紀尾井町
紀尾井町(きおいちょう)は、東京都千代田区の町名。「丁目」の設定のない単独町名である。住居表示実施済みの地域。 概要東京都千代田区の西部に位置し、港区(赤坂・元赤坂)・新宿区(四谷)との区境に当たる。 かつて紀州徳川家・尾張徳川家・彦根井伊家中屋敷などが並んでいた武家町で、各家から1文字ずつとって町名とした。現在はオフィスビル街となっている。 区内では東部に平河町、南部は永田町、北部は麹町にそれぞれ接する。オフィスと住宅の複合型ビルである紀尾井町ビルや、ホテル御三家の一つであるホテルニューオータニ、上智大学四谷キャンパスなどが所在する。ホテルニューオータニの向かい側にあたる清水谷公園は、千代田区では珍しい自然の崖斜面を残し、池泉も設けられて、清水谷と呼ばれた昔の風景を残している。1980年ごろまでは公園の前の歩道に清水の湧出口が設けられ、地名の由来を伝えていた。園内中央には、近くの食違見附で暗殺された大久保利通を記念する巨大な石碑「大久保公哀悼碑」が置かれている。 バブル期に赤プリの愛称で親しまれていたグランドプリンスホテル赤坂(旧称赤坂プリンスホテル)の跡地は、2016年7月27日、西武グループによって「東京ガーデンテラス紀尾井町」に再開発された。プリンスホテルの最高級グレードの「ザ・プリンスギャラリー 東京紀尾井町」、オフィス、商業施設「紀尾井タワー」と、全室賃貸マンションの「紀尾井レジデンス」、旧李王家東京邸(旧グランドプリンスホテル赤坂旧館)を移設して「赤坂プリンス クラシックハウス」の複合型施設となった。
歴史
1872年(明治5年)に武家地を整理して麹町紀尾井町と命名。1911年(明治44年)に紀尾井町となる。1934年(昭和9年)に区画整理により北側の一部を麹町五・六丁目に編入。かつては番町と並ぶ山の手の一つとして緑多き優雅な佇まいの住宅街であった[注釈 1]。町内に居住した有名人としては、大久保利通の孫にあたる大久保利春(ロッキード事件の時の丸紅専務)、松田トシ(声楽家、自邸で歌唱教室を開く)、尾上松緑 (2代目)(歌舞伎俳優。「紀尾井町」の掛け声で呼ばれた)、幸田延(幸田露伴の妹、日本の女流バイオリニストの草分け)、高島徳右衛門(実業家・易学家の高島嘉右衛門の弟、里見弴『多情仏心』の主人公のモデル)、小林蹴月(作家・俳人)らがいた。政治家の利用で知られた料亭・福田家もここに立地する。 1975年以降は顕著なまでにオフィスビルが目立つようになり、前述のホテル群、レストラン、更には上智大学の拡大、企業の本社ビルや紀尾井ホール、議員宿舎が拡大して一般住宅地は縮小し、かつての住宅街の面影は薄れていった。 1990年代には、バブル経済の影響もあり、さらに多くの高層ビルが建設された。これにより、紀尾井町は東京のビジネスの中心地の一つとしての地位を確立した[要出典]。また、文化施設や高級ホテルも増え、国内外から多くのビジネスマンや観光客が訪れるようになった[要出典]。2000年代以降も再開発プロジェクトが進行中であり、新たな商業施設やオフィスビルが次々と建設されている。また、環境保護の観点から、緑地の整備やエコビルの導入も進められている。 地名の由来地名はこの地にかつてあった紀州徳川家中屋敷、尾張徳川家中屋敷、彦根井伊家中屋敷に由来しており(それぞれ紀州家、尾張家、井伊家と呼ばれた)、各家の文字を1文字ずつとって町名とした。 紀州徳川家の中屋敷跡は現在の東京ガーデンテラス紀尾井町・清水谷公園、尾張徳川家の屋敷跡は現在の上智大学、井伊家の屋敷跡は現在のホテルニューオータニ付近にそれぞれあたっている。 地価住宅地の地価は、2025年(令和7年)1月1日の公示地価によれば、紀尾井町3-32の地点で253万円/m2となっている[6]。 世帯数と人口2025年(令和7年)3月1日現在(千代田区発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1][2]。 人口の変遷国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷国勢調査による世帯数の推移。
学区区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2017年8月現在)[13]。なお、千代田区の中学校では学校選択制度を導入しており、区内全域から選択することが可能[14]。
交通事業所2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[15]。
事業者数の変遷経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷経済センサスによる従業員数の推移。
主な企業施設
観光
時系列
ギャラリー
その他日本郵便関連項目
脚注注釈出典
外部リンク |
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