サヴィル幾何学教授職創立者であるヘンリー・サヴィル (英語版 ) 。
サヴィル幾何学教授 [ 1] [ 2] (サヴィルきかがくきょうじゅ、英 : Savilian Professor of Geometry )の地位は、1619年にオックスフォード大学 で設立された[ 3] 。オックスフォード大学マートン・カレッジ学長 (英語版 ) 、イートン・カレッジ学長 (英語版 ) を務めた数学者 ・ 古典学者 のヘンリー・サヴィル (英語版 ) が、当時"イングランドの数学研究における悲惨な状況"を嘆いたある数学者に反応してサヴィル天文学教授 (英語版 ) と同時に創立した[ 4] 。初代教授には、ヘンリー・ブリッグス が任命された。1931年から1963年までこの教授職を務めたエドワード・ティッチマーシュ (英語版 ) が教授への応募時に彼が幾何学の講義を行う準備ができていないと述べた際、幾何学講義の職務は除去されたものの、"幾何学教授"という肩書きは変更されなかった。2つのサヴィル教授職は19世紀後半からニュー・カレッジ (英語版 ) の教授フェローシップ と関わってきた。19世紀半ばまでの約175年間においては、幾何学教授はニュー・カレッジ・レーン (英語版 ) に隣接する場所に公式に住居を持っていた。
2020年現在までに、20人が教授職を勤めた。2017年から現職のフランシス・カーワン (英語版 ) は初めて女性でサヴィル幾何学教授に就任した。この地位は現在まで様々な著名な数学者に保持されてきた。ブリッグスは"数学の中で最も使いやすい体系"と形容される常用対数 の発展に寄与した[ 5] 。3代目に教授を務めたジョン・ウォリス は無限 の概念に対し∞ 記号を使用し、"当時の一流数学者の一人"であると述べられた[ 6] 。ハレー彗星 の周期を予測したエドモンド・ハレー とその後任者のナサニエル・ブリス は王室天文官 を務めた。スティーヴン・ピーター・リゴー (英語版 ) は"彼の生きた世代の中で屈指の天文学・数学史家"と呼ばれた[ 7] 。 ジェームズ・シルヴェスター はその生涯と仕事を敬して王立協会 によりシルヴェスター・メダル が創立された。エドワード・ティッチマーシュ (英語版 ) はシルヴェスター・メダルを獲得している。シルヴェスターとマイケル・アティヤ はコプリ・メダル を授与された。アティヤは在職中にフィールズ賞 も受賞した。
設立と職務
オックスフォード大学マートン・カレッジ学長 (英語版 ) 、イートン・カレッジ学長 (英語版 ) を務めたヘンリー・サヴィル卿 (英語版 ) は、20世紀の数学者イダ・バスブリッジ (英語版 ) が"イングランドの数学研究における悲惨な状況"(the wretched state of mathematical studies in England)と述べたことに深い悲しみを覚え[ 4] 、1916年にオックスフォード大学 において自身の名を冠する幾何学 と天文学 の教授職を設立した。彼は"主に数学の書籍の読者のために"大学図書館であるボドリアン図書館 に本を寄付した[ 4] 。教授には性格が良く、26歳以上で、科学の根本的な知識を得る以前に"アリストテレス とプラトン を源泉としてより純粋な哲学の知識を吸収した"男性を必要とした[ 8] 。また、キリスト教国出身者であればよいとしたものの、イングランド 出身の者は最低限修士 であることが求められた[ 9] 。生徒には古代を代表する一流科学者の作品、例えばエウクレイデス の『原論 』やアポロニウス の Conics 、アルキメデス の作品群に学ぶことを望んだ。三角法 の授業は2人の教授に分担された。多数の学生が多少の数学の知識も持っていなければ、(当時オックスフォード大学で使用されていたラテン語 ではなく)英語 で基礎数学を講義することも許可された[ 8] 。
任命
サヴィルが最初に教授に選出した人物は、グレシャム・カレッジ (英語版 ) の天文学教授 (英語版 ) を務めていたエドマンド・ガンター であった。ガンターは比例コンパス (英語版 ) と象限儀 の使用法を実証したことで記録されているが、サヴィルはこれを幾何学というよりはむしろ"奇術の披露"であるとみなして、1619年にグレシャム幾何学教授 (英語版 ) を勤めていたヘンリー・ブリッグス を選んだ[ 8] 。1620年、ブリッグスは年給を150ポンド[ 注釈 1] として雇われイギリスで設立された2つの数学職に最初に就くこととなった[ 4] [ 5] 。
サヴィルは生涯の間教授を任命する権利を有した。自身の死後はカンタベリー大主教 やオックスフォード大学学長 (英語版 ) 、ロンドン司教 (英語版 ) 、国王秘書長官 、民訴裁判所主席裁判官 、国王座部主席判事 (英語版 ) 、財務府裁判所主席判事 (英語版 ) 、アーチーズ裁判所主席判事 (英語版 ) など"最も錚錚たる人物"群の大多数の指名で席が埋められることを命じた[ 11] 。オックスフォード大学副学長 (英語版 ) は欠員を彼ら有権者に知らせ、必要ならば進言を行うことができた。任命は率直に行われることも、英国外から"著名な数学者を招聘すること"ができるかを判断するために数か月議論を遅らせることも可能であった[ 11] 。
19世紀に大学が一部改革されたことに応じて、1881年にオックスフォード大学委員会委員は新しい法令を発布した。サヴィル幾何学教授は"純粋幾何学及び解析幾何学の講義と指導を行う"こととなり、ニュー・カレッジ (英語版 ) のフェロー になった[ 12] 。教授職任命の有権者はニュー・カレッジ学長(または大学に学長と代わる人物として選ばれた人物)、 オックスフォード大学の学長 (英語版 ) 、王立協会 代表、オックスフォード大学セッドリー自然哲学教授 (英語版 ) 、ケンブリッジ大学 セッドリー純粋数学教授 (英語版 ) 、及び大学議会やニュー・カレッジ選ばれた人物によって選出された人物らとされた[ 12] 。1931年から1963年まで教授を務めたエドワード・ティッチマーシュ (英語版 ) は任命時に幾何学の講義を行う準備ができていないことを述べた。ティッチマーシュの任命を果たすため、幾何学講義の職務が除去されたが、幾何学教授の肩書は変更されなかった[ 13] 。20世紀及び21世紀前期の大学内部の法令の改正によってサヴィル教授などの個々の任命と職務に関する特定の法令が廃止された。現在大学議会は勤務条件と教授任命の適切な段取りを作成する権限を与えられている。有権者委員会には、教授職が割り当てられているカレッジ(サヴィル教授の場合はニュー・カレッジ) から2人の代表者が送られる[ 14] [ 15] 。
教授の住居
サヴィル幾何学教授が正式に使用するニュー・カレッジ・レーン (英語版 ) に面する住宅。
1649年から1703年までサヴィル幾何学教授を務めたジョン・ウォリス は1672年から1703年(没年)までニュー・カレッジ・レーン (英語版 ) 沿いに住居を借りていた。あるときに住宅は2つに分割され、サヴィル天文学教授のデイヴィッド・グレゴリー (英語版 ) が晩年に東側の区画に居住した。ウォリスとグレゴリー間の賃貸契約書は残されていないが(もし彼らの共通の友人の間で契約が交わされていたとしても)、初めてグレゴリーの名が現れたのは1701年で、教区の台帳に残されている。ウォリスの息子は1704年に父の長期の在任を記念して、契約書の残りの部分を提出し、2人のサヴィル教授に公式に邸宅が提供された。ニュー・カレッジは1716年から契約を更新して家賃の低くし、1814年まで定期的に契約更新が行われた。2つの住居に住んでいた人物の記録は契約期間内には秘匿されているが、現存の文書によって教授らがしばしば住居を転貸し、また18世紀前期頃には宿泊施設としても使われていたことが示されている。スティーヴン・リゴー (英語版 ) は1810年からサヴィル天文学教授になった1827年までこの住居に滞在し、その後ベーデン・パウエル (英語版 ) が家族とともに居住した。幾何学教授は天文家教授よりも長期間この住居と関わってきた。ラドクリフ天文台 が1770年代に建設されると、幾何学教授は天文台所長と結びつくようになり、所長用の家が作られ、その結果大学側が天文学教授の家を転貸した。19世紀前期にはニュー・カレッジは天文学教授の家をカレッジ側が使用することを決め、1854年に契約書が期限切れになった[ 16] 。
教授の一覧
サヴィル教授職の年表[ 3]
肖像
名前
就任期間
出身校[ 注釈 2]
教授を務めた大学
備考
ブリッグス, ヘンリー ヘンリー・ブリッグス
1619–1631
Cambridge, St John ケンブリッジ大学 セント・ジョンズ・カレッジ (英語版 )
マートン・カレッジ [ 注釈 3]
ブリッグスはケンブリッジ大学で数学と物理学(医療物理学)の講師をしていた。1957年にはグレシャム・カレッジ (英語版 ) の幾何学教授に就任した。1615年までに自然対数 の原理を熟知した。対数の計算は桁の大きい数の掛け算を足し算として扱えるため、天文学や航海の計算で使用された。ブリッグスはネイピアに常用対数 を使用することを提案した。エディンバラ に住むジョン・ネイピア にブリッグスが2度訪問した後に、2人は対数の再定義を行ったが、1617年にネイピアは、体調を崩していたため、ブリッグスなど他の誰かに計算を任せたい旨を書いた。ブリッグスは"数学において最も扱いやすい体系の一つ"を作ったと認識されている[ 5] 。 1624年の主要な作品 Arithmetica logarithmica には1から20000、90001から100000までの対数が小数第14位まで記述されている。1631年にマートンで没し、マートン・カレッジ・チャペル (英語版 ) の合唱の中で埋葬された[ 5] 。
ピーター・ターナー (英語版 )
1631–1648
Oxford, St Mary Hall セント・メアリー・ホール (英語版 ) 及びクライスト・チャーチ
マートン・カレッジ
ターナーは1620年にブリッグスのグレシャム・カレッジ (英語版 ) の幾何学教授を後任した。1631年にサヴィル幾何学教授を引き継いでグレシャムの教授職を辞任した。辞任以前にターナーはカンタベリー大主教 とオックスフォード大学学長 (英語版 ) を務めていたウィリアム・ロード に大学の統治のために新しい法令の草案作成の援助を頼まれ、1634年に、ターナーの書いた最後の草案が公布された。イングランド内戦 時、ターナーは騎士党 側に所属し1641年にストウ=オン=ザ=ウォルド 近くで捕らえられた。1643年の収監者の交換までサザーク に収容された。1648年の国会議員監査 (英語版 ) でメルトンのフェローシップ と教職から退くこととなり、1652年に貧困で没した。実質的な出版物はほとんどないが、現代では数学者・古典学者 としてよい評判を受けている[ 18] 。
ウォリス, ジョン ジョン・ウォリス
1649–1703
Cambridge, Emma ケンブリッジ大学 エマニュエル・カレッジ
エクセター・カレッジ [ 注釈 4]
ケンブリッジ大学に入学する以前、15歳のウォリスは兄から多分野に渡って数学を教えられた。後に自伝の中で、その後は"余暇の気分転換"として数学を独習したことと、当時の数学は"大学レベルの学問研究としての科目"というよりは"貿易商、商人、航海者、大工、測量士など"のためのものだと考えられていたことを書いている[ 6] 。イングランド内戦 で騎士党 側で働くうちに、暗号理論 に興味を持った。王立協会 創立会員の一人で、60以上の論文と書評を執筆した。幾何学教授に指名された後は、"当時の一流数学者の一人"と述べられるほど自身の数学のスキルを伸ばした[ 6] 。無限 を表す記号として∞ を導入し、著作ではアイザック・ニュートン に影響を与え、ブレーズ・パスカル とトマス・ホッブズ のような学者間のさまざまな数学の討論に参加した。1658年にKeeper of the Archive (英語版 ) 職に任命され、1660年におけるチャールズ2世 のイングランド王政復古 の間も職を保持し続け、没するまで務めた[ 6] 。
ハレー, エドモンド エドモンド・ハレー
1704–1742
Oxford, Queens クイーンズ・カレッジ (英語版 )
Queen クイーンズ・カレッジ (英語版 ) [ 注釈 5]
ハーレーは現在ハレー彗星 と呼ばれる彗星の軌道を計算したことで知られる数学者。学部学生時代にはすでにヨーロッパ大陸の天文学者と文通し、3つの論文を執筆した。1677年に水星の太陽面通過 を観測するためオックスフォードからセントヘレナ に旅立ち、太陽との距離を計算した。このときの仕事により、ハーレーはヨーロッパで高い評判を得て22歳で王立協会 に選出された。アイザック・ニュートン に惑星の軌道について尋ねたことがきっかけで、1687年にニュートンは自身の研究を再開し『自然哲学の数学的諸原理 』の執筆を始めた。ハーレーは書籍の執筆を監督し、出版費を賄った。 1691年にはサヴィル天文学教授 (英語版 ) として指名されなかったが、ニュートンによって王立造幣局 に職を得た。 彼自身の作品に虹や工学や気圧計に関する議論があり、カエサルのブリタンニア侵攻 の開催地を汐の満ち引きから計算した。またイギリス海軍 のために航海の調査を実行して、幾世紀の間の太陽、月、惑星の位置の表を完成させた。1721年、王室天文官 に選ばれた[ 19] 。
ブリス, ナサニエル ナサニエル・ブリス
1742–1764
Oxford, Pembroke ペンブローク・カレッジ (英語版 )
ペンブローク・カレッジ (英語版 ) [ 注釈 6]
ブリスは1736年にセント・エッベズ・チャーチ (英語版 ) のレクター (英語版 ) に任命された。ハーレーの後任を申し込んだ際は、王室天文官 のジェームズ・ブラッドリー とケンブリッジ大学 の天文学教授 (英語版 ) ロバート・スミス (英語版 ) などの支援者がいた。教授職に就くと、彼の公式の住居近くのオックスフォード・シティ・ウォール (英語版 ) の一部に彼の装置を取り付けて、街で4番目の観測施設 を建設した。ブリスはブラッドリーとシャーバーン城 (英語版 ) に観測所を持つジョージ・パーカー に天文学用の測定器を提供した。1762年、王室天文官をブラッドリーから継いだが、1764年に急逝した[ 20] 。
ジョセフ・ベッツ (英語版 )
1765–1766
Oxford, Univ ユニヴァーシティ・カレッジ (英語版 )
ニュー・カレッジ (英語版 )
ベッツは1763年にサヴィル天文学教授 (英語版 ) に就任を試みたが失敗し、代わりにトマス・ホンスビー (英語版 ) が選ばれた。投票の際の後援者には学長 (英語版 ) のジョージ・リー と首相のジョン・ステュアート 、国務大臣 のジョージ・モンタギュー=ダンク がいた。彼らへの感謝としてベッツは1764年4月1日の日食 のプリントを贈呈した[ 21] 。
ジョン・スミス (英語版 )
1766–1796
Oxford, Balliol ベリオール・カレッジ 及びセント・メアリー・ホール (英語版 )
ニュー・カレッジ (英語版 )
1744年からベリオールで学び、1748年に学士 、1751年に修士 、1753年に内科学学士 (英語版 ) を獲得した。セント・メアリー・ホールで医学博士 (英語版 ) を取得し、1784年にチェルトナム で医師になったが、アブラハム・ロバートソン (英語版 ) が代理を務めた[ 22] [ 23] 。スミスは中世の市壁の一部を壊し、教授職の公式住宅の正面に馬小屋と小さい家屋を建て、遺書に"かなり誇張した"条項で教授職後継者に寄贈した[ 16] 。
アブラハム・ロバートソン (英語版 )
1797–1810
Oxford, Christ クライスト・チャーチ
クライスト・チャーチ [ 注釈 7]
ロバートソンはオックスフォードで力学の夜間学校を運営したが失敗し、その後24歳でオックスフォード大学にて勉強を始めた。ジョン・スミスに支援され1784年にチェルナントムのスミスの医務の代理を務めた。講師としてよく知られており、生徒を奮起させた彼の明晰さと援助で著名である。1795年、円錐曲線 に関する作品(1792年の Sectionum conicarum libri septem )と"文学的な功績と科学の追求への勤勉さ"で王立協会フェロー に選出された[ 23] 。アルキメデス の作品を編集した物の出版の監督を行った。1797年スミスの後を継ぎ幾何学教授になり、1810年サヴィル天文学教授 (英語版 ) になった[ 23] [ 24] 。
スティーヴン・リゴー (英語版 )
1810–1827
Oxford, Exeter エクセター・カレッジ
[ 注釈 8]
リゴーの父はニュー天文台 (英語版 ) 所長でエクセター・カレッジにて初めて天文の記録を取り、学部学生の時にフェローに選出された。1805年頃からトマス・ホンスビー (英語版 ) が病床に伏したために代理でサヴィル天文学教授 (英語版 ) と実験哲学教授長 (英語版 ) に就いた。1810年にロバートソンがホンスビーの後任になるとリゴーは幾何学教授席に就任した。1814年には父を継いで祖父とニュー天文台の共同所長になった。同年に妻が没すると、リゴーは子供と仕事に専念した。彼は"彼の世代で屈指の天文学・数学史家"、"彼の個性と学術的誠真で有名"であると述べられている[ 7] 。
ベーデン・パウエル (英語版 )
1827–1860
Oxford, Oriel オリオル・カレッジ
[ 注釈 9]
パウエルはケントとロンドンの教区聖職者を務めていた際に、熱と光に関する分野で実験を実施した。自分自身で物理学における数学の進歩に追従することが難しいと悟り、また1830年に王立協会 に提出したいくつかの論文には大量の間違いが含まれていた。幾何学教授の職を引き受けたときに聖職者職を辞めて、科学組織・委員会の活発な会員になり多くの作品を出版した。オックスフォード運動 (イングランド国教会 内のトラクト主義者と呼ばれる集団による宗教運動)に反対し、奇跡の存在を否定してダーウィン の理論を指示した姿勢でも注目された。科学研究の立場の改善など大学内の改革を主張したが彼への反対が膨らみパウエルはオックスフォードを去ることとなった。1854年にロンドンに移り、科学と文学における主要人物らと交流した。息子の一人であるロバート・ベーデン=パウエル はスカウト運動 の創設者[ 25] 。
ヘンリー・スミス (英語版 )
1861–1883
Oxford, Balliol ベリオール・カレッジ
ベリオール・カレッジ 及びコーパス・クリスティ・カレッジ [ 注釈 10]
スミスの学部研究は天然痘 とマラリア の流行で中断されたが、病み上がりにパリで研究を続け古典学 (英語版 ) と数学で一等の学位を獲得した。ベリオール・カレッジでフェローとなって数学の講師を務めた。またカレッジの研究所を監督し、科学を教えた。他の大学と共同で数学の講義を行えるように手配したシステムは、他大学や他教科で採用されるようになり、ある大学では大学の根幹的な講義体制に組み込まれたこともあった。 1874年からオックスフォード大学自然歴史博物館 (英語版 ) 館長を務めた。大学の委員会や科学教育・大学部門の王立委員会 に深く関与し、オックスフォード大学における科学と数学の地位を訴えた。数学においては主に幾何学、楕円函数 論、数論 を専攻した[ 26] 。
シルヴェスター, ジェームズ ジェームズ・シルヴェスター
1883–1894
London ロンドン大学 とケンブリッジ大学 セント・ジョンズ・カレッジ (英語版 )
ニュー・カレッジ (英語版 )
14歳でロンドン大学に入学したが、文献によれば、他の生徒への暴行を理由に退学した。ケンブリッジ大学ではセカンドラングラー (英語版 ) (ケンブリッジ大学のある試験において次席となったものに与えられる称号)になる資格を得たがユダヤ人であることを理由に受賞できず学位とフェローシップも受けなかった。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン で自然哲学の教授を3年務め、1841年バージニア大学 に移動し1842年に大学当局と揉めて辞職した。イングランドに帰国して一時期、アクチュアリー として働いた。1855年に王立陸軍士官学校 の教授に抜擢されるまでの余暇には消去理論 (英語版 ) を研究した。55歳の定年退職の後、詩を書いたりクラブ (英語版 ) に参加したりして過ごし、1876年にアメリカに戻って新設されたジョンズ・ホプキンズ大学 の数学教授に就いた。不変式論 (英語版 ) と行列 理論の研究意欲が湧き、自身の算出した結果を創刊した雑誌 American Journal of Mathematics (英語版 ) に掲載した。この間にコプリ・メダル を授与された。ホームシックを患い(オックスフォードがユダヤ人に対する学問の基準を下げたため)シルヴェスターはサヴィル教授職に応募し、任命を受ける前にホプキンズ大学から去った。適切な講義題目が見つからず、1885年に就任講義を遅らせた。病気に罹り、1892年に副教授が配属され1894年に辞職した。1901年に彼を称えてシルヴェスター・メダル が設立された[ 27] 。
ウィリアム・エッソン (英語版 )
1897–1916
Oxford, St John セント・ジョンズ・カレッジ
ニュー・カレッジ (英語版 )
1860年からマートン・カレッジ のフェローであるエッソンは1894年から1897年にニューカレッジのフェローになるまで副教授として活動していた[ 28] 。オーガスタス・ハーコート (英語版 ) との化学変化の割合に関する共著作品(『フィロソフィカル・トランザクションズ 』の3つの論文で30年以上に渡り発表)によって1869年に王立協会フェロー 選出。ある死亡記事には、彼の残りの論文は"莫大でもなく偉大な重要性もない"と書かれている[ 29] 。『タイムズ 』誌の死亡記事では"高等数学とその自然科学とのつながりに専念し大きな成功を収めた"、"数学の科学において指折りのベテラン"と述べられている[ 30] 。
ハーディ, ゴッドフレイ・ハロルド ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ
1919–1931
Cambridge, Trinity ケンブリッジ大学 トリニティ・カレッジ
ニュー・カレッジ (英語版 )
ハーディは1900年にトリニティ・カレッジで成績優秀者に選ばれ、同年に論文を執筆した(生涯で発表した論文は350以上に上る)。1911年からリトルウッド と協力した様子は"数学史の中でもっとも有名"であると述べられている[ 31] 。以降、素数 や解析学 、解析的整数論 、ウェアリングの問題 の解決など多分野で100人以上の人物と共著論文を書いた。インドの天才数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャン との協力も著名な出来事となっている。同僚のバートランド・ラッセル とは友人で、第一次世界大戦でラッセルが平和主義的な立場を取ったことを理由にケンブリッジ大学に解任されたことを悔やんでいる。オックスフォード大学で幸せな生活を送ったが1931年にサッドリー純粋数学教授 (英語版 ) 職を引き受けたことを理由にケンブリッジへ帰った。集団遺伝学 への貢献ではハーディー・ワインベルクの法則 で知られる。これについて、ハーディの伝記を執筆したケンブリッジ大学の数学者ベラ・バラバシ は、ハーディが自身のしたことを"良くも悪くも"、"世界が快適になることに全くの影響"を与えなかったと評価した数少ない例外の一つとして記録している[ 31] 。
エドワード・ティッチマーシュ (英語版 )
1931–1963
Oxford, Balliol ベリオール・カレッジ
ニュー・カレッジ (英語版 )
ティッチマーシュはハーディのもとで学び1923年にユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン で教職を得る前はハーディの秘書として働いた。1924年から1930年まではモードリン・カレッジ の非常勤フェローだった。1929年から1931年にハーディの後任となるまではリヴァプール大学 で純粋数学の教授をしていた。ティッチマーシュは(ハーディと違って)応募時に幾何学を講義することをいとわれず、彼のためにオックスフォードの教授職に関するある規定が削除された。彼はオックスフォード大学の数学の重要人物で広い分野で論文等は発表し、1955年に王立協会 からシルヴェスター・メダル を授与された。講義には消極的であった[ 13] 。
アティヤ, マイケル マイケル・アティヤ
1963–1969
Cambridge, Trinity ケンブリッジ大学 トリニティ・カレッジ
ニュー・カレッジ (英語版 )
アティヤはケンブリッジ大学とプリンストン大学 で教鞭を執り研究を行った。1961年にセント・キャサリンズ・カレッジ (英語版 ) のフェローとしてオックスフォード大学に移り、サヴィル幾何学教授を任される前は準教授 に就いていた。1969年にプリンストン大学に戻ったが1973年に王立協会研究教授として再びオックスフォードに帰った。 1990年から1997年まではケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ部局長を務め、2005年から2008年まではエディンバラ王立協会 (英語版 ) 会長に就任していた。 1983年ナイトを叙せられて、1992年にはメリット勲章 受章者となった。K理論 と、(理論物理学 分野で主に使われる)アティヤ=シンガーの指数定理 の功績で1966年にフィールズ賞 、1988年にコプリ・メダル を獲得した[ 32] [ 33] 。
イオアン・ジェームズ (英語版 )
1970–1995
Oxford, Queens クイーンズ・カレッジ (英語版 )
ニュー・カレッジ (英語版 )
オックスフォード大学で修学した後、ジェームズはプリンストン大学 とカリフォルニア大学バークレー校 で研究した。ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジ の研究フェローとしてイギリスに帰国した。1957年ジェームズはオックスフォード大学の純粋数学の準教授となり、1959年からサヴィル幾何学教授となる1970年までセント・ジョンズ・カレッジ の研究フェローとして働いた。1995年に引退し名誉教授となった。主な分野は位相幾何学 、特にホモトピー で、位相幾何学の歴史を書いたり位相幾何学に関する雑誌の編集も行っていた[ 34] 。
テイラー, リチャード リチャード・テイラー
1995–1996
Cambridge, Clare ケンブリッジ大学 クレア・カレッジ
ニュー・カレッジ (英語版 )
テイラーはケンブリッジ大学とプリンストン大学 で学問を修めた。1988年クレア・カレッジのフェローになり、1995年オックスフォードに移動した。しかしその2年後にハーバード大学 に職を引き受けた[ 35] 。主にラングランズ・プログラム を研究し、佐藤・テイト予想 を解決し、アンドリュー・ワイルズ と協力してフェルマーの最終定理 の解決に寄与した[ 36] 。2007年(ロバート・ラングランズ とともに)"素数と対称性を結び付ける数学の壮大な統一ヴィジョンの先駆と発展"に対して、ショウ賞 を受賞した[ 37] 。
ニージェル・ヒッチン (英語版 )
1997–2016
Oxford, Jesus ジーザス・カレッジ 及びウォルフソン・カレッジ (英語版 )
ニュー・カレッジ (英語版 )
ヒッチンはプリンストン大学 とニューヨーク大学 で教鞭を執り、更なる研究のためにをウォルフソン・カレッジに帰った。セント・キャサリンズ・カレッジ (英語版 ) フェロー・講師を経てウォーリック大学 の数学教授やローズ・ボール数学教授 (英語版 ) (1994年)を歴任した。研究分野は微分幾何学 、代数幾何学 、超ケーラー多様体 、シンプレクティック多様体 [ 38] 。
フランシス・カーワン (英語版 )
2017年 - 現在
Cambridge, Clare ケンブリッジ大学 クレア・カレッジ 及びベリオール・カレッジ
ニュー・カレッジ (英語版 )
カーワンは1983年から1985年までハーバード大学 のジュニア・フェローシップ、1983年から1986年まではモードリン・カレッジ のフェローシップを保持していた。その後ベリオール・カレッジ のフェローとなった。研究分野には代数幾何学におけるモジュライ空間 や幾何不変理論(GIT)、GITとシンプレクティック幾何学 におけるモーメント写像との関係が含まれる。代数的・位相幾何学的性質を研究し、幾何学的対象の構造を理解する事を目指している[ 39] 。
脚注
^ 1620年の150ポンドは、2013年(2015年1月現在で最新の情報を得られた年)の小売物価指数 を用いてインフレーションに合わせて換算した場合、約27290ポンドに相当する。国内総生産 を指標として換算した場合、約5345000ポンドに相当する[ 10] 。
^ 記載がない場合はオックスフォード大学出身。
^ ブリッグスはマートンに住み、サヴィル幾何学教授職を通じて大学に協力したが、大学のフェローではなかった[ 5] [ 17] 。
^ ウォリスはエクセター・カレッジを通じて大学の一員として協力したが、カレッジのフェローではなかった[ 6] [ 17] 。
^ ハーレーはクイーンズ・カレッジのメンバーだが、フェローシップには選出されていない[ 17] [ 19] 。
^ ブリスはペンブローク・カレッジのメンバーであったが、フェローではなかった[ 17] [ 20] 。
^ ロバートソンは、ノーサンプトンの教区(代理)牧師に指名される以前にはクライスト・チャーチのチャプレン を務めていたが、オックスフォードに居住し続け、またカレッジのフェローではなかった[ 23] 。
^ リゴーは1810年までエクセター・カレッジのフェローで、その後にカレッジで職を受け持った記録は存在しない[ 7] [ 17] 。
^ パウエルはカレッジで職を得た記録はない[ 17] [ 25] 。
^ スミスは財政上の理由で1871年までベリオール・カレッジにて数学の講師を続けていた。その後コーパス・クリスティ・カレッジで閑職のフェローシップを任命され、同時にベリオール・カレッジの名誉フェローに選出された[ 26] 。
出典
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関連項目