フランク・ラゴルス
フランク・ラゴルス(Franck Lagorce、1968年9月1日 - )は、フランスの元レーシングドライバー。1992年のフランスF3選手権チャンピオン。 経歴カートレーシングカートでキャリアをスタートし、1981年のフランスカート選手権チャンピオンを獲得する。 四輪デビュー1988年、19歳でフォーミュラ・フォードに乗り、ミッション付きの四輪にステップアップする。エリック・エラリー、クリストフ・ブシュー、ジャン=クリストフ・ブイヨンはFF1600からの同期だった。初年度にランキング5位になり、1989年に同4位へ上昇。1990年からはフランス・フォーミュラ・ルノーに参戦し、1勝を挙げランキング2位を獲得。なお、チャンピオン争いで戦ったのはエマニュエル・コラールだった。 フォーミュラ31991年より、ブイヨンと共にフランス・フォーミュラ3選手権へとカテゴリーを上げる。ここでオリビエ・パニス、ブシュー、エリック・チェリと戦い、1勝を挙げランキング4位を獲得。1992年にエマニュエル・クレリコ、ブイヨンとタイトル争いをし、シーズン3勝を挙げてシリーズチャンピオンを獲得する。同年はソノートチームよりポルシェ・カレラカップにも参戦した。 フォーミュラ3000F3タイトル獲得により、元F1ドライバーのルネ・アルヌーらが首脳を務めるF3000での強豪DAMSにオリビエ・パニスのパートナーとして招かれ、1993年シーズンより国際F3000にステップアップ。中盤パニスが3連勝しタイトル争いをリードすると、ラゴルスも終盤にF3000初優勝を含む2連勝でライバルであるペドロ・ラミーやデビッド・クルサード、ジル・ド・フェランに高ポイント獲得を許さずDAMSのタイトル争いに貢献。パニスのシリーズチャンピオン獲得をサポートするとともに、自身もランキング4位に入った。この結果パニスはF1リジェのシートを獲得し、ラゴルスも同じくリジェでテスト走行の機会が与えられた。 1994年、自らの国際F3000タイトル獲得を目指し、アポマトクスへと移籍。F3時代からのライバルであるクレリコとコンビを組んだ。ラゴルスの後任としてDAMS入りしたジャン=クリストフ・ブイヨンとシーズンを通してタイトル争いをし、ラゴルスは第5戦までに2勝し全戦ポイントを獲得していたが、ブイヨンが終盤3戦連続の優勝で逆転しチャンピオンを獲得。ラゴルスは2ポイント及ばずランキング2位となった[1]。 フォーミュラ1F3000でタイトル争いをしていた1994年9月、リジェの所有者となっていたフラビオ・ブリアトーレとトム・ウォーキンショーを中心に、チェーザレ・フィオリオをリジェのチーム監督として招聘するなどチーム内部が揺れ動いていたが、これらはリジェのルノーV10エンジン使用権をベネトンへと移行させるためのものだった[2]。その一環としてリジェのドライバー人事も流動的になり、開幕から9月末までリジェの25号車をドライブしていたのはエリック・ベルナールだったが、ベネトンがチーム・ロータスのエースジョニー・ハーバートの獲得を画策し、前段階として極度の資金難となっていたロータスからブリアトーレがハーバートの契約を買い取り、代わりにベルナールをロータスへと放出。ハーバートは第14戦ヨーロッパGPの1戦のみリジェの25号車で走り、ベネトンへと加入した[3]。空席となったリジェの25号車にはテストドライバーとしてリジェと契約していたラゴルスが第15戦日本GPから乗ることになり、第16戦(最終戦)オーストラリアGPまでの2戦、F1グランプリに参戦。台風により豪雨となった日本GPでは、他の多くのマシンと同じく11周目に雨に足を取られスピンを喫しリタイアとなったが、予選では同じマシンに乗るパニスの19位に続き、直後の20位タイムを出していた。オーストラリアでは予選20位グリッドから2時間近いレースを走り抜き、11位で完走した[1]。 翌1995年までリジェのテストドライバーを務め、1996年からはイタリアのフォルティでテストドライバーを務めた。 スポーツカーレース1997年からはスポーツカー・レースを主戦場とした。ル・マン24時間レースでは1996年に総合2位を獲得し、2003年まで10回の参戦歴を持つ。 レース戦績フランス・フォーミュラ3選手権
マカオグランプリF3
国際F3000選手権
F1(key)
ル・マン24時間レース
脚注外部リンク
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