コンピュータゲームの歴史
![]() 本項ではコンピュータゲームの歴史について述べる。コンピュータゲームは1940年代から1960年代に科学者やコンピュータ技術者、プログラマによって開発され、1972年にアタリのアーケードゲーム『ポン』が商業的に成功したことで、産業化が始まった。1977年に発売されたロムカセット式家庭用ゲーム機『Atari Video Computer System』が北米で大ヒットしたが、1983年に起こったアタリショック(Video game crash of 1983)により、北米のゲーム市場は停滞した。1983年に日本で発売されたロムカセット式家庭用ゲーム機『ファミリーコンピュータ』が大ブームとなり、任天堂は1985年に北米で『Nintendo Entertainment System』を発売し、北米の家庭用ゲーム機市場を再び活性化させた。 1994年にソニーが『PlayStation』で家庭用ゲーム機市場に参入し、3DCGやCD-ROMをゲーム市場に普及させた。2000年の『PlayStation 2』ではDVD規格の普及に貢献した。1990年代後半から、北米やヨーロッパではパソコンゲームが主流となり、MODやオンラインゲームが流行したが、日本ではパソコンゲームが主流にはならず、家庭用ゲーム機がゲーム市場を支配し続けた。任天堂は1989年に『ゲームボーイ』を発売し、携帯型ゲーム機市場を切り開いた。2006年にはソニーが『PlayStation Portable』で携帯型ゲーム機市場に参入し、任天堂の『ニンテンドーDS』に対抗した。 2000年代から2010年代にかけて、世界でスマートフォンやタブレットが普及したことで、モバイルゲーム市場が急拡大し、フリーミアム(F2P)や、アイテム課金、サブスクリプションなど新たなビジネスモデルへ移行した。2010年代以降、eスポーツの普及や、ゲーム配信の流行もあり、全世界でコンピュータゲーム人気が高まり、中国などの新興国でもモバイルゲームやパソコンゲームが広く普及した。 1970年以前![]() 1912年にレオナルド・トーレス・ケベードが、チェスのオートマタ『エル・アヘドレシスタ』を発明した。自動でエンドゲームを行う装置で、歴史上最古のコンピュータゲームと考えられている。 1940年にニューヨーク万博でen:Edward Condonがニムのコンピュータゲーム『en:Nimatron』を展示した。 1947年にen:Thomas T. Goldsmith Jr.とen:Estle Ray Mannが『陰極線管娯楽装置』を発明した。最も古いインタラクティブ(双方向)なコンピュータゲームで、電子ディスプレイを使用した最初のゲームである。 1950年にen:Canadian National Exhibitionでen:Josef Katesが三目並べ(○×ゲーム)のコンピュータゲーム『en:Bertie the Brain』を展示した。 1951年にen:Festival of Britainでフェランティ社がニムのコンピュータゲーム『Nimrod』を展示した。 1952年にケンブリッジ大学のEDSACでen:Sandy Douglasが三目並べのコンピュータゲーム『OXO』を開発した。同時期にクリストファー・ストレイチーがチェッカーのプログラムを開発した。 Bertie the Brain、Nimrod、OXO、クリストファー・ストレイチーのチェッカープログラムは全てアナログゲームをコンピュータ上で再現したものであり、技術デモンストレーションとして開発された。OXOとクリストファー・ストレイチーのチェッカープログラムはディスプレイ画面に映像を表示する最古のゲームである。 1958年にブルックヘブン国立研究所のウィリアム・ヒギンボーサムがテニスの試合をシミュレートするコンピュータゲーム『Tennis for Two』を開発した。学術研究やデモンストレーションではなく、純粋に娯楽製品として開発された最初のコンピュータゲームである。 1962年にスティーブ・ラッセルがメインフレームのPDP-1上でデモプログラムとして発表した『スペースウォー!』は、アメリカ中のPDP-1に広まり、複数のコンピュータでプレイされた最初のコンピュータゲームである。 1966年に稼動を開始したメインフレームのPDP-10は多くの大学や研究機関で導入されたことで1970年代のハッカー文化に大きな影響を与えた。PDP-10はタイムシェアリングシステムを普及させたメインフレームとしても知られる。タイムシェアリングにより、1台のメインフレームのリソースを分割し、複数のユーザー間で同時に共有できるようになったことで、研究者やプログラマだけではなく、大学の職員や学生がコンピュータを使用できるようになった。 1970年代にPDP-8やPDP-11などのミニコンピュータが普及したことで、多くのコンピュータゲームが開発されるようになった。 1970年代→「第一世代ゲーム機」も参照
![]() ![]() 1971年にノーラン・ブッシュネルが『スペースウォー!』を元に世界初のアーケードゲーム『コンピュータースペース』、1972年にラルフ・ベアがマグナボックスから世界初の家庭用ゲーム機『オデッセイ』を発売した。 オデッセイのデモンストレーションに感銘を受けたノーラン・ブッシュネルは同年にアタリを創業し、『ポン』を発売。オデッセイに内蔵された『テーブルテニス』を元にしたゲームで、2人のプレーヤーが両側のパドルを操作してボールを打ち合い、得点を競う。パドルにボールが当たる位置により、跳ね返る速度・角度が変わる。ポンは商業的に大成功を収め、多くのコピーゲーム(ポンクローン)が製作された。ポンは商業的に成功した最初のコンピュータゲームであり、コンピュータゲーム産業の発展・確立に貢献した。アタリは1975年に家庭用ゲーム機『ホーム・ポン』、1976年に『ブレイクアウト』(ブロックくずし)を発売し、大ヒットとなった。 日本でもポンやブロックくずしのコピーゲームが製作され、多くの会社がゲーム業界に参入した。日本初のアーケードゲームは1973年にタイトーが発売した『サッカー』とされており、日本初の家庭用ゲーム機は1975年にエポック社が発売した『テレビテニス』である。1977年に任天堂が発売した『カラーテレビゲーム15』は任天堂初の家庭用ゲーム機である。 1974年にテーブルトークRPG『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(略称:D&D)が発売。世界初のロールプレイングゲームであり、D&Dを元にしたコンピュータゲームが多数作られた。初期のコンピュータRPGである『dnd』や、『ダンジョン』、初期のアドベンチャーゲームの『コロッサル・ケーブ・アドベンチャー』に多大な影響を与えた。 1978年にタイトーが『スペースインベーダー』を発売した。敵が放つ弾を回避しつつ敵を倒すというゲームシステムは、その後の多くのシューティングゲームに影響を与えており、シューティングゲームの始祖として評価されている。 スペースインベーダーは日本で社会現象となり、全国各地の喫茶店や駄菓子屋を中心に多くの筐体が出荷された(スペースインベーダー#ヒットと社会現象を参照)。北米でも大ヒットし、日本とアメリカの両方で多くのアーケードゲームが開発され、商業的に成功した。アメリカでは「アーケードゲームの黄金時代」と呼ばれている。 1980年に発売されたナムコの『パックマン』はゲームの枠を超え、北米でアニメや音楽が大ヒットし、メディアフランチャイズの初期の成功例となった。 1980年代→「第二世代ゲーム機」も参照
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() Atari VCSの成功とアタリショック→「アタリ_(企業) § カサール時代」、および「アタリショック」も参照
1976年にフェアチャイルドが『チャンネルF』、1977年にアタリが『Video Computer System』(通称・Atari VCS、後にAtari 2600に改称)を発売した。チャンネルFとAtari VCSは以前のハードとソフトが一体化していたゲーム機とは違い、ロムカートリッジによりゲームソフトを交換して遊ぶことができ、ゲームソフトという新しい市場を切り開いた。 アタリはゲーム機とゲームソフトの両方を製造・販売し、アメリカの家庭用ゲーム機産業は大きく成長したが、1982年末にゲームソフトの大幅な値崩れを起こし、翌年の1983年には家庭用ゲーム機市場がほぼ消失してしまう(アタリショック)。サードパーティによるゲームソフトの粗製乱造や、アタリが『パックマン』や『E.T.』を大ヒットを見込んで大量に注文・生産し、大量の売れ残り在庫を抱えたことが原因とされる。 マイクロコンピュータの普及とパソコンゲーム市場の誕生1970年代から1980年代にかけてマイクロコンピュータが普及し、それまでのメインフレームやミニコンピュータは衰退していった。マイクロコンピュータとは、CPUとしてマイクロプロセッサを使用したコンピュータで、高性能で安価なマイクロプロセッサの開発により、マイクロコンピュータの人気は高まり、多くの企業が参入した。 1977年に発売されたApple II(Apple Computer)、PET 2001(コモドール)、TRS-80(タンディ・ラジオシャック)の3機種は商業的に成功し、多くのゲームソフトが開発された。 1981年にコモドールがVIC-20を発売。ゲームユーザーを狙った広告戦略が成功し、VIC-20は100万台以上を売り上げた世界初のコンピュータとなった。翌年の1982年にコモドールはVIC-20の後継機としてコモドール64を発売した。名前の通り当時としては大容量の64キロバイトのRAMを搭載し、Apple IIよりも安価だったことや、コンピュータ専門店だけでなく、多くの小売店でも販売されたことで大ヒットした。コモドール64は多くのソフトウェアが開発され、パソコン市場で大きな影響力を維持し続けた。アタリショック以降も販売台数を伸ばし続けたことで、ゲームユーザーの事実上の受け皿となり、多くのゲームソフトが移植された。 日本では日本電気(NEC)のPC-8800、富士通のFM-7、シャープのX1、MSXが人気だったため、コモドール64は全く普及しなかった(8ビット御三家も参照)。1980年代後半から、PC/AT互換機が世界的にデファクトスタンダードとなったが、日本ではNECのPC-9800シリーズが長らく市場を独占していたため、PC/AT互換機の普及が遅れた(PC/AT互換機#歴史も参照)。 ファミコンブーム→「ファミリーコンピュータのゲームタイトル一覧」も参照
Atari VCSの大ヒット以降、多くの会社がゲーム機市場に参入した。日本でも1981年にエポック社の『カセットビジョン』がヒットしたことで、多くのロムカセット式ゲーム機が発売された。 1983年に任天堂の『ファミリーコンピュータ』、1985年にセガが『セガ・マークIII』を発売した。 ファミリーコンピュータ(ファミコン)は1984年からのサードパーティーの参入と1985年の『スーパーマリオブラザーズ』の大ヒットで社会現象級の大ブームとなった。1985年からファミコンは『Nintendo Entertainment System』(NES)として日本国外で発売された。スーパーマリオブラザーズはファミコンとNESの両方でキラーソフトとなり、NESの大ヒットはアタリショックで衰退した北米の家庭用ゲーム機市場を復活させた。 日本ではファミコンの発売により、多くのゲーム雑誌が創刊された。人気ソフトの裏技やデータをまとめた攻略本が次々とベストセラーとなり、『スーパーマリオブラザーズ完全攻略本』(徳間書店)は1985年、1986年と2年連続で年間ベストセラーランキング1位となり、120万部のミリオンセラーとなった[1]。 1985年にハドソンが開催した全国キャラバンで当時ハドソン社員の高橋名人が「16連射」を披露し、子供向け漫画雑誌『コロコロコミック』に取り上げられ、ファミコン名人として多くのメディアに出演し、子供たちを中心に一世を風靡した。 1990年代![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() セガvs任天堂1987年にNECホームエレクトロニクスが『PCエンジン』、1988年にセガが『メガドライブ』、1990年に任天堂が『スーパーファミコン』(SFC)を発売した。 SFCがファミコンの圧倒的なシェアを引き継ぎ、2世代連続でハードとソフトの両方でトップシェアとなった。PCエンジンは本体を周辺機器で拡張させる「コア構想」により、多くの本体と周辺機器が発売された。1988年に周辺機器のCD-ROM2を発売し、CD-ROMをゲームソフトとして採用した世界初の家庭用ゲーム機となった。日本国内の販売台数はSFCが1,717万台、PCエンジンシリーズが590万台、MDが358万台で、SFCの一人勝ちとなった。 セガは1989年にメガドライブの北米版『SEGA GENESIS』を発売した。GENESISは1990年に発売された任天堂の『Super Nintendo Entertainment System』(SNES)と競合した。セガは任天堂の『スーパーマリオブラザーズ』に対抗し、1991年に『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』を発売した。客がGENESISとSNESを比べてGENESISを買って帰るという内容の比較CMが話題となり、GENESISの売り上げが急増した。その後も本体の値下げや、積極的な広告戦略により、北米のゲーム機市場で一強だった任天堂と互角以上のシェア争いを繰り広げた[2]。 ゲームボーイの大ヒット1989年、任天堂が携帯型ゲーム機『ゲームボーイ』(GB)を発売。同年に発売された『テトリス』が大ヒットし、出荷台数を牽引した。1996年に『ポケットモンスター 赤・緑』が社会現象となり、市場が再活性化した。1996年に『ゲームボーイポケット』、1998年に『ゲームボーイカラー』が発売され、ゲームボーイシリーズは任天堂のゲーム機として初めて世界累計で1億台を売り上げた。 3Dグラフィックスの普及1989年にナムコが3次元コンピュータグラフィックス(3DCG)に特化したアーケードゲーム基板「SYSTEM21」を開発し、『ウイニングラン』、『スターブレード』、『ソルバルウ』などを製作。1992年にセガが「MODEL1」を開発し、『バーチャレーシング』『バーチャファイター』などを製作した。ナムコとセガによって、多くのアーケードゲームが3DCGへと移行した。家庭用ゲーム機でも、1994年のセガサターン(セガ)、PlayStation(SCE)、1996年のNINTENDO 64(任天堂)は全て3D描画機能を備えている。以降、3DCGのゲームがアーケードと家庭用の両方で普及した。 対戦格闘ゲームブーム1991年、アーケードゲーム『ストリートファイターII』(カプコン)が日本とアメリカの両方で社会現象級の大ヒットとなり、世界的な格闘ゲームブームの火付け役となった。1990年代に多くの格闘ゲームが流行し、『バーチャファイター』、『闘神伝』のヒットにより、1990年代後半には『鉄拳』、『ソウルエッジ』、『デッド オア アライブ』など多くの3D格闘ゲームが登場した。 次世代機戦争1994年にセガが『セガサターン』(SS)、ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)が『PlayStation』(PS)、1996年に任天堂が『NINTENDO 64』(N64)を発売した。 1994年に発売されたPSとSSは本体の価格競争が激化し、本体の値下げを繰り返した。他にも同時期に、3DO社の『3DO REAL』や、NECの『PC-FX』、SNKの『ネオジオCD』、バンダイ・Appleの『ピピンアットマーク』など多くのゲーム機が発売され、次世代機戦争と呼ばれた。新規参入したゲーム機のほとんどが商業的に失敗し、ゲーム機市場から撤退した。これ以降、家庭用ゲーム機はソニー・任天堂・セガ(セガ撤退後はマイクロソフト)による寡占状態が続いていく。 第五世代ゲーム機の多くがソフトウェア媒体にCD-ROMを採用した。CD-ROMはロムカセットと比べて大容量・低コストが特徴で、1万円を超えることもあったゲームソフトの価格をCD-ROMでは6000~7000円台まで下げることができた。任天堂もN64はロムカセットだったが、2001年の『ゲームキューブ」では光ディスクを採用している。CD-ROMの普及と、PSとSSの性能差が比較的少なかったことから、『ときめきメモリアル』、『Dの食卓』などPSとSSの両方でクロスプラットフォーム展開をするサードパーティが増えた。一方でドラゴンクエストシリーズやファイナルファンタジーシリーズといった大作シリーズは一つのゲーム機のみの独占販売を維持し、『ファイナルファンタジーVII』がPS独占で発売されたことはPSとSSのゲーム機競争に影響を与えた。 1990年代以降、アーケードゲームと家庭用ゲーム機の性能差が小さくなり、アーケードゲームのタイトルが登場後、すぐに家庭用ゲーム機に移植されることが多くなった。ゲーム市場のアーケードゲームが占める割合は減少し、家庭用ゲーム機が売上と技術の両方で市場を牽引するようになった。 FPSの誕生とMODの流行1992年の『Wolfenstein 3D』(id Software)は3Dシューティングの始祖と呼ばれ、ファーストパーソン・シューティングゲーム(FPS)というジャンルを確立した。id Softwareは『Wolfenstein 3D』の後継作品として1993年に『DOOM』、1996年に『Quake』を発売した。『DOOM』は火星を舞台にしたFPSで、シューティングだけでなく、探索しゴールを目指すというアドベンチャーゲームとしての要素もある。北米で発売されると、すぐに大ヒットを記録し、その後の多くのシューティングゲームに影響を与えた。 『モータルコンバット』や『ナイトトラップ』の残虐な描写が問題視され、論争となったことで1994年にコンピュータゲームのレイティング審査を行う団体「エンターテインメントソフトウェアレイティング委員会」(ESRB)がアメリカで設立された。『DOOM』や、ガンシューティングゲームの『リーサルエンフォーサーズ』も社会的影響を懸念され、批判された。 1990年代後半に『DOOM』、『Quake』のMODが公開され、流行した。MODとは、ゲームのグラフィックやデータを改造するファイル・プログラムで、改造・変更という意味の「modification」の短縮形である。ゲームのほぼ全てを変更する大規模なMODは「トータルコンバージョン」と呼ばれる。『ハーフライフ』をチーム制のオンラインゲームに改造した『カウンターストライク』は世界中のハーフライフユーザーから支持され、人気を博した。『DOOM』、『Quake』、『ハーフライフ』はインターネット上でMODコミュニティが形成され、多くのMODが作成された。 2000年代![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ブラウザゲームの流行1995年に発売されたMicrosoft Windows 95により、多くの人がインターネットにアクセスできる環境が整ったことでインターネット利用者数が爆発的に増加した。 Windows 95が発売された当時、多くの人はダイヤルアップ接続を介してインターネットにアクセスしていた。2000年代前半にADSLの登場でブロードバンドが普及し、インターネット回線が高速化すると、多くのウェブサイトで画像や動画を扱えるようになった。 軽量で動画が作成できるMacromedia Flash(Adobe Flash)が普及し、動画メディアのプラットフォームとして主流となった。Adobe Flash Playerは多くのパソコンに普及し、2009年時点でインターネットに接続されたデスクトップPCの99%にAdobe Flash Playerがインストールされていた。 [3] 1990年代後半から2000年代にかけて多くのFlashゲームが作成され、人気となった。世界的に有名なFlashゲームに『Farmville』、『Alien Hominid』、『QWOP』、『Club Penguin』、『Dofus』などがある。日本でも1999年のMacromedia Flash 4以降、多くのFlash動画やFlashゲームが作成された。 2010年にAppleがiPhoneを含む全ての端末でFlashを採用しないと宣言した。理由としてセキュリティの問題や、Flashによる機能の制約による技術的な問題を挙げた[4]。2010年代以降、スマートフォンやMP4の普及などにより、Flashは急速に衰退し、以降はHTML5でのブラウザゲームが主流となっていった。 オンラインゲーム市場の拡大1997年の『ウルティマオンライン』、1999年の『エバークエスト』、『Asheron's Call』の商業的成功によってMMORPG(大規模多人数参加型オンラインRPG)が流行し、アメリカと韓国で多くのMMORPGが制作された。韓国は1998年に金大中が大統領に就任し、アジア通貨危機下でIT産業を奨励し、莫大な投資を行い、経済の建て直しを図った。急速にインターネットが普及し、IT先進国となった韓国では家庭用ゲーム機よりもオンラインゲームが普及した。2000年頃、韓国内で「eスポーツ」の用語が広まり、欧米などで大々的なコンピュータゲームの世界大会が開催されるようになった。 2000年代に入ると全世界でインターネットが普及したことでMMORPGおよびオンラインゲームのプレイヤー数は爆発的に増加した。2003年に韓国で運営が開始されたMMORPG『メイプルストーリー』(ネクソン)は基本無料・アイテム課金型のビジネスモデルを初めて採用したとされる。その一方で長時間のゲームプレイによるゲーム依存症が社会問題となった。 セガの家庭用ゲーム機事業撤退とマイクロソフトの参入1998年にセガが『ドリームキャスト』、2000年にSCEが『PlayStation 2』(PS2)、2001年に任天堂が『ニンテンドー ゲームキューブ』を発売した。 ドリームキャストはPS2とのシェア争いに敗北し、2001年に生産中止したことで莫大な赤字となった。セガは家庭用ゲーム機事業から撤退し、以降はサードパーティへ転換した。PS2はPSソフトの互換性を持ち、PSのシェアを引き継いだことで、2世代連続でトップシェアとなった。PS2は安価なDVDプレイヤーとしても注目され、DVDの普及に大きく貢献した。ゲームキューブはゲームソフトの売上が伸びなかったことや、1990年代後半から続く日本のゲーム業界の縮小(ゲーム離れ)が原因となり、売上は伸び悩んだ。海外市場でも苦戦し、前世代機ののNINTENDO64よりも販売台数は減少した。 2001年にマイクロソフトが『Xbox』で家庭用ゲーム機事業へ参入した。全世界累計販売台数は2,400万台で、ドリームキャストとゲームキューブの販売台数を超え、PS2に次ぐシェアを獲得したが、製造コストの高さにより巨額の損失を出した。 ゲームボーイアドバンスの大ヒット2001年、任天堂が携帯型ゲーム機『ゲームボーイアドバンス』(GBA)を発売。 ゲーム離れと任天堂の「ゲーム人口拡大」戦略日本国内の家庭用ゲームソフト市場は1997年の5833億円をピークに減少を続け、2005年は3141億円と1997年の54%にまで低下した[5]。一方で、日本のゲーム業界全体の市場規模は拡大しており、縮小しているのは家庭用ゲームソフト市場だけという見方もある[6]。 任天堂は日本国内のゲームソフト市場の縮小はゲームの複雑化による人々のゲーム離れが原因と考え、ファミリーコンピュータからゲームキューブまでの高性能なゲーム機でグラフィックスを向上させる従来路線を改め、2003年に「ゲーム人口の拡大」を基本戦略と定めた。そして2004年に『ニンテンドーDS』、2006年に『Wii』を発売した。DSはタッチスクリーン、WiiはWiiリモコンによって直感的な操作が可能で、年齢、性別、ゲーム経験の有無を問わず楽しめる商品として開発された[7]。以降、任天堂はDSとWiiで掲げた「ゲーム人口の拡大」を踏襲し、高性能なゲーム機による性能競争を避けて、ゲーム機に独自の斬新なギミックを採用するようになった[8]。 日本の家庭用携帯ゲーム市場2004年に任天堂が『ニンテンドーDS』、SCEが『PlayStation Portable』(PSP)を発売した。 日本の家庭用ゲーム市場のガラパゴス化2005年にマイクロソフトが『Xbox 360』、2006年にSCEが『PlayStation 3』(PS3)、任天堂が『Wii』を発売した。 Xbox 360は初期型の高い故障率(Xbox 360の技術的問題を参照)、PS3は長期間の逆ざや(製造コストが価格を上回る状態)による多額の赤字、Wiiは性能不足と3機種はそれぞれ問題を抱え、苦戦したが、全世界の累計販売台数はXbox 360が8400万台、PS3が8740万台、Wiiが1億台と、3機種ともに一定の成功を収めた。 一方、日本の家庭用ゲームの海外売上は2008年にピークに減少し、日本の家庭用ゲーム市場はガラパゴス化していると指摘されるようになった[9][10]。日本では、多くのゲーム会社が携帯型ゲーム機市場に注力したことで、PS3やXbox 360といったHDゲームへの移行が遅れた[11][12]。 2010年代![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
2020年代![]() ![]()
未定
脚注注釈出典
関連項目 |
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