1980年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ
1980年の野球において、メジャーリーグベースボール(MLB)のポストシーズンは10月7日に開幕した。アメリカンリーグの第12回リーグチャンピオンシップシリーズ(英語: 12th American League Championship Series、以下「リーグ優勝決定戦」と表記)は、翌8日から10日にかけて計3試合が開催された。その結果、カンザスシティ・ロイヤルズ(西地区)がニューヨーク・ヤンキース(東地区)を3勝0敗で下し、球団創設12年目で初のリーグ優勝およびワールドシリーズ進出を果たした。 両球団がリーグ優勝決定戦で対戦するのは2年ぶり4回目。1976年から1978年にかけて3年連続で対戦し、全てヤンキースが制していた。この年はロイヤルズが、レギュラーシーズンの直接対決では12試合で8勝4敗[1]、今シリーズも初戦から無傷の3連勝で、合わせて11勝4敗とヤンキースを圧倒した[2]。1961年以降のエクスパンションによって創設された球団がリーグ優勝するのは、アメリカンリーグでは20年目でこれが初めて[注 2][3]。アメリカンリーグ優勝決定戦では今回から、シリーズMVPの表彰が始まった[注 3]。初代受賞者には、3試合で打率.545・1本塁打・3打点・OPS 1.455という成績を残したロイヤルズのフランク・ホワイトが選出された。しかしロイヤルズは、ワールドシリーズではナショナルリーグ王者フィラデルフィア・フィリーズに2勝4敗で敗れ、初優勝を逃した。 試合結果1980年のアメリカンリーグ優勝決定戦は10月8日に開幕し、3日間で3試合が行われた。日程・結果は以下の通り。
第1戦 10月8日
ロイヤルズの先発投手ラリー・グラに対しヤンキースは2回表、6番リック・セローンと7番ルー・ピネラの2者連続本塁打で先制する。さらに8番アウレリオ・ロドリゲスも二塁打で続き、ロイヤルズはブルペンに救援投手の準備を始めさせた[4]。だがグラは後続を断って2失点にとどめた。その裏、ロイヤルズは先頭打者エイモス・オーティスの中前打から無死一・二塁とする。ヤンキースの先発投手ロン・ギドリーはそこから二死を取ったものの、9番フランク・ホワイトの打席で3球目に暴投し、走者を二・三塁へ進めた。ホワイトがその次の球を打ち上げると、打球は左翼手ピネラと遊撃手バッキー・デントの間に落ちる二塁打となり、2走者が生還して同点となった。ギドリーはこの打球について「あれは捕ってくれないと。俺は、打者に凡フライを打たせるという役割は果たした」と振り返った[5]。ロイヤルズは3回裏にも、二死満塁から7番ウィリー・エイキンズの左前打で2点を加えて勝ち越し、この回終了をもってギドリーを降板に追い込んだ。 グラは序盤の3イニングこそ毎回三塁に走者を背負ったものの、4回表以降は走者に得点圏へ進まれる場面を一度だけに抑えた。その一度は7回表で、二死一・三塁で打席には4番レジー・ジャクソンを迎えたが、二ゴロに打ち取った。ロイヤルズ打線は、7回裏には3番ジョージ・ブレットがロン・デービスからソロ本塁打、8回裏には1番ウィリー・ウィルソンがトム・アンダーウッドから2点二塁打、と相手救援陣からも追加点を奪い7-2とした。9回表、グラは二死から走者を出したものの、最後は2番デントを捕邪飛に打ち取って完投勝利を挙げた。 第2戦 10月9日
ロイヤルズは3回裏、一死から8番ダレル・ポーターと9番フランク・ホワイトの連打で一・二塁とし、1番ウィリー・ウィルソンの適時三塁打で2点を先制、2番U・L・ワシントンも二塁打でウィルソンを還し1点を加えた。ヤンキースは5回表、7番グレイグ・ネトルズのランニング本塁打で1点を返すと、さらに二死一塁から1番ウィリー・ランドルフの適時二塁打で1点差に迫った。ロイヤルズの先発投手デニス・レナードは、次打者ボビー・マーサーは三振に仕留め、ランドルフに同点のホームを踏ませなかった。レナードもヤンキースの先発投手ルディ・メイも、互いに相手打線に追加点を与えず投げ続け、3-2のまま7回までが終わった。 8回表、ヤンキースは一死から1番ランドルフが右前打で出塁する。2番マーサーが3球三振で走者を進められずに二死となったあと、3番ボブ・ワトソンが左翼へ二塁打を放った。打球はバウンドして外野フェンスに達し、左翼手ウィルソンが処理して内野へ返球したが、遊撃手ワシントンの頭上を越えた。ヤンキース三塁コーチのマイク・フェラーロはこれを見て、ランドルフに本塁へ向かうよう指示する。しかしウィルソンの返球は悪送球ではなく、ワシントンの奥にいた三塁手ジョージ・ブレットを狙ったものだった。ブレットが返球を受けて捕手ポーターへ送球し、ランドルフは本塁タッチアウトで同点とはならなかった。このプレイについてブレットは「スプリングトレーニングで1週間かけてあらゆる角度から練習してきたけど、実戦でやったのはこれが今年初めて」と、珍しいながらも狙い通りだったと明かした[2]。ロイヤルズはその後、9回表の相手先頭打者レジー・ジャクソンが左前打で出塁したところで、レナードから抑え投手ダン・クイゼンベリーへ継投する。クイゼンベリーは一死一・二塁と逆転の走者を出塁させたものの、最後は7番ネトルズを二ゴロ併殺に打ち取って1点リードを守りきった。 試合後、ヤンキース球団オーナーのジョージ・スタインブレナーが監督室に現れ、8回表のランドルフ本塁憤死について報道陣の前でフェラーロを批判した[6]。ただフェラーロによると、スタインブレナーはフェラーロに対しては直接何かを言ったわけではなく「ただじっと睨みつけてきただけだった」という[7]。スタインブレナーのフェラーロ批判に対し監督のディック・ハウザーは、自身にも10年の三塁コーチ経験があることから、あの場面では自分も本塁突入を指示すると述べてフェラーロをかばった[6]。 第3戦 10月10日
この試合では両チームの先発投手、ヤンキースのトミー・ジョンとロイヤルズのポール・スプリットオフが、ともに無失点のまま序盤の4イニングを終えた。先制したのはロイヤルズで、5回表にフランク・ホワイトがソロ本塁打を放った。対するヤンキースは6回裏、一死から4番レジー・ジャクソンが二塁打で出塁する。ここでロイヤルズはスプリットオフに代えて抑え投手ダン・クイゼンベリーを投入し、ヤンキースは5番エリック・ソーダーホルムの代打にオスカー・ギャンブルを出す。ギャンブルは二遊間へゴロを放ち、二塁手ホワイトが逆シングルで捕球したものの、三塁への送球が高く浮いて悪送球となりジャクソンが同点のホームを踏んだ。さらにギャンブルも三塁へ進んで6番リック・セローンの左前打で生還し、ヤンキースが勝ち越した。 その直後の7回表、ロイヤルズは1番ウィリー・ウィルソンの二塁打で二死二塁とし、ヤンキースはジョンから抑え投手リッチ・ゴセージへ継投した。しかしゴセージは、2番U・L・ワシントンの内野安打で一・三塁と危機を広げた。続く3番ジョージ・ブレットは、この試合ここまでジョンに3打数無安打に封じられていた。この打席について「ジョンと対戦するのは懲り懲りだったから、ゴセージが出てきてくれてよかった」と話す[2]。ブレットが初球を捉えると、打球は右翼席へ飛び込む逆転の3点本塁打となった。ヤンキースは8回裏、先頭打者ボブ・ワトソンの三塁打に4番ジャクソンと5番ギャンブルが四球で続き、無死満塁の好機を迎える。だが6番セローンの遊直で二塁走者ジャクソンが戻れず併殺、7番ルー・ピネラの代打ジム・スペンサーも二ゴロに倒れ、ヤンキースは同点・逆転の機会を逸した。クイゼンベリーは9回も続投し、三者凡退で締めくくった。これによりロイヤルズが初戦からの3連勝でヤンキースを下し、初のリーグ優勝を決めた。 シリーズ終了後の11月、ヤンキース球団オーナーのジョージ・スタインブレナーが監督のディック・ハウザーの頭越しにコーチ人事に手を出し、三塁コーチのマイク・フェラーロを解任してドン・ジマーに就任を要請する方針をいったん決めた。これが決め手となり、ハウザーは監督を辞任した[6]。ハウザーは球団を去ると決意した際、フェラーロへ「コーチ陣は来年も球団に戻る。ただ君は三塁コーチから一塁コーチへ配置換えになるかもわからんが」と連絡を入れており、実際にフェラーロは1981年も一塁コーチとして残留した[7]。このあとハウザーは、1981年シーズン途中からロイヤルズ監督に就任すると、1984年にはフェラーロを三塁コーチに据え[8]、1985年のワールドシリーズで優勝を果たすこととなる。 脚注注釈出典
外部リンク
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