明治大学体育会柔道部
明治大学体育会柔道部(めいじだいがくたいいくかいじゅうどうぶ、英: Meiji University Judo Club)は、東京都目黒区にある明治大学体育会所属の柔道部である。東京学生柔道連盟加盟。 概要1905年創部[1]。主要大会で多くの好成績を収め、オリンピック選手や協会指導者などを輩出した学生柔道界の名門クラブである。 歴史![]() 1924年に開催された日本初の大学対抗柔道大会で優勝して以降、同大会での度重なる優勝や、天覧試合、東西対抗戦などの各大会で多くの好成績を収めた。 1931年と1936年にはアメリカ遠征を敢行。外務省の文化使節として、部関係者による海外諸国への訪問指導など、民間大使として活発な国際交流を行い、柔道の国際的な普及に大きな貢献を果たしてきた。 ![]() 1930年の駿河台校舎の新道場落成記念演武大会には東久邇宮稔彦王が臨席。横綱若乃花が関取衆を連れ、明大相撲部に稽古をつけに来た際には、柔道衣に着替えて柔道部員にまじり、度々稽古をしたエピソードなども残されている。 太平洋戦争により国内の柔道大会が全て中止となり活動停止を余儀なくされたが、1945年の終戦後、学生たちはGHQ(米軍大佐)に直接交渉を繰り返すなど学生柔道復活の中心的な役割を担った。 1951年、戦後初の学生選手権大会で主将が優勝して以降、明大選手が4連覇を遂げ、1952年に開始した第一回全日本学生柔道優勝大会で団体優勝し、以降3連覇を果たした。その後、1961年から4連覇、1971年から2連覇を遂げ、平成時代にも6度の団体優勝を果たした。 オリンピックや世界柔道選手権大会、グランドスラム、グランプリといった主要な国際大会で多くの選手がメダルに輝いている他、全日本柔道連盟会長、講道館館長などの協会指導者が誕生している。 国際交流![]() 1931(昭和6)年と1936(昭和11)年には明柔会(柔道部OB会)の支援を得てアメリカ遠征を敢行。1942(昭和17)年に太平洋戦争によって大会は全て中止となり、柔道部も活動停止を余儀なくされ、終戦後も学校柔道の活動は禁止されGHQ(占領軍総司令部)の厳しい監視下にあったが、学生たちはGHQに直接陳情を繰り返し、学校柔道復活の趣意書を添え提出するなど学生柔道復活の中心的な役割を担った。 ![]() 柔道強豪国に成長したフランスのナショナルコーチなどを始め、部関係者23人が16ヵ国で指導に当たるなど、多くの指導者を海外に派遣し柔道の国際的な普及に努めてきた歴史をもち[2]、外務省の文化使節としても、1974年に中近東(イラン、イラク、アフガニスタン、クエート、サウジアラビア、エジプト、スーダン)、1978年にカナダ(日本移民100周年記念事業)を訪問指導するなど、海外で民間大使として果たしてきた役割は大きい。 また、1962年全米選手権グランドチャンピオンを獲得したベン・ナイトホース・キャンベル(後のアメリカ上院議員)は明大道場で4年間修行し、後に明大から名誉博士号を贈られている。 エピソード![]()
主な出身者![]() ![]() ![]() ![]()
関連項目脚注外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia