX殺害を「罪を認めることにより死刑になることもあり得る状況下」で「素直に自白」するなど、捜査段階から事実を認めて詳細に供述したこと、証言台に立つ度に傍聴席の遺族らに深々と頭を下げるなど、「反省、悔悟の情が認められる」ことを指摘して、「前科等に照らして規範意識の低さを指摘せざるを得ないものの、今後の更生を期待できないとまでは言え」ず、「死刑を科することにはなお躊躇せざるを得ない」とした[33]。 Aの裁判Aは前述の通り、さいたま地裁(田村眞裁判長)の裁判員裁判で殺人および詐欺をいずれも否認した[34]。X殺害に関して、Bの口座にXの生命保険金3600万円が振り込まれたことは争わないものの、BがXを殺害した事実はなく、仮にBがXを殺害していたとしてもBとAの間に共謀の事実はなく、X死亡後の保険金請求についてもXが殺害されたことを知らずに行ったため、Aは無罪であることを主張した。Y殺害に関しても、BとAの間に共謀の事実はなく無罪であることを主張した[35]。 2012年2月15日、AがBに殺害を指示した首謀者であるとして検察はAに死刑を求刑した[36]。Aの弁護側は改めてAは犯行に関与していないと無罪を主張した[37]。 2月24日、さいたま地裁は弁護側の無罪主張を退け、求刑通りAに死刑を言い渡した[38]。埼玉県内の裁判員裁判では、初の死刑判決となった。28日、Aの弁護人は判決を不服として、東京高等裁判所に控訴した[39]。 判決では、Bの供述に対する信用性が焦点となり、Bの供述には具体的なエピソードが含まれており「体験した者にしか語り得ない臨場感に富んでいる」こと、取調べ時から供述内容が変転していないこと、刑がすでに確定しているBがAに責任転嫁する理由がないことなどから、Bの供述に「疑いを挟む余地はない」とした。一方で、Aの供述は「不自然、不合理」であり、捜査段階の自白とも矛盾するため信用できないとされた[40]。 その上で、Aは「終始主導的立場」から、Aに逆らうことがないBを意のままに動かして実行行為を担わせたとして、Bと比べてAの刑事責任は「相当に重い」とした。遺族の処罰感情、「不合理な弁解に終始し、責任逃れに汲々しているのであって、反省、改悛の情が窺われない」ことから「死刑をもって臨まざるを得ない」とした[41]。 2013年(平成25年)6月27日、東京高裁(井上弘通裁判長)は死刑とした一審・さいたま地裁の裁判員裁判判決を支持し、弁護側の控訴を棄却した[42]。「Bの証言は信用でき、被告が主導的立場だったと認められる」と指摘。その上で「2人の生命を奪った結果は重大で、死刑はやむを得ない」とし、A側の無罪主張を退けた。 Aは最高裁判所に上告したが、2015年(平成27年)12月4日、最高裁第二小法廷(鬼丸かおる裁判長)は「Bが意のままになることを利用して冷酷、非道な犯行を発案、計画し、実行させた。責任はBに比べ相当に重い」としてAの上告を棄却する判決を言い渡した。これにより、Aの死刑が確定することとなった[43][44]。 A冤罪説ノンフィクションライターの片岡健は、「Bが自分1人で2人の人を殺めた挙げ句、従兄弟のAに罪を押しつけ、死刑を免れた」[45]としてAの冤罪を主張している。 片岡は、面会でのA本人の証言や裁判資料の調査などから、冤罪と考える根拠として以下を指摘している。
片岡は服役中のBにも取材の依頼の手紙を送ったが、その返信を読んだ片岡は、Bは「2人の人間の命を奪ったことを何ら反省していない」「裁判中に深い反省の態度を示していたのは、死刑回避の演技だった」と考えるに至ったという[50]。 片岡は、Aとの面会記も含む自著『平成監獄面会記』のサブタイトルを「重大殺人犯7人と1人のリアル」とした理由についてもAを冤罪とみる考えから他の「殺人犯」7人と分ける意図で「1人」としたのだという[51]。 Aは死刑確定直前の片岡との面会で、「Bに対しては、今は怒りより『気の毒なヤツだ』という思いが強いです。記録を調べるほど、ヤツが『死刑になりたくない』とあがいていたのがわかったからです」「裁判員の人たちには、恨みや怒りはないですね。殺人の片棒をかつがされ、かわいそうに思います」「自分は死刑になると思っています。でも、子どもたちには、父親が殺人犯だという思いはさせたくない、真実を残してやりたいという思いはありますね」と語ったという[52][5]。 片岡はAの家族を通じてAに再審請求するよう言ったが、Aは聞き入れていないという[53]。 テレビ番組
参考文献
脚注
関連項目 |
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