福島悪魔払い殺人事件
福島悪魔払い殺人事件(ふくしまあくまばらいさつじんじけん)とは、1995年(平成7年)7月5日[4]、日本の福島県須賀川市小作田竹ノ花15番地6にあった民家で発覚した[1][2][3]大量殺人事件[10]。須賀川の女性祈禱師宅男女6人変死事件[11]、須賀川市の祈禱師殺人事件[12]、祈禱師事件[13]とも呼称される。 自称祈祷師の女ES(逮捕当時47歳)が[2]、自宅で信者らと共謀して「除霊」と称し、信者7人に激しい暴行を加えて6人を死亡させ[5]、1人を負傷させた[7]。同年にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生しており、この事件は福島県の犯罪史に残る異様な事件[4]、およびカルト集団による凶悪犯罪として、世間を震撼させた[5]。 犯人らは死亡した被害者5人への殺人罪、1人への傷害致死罪などで立件され[5]、主犯格のESは4件の殺人罪・2件の傷害致死罪で2008年(平成20年)に死刑判決が確定[14]。戦後日本では10人目の女性死刑囚になり[15]、2012年(平成24年)に死刑を執行されている[5]。またEの長女と信者の男2人も従犯として起訴され、ESの長女と信者の男1人は無期懲役が、もう1人の信者の男は懲役18年がそれぞれ確定している[16]。 犯人ES事件の主犯格である女ESは1947年(昭和22年)8月21日[17]、須賀川市で生まれた[18]。地元の小中学校と県立高校を卒業後、20歳で高校の同級生と結婚したが、塗装業をしていた夫が1990年(平成2年)に仕事中の事故で腰を痛めて以降、ギャンブル(競輪・競馬)にのめり込み、家に借金取りが押しかけるようになった[18]。それをきっかけにESは化粧品や食器のセールス、ラーメン屋のアルバイトをして生活を支えていたが、同年には夫とともに新興宗教団体「天子の郷」に入った[19]。「天子の郷」は「病気・執着心・嫉妬などは、肉体内の邪霊や毒素によって起きるものである。それらを天主に宿る神力で取り除くことにより、幸福が得られる」とする教えを説き、抹殺・里造り・神査などの儀式を行っていた宗教団体で、執着心や嫉妬を動物霊に喩えていた[20]。 入信直後、夫の腰痛が治ったことをきっかけに夫婦で信仰を深め、1992年(平成4年)には三女とともに、岐阜県の教団本部で専従として活動を始めたものの、次女の眼病が治らないことや、それに対する教団の対応に不満を募らせ、同年11月に夫婦で脱会した[20]。やがて夫が「天子の郷」で知り合った神戸の女性信者と浮気関係になり、家を出たことから、ESは酒に溺れ、生活も行き詰まったことから自殺を仄めかすほどに陥ったが、そのような状況下で夫を連れ戻すべく、神戸に出向いたところで「神慈秀明会」という新興宗教を知り、1994年(平成6年)6月に入信[20]。しかし、高額な掛け軸の購入を強引に勧められたため、約1か月で脱会し、須賀川に戻ると7月ごろから個人の霊能祈祷師として活動を開始した[20]。ESは「天子の郷」で学んだノウハウを用いて知人からの相談に乗り、「肩凝り・腰痛が治った」という評判を得て、信者を集めていった[21]。 事件犯人犯人は、ES(逮捕当時47歳)と彼女の長女である女X(同23歳)、信者である男Y(同21歳)および土木作業員の男Z(同45歳)の4人である[22][23]。Xは逮捕当時、小学生である妹(ESの三女)とともに同居していた[1]。またXは当時結婚していたため、母ESとは別の姓を名乗っていたが、夫とは別居しており[24]、事件後に夫と離婚してESと同じ姓に復姓した[25]。ESにはXと三女以外にも、長男(事件当時28歳)と次女(当時22歳)がそれぞれ1人いたが、彼らは事件発覚時点で所在が確認されていなかった[26]。しかし捜査本部の調べで、元夫は大阪、次女は県内にそれぞれ在住していることが判明したため、同本部は彼らからも事情聴取した[27]。 Yは1993年(平成5年)に県立高校を卒業後、陸上自衛隊に入隊していたが、1995年4月に除隊して帰郷していた[24]。Zは勤務先ではまじめな人物として知られていたが、1994年(平成6年)8月ごろから仕事を休みがちで、同年12月ごろからは自宅を空けがちになっていたという[24]。Zには被害者の1人である妻Zαや小学5年生の長男がいたが、長男を自宅に残し、夫婦でES宅に同居するようになったとみられている[28]。 事件現場事件現場はES宅で、須賀川市中心部から東へ約5 km離れた阿武隈川近くに位置していた[2]。この家はかつて現場付近の市営住宅(山ノ坊団地[26])に住んでいたESが、夫とともに1984年(昭和59年)10月に新築して引っ越した家であるが[24]、事件当時は住宅ローンを滞納していた[29]。西隣には食堂、南隣にはスーパーマーケットがそれぞれ所在していた[26]。事件現場からJR水郡線の川東駅までは約200 m、市立大東幼稚園までは約100 mで、周囲には新しく家を建てて引っ越してきた会社員や公務員らの住宅が多かったが、水田も多く、閑静な場所だった[1]。事件発覚後はこの家には誰も住んでおらず、ESの死刑が執行された2012年9月時点では障子が破れたままで、庭の草木も伸び放題になっていた[30]。事件から約四半世紀が経過した2019年(平成31年)2月時点でも、現場の家は空き家のまま放置されている[4]。 現場のES宅からは事件発覚の約2週間前から魚の腐ったような異臭がしており、また夜中に太鼓を叩く音が聞こえるなど異様な雰囲気を放っていたため、事件発覚前から近隣住民の間で「須賀川のオウム」と揶揄されていた[31]。その異臭はES宅に隣接する食堂にまで漂っており[32]、あまりにも異臭が酷かったため、地元ではどぶさらいもしていたと報じられているが、福島県警察は事件前、ES宅には食堂からの出前や新聞の集金人など多数の部外者が出入りしていたにもかかわらず、彼らは異臭を感じていなかったと述べている[33]。また事件当時、須賀川警察署の署長として事件の捜査を指揮していた斎藤克彦も、本事件が「福島のオウム」と呼ばれていたことを回顧している[30]。ある近隣住民は『朝日新聞』の取材に対し、足の痺れがあったのでかねてから化粧品を購入した縁で知り合いだったESに祈祷をしてもらったが、ESらが人を殴っているという近所の噂を聞いて1回だけでやめたと証言している[34]。 被害者死亡した被害者は、Zの妻である女性Zα(当時45歳[35])、男性信者甲(当時49歳[35])とその妻であり、Zαの姉(Zの義姉)である女性乙(当時48歳[35]:岩瀬郡鏡石町在住)、甲・乙夫婦の娘である少女丙(当時18歳[35])、男性信者丁(当時42歳[35]:須賀川市芹沢町在住)[28]、田村郡滝根町(現:田村市滝根町)在住の女性信者戊(同27歳[35])の6人で[36]、丁の妻である女性A(逮捕当時33歳)[37]もESら4人から暴行を受けて負傷した[28]。丁と戌は同じ眼鏡店で働いていた同僚だった[35]。 死亡した被害者6人のうち、福島県警察に捜索願が出されていたのは事件発覚のきっかけとなった丁だけで、丁は妻A(当時33歳)と小学2年生の長男、幼稚園児の長女とともに5月ごろからES宅に住み込んでいたが、子供2人は同年6月中旬までに西白河郡矢吹町の妻の実家に引き取られており、7月1日に丁の父親から捜索願が出されていた[28]。 事件発覚のきっかけはAがESら4人から暴行を受け、全治2か月の重傷を負って入院したことである[28]。また甲・乙夫婦には丙以外にも娘2人(高校2年生の次女と中学2年生の三女)がいたが、1994年暮れか1995年初めには家族揃って須賀川市六郎兵衛の自宅を離れ、ES宅で生活していた[28]。夫婦の次女と三女は事件が発覚した日にもそれぞれ学校に登校したが、その日の朝に親戚に引き取られたという[26]。 犯行ESら4人は1994年(平成6年)12月下旬から1995年1月下旬までの間に、Zαに対し、顔や頭などを太鼓のばちで叩くなどの暴行を加えて死亡させたとされ[38][39]、同じく1994年12月下旬から1995年1月25日までの間に甲も同様の暴行の末に挫滅症候群で死亡させたとされる[40]。また1995年1月下旬から6月上旬にかけ、丙・丁・戌の3人に同様の暴行を加えて殺害したほか[38][39]、犯人4人のうち、Z以外の3人は乙も同様の方法で暴行の末に殺害したとされている[38]。凶器は長さ約40 cm、太さ約4 cmの太鼓のばち2本である[8]。甲は当初、信者たちの中でも教祖的な立ち位置におり、他の信者たちから「〔甲〕さま」と呼ばれていたが、1994年12月中旬にYが入信した直後にYとの地位が逆転、ESらから暴行を受ける立場に転落したと報じられている[41]。 被害者6人の遺体はいずれも、全身に挫滅症候群の症状が確認されている[42]。死亡時期はそれぞれ、Zαと甲が1995年1月25日ごろ[43][35]、丙が同年2月18日ごろ、乙が3月17日ごろ、丁が5月25日ごろ、戌が6月6日ごろとされており[43]、丁と戌はそれぞれ同年5月中旬からESら4人とAによる暴行を受け[44]、特に最後に死亡した1人である丁は自宅でも暴行を受けるなどしており、暴行が始まってから約10日間と短期間で死亡していることから、かなり激しい暴行が行われていたとみられている[37]。また4人は同年5月25日ごろから6月18日ごろにかけ、Aに対しても同様に殺意を持って同様の暴行を加え、全治2か月の重傷を負わせた[40]。 捜査同年7月1日、丁の父親は息子が6月から行方不明になっているとして、福島県警察の所轄警察署である須賀川警察署に丁の捜索願を出した[1]。これを受けて同署が丁の妻であるAから事情聴取したところ、彼ら夫婦は5月上旬から6月中旬ごろまでES宅で暮らしていたこと、またAは複数人から暴行を受けて負傷し、市内の病院に入院していることが判明した[1]。さらに捜査を進めたところ、同年初めごろからES宅に出入りしていた信者が10人以上、次々と行方不明になっていることが発覚したため、捜査幹部らは家宅捜索前日の4日時点で最悪の事態を想定し、県警本部で待機していた[27]。 以上の経緯から4日、須賀川署は県警捜査一課の応援を受けてES宅に急行したが、この時はESが留守だったため、Aに対する傷害容疑で家宅捜索令状を取り、5日朝から改めてES宅を捜索したところ、男性2人(甲・丁)と女性4人(Zα・乙・丙・戌)、計6人のミイラ化した腐乱死体が発見された[1]。遺体はいずれも1階の8畳居間に敷かれた6組の布団に仰向けに寝かされ[1]、掛布団から頭だけが出た状態だった[32]。同日、県警は須賀川署に「須賀川市内の祈祷師宅における多数殺人容疑事件捜査本部」を設置し、県警刑事部長の下田國衛が同本部長を務めた[45]。また捜査本部はESら4人をAに対する傷害容疑で逮捕し[1]、ESとZを須賀川署、XとYを白河警察署にそれぞれ留置した[28]。ESは捜査員らが家宅捜索に入った当時、死亡した被害者らの遺体を指さして「あの人たちは眠っているのです」と答えていた[27]。捜査本部は6人の遺体を収容後、福島県立医科大学で司法解剖し[46]、6日には戌を除く5人の身元が特定された[47]。残る戌は遺体の損傷が激しく、また生前に通院していた歯科医も特定できなかったため、歯形など身体的特徴の照合も困難な状態になっていたことから身元特定が難航したが[48]、10日に歯形などから身元が断定された[49]。 後にESら4人は被害者について「眠っている」としていた当初の供述から一転、被害者らが死亡していることは知っていたと供述するようになり、さらに「太鼓ばちで叩けば死ぬと分かっていた」と殺意を認める供述もするようになった。また、丙以降の被害者については遺体を隠す意図があったことも自供したため、捜査本部はこれらの供述は殺意の立証に有力な供述になるとして捜査を進めた[50]。同月26日、4人はZαに対する殺人容疑で捜査本部に再逮捕された[8][51]。同日、事件が殺人事件であると断定されたことから、捜査本部は「須賀川市内の祈禱師宅における多数殺人事件捜査本部」に名称を変更した[8][51]。なお捜査段階では当初、福島地方検察庁郡山支部へ送検されていたが、福島地検は捜査体制を強化するため、同日までに事件を郡山支部から本庁へ移送することを決め[8]、捜査本部も同月28日、ESら4人をZαへの殺人容疑で福島地検本庁に送検した[52]。このため刑事裁判の第一審公判も福島地裁郡山支部ではなく、福島地裁本庁で開かれた。なお当初の逮捕容疑であるAへの傷害容疑について、福島地検郡山支部はこの時点では処分保留とした上で、一連の殺人行為の延長線上に起きたものであるとして、殺人未遂罪で起訴するため捜査を行った[8]。 事件は「県警史上初めての大事件」とされ、捜査本部は連日、深夜まで打ち合わせを続け、盆休み返上も覚悟で捜査していると報じられていた[53]。 起訴同年8月16日、福島地検はZαに対する傷害致死罪でESら4人を福島地裁へ起訴した[54]。当初は殺人罪で立件されており、福島地検は当初、執拗な暴行態様から未必の殺意を認定することが可能と判断していたが、6人の中で最初に死亡した被害者であるZαに対し、どれほどの暴行を加えれば死ぬかは経験的に認識不足だったと判断されたことや[55]、4人にはZαを殺害しても利益になることがなく、暴行は「キツネを追い払う」という宗教上の儀式として行われており、殺意を認定する具体性のある証拠が見出だせなかったとして、傷害致死罪で起訴された[54]。 同月28日、捜査本部は丁と戌の2人に対する殺人容疑でESら4人と、被害者の一人であるAを逮捕した[37][56]。捜査本部は、最も遅くに死亡した丁と戌に対してはZαと違い、既に4人が死亡していたにもかかわらず、同様の暴行を続けたこと、またESは男女関係のもつれから戌に嫉妬心を抱き、他の4人に暴行を命令したことが判明したこと、丁についても集団生活の中で人間関係のトラブルがあったことから、動機面からも殺意が認められるとして、「未必の故意の殺人」が明らかであると判断した[37]。またAは事件後、戸籍上は丁と離婚しており、7月末に退院していたが、その後の捜査本部の調べにより、丁や戌の暴行に加わっていたことが判明したとして逮捕された[37]。 同年9月18日、福島地検はESら4人を丁と戌に対する殺人罪で福島地裁へ起訴し、またAも丁への傷害致死罪と戌への殺人罪で起訴した[44]。AについてはESら4人と共謀して丁ら2人に暴行を加え、死亡させたとされたが[44]、死亡当時夫婦関係だった丁に対しては、ES宅の8畳間に先に死亡した4人(Zα・甲・乙・丙)の遺体があることも知らず、暴力行為が丁を死に至らしめるという明確な認識がなかったとして傷害致死罪で起訴された一方、丁より後に死亡した戌については、丁が死亡してからも暴行を行っており[57]、ESらの供述などから殺意が認定できたとして、殺人罪で起訴された[44]。同月20日、ESら4人は乙と丙の母娘2人に対する殺人容疑で逮捕され[58]、同年10月11日に4人は丙への殺人罪で、またYを除く3人は乙に対する殺人罪でもそれぞれ追起訴された[59][60]。Yが乙に対する殺人罪で不起訴処分になった理由は、Yは乙への暴行が始まった直後の3月上旬から乙が死亡するまでの間、当時所属していた陸上自衛隊から無断外泊などの理由で外出禁止令が出されていたことから、乙の死亡には関与していないと判断されたためである[60]。 ESら4人は第一審初公判が開かれた10月27日、甲に対する殺人容疑で追送検され、この追送検によって全6被害者について送検がなされた[38][61]。同年11月6日、福島地検は甲に対する傷害致死罪と共犯の女性Aに対する殺人未遂罪で4被告人を福島地裁へ追起訴した[40][62]。これによって捜査は終結し、須賀川署は同年10月30日をもって署内に設置されていた捜査本部を解散した[63]。この日までにかかった捜査日数は118日で、県警本部と須賀川署の他、郡山・白河の両警察署などから8670人の捜査員が動員され、県内だけでなく東京都や大阪府、兵庫県、岐阜県など14都府県で捜査が行われた[64]。 刑事裁判ES・X・Y・Zの犯人4人はまず、Aへの傷害容疑で逮捕され、後に5人への殺人容疑、1人への傷害致死容疑でも再逮捕された[5]。4人は最終的に、Zαと甲の2人に対する傷害致死罪、丙・丁・戌の3人に対する殺人罪、Aに対する殺人未遂罪で起訴され、またES・X・Yの3人は乙に対する殺人罪でも起訴された[65][66]。 ESの刑事裁判では4人への殺人罪、2人への傷害致死罪、そしてAへの殺人未遂罪がそれぞれ認定されている[65][7]。刑事裁判では事件の猟奇性・異常性から、ESの責任能力が争点となった[67]。 第一審初公判ES・X・Y・Zの4被告人の第一審初公判は1995年10月27日、福島地方裁判所(穴澤成巳裁判長)で開かれた[38]。罪状認否で、4被告人とも暴行を加えた事実は認めたものの、ESは殺意を全面的に否認し、他の3被告人も「(暴行を続ければ)死ぬことはわかっていた」と未必の殺意は認めたが、確定的な殺意の存在や共謀の事実はいずれも否定した[39][68]。また、4被告人の弁護人は責任能力への疑義を主張し、精神鑑定を申請した[69]。 また初公判後に追起訴された甲への傷害致死罪とAへの殺人未遂罪については、同年12月6日の第2回公判で罪状認否が行われたが、4被告人の弁護人はこれらの罪状についても、いずれも殺意を否認した[70]。 中断前の公判1996年(平成8年)1月19日に開かれた第4回公判で、Xは被害者を殴り続ければ死ぬかもしれないという認識があったが、「そこまでは続けないだろう」という気持ちもあったこと、一方でZαと甲の死後には暴力が死につながることを認識していたものの、そのころには暴力が恒常化したことで罪悪感が薄れ、次第に自らが中心的な存在として暴行を加えたことなどを証言した[71]。同年2月16日の第5回公判で、Zは「除霊」と称して暴行が行われていたことについて「嫌だったが自分だけやめるわけにはいかなかった」と述べ、ES以外が暴行を止めることは不可能だったとした上で[72]、被害者たちへの殺意はなく、死亡した被害者たちについて「死後もしばらくは寝ていると思った」と証言し、自身の姪である丙の死後には疑問を持ち始めたが、「だれも何も言わないので暴行に参加し続けた」と述べた[73]。また、Zは事件発覚までESたちに同居し続けたことについて、自身だけでなく死亡したZαや義兄の甲らからも「逃げようという意識はなかったようだ」と述べた[72]。 Yも同年3月22日の第6回公判で、殺意を否定する供述をした上で、捜査段階の「ESと一緒にいたいと思い、神を信じているふりをして一連の暴行に加わった」という供述から一転して「〔犯行時は〕ESを神として信じ、神を恐れていた」と述べ、また当時のESを「神」として信じていた容姿は自分でも信じられない、と述べた[74]。続く5月7日の第7回公判でも、Yは捜査段階の「たたき続ければ死ぬかもしれない」という未必の殺意があったことを認める供述を翻し、殺意を否定した上で、取り調べ段階や公判途中まではESの言う通り被害者たちは生きていると思っていたが、信じてもらえないだろうと思って殺意を認める供述をしたという旨を述べた[75]。 ESは同年6月14日の第8回公判で、「御用」と称した暴行は被害者たちに取り憑いた悪霊を祓うためであり、被害者たちに殺意はなかったという旨を述べた上で、「すべて神が自分を媒介として行ったこと」として、自身が思いつきで行った暴行を含む様々な行為についてはよく覚えていない面もあると述べた[76]。同月28日の第9回公判では、被害者らが死亡したという認識はなく、「魂が清められ、再び〔遺体が〕起き上がるのを楽しみにしていた」などと述べ、捜査段階の「男女間の欲望などがきっかけ」「暴行は除霊を口実に行われたもの」という自身の供述は捜査官に迎合したものであると訴えた[77]。同年8月16日の第10回公判では、ESは検察官から供述の矛盾点について指摘されたが、「(事件当時は)神の意思で動いていた」「深く考えていなかった」などと訴えた一方、除霊を名目にした暴行については自らの嫉妬心や自負心が引き金であることを認め、従犯3人を巻き込んだことに対する謝罪の弁も述べた[78]。 精神鑑定による公判中断と再開4被告人の弁護人はそれぞれ、被告人らが犯行時に「キツネがついた」などと話しており、責任能力に疑問がある旨や、家の中で殺人が繰り返されるなど閉鎖的な状況の中で起きた事件であり、犯行当時の被告人らの精神状態を調べる必要があるとして、各被告人の精神鑑定を申請した[79]。これに対し、検察官は逮捕当時の被告人らには不可解な言動は見られず、刑事責任能力に支障はないとして鑑定は不要であると主張したが[79]、1996年9月6日の第11回公判で福島地裁は申請を認め[79][80][81]、地裁は同年10月に鑑定実施を命じた[69]。当初は精神鑑定期間は約3か月程度になると見込まれており[80]、また1997年(平成9年)3月時点では早ければ同年5月ごろには公判が再開される見込みと報じられていたが[82]、鑑定は長期化し、公判は同年11月5日に開かれた第13回公判を最後に[69]、約3年間にわたって中断した[83]。このように鑑定が長期化したのは、被告人の人数が多かったこと、宗教行事の認定などに時間がかかったことが要因であると報じられている[84]。一方でこの中断期間中にも、公判とは別に証人尋問などが行われたことはあった[69]。 この間、丹羽真一(福島県立医科大学神経精神医学講座教授)による精神鑑定が実施された[84]。1999年(平成11年)11月5日の第14回公判から審理が再開されたが[84]、その鑑定書(丹羽鑑定)は4被告人のうちXについて、「精神障害が認められ、責任能力は問えない」とする内容だった[83]。なお裁判長は、中断前最後の公判となった第13回公判までは穴澤が務めていたが[85]、中断を挟んで再開された第14回公判の時点では原啓に交代していた[84][86]。鑑定書が提出された時点では、早ければ翌2000年(平成12年)1月ごろに結審するのではないかと見込まれていたが[87]、実際には公判はさらに長期化することとなった。鑑定人の丹羽は同年12月17日の第15回公判で尋問を受け、Xは軽度の精神遅滞があり、責任能力は限定されるという見解を述べた一方[88]、続く2000年(平成12年)1月21日の第16回公判では残る3被告人 (ES・Y・Z) について、いずれも完全責任能力が認められるという見解を述べた[89]。検察官は丹羽鑑定について当初、鑑定書の内容を精査できていないとして採用を留保していたが[86]、第16回公判で証拠採用に同意し、丹羽鑑定は証拠採用された[89]。 再開後の公判同年2月18日の第17回公判で、丹羽はXについて、複雑な事柄はすべて他人に依存し、状況に流される傾向があることに加え、母ESに恐怖感を有していたため、実家の経済問題などに立ち入れなかったと証言した[90]。一方で同年3月10日の第18回公判では、XはESらとともに行う「御用」の危険性や被害者らの死の認識は有していたものの、母子関係や心の葛藤を自己解決できず、ESの「(被害者は)生き返る」という言葉を信じなければ自分を維持できない神経衰弱状態にあったとも述べている[91]。またESについては同年5月19日の第19回公判で、「御用」の最中には一時的にヒステリーの解離状態に陥っていたが、その解離状態は自ら目的を持って陥った自己誘発性のものであり、その状態で犯罪を犯したと仮定すれば責任能力は認められるという見解を述べた[92]。同年6月9日の第20回公判では、ESは1回目の犯行(Zα・甲への傷害致死)では自身の「御用」がどのような結果をもたらすか予測できなかったが、それ以降は結果をある程度予測できており、罪の意識はあったと考えられると述べ[93]、7月14日の第21回公判でも、ESは「御用」の目的で自ら平常心を失ったが、自身が暴行を加えているという認識は暴行の最中も有していたという見解を述べた[94]。 同月28日の第22回公判ではESに関する証人尋問が終了し、YとZに関する尋問が行われ、丹羽は犯行時と鑑定時では約2年の間隔があるが、被告人らの精神状態に大きな変化はないと述べた上で、Zについては被害者らに「御用」という暴行を加え続ければ死亡するという認識を有していたと述べ、Yについても犯行は宗教的な信念の下に行ってはいたが、責任能力は認められると証言した[95]。同年8月11日の第23回公判でも、丹羽はYについて、自身が暴行を行っているという認識能力は有しており、責任能力は問えるという旨を証言した[96]。丹羽への鑑定尋問は同年9月28日の第24回公判で終了し、丹羽は仮にYが宗教的な信念の下に「御用」を行っていたとしても、「社会的常識から外れた行動を取った時は、本人の精神状態が異常でない限り責任能力はあった」と証言した[97]。 同年10月12日の第25回公判からはESら4被告人への被告人質問が再開されらYは被害者らが倒れているのを見て「一般的に死んだことは分かっていた」と述べたものの、ESから「神が魂を引き上げているだけ」と説明され、彼らが復活すると信じており、「御用」が彼らの死の直接の原因になるとは考えなかったと述べた[98]。また公判途中で認否を翻した理由についても、自身が神同然に信じていたESが殺意を否認したため、「神が存在しないと気付き不安になったため、気持ちが変わった」ためであると述べた[98]。またZは同年11月10日の第26回公判で、初公判の当時から一転してZα・甲・戌の3人に対しては「御用」を行ったことは認めたが、殺意に関しては否定する供述をした上で、他の被害者らに関しては暴行の事実自体を否定した[99]。Xも同年12月15日の第27回公判で、かつての「被害者の死を認識していた。暴行を加えることで死ぬことも分かっていた」という供述を翻し、被害者らが「御用」の末に動かなくなったことは認識していたが、「御用」が原因で死ぬとは考えておらず、被害者らは眠っていると思っていたと供述した[100]。2001年(平成13年)1月19日の第28回公判で、Xは「事件当時、殴ったり、ばちでたたいたり、また、衰弱した人に暴行を加えれば死ぬことは理解していた」と述べた一方、「御用」を暴行とは認識していなかったと述べた[101]。 同年2月16日の第29回公判では約4年半ぶりとなるESへの被告人質問が行われ、ESは「私がこの世からいなくなっても〔被害者遺族に〕許されることはないと思っている」と反省の言葉を述べた[102]。同年3月16日の第30回公判では、検察官が東京医科歯科大学教授の山上皓の作成したXの責任能力に関する意見書を提出したが、この意見書はXについて、小中学校の成績には問題はなく、また犯行は未熟な人格を有していたXが異常な状況下で行ったものであり、司法精神学上は責任能力が認められるとするものであった[103]。同年5月18日の第31回公判では、ESが裁判官からの被告人質問で、「御用」については「神様の指示でやった」、信者との共同生活については「神様の下で働けるのが最高の幸せだった」という旨を述べた[104]。同年7月18日の第32回公判では、検察官の証人として県立医大教授(法医学)の平岩幸一が出廷し、犯人らが挫滅症候群について知らなかったとしても、経験上、被害者らを殴り続ければ死に至ることは分かるはずだと証言した[105]。 ESを除く3被告人 (X・Y・Z) の証拠調べは同年9月14日の第33回公判で終了した[106]。同日の公判では、Xの検察官面前調書など不同意となっていた一部の証拠を検察官が改めて証拠申請し、弁護人もES宅にあった宗教関係の本のリストの提出を申請したが、双方とも意見を次回公判に持ち越した[107]。またESについては検察官が、XのESに関する供述には、検察官調書と法廷調書で異なる点があり、検察官調書の方が信用できるとして、別途証拠調べを請求したため、一度他の3被告人とは分離して公判を開くこととなった[106]。同年10月4日に開かれたESの第34回公判で[108]、検察官はESとYが鏡石町に借りていたアパートにあった下着や玩具類の証拠写真を提出、また不同意になっていた検面調書の一部が証拠採用された一方、弁護人もES宅にあった宗教関係の書籍リストを提出し、全ての証拠調べを終了した[109]。同日の公判で、ESは鏡石町のアパートについて「休息所として借りた。全国の魂を救済するため、交通に便利だから」と証言したが、検察官は宗教目的ではなく、Yと関係を持つためのアパートであると主張した[108]。その後、公判は論告求刑公判で再び併合された[108]。 論告求刑2001年(平成13年)11月16日に福島地裁(原啓裁判長)で論告求刑公判が開かれ、検察官は被告人ESに死刑、X・Y両被告人に無期懲役、被告人Zに懲役20年の刑をそれぞれ求刑した[110][111][112]。福島地裁における死刑求刑事件は1994年6月、警察庁広域重要指定118号事件の公判で5被告人に死刑が求刑されて以来だった[110][111]。 検察官は「御用」について、「ESが自らの神的権威を守り、Yとの愛用関係を保つため、じゃま者を排除する集団リンチ」と位置づけ、またESが除霊を口実に「神」と名乗って暴行を加えたことは宗教的儀式ではなく、ES自身の意思によるものであり、X・Y・Zの3人も自己保身のため、「御用」は一般的な暴行と認識した上で「御用」に加担したと主張した[111]。また傷害致死罪で起訴された最初の被害者2人(Zα・甲)への暴行と、殺人罪で起訴された被害者4人(乙・丙・丁・戌)への暴行はいずれも太鼓のばちを用いるなど、基本的に変化なく行われており、被告人らはZα・甲が暴行の末に死亡したことから、乙・丙・丁・戌についても死亡する危険性を認識しながら「御用」という名の暴行を加えた、すなわち彼ら4人に対する殺意が認められると主張した[111]。4被告人の責任能力については、Xを心神耗弱状態と評した丹羽鑑定の内容は、鑑定書に対する別の専門家の意見書や捜査段階と矛盾するものであり、4被告人は完全責任能力を有していたと主張した[111]。 そして、暴行を指示したESが「主犯」であると位置づけ[110]、事件は虚栄心と自己顕示欲に固まったESが一存で起こした自己中心的、独善的なものであるとして、ESは死刑に処するほかないと結論づけた[111]。またX・YはESを「神」と信じてはいなかったと主張し[111]、Xは「離婚問題や行き場がなくなるとの気持ちから全犯行に積極的に加担した」として、その刑事責任は母ESに準ずると主張、Yも「ESから離れたくない気持ちから各犯行に加担し、自衛隊で鍛えた体を使って激しい暴行を加えた」と主張[110]。2人とも自己保身のために積極的に暴行に加わったとして、「極刑に準ずる選択はできる」として、無期懲役を求刑した[111]。Zについては、妻Zαの死を目の当たりにして自己保身のために従っており、暴行の態様も若干の酌量の余地があるが、全ての犯行に加担し、死体を放置するなどしたとして、懲役20年が妥当と結論づけた[111]。 結審第一審の公判は、同年12月14日の第36回公判をもって結審した[113]。事件発覚から約6年5か月目での結審だった[114]。4被告人の弁護人は、「御用」は悪霊払いのため、被告人らと被害者との合意の下の宗教的儀式が行き過ぎた結果であるとして、それぞれ被害者たちへの殺意を否認する旨を主張し、ES・X・Zの3被告人側は傷害致死罪の成立を[114]、Y被告人の弁護人は「故意がない以上、犯罪の構成要件を満たしていない」として無罪を主張した[113]。 ESの弁護人は精神鑑定で「暴力を振るう際には、一時的ヒステリーの解離状態に陥ったこともある」という結果が出たことを踏まえ[113]、ヒステリー的人格障害としながら完全責任能力を認めた丹羽鑑定と、「一時的ヒステリー状態では責任能力がない」とした丹羽の証言は矛盾していると主張[114]。そして仮に殺意があったとしても、6人の死亡は被告人らと被害者との合意の上での共同行為からであり、ESだけではできなかったとして、ESのみを重罰に処すことは相当ではなく、無期懲役以下にすべきであると主張した[114]。また精神鑑定で「心神耗弱状態」と判定されていたXの弁護人も、改めて心神耗弱を主張した[113]。 第一審判決2002年(平成14年)5月10日、福島地裁(原啓裁判長)で第一審判決公判が開かれ、同地裁は被告人ESを死刑、X・Y両被告人を無期懲役、被告人Zを懲役18年とする第一審判決を言い渡した[23][115]。福島地裁における死刑判決は、1994年6月に警察庁広域重要指定118号事件の第一審判決公判で、死刑求刑を受けた5被告人のうち3被告人に言い渡されて以来であり、女性の被告人に対しては初となる[23]。 福島地裁は、ESは自分の意志で解離状態に陥っており、是非善悪を弁識して行動する能力は有していたと評し、Xについても記憶は明瞭かつ正確で、十分認識して行動していたとして、4被告人全員がいずれも事件当時、完全責任能力を有していたことを認めた[116]。また「御用」と称した暴行を加えた動機は、ESが「自身の神的権威を守り、Zとの愛欲関係を維持するための私的制裁」であり、「被害者らの人格をも否定する行為で、社会通念上、魂を清め救済するとは言いがたい」として、被告人側の主張する「宗教儀式」ではないと評した[23]。殺意についても、4人は最初にZαと甲の2人をばちで殴って死亡させながら、その後も被害者4人(乙・丙・丁・戌)に対し同様の暴行を繰り返した末に死亡させたことを指摘し、4人は犯行時に「死亡しても構わない」という殺意を有していたことが明らかであり、殺意を認めた捜査段階における4人の供述は十分信用できるとして、殺意を否定した被告人側の主張を退けた[23]。 そして量刑理由では、ESは「最大の首謀者」であり、刑事責任の重大性から死刑が妥当であるとした上で、X・Yの2人も有期刑は選択できないとした[23]。一方でZについては、当初はESを信じて暴行に加わったとされる点があるなど、若干情状酌量できる面があり[117]、また妻Zαや義兄(甲)を死亡させたことにより[23]、ESに逆らえば自らも暴行を受ける対象になると恐れ、ESに追従していた面があったことを指摘し[117]、求刑より刑を減じた[23]。日本脱カルト研究会(現:日本脱カルト協会)代表理事を務めていた東邦大学助教授(精神医学)の高橋紳吾は、「オウム真理教の一連の公判と全く同じ構図」と分析している[118]。 死刑を言い渡されたESは、同日中に仙台高裁に控訴した[23][115]。またYとZも控訴したが[119][120][121][122]、Yは後に控訴を取り下げ、無期懲役が確定した[123]。一方でXは同月16日、弁護人に対し控訴しない意向を伝え[124]、同月25日0時の控訴期限までに控訴しなかったため、無期懲役の有罪判決が確定した[125][126]。 控訴審ESとZの2被告人が仙台高裁に控訴し、2003年(平成15年)7月4日に仙台高裁(松浦繁裁判長)で2人の控訴審初公判が開かれた。同日、ESの弁護人は「ESは犯行時、心神喪失か心神耗弱状態だった」とする一審の主張を繰り返し、再度の精神鑑定を求めた上で、「暴行は被害者も同意した上で行われた宗教行為で殺意はなく、死刑は重すぎる」と事実誤認・量刑不当を主張したほか、Zの弁護人も「暴行への関与は低く、殺意もない」として、量刑不当を主張した[128]。 ESの弁護人は完全責任能力を認めた丹羽鑑定について、杜撰で事実誤認があると主張し、再度の精神鑑定を申請した[129]。同年9月2日の第2回公判で、仙台高裁はESの弁護人からの申請を認め、中谷陽二(筑波大学教授:司法精神医学)による再度の精神鑑定を行うことを決め、ESの犯行時の精神状態と責任能力への影響に加え、丹羽鑑定で「一時的ヒステリーの解離状態にあった」とされる点と責任能力との関係などについても調べられることとなった[130]。一方でZについてはESと審理が分離され、同日の公判で被告人質問を行って結審した[130]。同年11月11日、Zは仙台高裁(松浦繁裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡され[131][132]、上告しなかったため、同月26日をもって懲役18年を言い渡した第一審判決が確定している[133]。 ESの公判は精神鑑定のため、2003年9月から中断され、2005年(平成17年)4月21日の第3回公判で約1年7か月ぶりに再開された[134]。この間に裁判長は田中亮一に交代していた[134]、控訴審では、第一審とは逆に「ESは犯行時、正常な判断能力がない心神耗弱状態に陥ることもあった」という鑑定結果(中谷鑑定)が出された[135]。 同年5月10日の公判で、被告人質問を受けたESは被害者への暴行について「神の意思でやった」「当時のことは思い出せない」と述べ、殺意を否定した[136]。同年6月6日の第7回公判では再鑑定を担当した中谷が証人尋問を受け、犯行動機はESの個人的な動機と、(原判決ではほとんど否定された)宗教的な動機が織り交ぜになったものであり、またESは犯行時、全く責任能力がなかった(心神喪失だった)わけではないが、一時的に意識が通常の状態でなくなる解離状態にあり、責任能力は原判決で認定されたような完全なものではなく、限定的なもの、すなわち心神耗弱状態にあったと証言した[137]。控訴審の公判は7月12日の第8回公判で結審する予定だったが、中谷鑑定の結果について精査が必要であるとして持ち越され[138]、9月6日の第9回公判で結審した[139]。 控訴審判決2005年11月22日の控訴審判決公判で、仙台高裁(田中亮一裁判長)はESの控訴を棄却する判決を言い渡した[140]。担当裁判官は裁判長の田中と、陪席裁判官の根本渉・髙木順子だった[141]。 同高裁は、ESは事件の発端となった女性信者への暴行の際、愛人関係にあった男性への独占欲など、個人的・利己的な動機から犯行におよんでいると指摘した上で[135]、自らの誘発で別人格になることを知っていながら、正常な認識の状態で「御用」と称した暴行行為を開始しており、継続すれば被害者が衰弱死することを予見していたと指摘[140]。責任能力がない状態にあったのは一時的であり、ほとんどは完全責任能力を有した状態で犯行におよんでいたと認定[135]、弁護側の「御用中に一時的な別人格になるのであれば、すべてを心神耗弱として評価し減軽すべき」との主張を退けた[140]。 ESの弁護人は判決を不服として、同日中に最高裁判所へ上告した[140]。第一審の初公判からこの日の控訴審判決公判までに、公判回数は全47回を数え、10年の長期審理となった[140]。 上告審最高裁判所第三小法廷(藤田宙靖裁判長)における上告審の弁論は2008年(平成20年)7月15日に開かれた[142]。ESの弁護人は高澤文俊・高橋正俊である[143]。弁護人は死刑制度の違憲性に加え[143]、被害者らがESを「神」と信じ、集団生活していたことから、ESと被害者には相互に強い結びつきがあり、ESも悲惨な結末を望んではいなかったと主張[13]。ESは事件当時、憑依トランス状態に陥っており、心神喪失状態であったとして無罪を訴えた[67]。一方で検察官は、完全責任能力を認定した原判決に疑いはなく、ESには矯正の余地がないこと、また従犯と比べても刑事責任が重大であることを主張し、上告棄却を求めた[13]。 同小法廷は同年9月16日に原判決を支持し、被告人ESの上告を棄却する判決を言い渡した[14][11]。事件発覚および第一審の初公判から約13年後の最高裁判決であり[11][65]、福島県内関係の事件で最高裁が死刑判決を言い渡した事例は、警察庁広域重要指定118号事件で3被告人に言い渡されて以来、約4年ぶりのことであった[65]。福島県内の死刑確定事件は後述のESに対する死刑執行時点で、1947年(昭和22年)以降で22件であり、24人の死刑が確定している[144]。ESの弁護人は同月22日付で判決の訂正を申し立てたが[145][146]、申立は10月3日付の決定で棄却され[147][148]、同月5日付で死刑が確定した[149]。 従犯Aの審理起訴状によれば、Aは1995年4月下旬から5月下旬にかけ、夫であった丁に暴行を加えて死亡させ、また6月には女性信者1人を殺害したとされている[150]。被告人Aの審理はESら4人とは分離され、Aの弁護人は暴行に加担した行為について、暴行に加担しなければ自分が殺されていたため、緊急避難行為であったと主張し、殺意も否定した[150]。一方で検察官は、1996年2月9日のAの公判で、検察官はAの当時の状況について、警察や親族に訴えるなど、暴行に加担せずに済む方法もあったため、弁護人の主張する緊急避難には該当しないと主張[151]。その上で、犯行は極めて悪質で刑事責任は重いが、戌への暴行は「悪霊祓い」と信じた上で加担したものであり、自分自身や子供たちを守るために行った面もあるとして、殺人罪としては比較的軽い懲役5年を求刑した[151]。一方で弁護人は、AはESのマインドコントロールにより、ESを神と信じていたため、彼女からの命令には逆らえなかったと主張した上で、そのような事情から丁への暴行については適法な行動を期待できる「期待可能性」が乏しい状態であり、また戌への殺人罪についても殺意はなかったと主張した[151]。 福島地裁(穴澤成巳裁判長)は1996年3月29日、被告人Aを懲役3年(求刑:懲役5年)の実刑とする判決を言い渡した[150]。同地裁は、AはESの暗示にかかっていたとはいえ、当時の状況から見てESから逃走することは可能であり、暴行に加担したのはA自身の意思であったと認定、また未必の殺意があったと認めた[150]。 Aは量刑不当を理由に仙台高裁へ控訴した[150][152]。仙台高裁第1刑事部(泉山禎治裁判長)は1997年(平成9年)3月13日に原判決を破棄自判し、Aを懲役3年・執行猶予5年とする判決を言い渡した[153]。殺人罪に問われた被告人が執行猶予付きの判決を受けることは異例とされている[154]。同高裁は、戌に対する暴行は未必的な殺意の下にESと共謀して行われたものであり、原判決の認定は正当であるとして[154]、弁護人の「暴行は緊急避難行為」「殺意はなかった」とする主張をいずれも退けたが、一連の犯行はESの嫉妬心や利己的な動機から起こされ、異常な雰囲気の中で行われた犯行であり、AはESの心理的束縛から完全に脱しきれず、正常な判断力を失った状態で犯行に加担したと認定[155]、原判決後に被害者遺族との示談が成立したこと、Aには幼い2人の子供がいること、深く反省していることなどの事情を考慮した[153]。Aは上告の意向を見せず[154]、後に同判決は確定している[156]。 死刑執行ESは死刑確定直後、弁護人の阿部潔(仙台弁護士会)に再審請求の手続きを依頼し、責任能力か殺意の有無を争点として、2012年(平成24年)末までに請求手続きを行う予定だった[157]。 しかし同年9月27日、死刑囚ES(仙台拘置支所在監)は滝実法務大臣の死刑執行命令により、宮城刑務所[注 1]で刑を執行された(65歳没)。女性死刑囚の死刑が執行された事例は、1997年(平成9年)に夕張保険金殺人事件の女性死刑囚が死刑を執行されて以来15年ぶりで、戦後ないし[159][160]、男女別の統計が残っている1950年(昭和25年)以降では4人目である[161][162]。また、福島県関係の事件で死刑が執行された事例は、2004年(平成16年)にいわき市鹿島町で発生した母娘殺害事件で強盗殺人罪に問われ、死刑が確定した男が2008年10月に死刑を執行されて以来であり[12]、女性死刑囚の刑が執行された事例に限れば初めてである[161][162]。死刑執行は同年の8月3日以来だったが、前回との間隔(1か月24日)は1993年(平成5年)の死刑執行再開後、過去2番目の短さだった[163]。 その他事件は福島県内のみならず、県外、ひいては日本国外にも大きな衝撃を与え、AP通信は事件直後に「宗教団体の家で六人の変死体を発見。警察関係者はオウム真理教とは関係ないようだと言っている」と事件を速報した[27]。『福島民友』は読者投票による同年の「県内10大ニュース」の第3位[注 2](1980票)として「女祈とう師宅に6人の変死体」を選出している[164]。 福島県で発生した大量殺人事件にはこの事件以外にも、1942年(昭和17年)10月に耶麻郡加納村(後の熱塩加納村、現・喜多方市)で日本刀を持った男が3軒を次々と襲って8人を殺害した事件や、1947年(昭和22年)11月に安達郡熱海町(現・郡山市)で一家6人が鉞で殴り殺された強盗殺人事件[8]、また1948年(昭和23年)2月に発生した会津若松市藤室の一家5人殺害事件、1949年(昭和24年)6月に石城郡高久村(現・いわき市)で発生した一家4人殺害事件、1959年(昭和34年)12月に発生した岩瀬郡天栄村の一家3人殺害事件といった3件の強盗殺人事件があるが[51]、6人以上が殺害された事件は1954年(昭和29年)の福島県警察本部発足後では初であり[8]、熱海町の事件以来であった[24]。また宗教活動に絡んだ事件としては、1981年(昭和56年)3月、いわき市のキリスト教牧師館で信者代表の男性会社員が牧師の命令を受けた会社の同僚2人によって手足をビニールテープで縛られ、ガムテープを貼られるなどして監禁された末に死亡するという事件が発生しており、県内ではその事件以来となる宗教関連の事件でもあったが[26]、このような被害者多数の殺人事件にまで発展したこの事件は、福島県の犯罪史上例がない事件でもあった[24]。 同年の福島県では殺人事件が未遂を含めて20件発生しており、過去5年間で最多を記録した一方、うち3件が未解決となっていた[165]。捜査本部が設置された事件は、解決済み事件がこの連続殺人事件といわき市田人の老女殺害事件(3月21日)の2件で、未解決事件がいわき市平五色町の女性殺害事件(9月12日)、耶麻郡西会津町の老夫婦殺害事件(10月26日)、いわき市の看護師殺害事件(12月24日)の3事件、計5事件である[165]。特にいわき南警察署は2事件の殺人事件捜査本部を抱えたまま年越しを迎える事態となっていた[165]。また捜査本部設置事件を扱う捜査一課の特捜班は7人全員が常に出動しており、人手不足に陥っていたため、県警は強行班、盗班、特殊班の捜査員を動員して対処していた[165]。 『福島民報』はESの親族について、事件後は蔑視や偏見に耐えながら生活していると報じている[16]。また現場となった住宅付近で食堂を営む人物は『福島民友』の取材に対し、事件が原因で周辺地域のイメージが悪化したと証言している[144]。 2013年8月7日に日本テレビ系列で放送された『ザ!世界仰天ニュース』では、「誰もがはまる恐怖…洗脳スペシャルpart2」と銘打った特集でこの事件が取り上げられた[166]。 脚注注釈出典
参考文献
関連項目 |
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