1970年の日本シリーズ
1970年の日本シリーズ(1970ねんのにっぽんシリーズ、1970ねんのにほんシリーズ)は、1970年10月27日から11月2日まで行われたセ・リーグ優勝チームの読売ジャイアンツとパ・リーグ優勝チームのロッテオリオンズによる第21回プロ野球日本選手権シリーズである。 概要川上哲治監督率いる読売ジャイアンツと濃人渉監督率いるロッテオリオンズの対決となった1970年の日本シリーズは、ジャイアンツ(giants)とオリオンズ(orions)の頭文字をとって「GOシリーズ」とマスコミから呼ばれた[1]。巨人が4勝1敗で勝利し、6年連続12度目の日本一。ジョージ・アルトマン、山崎裕之、池辺巌、アルト・ロペス、有藤と本塁打20本以上が5人の強力打線だったロッテを巨人は封じた。第1戦では4番のアルトマンを徹底的にマーク。5打席中3度の敬遠(4四球)。そして5番の有藤通世と勝負して、強力打線を抑えた。 当時ロッテの主力投手だった村田兆治(このシリーズでは登板なし)は「小山さん、木樽さん、成田さんの三本柱のロッテが勝つと思ったが、やはりONがいる巨人は強かった」[2]と述べている。 両翼が90mしかなかった東京スタジアムでは、長嶋茂雄の4本の他両チーム3試合で合計9本の本塁打(特に第4戦は5本)が飛び出した。 関東地方のチーム同士の日本シリーズは1960年以来10年ぶり2回目となった。 この年は同じ東京都内の文京区の後楽園球場と荒川区の東京スタジアムでの開催となり、日本シリーズが全試合とも同一の都道府県で開催される史上初の事例となった(上記のGOシリーズとは別に東京シリーズとも呼ばれていた[3])。 この試合におけるロッテの宿舎は選手の自宅ではなく大田区の池上本門寺であり、自動車で東京スタジアムまで約2時間かかっており[4]、宿舎と球場の移動時間が掛かり過ぎていたことも日本一を逃す要因となった。 ロッテはこれ以降、3回日本シリーズに出場しているが、いずれもプレーオフやクライマックスシリーズを勝ち抜いて出場している。従って、ロッテがポストシーズンを経ずに日本シリーズに出場したのはこの年が最後である[5]。それと同時に運営会社がロッテに変更後、唯一敗退した日本シリーズでもある。 試合結果
第1戦10月27日 後楽園 入場者33209人
(ロ)●木樽(1敗)-醍醐 [審判]セ竹元(球)パ田川 セ谷村 パ斎田(塁)セ松橋 パ道仏(外) ロッテ・木樽正明と巨人・堀内恒夫の投手戦となった。4回表、ロッテは2つの四球と山崎裕之のヒットで二死満塁のチャンスで、早くも千田啓介に代打の切り札・江藤慎一を送るが、三振に倒れた。ロッテは5回にも二死満塁のチャンスを迎えるが、有藤通世がショートゴロでチャンスを生かせなかった。11回裏、巨人の黒江透修が木樽の140球目をとらえサヨナラ本塁打。堀内は158球を投げ、延長11回を完封した。巨人の日本シリーズでのサヨナラ勝ちは1965年の対南海第5戦(土井のタイムリーで日本一決定)以来5年ぶり3度目(サヨナラ本塁打での決着は巨人では初。全体としても前年の対阪急第2戦の長池徳士のタイムリーに続いて史上13回目のサヨナラゲーム)。 公式記録関係(日本野球機構ページ) 第2戦10月29日 後楽園 入場者31609人
(ロ)●成田(1敗)、小山、八木沢、平岡、佐藤元-醍醐 [審判]パ道仏(球)セ松橋 パ田川 セ谷村(塁)パ岡田豊 パ沖(外) 巨人は3回、王貞治のソロ本塁打で先制、4回には4安打1四球に相手のエラーも絡め、一挙4点を奪った。5回2死、そのエラーをした有藤のタイムリー安打で1点を返され、山崎を歩かせて満塁となったところで、川上哲治監督はあとアウト1つで勝利投手となる高橋一三を交代させるという投手リレーが結局功を奏し、最後は渡辺秀武を送って巨人が逃げ切った。 公式記録関係(日本野球機構ページ) 第3戦10月31日 東京 入場者26542人
(巨)堀内、高橋一、渡辺秀、倉田、○山内新(1勝)-森 [審判]パ岡田豊(球)パ沖 セ松橋 パ田川(塁)パ斎田 セ竹元(外) 長嶋茂雄の本塁打などで0-3とリードされたロッテは8回裏、代打・岩崎忠義が四球出塁、続く有藤が安打で続いたところで池辺巌のタイムリー二塁打で1点差に詰め寄った。さらに、三塁に進んでいた池辺が捕逸で生還し、同点に追いついた。ロッテは9回から小山正明をリリーフに送ったが、巨人は延長11回、長嶋が日本シリーズ史上初の通算20号となる2ラン本塁打を放ち、これが決勝点となった。巨人は3連勝でV6に王手をかけた。 浩宮(当時)とその学友が来場してこの試合を観戦している[6][7]。元は長嶋を贔屓にしていた浩宮であったが、この試合で三塁打を放った末次利光のファンに転向。末次は翌1971年の日本シリーズ第4戦で満塁本塁打を放ち、この試合も後楽園球場で観戦していた浩宮を大層喜ばせた[8]。 公式記録関係(日本野球機構ページ) 第4戦11月1日 東京 入場者31515人
(巨)渡辺秀、●高橋一(1敗)、山内新、倉田-森、吉田孝 [審判]パ斎田(球)セ竹元 パ沖 セ松橋(塁)セ谷村 パ道仏(外) 1回表、巨人は、高田繁が先頭打者本塁打で先制、さらに長嶋の2ラン本塁打も出て、3点リード。しかしロッテも二死一、二塁から榎本喜八のタイムリー安打で1点を返し、なおチャンスが続くところで、濃人渉監督は第1打席で広瀬宰の代打に送った井石礼司の3ラン本塁打で逆転した。3回、巨人が王、長嶋の連続本塁打で再逆転するが、ロッテもその裏ジョージ・アルトマン、ライトに入っていた井石のタイムリーで再逆転。先発の成田文男から佐藤元彦、平岡一郎とつなぎ、7回一死一、二塁のピンチを迎えると最後はエース木樽を投入、1点のリードを守り切った。 公式記録関係(日本野球機構ページ) 第5戦11月2日 東京 入場者31281人
(巨)○高橋一(1勝1敗)-森 ロッテは1回、江藤慎一の2ラン本塁打でこのシリーズ初めての先取点。しかし巨人も4回、黒江の2号2ラン本塁打で同点。7回、二死一塁から森昌彦が左翼方向に打ち上げた打球を追った遊撃手・飯塚佳寛と左翼手・アルトマンが激突。その間に一塁走者の黒江が生還し、これが決勝点となった。このとき、アルトマンは打球を追うことなく動けない飯塚の元へ駆け寄った。日本一を引き寄せる勝ち越し点に狂喜乱舞する巨人ベンチの中で、川上監督はその様子をしっかり観察し「彼は我々とは違う、高いレベルでのプレーを見せてくれている」とアルトマンの行動を評価したと、当時巨人の現役選手で後年スポーツライターになった瀧安治が記している[9]。このあと巨人は高橋一のタイムリー安打で追加点を挙げ、8回にも2点を奪い、勝負を決めた。高橋一は2年連続で日本シリーズ胴上げ投手。最終打者は江藤で右翼フライだった。 公式記録関係(日本野球機構ページ) 表彰選手テレビ・ラジオ中継テレビ中継第1戦:10月27日
ラジオ中継
脚注
外部リンク
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