明治大学應援團明治大学応援団(めいじだいがくおうえんだん、英: Meiji University Cheerleading Club)は、明治大学体育会所属の応援団である。東京六大学応援団連盟加盟。 概要1922年(大正11年)発足[1]。国内に幅広く普及し現在に至るまでの応援形式の基礎とされる、紋付袴姿での「三三七拍子」や、肩より上に両手を広げて柏手するリーダーテクニックなどはここから誕生したものであり、同じく初めてブラスバンドや、バトントワラーズ(現在のバトン・チアリーディング部)を導入するなど、先駆的な姿勢により構築されたその応援スタイルは他校に幅広く普及していくこととなった。 現在は、吹奏楽部、バトン・チアリーディング部(JESTERS)、及びその下部組織に当たる応援指導班の3グループによる構成で、約150名のメンバーの8割程度が女性であり、2017年(平成29年)には東京六大学史上初の女性応援団長が、2022年(令和4年)には同じく東京六大学史上初の女性リーダー長が誕生、更にOB会に女性議長が就任するなど、女性リーダー陣が中心となって組織運営が行われている。 2025年のNHK『みんなのうた~ひろがれ!いろとりどり』への、吹奏楽部、バトン・チアリーディング部の出演などを始め、スポーツ応援以外の活動も多いのが特徴である[2]。 歴史應援團の誕生スポーツにおける応援は、1903年(明治36年)、旧制一高(後身は東大駒場など)が横浜外人クラブと横浜外人居留地運動場で行われた野球試合に、当時開通後間も無い汽車に乗り込んで横浜へ行き応援したのに始まるとする説や、1890年(明治23年)春、東京・隅田川で挙行された一高対東京高等商業学校(現・一橋大学)のボートレースにおける応援が始まりとする説などがある。 1921年(大正10年)、第11回エイトランディングボートレース開催の際に応援団が組織され、1922年(大正11年)に「愛と正義を標榜して、学内の推進力になろう」を目的として正式に「明治大学應援團」として発足した。紋付袴姿での「三三七拍子」は、元来は相撲部出身で初代團長となった相馬基が創作した応援形式で、肩より上に両手を広げて柏手するリーダーテクニックも、相撲の不知火型を相馬が取り入れたのが原型とされる[3]。 このように、明治の応援様式は他校の応援にも広く導入されることとなる。設立以来、東京六大学野球や箱根駅伝など学生スポーツの応援の他、関東大震災の際の母校復興運動などの活動を行う。 しかし、その道のりは決して平坦ではなかった。1931年(昭和6年)には八十川ボーク事件の責任を問われて幹部総辞職、学友会からの公認取消の処分を受けた(翌年再公認)[4]。さらに1938年(昭和13年)春の早明戦でも乱闘騒ぎがあり、軍部からも睨まれた応援団は解散し、小牧正道(のちの総長兼学長)の下で応援指導部として再出発する。すでに1933年(昭和8年)頃から専門部生と学部生との間で主導権争いがあり、翌年には和泉の予科応援団が独立するなど、組織の体を成さなくなっていた[5]。 その一方で水原リンゴ事件の際には法政・立教とともに早慶両応援団の調停役を買って出たりもしている[6]。 やがて太平洋戦争の激化で大学の教育活動が中断されたため応援指導部は自然消滅する。 戦後の復興![]() 終戦後の1946年(昭和21年)、敗戦による無気力な雰囲気が漂うなか、学徒動員から復学した八巻恭介の呼びかけで応援団が再建され、5月16日に記念館で結成大会を行った[7]。 1949年には吹奏楽部を設置し、神宮球場での東京六大学野球の応援に国内初めてブラスバンドを導入する。また、「嵐の拍手」と呼ばれる独特の力強い応援形式も作り上げられていく[8]。 その後、不明瞭な会計を巡り、数年間に渡って再び組織が分裂する[9]。 その派閥解消後の1963年、外国の応援形式の研究を経て、六大学で初めてバトントワラーズ(現在のバトン・チアリーディング部)が設立された[10]。こうして、リーダー部、吹奏楽部、バトン・チアリーディング部の3部体制が確立し、伝統のうえに新しい応援テクニックを率先して導入していった。 現在の活動状況2008年1月に、明治大学應援團は吹奏楽部とバトン・チアリーディング部の2部体制となり[11]、更に2011年4月、應援團は体育会に編入され大学の課外教育の一環に組み込まれた。同年12月11日、明治大学應援團創団90周年記念式典にあわせて「第57回 紫紺の集い」が明治大学駿河台キャンパスのアカデミーホールで開かれた[12]。その際、團長より「原点回帰」が誓われるとともに、大学側から旧リーダー部に代わって応援指導班の設置が公認される旨、発表があった。こうして新設された応援指導班は、吹奏楽部とチアリーディング部の下部組織として、2012年4月から活動を開始している。当初は2~3年後には部へと昇格し、2部1班から3部体制への復帰を果たす予定とされた。 2012年1月の新幹部体制発足にあわせ、正規の団体名は明治大学應援團から明治大学応援団へと新字に改められている[13]。英雄的でもなければ、破れ袴に高下駄で大道を武者振り歩いたヒゲの王者でもない時代の応援団として、現体制に至っている。2022年には明治大学アカデミーホールにて、明治大学応援団創団100周年記念祝賀会が開催された。 明治大学応援団から発祥した主な応援様式三三七拍子→詳細は「三三七拍子」を参照
1924年(大正13年)に初代團長の相馬基が創作した応援形式で[3]、後に全国的に広く普及し、日本の代表的な応援手法として全国各地の学校運動会からプロ野球、高校野球、オリンピック応援などに幅広く使用されている。また、学校行事や一般的な激励、祝勝の席、ビジネスの場における商売繁盛祈念などでの縁起担ぎ的な用法や、更に東京ディズニーリゾートのディズニー・イースターなどアミューズメント施設のアトラクションなどにも使用されるなど、利用シーンは多岐に亘り文化的影響は広範に及ぶ。 リーダーテクニック肩より上に両手を広げて柏手するリーダーテクニックは初代團長の相馬基が創作した応援形式であり、現在に至るまで国内各応援団の基本作法として継承されている。元来は相撲部出身の相馬が、相撲の不知火型の奥義から古式ゆかしい美と豪放の精神を基礎とした種々の所作を採り入れたのが原型とされる[3]。 嵐の拍手1949年(昭和24年)創始。「二呼一拍」が基本形となっている。随所に日本の伝統文化、伝統芸能等の様式が採り入れられており、二拍子に入る所作は歌舞伎の「見栄]からとられ、締めの動作「四股」の型は相撲の「不知火型」からとられた型とされる。 ブラスバンド1949年(昭和24年)、日本の応援団として初めてブラスバンドを導入。戦後の娯楽の乏しい時代、六大学野球の人気は高く、1946年秋から六大学野球リーグ戦の優勝校に天皇杯が授与されることとなった。旧来のリーダー部の徒手空拳の応援に鳴り物を入れ「学園内の士気の鼓舞とスポーツ応援の為」に1949年に、日本の大学応援団史上初めて吹奏楽部を設置。警視庁音楽隊を指導役に招聘し、同年11月に挙行された明治大学創立70周年記念式典では、明治大学記念館にて昭和天皇の前で「君が代」及び、校歌「白雲なびく」の演奏を行った。 バトントワラー1963年(昭和38年)、日本の応援団として初めてバトントワラーを導入。現在のバトン・チアリーディング部に継承されている。土屋炎伽(ミス・ジャパングランプリ、女優・土屋太鳳の姉)、HONOKA(アルバルク東京チアリーダー)などがチアリーダーを務めてきた。 「狙いうち」(チャンステーマ)「狙いうち」という曲名がボールをヒットする事を想起させ、且つ作詞者の阿久悠が明大OBであることなどから、明大応援団が野球試合に於けるチャンステーマとして初めて採用し、以降、プロ野球、高校野球などの各チームの応援団が追随して利用し始め、野球試合の定番の応援テーマとして全国に広く普及することとなった。 作曲者の都倉俊一は文化庁長官就任後のインタビューで、「(同じ作詞作曲コンビが手掛けた「サウスポー」も含めると)地方大会から数えたところ、2800校のうち両曲をやってなかったのは20校だけだった」と阿久が明かしたというエピソードを披露している[14]。尚、明大応援団の使用開始後全国に広く普及したため、野球応援の定番テーマとして確立しているイメージがあるが、版権側から応援歌としての利用の公認を得ているのは現在に至るまで最初の明大応援団のみとされ、都倉は「高野連に表彰されてもいいと思ってる」とユーモア交じりにコメントしている[14]。 「ハイパーユニオン」明治大学応援団で創作されたチャンステーマ。プロ野球では広島東洋カープ、社会人野球ではSUBARU硬式野球部、三菱重工West硬式野球部、JR四国硬式野球部などを中心に使用されている。 「ノックアウトマーチ」明治大学応援団で創作されたチャンステーマ。主に高校野球などで多くのチームが使用。 「神風」明治大学応援団で創作されたチャンステーマ。高校野球でも多くの学校が使う人気曲となっている。 出陣式例年、就職活動シーズンの開始時期に内定獲得の士気を高めることを目的として開催され、就活シーズンの幕開けを告げる風物詩として、各種マスメディアに取り上げられていた名物行事である[15][16]。大学通信の「就職に力を入れている大学ランキング」で15年連続1位にランキングされるなど、「就職の明治」を象徴する恒例行事のひとつであり、アカデミーホールで開催され、明大応援団が就活生にエールを送り出陣の儀を執り行った。 校歌・応援歌![]()
出身者
メディア
関連事項
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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