津々見友彦
津々見 友彦(つつみ ともひこ、英: Tomohiko Tsutsumi、1941年12月19日 - )は、日本の元自動車レーサー、自動車評論家。 日産、トヨタ、いすゞと、3メーカーのワークスドライバーを経験。後にはプライベーター(個人出場者)として長くレースに出場し続けた。 来歴中国大陸(満洲国)で生まれ育ち、戦後の1-2年間は中国に住み、その後に日本に引き揚げた。少年時代からオートバイに親しみ、高校時代には浅間火山レースの観戦経験もあるという。 1963年に開催された第1回日本グランプリのC-IIIクラス(700-1,000cc)に、ドイツ車のDKW900で出場し5位。当時はまだ大学生で、自動車メーカーの後ろ楯のない全くのプライベーターだった[注釈 1]。 1964年、オーディションを受けて日産ワークスドライバーの一員に選ばれる[注釈 2]。当時の同僚には田中健二郎(ホンダの元2輪世界GPライダー。ホンダに在籍しながら日産にスポット加入)や鈴木誠一(スズキの元2輪世界GPライダー。日産にスポット加入)がいた[注釈 3]。同年4月の第2回日本グランプリT-IVクラスで日産・ブルーバード1200に乗り4位[注釈 4]。 1965年、津々見が所属している日産宣伝部のワークスチーム(後の大森ワークス)とは別に、日産開発部のワークスチーム(いわゆる追浜ワークス)が発足[注釈 5]。津々見は宣伝部ワークスの一員としてレースに出場[注釈 6]。同年7月の全日本自動車クラブ選手権レースT-IクラスでブルーバードSSに乗り優勝[注釈 7]、同年8月のKSCC1時間T-Iクラスでブルーバードに乗り優勝[注釈 8]などの成績を残す。 1966年、日産を離れトヨタワークス(一軍であるチーム・トヨタ)に移籍[注釈 9]。トヨタ・2000GTプロトタイプによる速度記録挑戦に参加し、レースにも出場。 1968年、トヨタワークスに在籍しながら、奨学制度(『オートスポーツ』(三栄書房)主催)でアメリカに渡る[注釈 10]。 1969年、トヨタワークスを離れ、フリー(プライベーター)に転ずる。同年途中でいすゞワークスと契約し、同年10月の日本グランプリにいすゞ・R7(シボレーの5,000ccエンジンを積んだプロトタイプレーシングカー)で出場し15位(いすゞ勢の最上位)。またこの年には石原プロモーション制作映画『栄光への5000キロ』に賛助ドライバーの一人で出演した。 1970年、いすゞワークスとの契約終了後に完全なプライベーターになり、富士グランチャンピオンレースやF2000(後のF2)などに出場。 1972年にはマカオグランプリにロータス・41で出場し8位を記録する。1975年の全日本F2000、1979年の日本F3選手権へのスポット参戦を最後にトップカテゴリーのレースに出場することはほとんどなくなり、以降はジャーナリスト活動が主体になる。自動車専門誌などで記事の執筆や、テレビのレース中継に解説者として出演。その中継内では、シビックワンメイクレースにオンボードカメラを搭載したマシンで津々見が参戦し、レース中に自ら実況・解説をしながらドライビングを収録した映像を視聴者に届け、日本におけるこのスタイルの草分け的存在となった。 1984年に開催されたWEC-JAPANにはマツダ・727Cでスポット参戦、岡田秀樹、清水正智とのチームでグループC2クラス7位を記録している[1]。 1985年、トーヨータイヤのツーリングカーレースチーム「オブジェクトT」のコーディネイターになり、自らドライバーとしてレースに出場しながらチーム全体を統括。参戦初年度の1985年、チームに年間タイトルをもたらす(グループA、星野薫)。 その後、日本カー・オブ・ザ・イヤーの選考委員を務めるなど、引き続ぎモータージャーナリストとして活動。1991年に行われたル・マン24時間レースのテレビ朝日の中継では、マツダ・787Bが達成した日本車によるル・マン初制覇を実況している。 2000年代以後も各種イベントレースにはドライバーとして出場することがある。 レース戦績全日本F2000選手権
全日本フォーミュラ3選手権
全日本ツーリングカー選手権
関連項目出典
注釈
外部リンク
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