千代田区立番町小学校
千代田区立番町小学校(ちよだくりつ ばんちょうしょうがっこう)は、東京都千代田区六番町にある公立小学校。 開校150年を超える、東京都で最も長い歴史と伝統を持った小学校の1つである。後述の理由からも、日本を代表する名門公立小学校とされてきた。 概要明治時代1871年(明治4年)創立。学制発布以前に設立された伝統校、東京府小学六校(いわゆる官立六校)のうち、1870年(明治3年)6月13日に、市谷八幡町(現新宿区)の洞雲寺境内に設けられた小学第二校が番町小学校の前身にあたる。翌1871年12月4日、文部省直轄の小学第二校[3] と改称されたときが創立記念日になっている。ちなみに、現在の校舎が建つ場所には、かつて江戸市全域の消防や警備にあたる定火消(単に火消ともいう)の屋敷があり、その後は上野小幡藩の上屋敷となった経緯がある。 1873年(明治6年)5月3日施行の新学制により、官立学校として「第一番小学・番町学校」と改称された。 1878年(明治11年)には新たな歩みの始まりとして本格的な校舎の建築が施工された。その新校舎は全体がH型をした木造校舎であり、唐破風造玄関を有するなど当時の学校建築としては最先端であった。翌1879年(明治12年)に学区番号の廃止に伴って「番町学校」となった。校地を1522坪まで拡大し、当時の学校としては立派な建物であった。 1886年(明治19年)、法令の変更により「番町尋常高等小学校」と改称され、同年10月、当時の皇太子(のちの大正天皇)が授業を観覧した。 大正時代1920年(大正9年)に創立50年を迎えた。番町の卒業生である芳賀矢一(国文学者、文部省唱歌「鎌倉」の作詞者)作詞、宮内省(現宮内庁)式部職楽部の多忠亮作曲のもと「創立記念日の歌」が作られた。 1922年(大正11年)には漏電によって校舎や資料の大部分が焼失する火災事故が起きた。校舎の再建までの間、児童らは永田町、麹町、九段の各小学校や上智大学等に分散して授業を受けていた。しかし翌1923年(大正12年)9月1日午前11時58分発生の関東大震災により再び甚大な被害を受けることになった。1924年(大正13年)には、官庁建築に尽力した建築家中村與資平による設計の下、鉄筋コンクリート3階建の新校舎が完成した。同年5月28日、東伏見宮依仁親王妃周子が学校を視察した。 昭和時代1947年(昭和22年)に「東京都千代田区立番町小学校」に改称され、4年後に創立80周年を迎えた。式典には昭和天皇が招かれた。1961年(昭和36年)の創立90周年には、現在の上皇と上皇后(当時は皇太子・同妃であった)が出席し式典が行われた。この頃は児童数1800人を超えるマンモス校となっていた。 1971年(昭和46年)に創立100周年を迎えたが、新校舎建設中のため翌年1972年(昭和47年)に、昭和天皇、香淳皇后を招き記念式典が行われた[4]。特にこの日は、番町小学校創立100周年というだけでなく日本の小学校史100年という記念日でもあり、式典の様子がメディアを通じて全国に報道された。正門右脇には 「創立百周年記念天皇皇后両陛下御行幸啓」の石碑が存在する。 1970年10月3日起工、1972年3月2日竣工で新校舎(鉄筋コンクリート構造地上4階、地下1階)が落成。総費用は約4億3000万円、敷地面積7005.86平方メートル、延床面積5912平方メートルである。 1981年(昭和56年)には、創立110周年記念式典が上皇と上皇后(当時は皇太子・同妃)を招いて行われた。120周年式典では今上天皇(当時は皇太子)を招き、その他に木村茂(千代田区長)や鳩山邦夫(文部大臣)、鈴木俊一(東京都知事)、内田茂(東京都議会議長)等が出席した[5]。 平成時代1991年(平成2年)12月20日に公表された千代田区公共施設適正配置構想(いわゆる公適配)の実施にともない、1993年(平成5年)4月1日、番町小学校を含む全8校の千代田区立小学校が、千代田区の学校設置条例に基づき新設の扱いとされ、1年たらずの間ではあったが、旧麹町区域の小学校には旧来の校名の前に「千代田」の冠称が付けられた[6]。本校も旧永田町小学校の一部と統合されて「千代田番町小学校」となった。 しかし区民・保護者・同窓生の強い要望を汲み、1994年(平成6年)1月1日に学校設置条例が改正され、「東京都千代田区立番町小学校」の旧称に復した。校歌は、旧来の曲「われらがかざせる」(作詞は中村秋香成蹊学園創設者中村春二の父。作曲は旧制東京音楽学校教授小山作之助)と、平成新作「輝いて今日を」(卒業生の中田喜直作曲、「めだかの学校」の作者)の2曲が両方使われている[7]。後者は作曲者中田喜直の遺作となった。校章は具象的な横向きの梅花から、デザイン化された梅花に更新された。[要出典] 2001年(平成13年)に創立130周年を迎えたが、千代田区全体の公立小学校統廃合が実施されて間もなくだったため、統廃合の対象となった旧永田町小学校関係者に配慮して式典を見送った[8][9]。 創立140周年記念式典2011年(平成23年)12月4日に創立140周年を迎えた[10]。9時50分に皇太子(現在の今上天皇)が番町小学校に到着し、午前10時から記念式典が執り行われた。国歌斉唱、千代田区歌斉唱、第25代校長有馬守一による校長式辞、石川雅己千代田区長(第8代)挨拶に続いて皇太子が以下のように「お言葉」を贈った[11]。
文部科学大臣の中川正春、東京都知事の石原慎太郎が祝辞を述べた。式典には昭和13年 - 19年にかけて番町小学校で勤務したのち、近隣の学習院初等科長を務めた近田廣司も出席していた[12]。皇太子は10時38分に退場後、校内を巡覧して東日本大震災に伴って福島県から避難している児童と会話した[13]。また、校庭においてBJB(番町ジュニアバンド、番町小学校の吹奏楽団)による演奏を観覧した[14]。そのほか「140周年記念事業協賛会」が組織され、昭和26年度卒業生の草刈隆郎(日本郵船相談役、日本経団連副会長、慶應義塾評議員)が会長に就任した[12]。 2021年(令和3年)12月4日に創立150年を迎えた。新型コロナウイルス感染症の影響拡大に伴い、記念式典と祝賀会の開催中止を決定した[15]。「150周年記念事業協賛会」会長には、昭和30年度卒業生の小和田哲男(歴史学者、静岡大学名誉教授)が就任した[16]。 従来、千代田区立番町小学校、千代田区立麹町小学校、文京区立誠之小学校が「小学校御三家[17]」と括られたり、千代田区立番町小学校、港区立白金小学校、港区立青南小学校が「公立小御三家[18][19]」などと括られたりして、校名は世間一般的にも知られている。中でも番町エリアの歴史と格式や千代田区という土地柄、歴代天皇や皇太子を招いての記念式典を執り行う小学校として、公立小御三家の筆頭と位置づけられている[19]。 歴史
学区
外交行事・その他の行事2011年(平成23年)に当時の皇太子徳仁親王を招き東日本大震災の影響で福島県から避難している児童を交えて、旧番町小学校時代を含めた創立140周年記念式典が挙行された[22]。 千代田区で隔年開催される江戸三大祭の一角で天下祭のひとつ「山王祭」に参加する。この行事には他にも麹町小、九段小の児童が合同で参加している。 外交行事の度に日本と当該国両国の国旗を振る「旗振り」役として参加する事で特に有名である。以下に示すように、これまで世界各国の多くの要人が千代田区立番町小学校を訪れている。 行事参加・各国の来校者[23]
番町小学校(旧制)概要太平洋戦争(大東亜戦争)前には、府立一中や府立四中、東京高師附属中などの上級学校への進学率が高い学校であった。また1924年(大正13年)に竣工した校舎内には麹町実科女学校が設置され、女子の職業教育も行われた(この学校は戦後、都立一橋高等学校に統合された)。 1945年(昭和20年)の東京大空襲で甚大な被害を受け、廃校の動きが強まる中、同窓生の反対運動が功を奏して存続に成功。1947年(昭和22年)4月1日、学校教育法の施行にともない、現在の校名に改称された。以来、番町小学校 - 麹町中学校 - 日比谷高校 - 東京大学と進学することが「日本のエリート」の代名詞とする世評が生じた[25]。 かつては、麹町中学校を経て都立日比谷高はじめ第一学区の都立高等学校への進学を念頭に、学区外からの越境通学者が後を絶たず、膨大な数に膨れ上がった[26]。1959年(昭和34年)で在籍者の37%が、1965年(昭和40年)になると番町小在校生1700人のうち約60%が越境入学で占められていた[27]とされる。現在の番町小学校においては制限によって区域外通学が困難となり、その数自体は減少はしたものの、中学受験での難関校への受験者や進学者が多数を占める[28]。 参考に文献に取り上げられた朝日新聞の記事を抜粋する。
以下のような記事もある。
行事創立80周年(1951年)には昭和天皇、創立90周年(1961年)には皇太子、創立100周年(1972年)[29] には昭和天皇・皇后夫妻、創立110周年(1981年)には皇太子・皇太子妃夫妻、創立120周年(1991年)には皇太子を迎えて創立記念式典が挙行された。 著名な出身者
中退した著名人
番町幼稚園番町小学校には、千代田区立番町幼稚園が併設されている。1889年(明治22年)11月22日の創立で、小学校とともに歩んだ。1990年(平成2年)3月3日に創立100周年記念式典を開催し、皇太子妃を招いた。2013年(平成25年)3月にはスリランカ大統領夫人や外相・駐日大使夫人が園内を見学した[30]。 進学先中学校
アクセス・周辺地域アクセス
周辺地域
脚注
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