ゲイリー・ガイエティ
ゲイリー・ガイエティ(Gary Joseph Gaetti:ゲイリー・ジョゼフ・ガイエティ 1958年8月19日[1] - )は、アメリカ合衆国・イリノイ州セントラリア出身の元プロ野球選手(三塁手)。右投右打。ニックネームはThe Rat(ザ・ラット)、G-Man(ジーマン)。 略歴メジャーデビューまでの道のり1978年1月10日に、セントルイス・カージナルスからドラフト4巡目で指名を受けたが、契約を結ばなかった。同年の6月6日には、シカゴ・ホワイトソックスからドラフト3巡目で指名を受けたが、ここでも契約は結ばなかった。 1979年6月5日に、ミネソタ・ツインズからドラフト1巡目で指名を受け、同年の6月21日に選手契約を結び、ようやくメジャーリーグの世界に足を踏み入れた。 1981年9月20日のテキサス・レンジャーズ戦でメジャーデビューを果たした。チャーリー・ハフ投手から初打席初本塁打を放つなど、3打数1安打1本塁打2打点という素晴らしいメジャーデビューを果たした(残りの2打席とも対戦投手はハフで、第2打席は三振、第3打席は凡退)。1981年は、9試合の出場で5安打(打率.192)ながら、2本塁打を記録した。 ツインズ時代1982年はサードのレギュラーに定着し、三塁手として142試合、シーズン計145試合に出場(残りの試合は遊撃手として2試合、指名打者として1試合)。打率こそ.230に終わったが、25本塁打、84打点を記録。新人王の投票では6位に入った(1位は160試合に出場し、打率.264、28本塁打、93打点を記録したボルチモア・オリオールズのカル・リプケン・ジュニア遊撃手)。一方で、守備面でも15失策を犯したものの、守備率は.963という数字を記録。新人の三塁手としてはまずまずの数字を残した。 1983年は出場試合数を更に増やし、157試合に出場。しかし、本塁打、打点共に1982年以下の数字に終わった。 1984年はリーグ1位タイとなる162試合に出場。自己最高の打率.262、11盗塁を記録したが、一方で本塁打、打点、失策などでは自己ワーストの数字に終わってしまった。 1985年は打率が.240台に戻ってしまったが、本塁打は再び20本を超えた。 1986年はガイエティにとって自己ベストのシーズンとなった。オールスターゲームまでは87試合に出場し、打率.262、18本塁打、53打点という数字に対し、後半戦は70試合で、打率.317、16本塁打、55打点と好調を維持。いずれも、シーズン通算成績でガイエティ自身の中で2位となる打率.287、34本塁打、108打点を記録。MVP投票では16位に入った(1位は33試合に登板し、24勝4敗、防御率2.48を記録したボストン・レッドソックスのロジャー・クレメンス投手)。 1987年も30本塁打、100打点をそれぞれクリア。MVP投票では1986年よりも順位を上げ、10位に入った(1位は156試合に出場し、打率.308、47本塁打、134打点5盗塁を記録、打点王のタイトルを獲得したトロント・ブルージェイズのジョージ・ベル三塁手)。同年ツインズは地区優勝し、デトロイト・タイガースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.300、2本塁打、5打点の活躍でチームをリーグ優勝に導き、MVPを受賞する。さらにカージナルスとのワールドシリーズも第2戦で本塁打を放つ等活躍。チームは4勝3敗で制し、自身唯一のワールドシリーズ優勝に輝いた。11月9日に自身初のFAとなった。 1988年1月7日にツインズと再契約。FA契約1年目の1988年は30本塁打、100打点にはそれぞれ届かなかったが、自身初の打率3割以上を記録。自身初のMLBオールスターゲームにも出場(ガイエティは代打で試合に出場し、ドワイト・グッデン投手と対戦、凡退に終わる)し、MVP投票でも22位に入った(1位は158試合に出場し、打率.307、42本塁打、124打点、40盗塁を記録し、史上初の「40本塁打40盗塁」を記録したオークランド・アスレチックスのホセ・カンセコ外野手)。しかし、続く2年間は20本塁打にさえ届かず、主砲としての活躍は出来なかった。 1990年7月17日のボストン・レッドソックス戦、近代野球(1901年以降)では史上唯一の1試合2度の三重殺に参加した(三塁手として2度とも「5-4-3」を完成)[2]。同年11月7日にFAとなったガイエティは1991年2月23日にカリフォルニア・エンゼルスと契約を結んだ。 エンゼルス時代ツインズで30本塁打以上、100打点以上をそれぞれ2度ずつ記録したガイエティだったが、エンゼルス移籍後はツインズで過ごした晩年よりも成績が低下。1993年も開幕をエンゼルスで迎えたが、20試合に出場し、打率.180、0本塁打、4打点と全く振るわず、遂に6月3日にエンゼルスを解雇された。暫くの間、どこのチームとも契約を結べなかったが6月19日にカンザスシティ・ロイヤルズと契約を結んだ。 ロイヤルズ時代ロイヤルズ移籍後は82試合に出場し、打率こそ.256ながら14本塁打、46打点と多少持ち直した。232日間に及ぶ長期ストライキのあった1994年を経て、1995年は久々に打棒復活。自己最多の35本塁打を放ち、MVP投票では自己最高タイの10位に入った(1位は140試合に出場し、打率.300、39本塁打、26打点、11盗塁を記録したレッドソックスのモー・ボーン一塁手)。シーズンオフの11月3日にはFAとなり、12月18日にカージナルスと契約した。 カージナルス時代![]() 1996年は、20本塁打、80打点をそれぞれクリアした。 1997年には再び成績が低下。シーズンオフの10月27日にFAとなったガイエティは、12月6日にカージナルスと再契約を結んだ。 1998年もカージナルスで開幕を迎える事になった。その1998年は91試合の出場で11本塁打、43打点を記録したが、打率は.265に留まり、8月14日にカージナルスを解雇された。 カブス時代1998年8月19日、自身の誕生日の日にシカゴ・カブスと契約を結んだ。37試合の出場ながら、.320という高打率を記録。8本塁打、27打点も記録し、まずまずの形でシーズンを終えた。シーズンオフのにFAとなったガイエティは、移籍後に好成績を記録した事もあってか、12月7日にカブスと再契約を結んだ。 1999年は、113試合に出場し、打率.204、9本塁打、46打点という低い数字に終わった。シーズンオフの10月15日にFAとなった。 レッドソックス時代2000年4月2日になって、ようやくボストン・レッドソックスと契約を結んだが、わずか5試合の出場に留まり、10打数でヒットを放つ事も出来なかった。 2000年4月12日の試合が、ガイエティにとって、現役選手としての最後の試合となった。 引退後2002年から2004年までヒューストン・アストロズ傘下AAA級ニューオーリンズの打撃コーチを務め、2004年7月にアストロズの打撃コーチに昇格。2006年7月に解雇された後、タンパベイ・レイズ傘下AAA級ダーラムの打撃コーチとなった。 2012年、独立リーグ・アトランティックリーグ、シュガーランド・スキーターズの初代監督に就任。 選手としての特徴守備面での活躍が目立った選手である。ポジション別通算守備率は三塁手として.965、一塁手として.990、遊撃手として.824、外野手として1.000をそれぞれ記録(三塁手としての出場が2282試合で最も多い)し、1986年から4年連続でゴールドグラブ賞(いずれも三塁手部門)に選出されている。 打撃面では、30本塁打以上を3度、20本塁打以上(30本塁打以上も含めて)を8度記録しているパワーヒッターである反面、通算打率は.255で打率3割台はキャリアを通じて1度しかなく、通算三振数1602、シーズン100三振以上を5度記録するなど、バットコンタクトの技術は高いとは言えない成績が残っている。また、通算四球数634、通算出塁率.308と、四球を選ぶタイプでもなかった。 走塁面では1984年から4年連続で2ケタ盗塁を記録した事もあるが、成功率は高くなかった。 詳細情報表彰
年度別打撃成績
脚注
外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia