大田弘子
大田 弘子(おおた ひろこ、1954年2月2日[4] - )は、日本の政策研究大学院大学学長。内閣府大臣官房審議官、内閣府政策統括官、経済財政担当大臣(第8代・9代)[5]、内閣府規制改革推進会議議長、鹿児島県立鶴丸高等学校生徒会長、フランス・社会科学高等研究院日本語客員教授、株式会社みずほフィナンシャルグループ取締役会議長などを歴任。勲等は旭日重光章。 現在、公益財団法人日本生産性本部副会長(経済成長フォーラム座長[6]、日本創成会議[7]構成メンバー)、国立新美術館評議員、公益社団法人日本経済研究センター理事、独立行政法人宇宙航空研究開発機構広報対応外部委員会委員、公益財団法人日本製鉄文化財団評議員、政府税制調査会(内閣府)委員、資源エネルギー庁総合資源エネルギー調査会臨時委員、一般財団法人企業活力研究所[8]社会保険料負担を考える研究会委員、国際公共政策研究センター番号制度に関する研究会委員、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 経済・テクノロジー委員会委員長、株式会社日本取引所グループ社外取締役。 概要生い立ち鹿児島県出身。中学校時代は生徒会長[9]。高校は、鹿児島県立鶴丸高等学校。部活は体操部[3]。 両親に上京を反対されたが担任の先生の説得などで、一橋大学社会学部に進学[3]。大学時代は授業にはほとんど出ず、体育会陸上部所属の唯一の女子学生として練習に打ち込んだと語る[3]。1976年一橋大学社会学部卒業(社会学士)。大学では社会心理学の南博教授のゼミに所属した[3]。 社会人もともとはジャーナリスト志望だったが男子の指定校採用制度下、男女雇用機会均等法施行前であったため、自宅通勤できない女子の採用は少なく、大学卒業後は無職となり、新聞広告の求人情報をもとに就職活動を行っていた[3]。出版業について学ぶため、社内報担当を募集していた株式会社ミキモトに入社[3]。 ミキモトを退社していったん郷里に戻ったが、1981年から大学の先輩である高原須美子(のちに経済企画庁長官)の紹介で財団法人生命保険文化センターの研究員となリ十数年務めた[9]。経済学や経営学等の修士はもとより学士も取得していないため、少なくとも1993年頃までは「生活経済評論家」の肩書きで活動していた[10]。
小泉政権
第一次安倍政権・福田政権![]()
第二次安倍政権
政策小泉政権下では一貫して経済財政諮問会議の事務方としてその運営に携わったが、小泉政権の構造改革で格差が広がったとする批判に対して「格差が拡大したのは構造改革のせいではありません」と答えている[13]。 経済財政担当相就任時、竹中平蔵の後継と目されており、竹中の経済政策を引き継ぐものと見なされた[14]。 2008年1月18日国会における経済演説において、大田「もはや日本は『経済は一流』と呼ばれるような状況ではなくなってしまった」と述べ、「もう一度、世界に向けて挑戦していく気概を取り戻す」として経済成長を目指すことを強調した[15]。 2018年3月17日、通信業務および放送業務規制改革推進会議において議長を務め、いわゆる「放送とネット垣根撤廃」を目指す安倍政権方針に迎合した答申案を提出するものと目され、今後議論を呼びそうであると読売新聞によって報道され、牽制された。 TPPTPPを推進している[16]。 法人減税経済財政担当相在任中の2008年7月25日、都内で行われたセミナーで、日本は法人税の引き下げを含め、企業のコストを下げる必要があるとの認識を示した。2014年2月からは政府税制調査会の中に設置された「法人課税ディスカッション・グループ」の座長を務める。法人減税の論客として知られた伊藤元重が経済財政諮問会議の議員に就任して以降、法人減税に徐々に慎重な姿勢を示す中、産業競争力会議議員の竹中平蔵や経済財政諮問会議議員の高橋進らとともに法人減税の急先鋒として、法人税率を引き下げれば税収総額は逆に増えるとする主張[17]と歩調を合わせ、政府税制調査会を牽引した。2014年5月16日にはディスカッション・グループで「法人税率の引き下げは避けて通れない」とする改革案の確認を行った[18]。同年6月3日には麻生太郎副総理兼財務大臣も「責任ある代替財源が示されるのであればいい。」と、実効税率引下げを容認し、骨太の方針に盛り込まれた[19]。 経歴
人物出演番組
著書
共編著
論文
脚注
関連項目外部リンク
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