ポルトガルのユーロビジョン・ソング・コンテスト
![]() ![]() ポルトガルのユーロビジョン・ソング・コンテストでは、ポルトガルにおけるユーロビジョン・ソング・コンテストについて述べる。ポルトガルは2017年までに(準決勝を含め)49回、ユーロビジョン・ソング・コンテストに参加している。ポルトガルは初参加の1964年大会以降、2017年大会までの間に大会に参加しなかったのはわずか5回であった。 歴史ポルトガルが初めてこの大会に参加したのは1964年大会で、参加したのはアントニオ・カルヴァーリオ(António Calvário)の「Oração」(祈り)であった。しかし、カルヴァーリオは最下位に終わった。その後、ポルトガルは1974年大会のパウロ・デ・カルヴァーリョ(Paulo de Carvalho)の「E depois do adeus」、1997年大会のセリア・ローソン(Célia Lawson)の「Antes do adeus」、2018年大会のクラウディア・パスコアルの「O jardim」で3回、最下位となっている。「E depois do adeus」は大会では最下位となったものの、エスタド・ノヴォ体制を打倒したカーネーション革命における2つの暗号の1つとなったことから後に大きな知名度を得た。 ポルトガルは、2016年までの間に一度もユーロビジョン・ソング・コンテストでの優勝を経験しておらず、優勝経験が無い国の中で最も参加回数が多い国だった。1964年大会の初参加以来49回目の大会参加となった2017年大会で、サルヴァドール・ソブラルが「Amar pelos dois」を歌い、ポルトガルは初めて優勝を勝ち取った[1]。 2004年大会で準決勝が導入されてから、2007年大会までの間、ポルトガルは決勝に進出できなかった。この間の最高順位は準決勝での11位であり、決勝進出の条件に達しなかった。しかし、2008年大会では、ヴァニア・フェルナンデス(Vânia Fernandes)は「Senhora do mar (Negras águas)」を歌って決勝進出を決め、準決勝を通過したポルトガルの初のアーティストとなった。決勝では69得点を集めて13位となり、1996年以来の最高順位を記録した。 ポルトガル国営放送(RTP)は、大会のポルトガルでの業務を担当しており、ポルトガル向けに大会を中継している。2018年大会では、ポルトガル史上初となるユーロビジョン大会をRTPが主催した。 不出場ポルトガルは2017年までに5回、大会に参加していない。ポルトガルの最初の不出場は1970年大会であり、ポルトガルは他の4箇国とともに、前年の大会で4箇国が優勝となった事態に抗議してボイコットした[2]。 2000年大会では、過去5年間の結果の平均が大会へ参加するための規定を満たさなかったために参加できなかった(詳細はユーロビジョン・ソング・コンテスト#予選と参加制限についてを参照)。2002年大会では、大会への参加は可能であったが、ポルトガル国営放送は大会参加を見送った。 2013年大会は、財政的理由により参加を見送った[3]。最後の不参加は2016年[4]。 フェスティヴァル・ダ・カンサンフェスティヴァル・ダ・カンサン(Festival da Canção、Festival RTP da Cançãoとも)は、ユーロビジョンのポルトガル代表を選ぶ大会である。通常、毎年2月から3月に行われる。この大会は、ユーロビジョンの各国代表を決める大会としては最も歴史の長いものの一つである。以前は審査員が優勝者を決定していたが、2017年大会では、審査員と視聴者投票のそれぞれのポイントの合計で勝者を決めた。 ポルトガルは過去に5回大会を欠場しているが、フェスティヴァル・ダ・カンサンはそれに関わらず行われることもある(ユーロビジョンに欠場した1970年、2000年はフェスティヴァル・ダ・カンサンを開催している)。しかし、同じくユーロビジョンに欠場した2002年、2013年、2016年には、フェスティヴァル・ダ・カンサンを行わなかった。 参加者
投票履歴ポルトガルから得点が送られた国々
ポルトガルに得点を送った国々
主催
脚注注釈
出典
外部リンク |
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