J.C.ロメロ
フアン・カルロス・ロメロ(Juan Carlos Romero, 1976年6月4日 - )は、プエルトリコ出身の元プロ野球選手(投手)。左投両打。 経歴プロ入りとツインズ時代1997年のMLBドラフト21巡目でミネソタ・ツインズから指名を受け、プロ入り。 1999年に同年のパンアメリカン競技大会の野球アメリカ合衆国代表に選出されている[1]。9月15日にテキサス・レンジャーズ戦でメジャーデビュー(結果は1.1回を投げて被安打1、無失点)。 2000年と翌2001年は先発もしたが、2年とも負け越し、防御率6点台オーバーなどと、結果は思わしくなかった。 2002年からはリリーフに転向。アメリカンリーグ2位、ナショナルリーグを合わせても4位となる81試合に登板した。それでいて防御率1.89の好成績。一躍球界トップレベルの投手となった。この年のオフ、日米野球のMLB選抜で来日した。 2003年は、コントロールが定まらず、防御率は5.00まで跳ね上がった。それでも73試合登板はアメリカンリーグ6位の好記録。 2004年6月12日にマイナー落ちの屈辱を味わうが、6月26日にメジャー復帰を果たすと、その後は2002年の再現のようなピッチングを見せ、マイナー落ちの時点で5.70だった防御率が、9月22日の時点では2.69を記録した。あと僅かでシーズン終了という場面だったが、最後の最後で連打を浴び、防御率3.51でシーズンを終えた。74試合登板はリーグ7位の好成績。 2005年はツインズで68試合に登板。 エンゼルス時代2006年開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のプエルトリコ代表に選出された。 シーズンではロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムで65試合に登板。 フィリーズ時代2007年はボストン・レッドソックス、6月22日からはフィラデルフィア・フィリーズで合計74試合に登板し、防御率1.92の好成績を残した。四球がやや多く、2006年のように冴えない結果に終わることもあるが、それでも2002年からの2007年6年間で年平均72.5試合に投げている。 2008年は自己最多タイの81試合に登板、自身初体験のワールドシリーズで2勝を挙げ、チームの世界一に貢献。しかし、薬物検査で陽性反応が出たため、翌年の開幕から50試合の出場停止処分が科され、年俸が125万ドル削減された。 2009年開幕前の3月に開催された第2回WBCのプエルトリコ代表に選出され、2大会連続2度目の選出となった。 シーズンでは出場停止明け後も故障に苦しみ、例年得意としていた左打者にも被打率.308と打ち込まれた。 2010年は与四球率7.12と制球難に苦しんだが、主に対左のワンポイントとして対左を被打率.214に抑え、60試合に登板した。 2011年も24試合で与四球率6.61と制球難に陥り、6月24日に解雇される。 フィリーズ退団後2011年6月29日にワシントン・ナショナルズとマイナー契約を結んだが7月14日に再び解雇され、ニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約を結ぶ。8月9日に解雇され、13日にコロラド・ロッキーズと契約した。12月15日にセントルイス・カージナルスとマイナー契約を結ぶ。 2012年は開幕ロースター入りするが、11試合の登板で5月14日にカージナルスを解雇となり、23日にボルチモア・オリオールズとマイナー契約。7月10日に解雇となり、21日にクリーブランド・インディアンスとマイナー契約を結ぶ。8月13日にトレードで再びオリオールズに移籍しメジャーで5試合に登板するが、27日に解雇となる。 2013年3月に開催された第3回WBCのプエルトリコ代表に選出され、3大会連続3度目の選出となった。3月22日にワシントン・ナショナルズとマイナー契約を結んだ[2][3]。6月1日に自由契約となり、7日にインディアンスとマイナー契約を結ぶ。 2014年は所属球団がなく、2015年はメキシカンリーグのプエブラ・パロッツと契約。5試合に登板後、4月15日に出場登録を外れ、6月30日に独立リーグ・アトランティックリーグのロングアイランド・ダックスと契約。 2017年2月8日に第4回WBCのプエルトリコ代表に選出され、4大会連続4度目の選出となった[4]。3月22日の決勝アメリカ合衆国戦に敗戦し、2大会連続で準優勝となった[5]。オフにはドミニカ共和国のウィンターリーグに参加。 成績年度別投手成績
代表歴
脚注
関連項目外部リンク
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