町田也真人
町田 也真人(まちだ やまと、1989年12月19日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市南区)出身のプロサッカー選手。Jリーグ・ギラヴァンツ北九州所属。ポジションはミッドフィールダー。 実父の町田隆治は浦和サッカー少年団指導者協議会技術委員会副委員長[1]。 来歴プロ入り前埼玉栄高校では、監督のセルヒオ・エスクデロの下3年生で埼玉県予選を制し、同校史上初の全国高校サッカー選手権出場を達成した。専修大学に進学後はトップ下として活躍し、4年次には中心選手として関東大学サッカーリーグ戦1部および全日本大学サッカー選手権での優勝を果たした。専修大学では同学年に庄司悦大、2学年下に長澤和輝らがいる。大学ではチームの快進撃を支える中心選手だった一方、「あの(小柄な)体格ではプロは厳しい」というプロ関係者の評価もあった[2]。その中でジェフユナイテッド千葉から継続的に高評価を受け、2011年8月の天皇杯東京都予選、横河武蔵野FC(現・東京武蔵野シティFC)・FC町田ゼルビアとの対戦での活躍後、獲得オファーに至った[2]。 プロ入り後2012年、J2・ジェフユナイテッド千葉に加入。3年目の2014年は出場機会を増やし、J1昇格プレーオフ決勝戦に先発出場を果たしたが、決定機を外すなど本来のパフォーマンスを発揮できず、チームも0-1でモンテディオ山形に敗れた。その後、町田の元には「お前のせいだ」というメッセージが寄せられたという[3]。 2015年より背番号を14に変更。序盤戦は先発の座を守っていたが、シーズン途中のシステム変更を機に一転ベンチ外となり、出場機会が激減した。同年オフにはチームを去る覚悟を決めていたというが、監督・関塚隆の希望もあり残留を決断した[3]。2016年も開幕直後は先発出場機会が無かったが、第10節・水戸ホーリーホック戦で先発に抜擢されると主力に定着。得点力不足の克服の為、シュート練習に取り組んだ成果が実り[3]、11得点を挙げチーム得点王となった。 2017年より背番号を10に変更し、副キャプテンに就任[4]。引き続き主力として6得点8アシストの活躍を挙げた。オフにはJ1へ昇格した名古屋グランパスからオファーを受けると一時は移籍へと気持ちが傾いたが、クラブ・サポーターからの慰留に応え千葉との契約を更新した[5][6]。2018年5月、第14節・アルビレックス新潟戦で全治約3ヶ月の左肩関節脱臼の怪我を負い長期離脱となった[7]。シーズン後半はキャプテンとして千葉を引っ張ったが、目標のJ1昇格には届かないどころか、クラブ史上最低のJ2・14位でシーズンを終えた。同年オフ、複数のクラブから移籍オファーが届き、「今チャレンジできない選手が、2年後、3年後に生き残っているのか[6]」という理由から移籍を決意した。 2019年、松本山雅FCに完全移籍[8]。自身初のJ1挑戦となった中、J1第24節・浦和レッズ戦では途中出場から2得点の起点となり逆転勝利の立役者となる活躍を見せたが[9]、度重なる負傷の影響もありリーグ戦の先発機会は5試合にとどまった[10][11]。 2020年、大分トリニータに完全移籍[12]。31歳の誕生日であった12月19日のJ1第34節・サガン鳥栖戦でJ1初ゴールを記録[13]。翌2021年は開幕からスタメンに定着し昨シーズンより出場機会を増やすと、リーグ戦チーム最多となる8得点を記録[14]。チームは同シーズン18位に終わりJ2降格が決まったが、天皇杯決勝を6日後に控えた12月13日に契約更新が発表された[15]。 大分がJ2降格後の2022年では19試合、2023年では18試合出場していたが、2024年では3試合出場しか出来なかった。 2024年を以て大分を契約満了により退団[16]。2025年、ギラヴァンツ北九州に加入[17]。 エピソード
所属クラブ
個人成績
その他公式戦
タイトルクラブ
個人
選抜歴
脚注
関連項目外部リンク
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