市川猿翁 (2代目)
二代目 市川 猿翁(にだいめ いちかわ えんおう、1939年〈昭和14年〉12月9日[1] - 2023年〈令和5年〉9月13日[2])は、日本の歌舞伎役者、俳優、演出家。屋号は澤瀉屋。定紋は澤瀉、替紋は三つ猿。俳名に華果(かか)がある。紫派藤間流二代目家元としては二代目 藤間 紫(にだいめ ふじま むらさき)を名乗る[3]。本名は喜熨斗 政彦(きのし まさひこ)[1]。東京都出身[1]。 「猿翁」は隠居名で、49年間にわたり名乗り続けた三代目 市川 猿之助(さんだいめ いちかわ えんのすけ)としても広く知られる。 文化功労者[1]、従四位、旭日中綬章。子は九代目市川中車(香川照之)。 公称身長165cm・体重68kg・A型[4]。 千代田区立番町小学校[5]、慶應義塾中等部・慶應義塾高等学校を経て[6]、慶應義塾大学文学部国文学科を卒業[1]。 来歴・人物市川團子の時代は、六代目市川染五郎(のちの二代目松本白鸚)、中村萬之助(のちの二代目中村吉右衛門)との十代のトリオで、「十代歌舞伎」と呼ばれ人気を博す[7]。 三代目猿之助を襲名後ほどなくして祖父の初代市川猿翁(二代目市川猿之助)と父の三代目市川段四郎を相次いで亡くすという悲運に見舞われる。後ろ盾を失い「梨園の孤児」となりながらも他門の庇護を受けることを潔しとせず、祖父譲りの革新的な芸術志向と上方歌舞伎伝統のケレンとを結びつけることによって歌舞伎界に新風を吹き込んだ。 1968年(昭和43年)『義経千本桜』「四ノ切」で披露した「宙乗り」(5000回達成時にギネスブックに登録[2])を皮切りに、明治の演劇改良運動以後は邪道として扱われ顧みられなかったケレンの演出を次々に復活させた「猿之助歌舞伎」で一世を風靡した。猿之助歌舞伎のエンターテインメント性に富む、見応えのある舞台は観客からは高い支持を集めたものの、当初はまだ一般に保守的だった他の歌舞伎役者や劇評家たちからは相手にされないほどの酷評を受けた。十一代目市川團十郎の実弟で、市川宗家の御意見番的存在だった二代目尾上松緑に至っては、この猿之助歌舞伎のことを「喜熨斗サーカス」とまで言い、揶揄している。木下大サーカスを猿之助の本名の「喜熨斗」(きのし)にひっかけたものだが、宗家の連枝とはいえ、別家の役者にそこまで言われるのも、歌舞伎界で孤立無援となった猿之助の悲しさだった[注釈 1]。 しかし猿之助はそうした逆境を見事に克服する。「四ノ切」の宙乗りの演出は元々、猿之助が三代目實川延若から教わったのが最初で、その後「四ノ切」に限らず、近年では後進の歌舞伎役者も多く取り入れており、七代目尾上菊五郎をはじめ、十二代目市川團十郎、九代目松本幸四郎、十八代目中村勘三郎らも宙乗りの演出を使った公演を行うようになった。1984年の中日劇場公演の「當世流小栗判官」の宙乗りでは、通常は花道の上を宙乗りするのを、客席に対角線上に客の頭上を飛ぶ宙乗りを日本で初めて行った[8]。 古劇の復活から古典の再創造、スーパー歌舞伎[注釈 2]の創造[2]に至るまでの精力的な活動が舞台芸術にひとつの領域を切り開いた。 2003年11月17日、博多座で自身の演出・出演による『西太后』の公演中に体調不良を訴え、降板。この時は「初期の脳梗塞」との診断を受けた、と公表されたが[9]、実際にはパーキンソン症候群を発症していた[10]。これ以降、俳優として舞台に立つ機会は減り、スーパー歌舞伎や自身の手がけた復活演目の演出面で活動を続けている。2011年9月、二代目市川亀治郎の猿之助襲名会見時に、子の香川照之と共に8年ぶりに公の場に姿を現した。 2010年、猿之助四十八撰制定[11]。文化功労者受章[12]。 2012年6月5日開幕の新橋演舞場での六月大歌舞伎で、二代目市川猿翁の隠居名を襲名した。 2013年12月、京都南座での「二代目市川猿翁・四代目市川猿之助・九代目市川中車 襲名披露口上」への出演が最後の舞台となった[2][13][14]。 2014年2月1日から2月28日まで日本経済新聞の朝刊「私の履歴書」に連載。 2016年、軽井沢の別荘で保管していた猿之助歌舞伎の創作活動に関する約2万点の資料を京都造形芸術大学に寄贈[15][16]。 2018年2月27日中日劇場の三代目市川右團次、二代目市川笑也、市川弘太郎の夜の公演カーテンコールで舞台上に姿を見せ、「澤瀉屋っ!」の掛け声と拍手喝采[17]に包まれた。 2023年9月13日6時55分、不整脈のため東京都内で死去した[2][13]。83歳没。死没日付をもって従四位に叙され、旭日中綬章が贈られた[18][19]。 2024年1月28日、弟・市川段四郎 (4代目)(2023年5月18日76歳没)と合同で「澤瀉屋 送る会」[20]。 家族母は映画女優の高杉早苗。妹に女優の市川靖子、弟に四代目市川段四郎がいる。この四代目段四郎の一人息子が2012年6月に四代目市川猿之助を襲名した。 2度の結婚歴がある。1965年(昭和40年)に結婚した最初の妻は、元宝塚歌劇団雪組のトップ娘役で女優の浜木綿子。浜との間には一人息子である香川照之(のちの九代目市川中車)を儲けたが、実質的な夫婦としての生活は1年と数カ月で別居、1968年に正式離婚。息子は浜に引き取られた。 破局の原因は不倫だったが、その相手が日本舞踊藤間流名取(のちに紫派藤間流を創始し家元)で女優の藤間紫である。藤間は猿之助が12歳の時の初恋相手だったが、16歳年上で既婚者、子持ち。しかも夫は自身の踊りの師匠、六世藤間勘十郎(二世藤間勘祖)ということもあり、なんとか諦めをつけ結婚したのが浜だった。だが結局双方とも思いを絶つ事が出来ず、一人息子が1歳を迎えた頃には家庭を捨て、駆け落ち同然の暮らしを始める。この二人の同棲生活は35年にも及び、1985年に藤間の離婚が成立。2000年、正式に結婚した。しかし、その後は不遇が続き、2003年には猿之助が脳梗塞を発症、2009年には藤間が肝不全のため死去している。 息子・照之は大学卒業後、1989年に俳優デビュー。それを機に25歳の冬、思い立って猿之助の公演先へ会いに行っている。その際、猿之助は「大事な公演の前にいきなり訪ねてくるとは、役者としての配慮が足りません」と照之を叱責、「即ち、私は家庭と訣別した瞬間から蘇生したのです。だから今の僕とあなたとは何の関わりもない。あなたは息子ではありません。したがって僕はあなたの父でもない」「あなたとは今後、二度と会う事はありません」と完全に拒絶して突き放しているが、その真意については隠居名の「猿翁」襲名後に放送された『NHKスペシャル』の中で明かされ、「生きるも死ぬも身一つで、僕はあえて一人でやってきました。だから、照之も役者の道を貫きたいと思うなら私の事を父と思うな、何ものにも耐えうる独立自尊の精神でいきなさいと。僕としてはごく当然のことを言ったつもりなのですよ」と述懐している[21]。その後、藤間紫の尽力で和解が進み、2009年の藤間の葬儀には照之も親族として参列している。さらに、2011年9月27日、亀治郎の四代目猿之助襲名と自身の二代目猿翁襲名、照之と照之の息子・政明の歌舞伎界進出発表の際には涙ながらに「浜さん、ありがとう。恩讐の彼方に、ありがとう」と、前妻・浜に対して感謝の言葉を述べている[22][注釈 3]。 藤間紫の死後、四代目猿之助と親密になった。藤間の一周忌が明けた後に猿翁の身の回りの世話をしていたのが、元・博多座のスタッフの女性で、猿之助の介護から一門の人事まで諸事万端をサポートしていたとされる。一時、息子一家との同居が報じられたが、その後は香川宅近くのマンションに居を移しており、稽古は香川が猿翁宅に通って行われた[23]。 年譜
主な出演映画
テレビドラマその他
著書
評伝
受賞・栄典・顕彰
脚注注釈出典
関連項目外部リンク |
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