下條アトム
下條 アトム(しもじょう アトム、1946年〈昭和21年〉11月26日[2] - 2025年〈令和7年〉1月29日[5])は、日本の俳優、声優、ナレーター。東京都出身。 同じく俳優の下絛正巳を父に、元女優の田上嘉子を母に持つ[3]。本名同じ。名前に含まれる「ジョウ」の表記において、細い枝を意味する 下條 アトム を用いることが多いが、本名の正式な表記はさなだを意味する 下絛 アトム であり、こちらを用いられる場合がある[6]。 経歴アトムという名前は本名であり、父・正巳が第二次世界大戦後間もなく生まれた息子を、将来は日本でもアメリカのように名前・苗字の順に呼ぶようになり[7]、ローマ字の順に名簿も作られるだろうと考え、ならばアルファベットのAで始まる名前なら最初に呼ばれるという理由で、さらに「今後の原子力は戦争ではなく発電など平和のために使われるはずである」という願いを込めて、原子を意味する英語atomから名付けた。 幼い頃から父・正巳の所属していた劇団民藝の芝居を見ており、楽屋で全く違う姿に変身していた父・正巳を見て驚き、日常ではない芝居の世界に憧れていた。高校時代、進路を決める際には「俳優になる」と告げていた。しかし、当時新劇をしていた父・正巳は当時は食糧難を経験しており、とにかく食べていけることが大事だったことから「いくら好きでも何の保証もなく、それで食べていけるわけではない」「才能云々ではなく、とにかく食えないんだからやめろ」と猛反対していたという[7]。しかしアトムは「じゃあ、そんなに食えなくてしんどいんだったら、親父は何でやってるの?」と切り返したところ、父・正巳は「そりゃそうだな」と認めてくれたという[7]。 玉川学園高等部卒業[8]後、父・正巳の名前で劇団民藝の俳優教室に入学。当時はひどく悪い生徒で、できもしなかったものの口ばかりで、「人の芝居を見るより舞台がやりたい」と生意気なことばかり言っていたため、2年ぐらいでクビを勧告された。その時は学校演劇の『アンネの日記』をしていたが、「生意気なことばっかり言って、君はだめだよ」と言われていた[7]。当時、父・正巳は劇団民藝に所属していたが、「お前の生き方だから」と言って怒りはしなかった[7]。 民藝をクビになった後、バセドウ病を発症して、2年半闘病していた。その後、家族同様に俳優の道に進んだが、お金がなかったこともあり、生活費を稼ぐため日雇いなどの様々なアルバイトをしていた。貯めたお金で自分たちで芝居を作ったりもしていた[7]。1969年のNHK連続テレビ小説『信子とおばあちゃん』でドラマデビュー[5]。26歳ぐらいで俳優の仕事だけで生活ができるようになった。『藍より青く』が終えたあとからレギュラーの仕事が多くなり、30歳を過ぎるくらいまでは、結構良い調子だったという[7]。 以降は映画・ドラマで活躍したほか、エディ・マーフィの吹き替えや『世界ウルルン滞在記』のナレーションなど声優としても活動した。 2023年9月に急性硬膜下血腫を患ってから闘病生活を送っていた[1]が、2025年1月29日、東京都内の病院で死去した[1]。78歳没[1]。 人物・エピソード手塚治虫の漫画『鉄腕アトム』は下條アトムの命名より後に描かれたものであり、同名となったのは偶然の一致である。『鉄腕アトム』の連載当時、アトムという名の少年が実在することが話題となり、当時少年だった下條は手塚治虫と対面している[7]。 また、ウランという名の女性が小学生時代の同級生におり、当時のテレビ番組『私の秘密』に2人で出演したこともある[7]。ともに現在の日本においても珍しい名前であり、これは非常にまれな出来事である。『今夜は最高!』にゲスト出演した時に『鉄腕アトム』のパロディでアトムを演じ[9]、最後に「これ一度やってみたかった」とつぶやいている。 俳優業の他に30代の頃から声優業も並行して行っており、声優としての代表作は『刑事スタスキー&ハッチ』のスタスキー役とフジテレビの『ゴールデン洋画劇場』を主としたエディ・マーフィの吹替作品である。下條が声優を始めた頃は声優業は役者側から軽視される業種だったものの、下條は難しいながらも面白い物だと解釈し収録後に自身の演技に不満を持ち、表現力を極めようと精進したことが声優としてのキャリアに繋がったのではないかと回想し、2018年のインタビューでは「毎回いつも新人のようなつもりでやってるんですよ。いわゆる第一線級ではないですし、2軍でベンチをあっためているような気持ちですよ」と語っていた[7]。 ナレーターを務めた『世界ウルルン滞在記』は広く有名になり、モノマネをする人のほとんどは、「○○で、出逢ったぁ~」というモノマネを行う(最初の時は特徴ある口調ではなかったが、「リポーターやスタッフが大変な思いをしてやって来たその映像を視て、『頑張れ』という思いで感情移入するうちにこうなった」とのことで、結果的に12年間も務める事となった[10]。)。本人は当初、『世界ウルルン滞在記』以外の場で「ウルルン口調」を披露することは断っていたが、2005年7月6日に放送された『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』でウルルン島を紹介する際、ナレーターを引き受けたことで解禁している[11]。 2005年の『仮面ライダー響鬼』には、立花勢地郎役で出演。東京都葛飾区柴又にてきびだんごを名物とする甘味処を営み、“おやっさん”の愛称で慕われる役どころ[注釈 1]であったことから、出演のオファーを受けた際は戸惑いを感じていたという[注釈 2][12]。 エディ・マーフィ当時『ビバリーヒルズ・コップ2』や『星の王子 ニューヨークへ行く』などの音響演出を行った演出家の河村常平によると「エディの地声に似ている声の俳優」ということで下條が起用されていたとしている[13][14]。 その後、「エディ・マーフィでおなじみの下條アトム」と評されるほどに定着[15][5][16]。エディのキャリア最初期にあたる1980年代から担当しており、「吹き替えで発する独特の訛りがクセになる」と評されるなど個性的な演技が好評となった[17][18]。そのセリフ回しは大泉洋をはじめ、バナナマン、キャン×キャン、ドランクドラゴンといったタレントのモノマネレパートリーとしても人気を博している[19]ほか、下條と共にマーフィの吹替声優として知られている山寺宏一も、吹替えを担当する上でマーフィの雰囲気を日本語で出すということが大事だと思っていた中で、「下條アトムさんのなまった感じがエディ・マーフィなんだ」「あれ(下條)がエディ・マーフィなんだよ、やまちゃん(山寺)は普通に喋っているから面白くない」といった意見を度々受けており、下條の吹替えた作品を見て研究、反省しようかと考えることもあるという[20]。 『ナッティ・プロフェッサー クランプ教授の場合』公開時にはエディ本人との対面が実現しており、その様子は『おはよう!ナイスデイ』1996年8月27日放送回で放送された。 下條自身は、エディの吹き替えに関して次のようにコメントを寄せている。
出演(俳優)テレビドラマ
映画
舞台
オリジナルビデオ
インターネットドラマ
バラエティラジオ番組
コマーシャル出演(声優)吹き替え担当俳優
洋画
海外ドラマ
海外アニメ
ナレーション
ラジオドラマ
楽曲シングル
アルバム
脚注注釈出典
外部リンク
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