筑波移転反対闘争筑波移転反対闘争(つくばいてんはんたいとうそう)は、東京教育大学が筑波研究学園都市構想に乗って、大学キャンパスを移転させようとしたことに対して、学生・院生が「移転反対・審議過程の民主化」を主張して起こした反対運動。1967年7月にはピケットストライキが、1968年6月下旬から1969年2月末まではバリケードストライキが行われた。 東京教育大学では、学部キャンパスが3か所に分散、キャンパスの狭隘を訴える学部があったことから、自主移転を検討したが困難であった。1963年に起きた筑波研究学園都市への移転が浮上したが、大学の最高意志決定機関である評議会での強行採決があったなどのことから、学生らが「移転反対・審議過程の民主化」を主張して反対運動を起こした。1967年6月に始まったストライキは夏休み中に終息したが、1968年6月下旬からの事務棟封鎖を含むストライキは長期化した。ちょうど、学外でもベトナム反戦運動や、各大学で生起した様々な問題に絡んで全共闘運動が盛んになった年でもあった。1969年の入学試験は、体育学部では実施されたが、文学部・理学部・教育学部・農学部の4学部では中止され、この年には体育学部以外では新入生がいなかった。1969年2月28日に大塚・駒場の両キャンパスに、教授会・評議会の合意なく学長の専断で機動隊が導入され、授業再開に6か月以上を要した。1973年9月25日に筑波大学法案(国立学校設置法の一部改定案)が国会で成立し、同年10月1日に筑波大学が開学発足、翌1974年4月には筑波大学に第1期生が誕生した。東京教育大学は、1978年3月31日にその幕を閉じて閉学するに至る<通史的スライドショー>。 筑波移転問題の前史東京教育大学は、キャンパスが3か所に分散し、文京区大塚には文学部・理学部・教育学部が、目黒区駒場には農学部が、渋谷区幡ヶ谷には体育学部があった。すべての国立大学(その後の創設を除く)がそうであるが、教育大は1949年に新制大学としてそれまでの4つの学校を統合して発足している。その経緯でキャンパスが分散したタコ足大学だった。キャンパスが分散した上に、そのキャンパスが狭かった。1962年当時に大学院を持つ国立大学としては、敷地が全国最小だった<東教大キャンパス写真集>。 大学の最高意志決定機関である評議会で、62年5月に、5学部統合問題として浮上した。9月28日評議会では、「適当な敷地をみつけて5学部の統合を行なうこと。その検討は評議会の会内組織である施設小委員会があたること」を決定した。1962年に八王子などへの独自移転を検討した。とりわけ本格的に交渉されたのが、八王子南部、東松山、原町田、八王子北部の4か所であった。しかし、独自移転の実現は難しい。予算措置をどうするのか、どのようにして用地買収をするのかを中心に多くの困難を伴い、全くの失敗といえる状態になっていた。 『教育大学新聞』(1962年12月25日号)に、次の記事がある。
『教育大学新聞』(1963年1月25日号)に、次の記事がある。
学長選挙62年6月に学長選挙が行われた。56年7月に就任した朝永振一郎教授の任期満了に伴い、新学長の選出が必要だった。その後の大学運営の姿勢をめぐるものとして学内の注目を浴びた。学長第一次投票には助手なども参加できるが、第二次投票では教授会構成員のみが選挙権を持っていた。学生自治会は、推薦候補になった3候補について「信認投票」(学生は学長選挙における「信任投票権」を要求していたが、大学側の受け入れるところとならなかったので、苦肉の策で「信認投票」という名称を考え出し、その名で実施したものと考えられる)を行ったが、その結果は、梅根悟教授2304票、三輪知雄教授203票、石三次郎教授110票だった。学長選第一次投票で3位、第二次投票で1位だった三輪知雄氏が、第三次投票で過半数を得て(三輪160票、梅根115票)、学長に選ばれた。梅根教授は学生間で人気があったが、教授会構成員レベルではリベラルに過ぎるとして反発する人もあり、一方の三輪教授については学生運動への抑圧的な姿勢が懸念されていた。三輪知雄学長の誕生を、学生は歓迎しなかった。6月18日・22日の2回にわたり、「三輪教授の学長就任および大学管理制度・教員養成制度改悪に反対し」事実上のストライキが行われた。その後9月18日には、掲示板に学生が貼ったポスターを学長の指示で撤去するなど、学生との軋轢が始まった。 筑波移転問題が生起1963年8月27日に、筑波研究学園都市建設の閣議決定が発表された。この計画では、研究学園都市の中核的施設の一つとして国立の総合大学が構想される。「国立の総合大学」を置くためには、国立の単科大学の統合もありうるが現実的でない。文部省には大学新設の意図はなかった。そうなると、都内の国立総合大学を移転させるか、茨城大学を水戸から筑波に移転させるしかない。都内の国立総合大学は3つだけだ。それを考慮すれば、この計画に合わせて筑波に移転する大学としては教育大学が唯一といえるほどである。こうして教育大学の筑波移転問題が浮上した。 教育大は、筑波研究学園都市建設の閣議決定以前から、その事務局である首都圏整備委員会と連絡を取り、計画を知らされていた。研究学園都市は、貿易自由化に対処して国際的水準の研究体制を完成することを目指していた。理科系中心の研究学園都市構想である。首都圏整備委員会にとって、(工学部はないが)理科系学部をも有する総合大学だった教育大は格好の対象だった。教育大では63年9月3日以降、相次いで臨時教授会が開かれ、この問題についての検討が重ねられた。1963年9月7日に開かれた評議会での各学部の態度は、以下のようであった。体育学部と農学部は条件付賛成。教育学部も条件付賛成であるが、条件については今後くわしく検討する。理学部は慎重論が多く7日までには結論が出なかった。文学部も慎重論が多数を占め16対50で今すぐ移転することには反対だった。光学研究所は無条件賛成だった。この条件付賛成の「条件」とは、「政府・首都圏整備委員会のいうような、あらゆる面で理想的な研究学園都市ができるならば、はじめは多少の不便もあろうが、この機会に移転しよう」というものだった。また、文理両学部の慎重論とは、「政府側が理想的な新都市を作るためにどの程度うちこむか疑問だ。たとえ、やる気があるとしても、このような大規模な文教予算は財政的に出せないのではないか。またこのような重要事項は、どういうものか見通しもはっきりしないままに決定を早急に下すことは無理で、少なくとも1年くらい検討することが必要だ」というものだった。次回の臨時評議会は9月13日に開かれたが、「ここでは早急に結論は出さず、今後も徹底的に意見の調整を図る」ということで、決定を保留した。 この頃、教育大文学部自治会を握っていた構造改革派系の共青(=共産主義青年同盟)は、筑波移転に反対していなかった。「移転問題は単に移転の可否を問うているのではなく、科学技術革新にいかに対処していくかが問われている。材料不足でまだ結論は出せない。教育大の発展も十分に考慮する必要はあるが、単に教育大の問題ではなく、全国の学生・学問研究者の問題でもある。また、これを契機に、学内民主化を図り審議過程への学生参加を求めたい」との論調であった。 しかし、文部省・大蔵省では、研究学園都市構想に予算をつけて土地買収を進めるためには、具体的な計画が必要であり、そのために教育大の早い結論と意思表示を求めていた。ただし、64年度予算として、教育大の意思表明なしに、用地買収・仮設道路建設費147億円の予算要求が認められた。 新聞記事【1964年11月の新聞一面記事 要約】 政府は筑波山麓に研究学園都市建設を決め、首都圏整備委員会を中心に検討を進めてきた。その具体案がまとまり、近く総理府内に「研究・学園都市建設推進本部」を設置する。筑波研究学園都市は10年後に完成、人口16万のニュータウンが誕生する。 63年9月の閣議で、筑波研究学園都市の建設を決め、首都圏整備委・建設省・文部省・科学技術庁などの関係各省庁間で、移転する政府関係研究機関・国立大学・民間研究所・私立大学の選定を進めてきたが、26日の各省事務次官らによる官庁移転閣僚懇談会幹事会で最終的に調整し閣議で決定する。移転する研究所・大学は下記の通りだが、国立研究所が42、国立大学が2つで、民間は研究所関係が申し込み263社から20に、私立大学は33校の申し込みを22校とした。規模は全体で3300haで、研究所や大学の敷地にあてられる部分が2140ha、残りが市街地となる。 住宅公団が事業主体で総事業費は4000億円。政府が3000億円、民間が1000億円。建設用地は64年度に茨城県と地元で折衝が開始され、買収は難航をきわめていた。しかし、このほど話し合いがまとまり、65年度から住宅公団が160億円の予算で宅地造成を始める。66年末から67年度までに各研究所・大学の移転が始められ、74年度中に完成する。 【移転が内定している国の試験研究機関】◇通産省=計量研究所、機械試験所、電気試験所、東京工試、発酵研究所、繊維工業試験所、地質調査所、産業工芸試験所、資源技術研究所、工業技術院本院の一部 ◇農林省=農業技術研究所、農地試験所、畜産試験場、園芸試験場、農業土木研究所、蚕糸試験所、食料試験所、家畜衛生試験場、食物ビールス研究所、林業研究所、淡水区水産試験所 ◇建設省=土木研究所、建築研究所、国土地理院 ◇文部省=統計数理研究所、国立国語研究所 ◇厚生省=人口問題研究所、栄養研究所、予防衛生研究所、衛生研究所、国立がんセンター ◇科学技術庁=金属材料技術研究所、共同利用施設、防災科学技術研究所 ◇運輸省=高層気象台、気象研究所、気象大学校 ◇労働省=産業安全研究所 【国立大学】東京教育大、東京外国語大学 焦り深める移転推進派1966年10月28日、評議会の席で三輪学長が、和歌森太郎文学部長に対して「学部をまとめられないのか!」と罵倒した。これに対して、和歌森太郎文学部長と2人の評議員は11月5日に抗議の辞任をし、文学部教授会は学長・評議会に抗議して12月初めまで評議会出席を拒否した。学長と文学部教授会との溝が広がった。学長=移転推進派の焦りが表面化したものと受け止められた。 土地確保表明で学部対立が表面化1967年6月10日、評議会は、筑波に土地確保を希望することを文部省に表明することを決定したが、文学部評議員はこれに反対して退席した。大学としての意思決定をめぐっての、学長=移転推進派と、文学部教授会=移転慎重派の、決定的な亀裂になった。従来は、評議会での決定は全会一致で行われていたが、この決定は文学部教授会選出評議員の反対を押し切っての異例の多数決決定になった。 学生は、6月14日に約400人が「6.10評議会決定白紙撤回」を要求して本館前集会を開き、15日まで授業放棄を続けた。さらに、6月19日には文学部学生大会が「6.10評議会決定白紙撤回」を要求して20日から3日間のストライキを決定し、ピケットストライキに突入し、以後4波まで26日間のストライキを続行した。 他の学部でも、7月4日に理学部学生大会が「6.10評議会決定白紙撤回」を要求してストライキに突入、7月5日に教育学部学生大会が「6.10評議会決定白紙撤回」を要求してストライキに突入、7月11日に農学部学生大会が「6.10評議会決定白紙撤回」を要求してストライキに突入と、体育学部を除く全学に抗議ストライキが波及した。これらのストライキの背景には、「移転反対」よりは、移転推進派が従来の全会一致原則を破っての強行採決をしたことへの抗議も含まれていたと考えられる。 しかし、学生らの抗議活動は夏休み中に雲散霧消し、夏休み以降に継続することはなかった。夏休み後に開かれた学生大会は定足数に満たなかったので、ストライキなどを決めることができなかった。 1967年闘争時の写真画像
調査費計上に対して学生の闘いが激化1968年6月20日には、評議会が筑波移転のための調査費約2700万円の計上(69年度予算への予算要求)を決定した。当然、文学部評議員は抗議の退席をしたので、文学部不在の決定であった。6月25日文学部学生大会はE館(文学部・教育学部棟)の封鎖を決定。6月29日、文学部学生大会は本館(事務棟)の封鎖を決定し、学生はこれを即時実施した。学生の「6.20評議会決定反対」運動は、理・教・農学部にも広がりを見せた。理・農学部では7月初めから、教育学部では10月からストライキに入った。 学生は9月13日に、全学闘争委員会(略称=全学闘)を結成した。これは、文学部闘争委員会などの各学部の闘争委員会の全学統合組織という意味であった。いわゆる全共闘は「全学共闘会議」の略であり、全学の闘う個人の共闘組織との意味である。両者にはこのような意味の違いがある。68-69年の学生運動を「全共闘運動」と言うことが多い。しかし、教育大闘争には「全共闘」はなかった。バリケード闘争をになったのは「全学闘」であり、反民青系セクトは、革マル派を含めてすべてこれに参加していた。全学闘は、9月23日に大塚キャンパスをバリケード封鎖した。 こうした学生の動きに、譲歩で解決を図る方向として、農学部教授会は9月25日に、調査費計上の白紙撤回を決定した。しかし、このような譲歩を認めない移転推進派は、10月17日に開催された評議会で、この決定を否認した。 10月3日、文学部教授の移転賛成派(大島清代表)が、「67年6月10日評議会決定」の支持を表明。11月20日、理学部長に移転慎重派の小寺明教授が選出されて、12月11日に就任した。しかし、15日に不信任されて辞任する。11月28日、評議会は、事態打開のための全学集会開催を決定したが、実施されなかった。12月7日、筑波推進派教官による「本学の正常化と発展を期する会」が第1回会合を持った。 1968年闘争時の写真画像
入試中止12月29日 前川峯雄学長代理が坂田文部大臣と会い、4学部の入試中止を決定した<翌日の閣議での入試中止了承を伝える新聞記事>。1969年1月4日、入試中止の責任を取って、学長以下の全評議員が辞任した。 大学内への警察力の導入入試中止の責任を取って学長以下の全評議員が辞任したが、理学部教授会は交代の新評議員の1人として、辞任した評議員の一人である宮嶋龍興を選出した。責任を取って辞任した評議員が再任されるのはおかしいではないかという議論もあったものの、1月17日に開かれた評議会で新任評議員の互選で宮嶋を学長事務取扱(学長代行)に選出した。こうして、宮嶋竜興学長代行が大学運営の主導権を握ることになった。 1月18日 宮嶋学長代行が、学生に本館退去を命令したが、当然、学生が退去することはなかった。2月5日、理学部教授会は「大塚地区への学生の入構を禁止する」という提案を評議会に対して行うとの決定をした。事実上の機動隊導入と受け止められた。文・教・農の3学部教授会はこの提案を否決し、体育学部教授会は大塚の3学部教授会に一任することとしたので、賛成した教授会はなかった。 1月18日、1月20日、1月24日と続けて文学部学生大会が開かれた。共学同を主体とする文学部自治会闘争委員会が主張する「バリケードストライキ継続」の議案に対して、民青系による「バリケードストライキ解除」の対案が出され、双方は拮抗して両案は可決されなかった。文自闘議案には、社学同・中核派連合の修正案があり、対案には、民青系の他に、革マル系、有志連合系のものがあった[1]。 1月28日の学生大会は、僅差で「バリケードストライキ継続」の議案を可決した。しかし、その背後には、「負けた時は、直ちに本館へ向かい立て籠る」という方針が共学同にはあった[2]。 2月8日、全学闘は理学部の移転推進派教官3人を捕捉し、大衆団交を行った。全学闘側は、ロックアウト策動(前述の2月5日理学部教授会決定を指す)の自己批判などの確認書を勝ち取った。しかし、3教官は6日後にはこれを翻し、むしろ8人の学生を監禁罪で告訴した[3]。 2月27日に学長代行は、近くの新大塚公園で「所信表明集会」を開いた。機動隊導入に進むためのアリバイ作りであることが明白だった。この集会への参加学生は約100名に対し、「抗議に800」「全学闘500」と報道された阻止・抗議の怒号に包まれた[4]。 2月28日10時30分、大塚・駒場の両キャンパスに、学長代行が専断で機動隊を導入して学生を排除し入構を禁止した<新聞記事>。これに対し、文学部教授会と教育学部教授会は抗議声明を発表した。その混乱の中、ドイツ文学の桜井正寅教授が心筋梗塞で亡くなった。深夜1時すぎに帰宅した後のことであった。桜井教授は大正3年生まれ、まだ54歳だった<新聞記事>。機動隊はその日から少数ながら常駐して、すぐにも応援部隊が来る態勢をとっていた。 授業再開と学内平常化4月19日、全学闘は渋谷の山手教会で「教育大闘争報告集会」を開催し、多くの学生が集まった。5月22日、これまで移転反対闘争で表面に出ていなかった体育学部では、学生大会を開こうとしたが、学部側はその中止を求めた。これに抗議した体育学部闘争委員会が、午後10時ごろ体育学部本館を封鎖した。しかし、1時間後には学部長が機動隊を要請して封鎖が解除された。 6月23日、全学闘が「キャンパス奪還」のため大塚構内に突入し、多くの逮捕者を出した<新聞記事>。「奪還闘争」は数次にわたって行われたが、この日の逮捕者は最多であった。7月4日、マスタープラン委員会が評議会に移転計画を答申したのに対し、全学闘は大塚構内で抗議闘争を行った。9月17日には、結成された全国全共闘による第1回目の行動として教育大奪還闘争(大塚公園を起点)が行われた<新聞記事>。 このような学生の動きは、しかし、もはや学外に放逐されてしまっていたわけで、大学の管理運営にはいかなる影響も与えることはできなかった。 むしろ事態は、授業再開と学内平常化に向かっていた。学生でも、民青系は、むしろその方向を目指していた。9月30日には、民青系学生主導下に文学部学生大会を東大教養キャンパスで開き、ストライキ解除を決定したのである。全学闘側は、この動きには関与しなかった(関与しようとすると、民青系に実力で敵対される情勢だった)。 7月31日には、教職員有志518人が移転決定強行に抗議声明を出すという動きもあった。しかし、8月6日には文学部教授会がツーキャンパス論を放棄した。また9月16日に文学部教授会が授業を再開しようとしたが、学長代行は検問なしの学生の入構は認められないとして学生の入構を認めなかった。このことから、10月6日には文学部教授会が、学長代行の要求に応じ、授業再開の要件として、学生による「誓約書」への署名と、それと引き換えの「入構証」を持つ者だけを構内に入れる検問を承諾した<新聞記事>。これにより「誓約書」「入構証」方式による文学部の「正常化」が始まった。学長代行の思う通りの「正常化」であった。 筑波大学の発足へ東京教育大学の移転推進派は、1967年6月の「土地確保表明決定」以降、7-8月には「マスタープラン検討委員会」を組織、11月7日には評議会にマスタープラン8項目が報告される、11月9日にはマスタープラン委員会のワーキンググループを発足させる、1968年3月29日にマスタープラン委員会が評議会で構想試案を報告、1969年7月4日にマスタープラン委員会が評議会に移転計画を答申(24日には評議会がこれを移転計画として決定<新聞記事>)、1971年6月10日に評議会が「筑波新大学に関する基本計画案」を決定(文学部は欠席)といった経過をたどって、大学としての「新大学プラン」を策定していた。しかし、一方では文部省が、1969年11月21日に省内に「筑波新大学創設準備調査会」を発足させ<新聞記事>、1970年10月21日にこの筑波新大学創設準備調査会で「筑波新大学のあり方について」の中間報告を行い、1971年7月16日に「筑波新大学のあり方について」の報告を文部大臣に提出するというまったく別途な「新大学プラン」を練っていた。 「筑波大学」をどのような大学にするかについては、この推移を見るだけでも、東京教育大学の意向で決めたものではないことが分かる。両者の混淆である。 文部省はこれ以後、医学部不在の県で単科の医科大学を、また3つの「教育大学」を新設する。特に前者(一県一医大構想)にあっては、本来はその県にある既存の国立大学に医学部を新設すべきなのだが、すべて単科大学の新設でことを済ませている。その県にある既存の国立大学の評議会・教授会との折衝の煩を厭った文部官僚の手抜きである。それらの端緒でもあった。 こうして、1973年2月9日に筑波大学法案(国立学校設置法改定案)が閣議決定され、9月25日にはそれが国会を通過し成立する。これによりさっそく10月1日には筑波大学が開学し、初代学長に三輪知雄が就任した。その翌年の74年に、筑波大学としての第一期生が入学したわけである。 筑波大学には学部制度がなく学群・学類制度であるが、74年4月には教育学部・農学部に相当する分野の学群・学類が開学できなかったのか、74年4月に東京教育大学教育学部・農学部で学部学生の入学があった。このため、教育大の消滅は文理体の3学部と、教・農の2学部とでは、スケジュールが異なることになった。文・理・体の3学部では77年3月の定員消滅に合わせて、4年前に最後の学部生受け入れ、3年前に最後の博士課程生受け入れ、2年前に最後の修士課程生受け入れとなった。一方、教育学部・農学部では78年3月の定員消滅に合わせて、同様の措置が採られたのである。 年表この年表は『文理科大学新聞・教育大学新聞 縮刷版』その他を資料にしている。 1963年
1964年
1965年
1966年
1967年
1968年
1969年
1970年
1971年
1972年
1973年
1974年
1975年
(以下、細かく書くのでわずらわしく見えるが、要は、「77年3月に文・理・体の3学部での定員消滅、78年3月31日の教・農の2学部での定員消滅」に合わせて、学部・修士課程・博士課程の入学・卒業が図られたのである)
1976年
1977年
1978年
文献
学生の立場から
文学部教官の立場から
研究機関の移転反対運動移転が予定された研究機関にも、反対運動があった。1967年12月9日には、移反連(=移転反対連絡会議)による「9.5閣議了解白紙撤回等要求実現全都1万人集会」が開かれた。この集会には、教育大からも民青系学生100人以上が出席したと伝えられる[11]。また、この組織は『移反連速報』という広報機関誌を発行していた[12]。 脚注
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