谷桃子 (バレエダンサー)
谷 桃子(たに ももこ、1921年1月11日 - 2015年4月26日)は、日本のバレリーナ、振付家である[3][4][5][6][7]。一般財団法人谷桃子バレエ団総監督[4]。本名は上田 桃子(うえだ ももこ)[3][4][8]。日本バレエ協会第3代会長[3][9]、全日本舞踊連合理事等を歴任した。 経歴1921年(大正10年)1月11日、兵庫県姫路市に生まれる[3][4][6][7]。7歳まで同県西宮市で育つ[6]。父は外国の商社勤務で、母は父以上にモダンな感覚の女性[10]。まだ3歳だった1924年(大正13年)、来日して神戸市の聚楽館で公演が行われた『瀕死の白鳥』でのアンナ・パブロワを観劇している[6][注釈 1]。白鳥の死を心配して「あー」と指さし、母は幼いのに理解できていると思った。これがきっかけで小学生で上京している時、引っ込み思案になっていたので、当時周囲には同様の子はいないがバレエを習わせた[11]。 旧制小学校生の1929年(昭和4年)、満8歳のときに石井漠舞踊団に入団、石井漠、その義妹の石井小浪(1905年 - 1978年[12])にモダンダンスで師事する[3]。1928年9月30日石井小浪第1回舞踊公演(日本青年館)に出演し初舞台[13]。文化学院を卒業後、第二次世界大戦初期、満22歳になった1943年(昭和18年)に日劇ダンシングチームに入団、益田隆(1910年 - 1996年)、伊藤道郎に師事し、現代舞踊のダンサーとして活動する[3][8]。 1946年(昭和21年)谷の相談役相手の評論家・中根宏の紹介で小牧正英に師事してクラシックバレエに転向[14]。小牧も参加した第1期東京バレエ団に参加、同年10月14日 - 同29日、同団第2回公演として帝国劇場で行われた「藝術祭バレエ公演」のうち、草刈義人(1909年 - 2004年)原案・台本による『パガニーニの幻想』(振付小牧正英)に「少女」役で出演、これがバレエデビュー第1作に当たる[3][5]。日劇を辞めて1947年2月10日から23日同団帝国劇場で『バラの精』(振付補正、小牧正英)「少女」出演(東宝公演)[15]。1947年(昭和22年)10月4日 - 25日東京バレエ団第3回公演(帝国劇場)「コッペリア」(全幕日本初演)で主演、プリンシパルとして「スワルニダ」役を演じて「フランツ」役の小牧を相手役とした[13]。1948年(昭和23年)1月9日 - 同13日、東京バレエ団関西公演で大阪朝日会館で行った「グランドバレエ コッペリア 靑い眼の少女」の公演で、同配役で「スワルニダ」。[5]。1948年11月5日 - 15日東京バレエ団第4回公演(有楽座)『白鳥の湖』オデット役をダイジェスト版で初演[13]。同団は現在の東京バレエ団とは直接の関係はなく、5年の活動で1950年2月終幕で解散した。 谷桃子バレエ団、結成1948年バレエ団結成準備団体として前身「東京バレエ研究会」を大滝愛子、長谷川訓子、内田道生、有馬五郎、田中好道らと発会する[16]。1949年(昭和24年)に谷桃子バレエ団を組織する。翌1950年(昭和25年)2月1日 - 同14日、小牧正英バレエ団・服部島田バレエ団との合同公演を有楽座で開き、『白鳥の湖』、『コッペリア』を、小牧正英バレエ団のプリマ・広瀬佐紀子(1927年 - )や大滝愛子とともに交代で主演する[5]。同年映画『赤い靴』がヒットし全国的なバレエ・ブームで教室も多く開かれる中、主演の英国バレリーナモイラ・シアラーから、谷が日本を代表するバレリーナだとして、映画と同色の赤いトウシューズを贈られて話題に。谷のブロマイドが売れ、地方公演が相次いだ[8]。1951年(昭和26年)11月、瀧口修造らの実験工房の第1回発表会において、『生きる悦び』を益田隆とともに上演した[17]。1954年(昭和29年)4月7日から1955年2月22日までパリに留学[13]。『白鳥の湖』オデット役を留学帰国記念として1955年谷桃子バレエ団として古典バレエの全幕の初演で、深みを増した演技と舞台で、翌年・全国巡演[18]。生涯ほぼ1000回演じて、日本のバレエ界に一時代を画した[8]。その後、1956年(昭和31年)『ジゼル』で舞踊ペンクラブ賞、1962年(昭和37年)『リゼット』で芸術祭奨励賞を受賞した[3]。 1974年(昭和49年)、満53歳のときに、腰の軟骨が消耗し、バレエの全幕は無理だと、ドクターストップ[1]。『ジゼル』を最後に現役ダンサーを引退する。後には同バレエ団で芸術監督、振付家として、古典のみならず創作バレエも作り、後身を指導する[3]。2003年(平成15年)、日本バレエ協会第3代会長に就任、2006年(平成18年)に退任した[3]。子弟には、有馬五郎(1922年 - 1993年)[19][注釈 2]。門下には、松岡伶子[6]、石井清子、高部尚子、黒田育世、尾本安代、伊藤範子らがいる[7]。 2015年(平成27年)4月26日、敗血症のため神奈川県川崎市の病院で死去した[3][4][7]。満94歳没。同年5月3日に青山葬儀所で行われた葬儀の喪主は、妹の伊達ナナが務めた[4][7]。ピアニスト・東京芸術大学教授の伊達純(1920年 - 2000年)は義弟に当たる[20]。同バレエ団は、赤城圭が継承して団長に就任し、芸術監督は齊藤拓が務めた[4]。 2017年5月、2011年1月から副団長を務める髙部尚子が代表を兼任する芸術監督に就任。 年譜
受賞映画
テレビモデルとなった絵画脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク
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