上越新幹線脱線事故
上越新幹線脱線事故(じょうえつしんかんせんだっせんじこ)は、2004年(平成16年)10月23日、新潟県中越地震のため、上越新幹線において発生した列車脱線事故のことである。また、日本の新幹線の営業運転中の初めての脱線事故でもある。 事故概要![]() ![]() 2004年(平成16年)10月23日の17時56分頃に新潟県中越地震が発生し、震央に近い上越新幹線浦佐駅 - 長岡駅間の滝谷トンネル北側坑口付近を走行中だった東京発新潟行き「とき325号」[注釈 2]の6・7号車を除く計8両が脱線した[注釈 3][2]。地震発生当時、同列車は長岡駅への停車のため、約 200 km/h に減速して走行中であったが、早期地震検知警報システム「ユレダス」による非常ブレーキが作動し、脱線地点から約 1.6 km 新潟寄り、長岡駅の東京寄り約 5 km の地点で停車した。 当該列車は、8両が脱線したものの、軌道を大きく逸脱せず、逸脱した車両も上下線の間にある豪雪地帯特有の排雪溝にはまり込んだまま滑走した[注釈 4]おかげで、横転や転覆、高架橋からの転落を免れた。温暖地などの排雪溝が無い普通のスラブ軌道や、東海道新幹線などのバラスト軌道でなかったことが幸いしたとも言える。また、先頭の10号車の台車の部品と脱線した車輪がレールを挟み込む形になったため大きく逸脱しなかった[4] こと、脱線地点がトンネルや高架橋の支柱などに被害が生じた区間ではなく、ほぼ直線であったこと、対向列車がなく二次事故が起きなかったことなどの幸運が重なり、乗客乗員155人に対し、死者・負傷者は1人も出なかった。さらに、新幹線200系電車がボディーマウント構造(当系列以外で営業用列車としての採用はない)であることが、先頭車(10号車)の台車部品と脱線した車輪がレールを挟み込んだ形で停止することに貢献したという指摘もある[注釈 5]。 震源に近い川口町(現長岡市)和南津付近では高架橋の支柱がせん断破壊により大きく損傷したが、脱線現場付近の高架橋は阪神・淡路大震災を踏まえた支柱の強化工事が進められていたため[注釈 6]、結果的に地震による崩壊を免れることにつながった。 なお、日本では、営業中に新幹線が初めて脱線したため、各種メディアにより「安全神話の崩壊」などと非難するような報道が多くなされた[7]。 一方で、フランスなどの高速鉄道を運営する国のメディアでは「この高架橋が崩壊しなかったことが新幹線の安全性を裏付けるものだ」として取り扱っている。 以上のように、被害は最小限に食い止められたが、脱線箇所が高架上であった上に、この事故の原因となった新潟県中越地震は余震が多発した(撤去作業の完了までに震度5以上だけで17回の余震が発生している)ため、脱線車両の撤去作業が難航し[注釈 7][注釈 8]、11月18日になってようやく事故車両は撤去され、12月28日に運転が再開された。脱線車両は損傷がひどく、2005年3月25日を以って全車廃車となった[注釈 9]。この事故によって、廃車予定だったK31編成(リニューアル未施行車)が廃車されず、しばらく代走することになり、その後代替としてE2系J69編成が製造された。 なお、事故車両のうち最後尾に連結されていた先頭車両が事故の歴史展示館(福島県白河市)に、事故の資料として保存されている[6]。 新幹線の早期地震検知警報システム「ユレダス」は、地震発生時の初期微動(P波)を感知して作動するシステムであるため、直下型地震であり、初期微動継続時間が短かった今回のケースでは、激しい揺れ(主要動、S波)の到達前に列車を停車させることはできなかったが、強制停電による一斉停車によって対向列車も止められたことで、運良く事故の拡大は防げた。 本事故は1964年10月1日の東海道新幹線開業以来、全国の新幹線の営業列車では初の脱線事故となった[注釈 10]。 対策・対応2007年(平成19年)11月30日、航空・鉄道事故調査委員会はこの事故における鉄道事故調査報告書を公表した[8]。 委員は、
との所見を同報告書にて記している。 これとは別に、国土交通省内に設けられた「新幹線脱線対策協議会」の検討結果をふまえ、東日本旅客鉄道株式会社は、脱線被害を拡大させないため、次の対応策[9] を発表している。
脚注註釈
出典
参考文献関連項目
外部リンク
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