豊島岡女子学園中学校・高等学校(としまがおかじょしがくえんちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、東京都豊島区東池袋に所在し、中高一貫教育を提供する私立女子中学校・高等学校である。
高等学校において、かつては中学校から入学した内部進学の生徒と高等学校から入学した外部進学の生徒との間で、第3学年で混合してクラスを編成する併設混合型中高一貫校であったが[1]、高校の生徒募集は2021年度で終了し、2022年度から完全中高一貫校となった。
概要
1892年5月1日、河村ツネと2人の娘が東京府東京市牛込区下宮比町に東京女子裁縫専門学校[2]を設立する。1898年に校舎を牛込区新小川町に移転し、1904年に東京家政女学校と改称する。1924年に牛込区弁天町で牛込高等女学校を開校する。東京大空襲で牛込の校舎が全焼し、1947年に現在地へ移転し、豊島岡女子学園と校名変更する。
日本経済新聞STOCKリーグ部門賞(2005年)受賞[3][4]やコーラス部の全日本合唱コンクールやNHK全国学校音楽コンクールにおける全国大会出場などの実績がある。
試験のとき以外は毎朝5分間の「運針」の時間がある。
沿革
戦前
戦後
- 1947年(昭和22年)4月 - 日出町に女子中学校を設置[9]。
- 1948年(昭和23年)
- 3月 - 日出町に女子高校を設置[9]。
- 10月 - 校名を豊島岡女子学園中学校・高等学校に改称[9]。
文化勲章授与式、前列中央が二木謙三[13]
教育
教育方針
第四代校長・二木謙三が教育方針として、三項目を示した[5]。
象徴
校章
大正時代の初めに作られ、創立に関わる人々の紋章である柏と梅に鳩をあしらっている。柏は邪気を払う神木、梅は好文木と称され、鳩は八幡神の使いで、今は平和のシンボルとして親しまれている。
制服
夏冬ともに同じ基本デザインの伝統的なセーラー服で、中高共通である。上着は夏が白色、冬が紺色である。セーラーカラーと袖口に白線が3本配され、スカートは紺色の前ひだである。本校ではネクタイと称する胸元のリボンの形が特徴的である。これは校章の「鳩」をかたどったもので、上級生が新入生に結び方を伝える伝統がある[20]。
カリキュラム
5教科(国語・社会・数学・理科・英語)に増加時間を確保し、特に英語・数学の授業時間数を多くしている。先取りした学習を行い、中学3年生の2学期に高校分野に進む。小テストを小刻みに実施し、習熟度を確認しながら基礎力を定着させている。基礎学力の充実だけでなく、思考力、表現力を養っている。
礼法・マナーは、社会に出て必須であり、場にふさわしいマナーを身につけた品位ある女性に成長して欲しいとの願いから、小笠原流の礼法・マナーに関する講義と、和室と洋室での立ち振舞いの指導を行っている。
学校行事
主な年間行事
- 4月 - 入学式、1学期始業式・オリエンテーション、クラブ紹介、入間体育、総合学習(中学)、遠足(高1)
- 5月 - 創立記念日、授業参観日(中学、高1)、中間考査
- 6月 - 進学懇談会、修学旅行(高2、九州・中国地方)、高校立会演説会、個人面談
- 7月 - 期末考査、総合の時間、豊島岡1日体験、1学期終業式、林間学校(高1、中1、小諸林間学校)、海外研修(中1、高1・2、希望者)、夏期講習(中3、高1・2・3、希望者)
- 8月 - 林間学校(中1、小諸林間学校)、夏期講習(中3、高1・2・3、希望者)、異文化体験研修(中2、希望者)、エンパワーメントプログラム(高1・2、希望者)
- 9月 - 2学期始業式、避難訓練、全校運針記録会、豊島岡生による学校紹介、入間体育、修学旅行(中3、京都奈良)、宿泊研修(中2、東北)
- 10月 - 運動会(入間総合グラウンド)、中間考査
- 11月 - 桃李祭(文化祭)、中学立会演説会、個人面談
- 12月 - 期末考査、2学期終業式
- 1月 - 3学期始業式、英語弁論大会(中学)、SSH生徒研究発表会(高1)
- 2月 - 英語ディベート大会(高1)、合唱コンクール(中学、東京芸術劇場)
- 3月 - 学年末考査、総合的な学習(中1・2、校外学習)、Academic Day、SSH生徒研究発表会、3学期終業式、卒業式、ボストン短期研修(高1・2、希望者)
文化祭
『桃李祭』といい、毎年文化の日前後に行われる。これは「桃李(とうり)言(い)わざれども下(した)自(おの)ずから蹊(みち)を成(な)す」『史記・李将軍・賛』(桃やスモモは何も言わないが、実が美味しいので人が集まってきてその下に自然と道が出来るの意)の故事成語による。来場者は毎年1万数千人を誇る。
部活動
部活は全員参加となっている。
文化系部
文芸部、政経部、地歴部、数学部、生物部、科学部、天文部、英語劇部、高校英会話部、美術部、漫画イラスト部、書道部、コーラス部、ギター部、マンドリン部、吹奏楽部、軽音楽部、弦楽合奏部、洋裁部、手芸部、割烹部、演劇部、新聞部、珠算部、放送部、映画部、写真部、囲碁部、将棋部、コンピュータ部、英文タイプ部、花道部、茶道部、琴部、礼法部、百人一首部、クイズ研究部。
- 書道部
- 日本書道美術院 - 教育部展で入賞
- コーラス部
- 中学校、高等学校ともに2010年以後は全日本合唱コンクールやNHK全国学校音楽コンクールの全国大会へ多く出場しており、そのほとんどで金、銀、銅賞を受賞している。
- 全日本合唱コンクール全国大会
- 中学校部門
- 1996年度同声合唱の部 銅賞[21]
- 2003年度同声合唱の部 銅賞[22]
- 2006年度同声合唱の部 銀賞[23]
- 2010年度同声合唱の部 金賞[24]
- 2011年度同声合唱の部 金賞・文部科学大臣賞[25]
- 2015年度同声合唱の部 銀賞[26]
- 2016年度同声合唱の部 金賞[27]
- 2018年度同声合唱の部 金賞・長野市長賞[28]
- 2022年度同声合唱の部 金賞・青森市長賞
- 高等学校部門
- 2010年度Aグループ 金賞・文部科学大臣賞[24]
- 2015年度Bグループ 銀賞[26]
- 2016年度Bグループ 銀賞[27]
- 2018年度Bグループ 金賞[28]
- 2019年度Bグループ 金賞
- 2021年度Bグループ 銀賞
- 2022年度Bグループ 銀賞
- NHK全国学校音楽コンクール全国コンクール
- 中学校の部
- 高等学校の部
- 2010年度 銅賞[30]
- 2011年度 優良賞
- 2012年度 銅賞[30]
- 2013年度 銅賞[30]
- 2014年度 優良賞
- 2015年度 銅賞[30]
- 2016年度 優良賞
- 2017年度 銅賞[30]
- 2018年度 銀賞[30]
- 2019年度 金賞・内閣総理大臣杯[31]
- 2021年度 銅賞
- 2022年度 銀賞・文部科学大臣賞
- 2023年度 金賞・内閣総理大臣杯
- 吹奏楽部
- 東京都高等学校吹奏楽コンクールで金賞を受賞している。
- 囲碁部
- 2006年度[32]、2014年度[33]に全国高校囲碁選手権大会団体女子の部で優勝、2012年度全国高等学校囲碁選抜大会女子の部で団体優勝している[34]。
- その他の文科系受賞歴
運動系部
- バレーボール部、バスケットボール部、テニス部、卓球部、ダンス部、体操部、エアロビクス部、登山部、水泳部、剣道部、桃李連、舞踊研究部。
- ダンス部
- 桃李祭(文化祭)での講堂における公演が毎年入場制限になるほどの人気を博す。
- 剣道部
- 過去にインターハイ出場の経験がある。
- 桃李連
- 全国の女子高の中で唯一の阿波踊り部である。毎年8月には豊島区大塚でのお祭りに参加するほか、ラジオ・新聞への出演もしている。
スーパーサイエンスハイスクール (SSH)
2018年度から2022年度までの5年間、文部科学省のスーパーサイエンスハイスクール (SSH)(開発型)に指定されている。研究開発課題は「科学的思考力で人類が抱える問題解決に貢献できる女性の育成」で、教科の枠を超えた課題を探究するAcademic Dayやモノづくりプロジェクト、グローバルな視点を育む海外研修や模擬国連活動などを行っている。
入試
中学入試は、2月2日(第1回)、2月3日(第2回)、2月4日(第3回)の3回実施している。 募集人員はそれぞれ160名、40名、40名(計240名)で、国語(100点、50分)・算数(100点、50分)・理科/社会(100点、50分)の4教科である。
進路
2024年度は、東京大学が26名、早稲田大学が126名、慶應義塾大学が93名などで[37]、系統別状況は、理学・工学(27.0%)、経済学・経営学・商学 (16.7%)、医学 (16.4%)、法学 (13.9%)、人文科学 (9.6%)、薬学 (6.5%)、語学・国際関係学 (3.3%)、社会学 (3.2%)、農学・獣医学 (3.2%)、歯学 (0.6%)、教育学 (0.2%) であった[37]。
鉄緑会(東大受験の専門塾)の指定校で、女子御三家の桜蔭、女子学院、雙葉以外で唯一の女子校となっている。
学校施設
- 本校舎 - エントランス、ホワイエ、講堂、図書館、試食室、食堂、ギャラリー、展示ケース、茶室、音楽室、物理室、実験室、トレーニングルーム、体育館、屋上プール
- 入間総合グラウンド - 埼玉県入間市豊岡4-7-44、西武池袋線 入間市駅下車 徒歩約12分
- 小諸林間学校 - 長野県小諸市甲4756、しなの鉄道 小諸駅下車、高峰高原行バス 御衣黄の里停留所下車 徒歩約5分
交通機関
エピソード
著名な関係者
教員
出身者
関連書籍
脚注
注釈
- ^ 江戸時代は旗本三千石中西公の拝領地で「中西の森」と呼ばれ、明治時代に根津嘉一郎が買収し「根津山」と呼ばれた小さな丘だった(現:池袋東口グリーン大通り周辺)。
- ^ 二木謙三が東京で学校経営に乗り出して資金が必要になったためであろうか、生家(樋口家)は人手に渡ってしまう[11]。
- ^ 城北大空襲は、昭和20年4月13日、深夜から翌14日未明に東京城北部一帯を襲った空襲。豊島区で死者778人、全焼家屋34,000戸、被災者161,661人(当時の区の人口の7割)もの被害をもたらした。「根津山」の一角(現:南池袋公園)には大勢の犠牲者がトラックで運ばれ、仮埋葬されたという[12]。
出典
関連項目
外部リンク
部活動実績 |
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