野尻町 (鹿児島市)
野尻町(のじりちょう[3])は、鹿児島県鹿児島市の町[4]。旧大隅国大隅郡桜島郷野尻村、鹿児島郡東桜島村大字野尻。郵便番号は891-1541[5]。人口は127人、世帯数は94世帯(2020年4月1日現在)[6]。 地理桜島の西部に位置する。町域の北方には桜島赤水町、東から南東にかけては持木町に接し、西方から南方にかけては鹿児島湾に面している。海岸部には国道224号が東西に通っており、持木町寄りの東部に集落がある[7]。 野尻町には桜島の文明噴火により噴出した溶岩(文明溶岩)が広がっており、文明溶岩はクロマツの植林地となっている[8]。 自然公園・自然保護地区野尻町の一部は国立公園である霧島錦江湾国立公園の区域に指定されており[9]、特別区域特別保護地区(桜島西溶岩原)・第1種特別地域(桜島南斜面)・第3種特別地域(桜島南西麓)・普通地域から構成される[9][10]。 河川
町名の由来桜島の大正大噴火までは広い平野(野尻原)があり、その裾(尻)にあった集落であったことに由来するという説がある[11]。 歴史中世の野尻野尻という地名は室町時代より見え、大隅国向島のうちであった[4]。野尻と言う地名は永享11年(1439年)の島津持久袖判証状に見えるのが初見であると考えられており、島津氏が福昌寺に野尻の地を寄進したとされている[4][12]。文明7年の文明噴火では野尻村において噴火が発生し[13][12]、薩藩旧記雑録の池田氏年代記には「文明七年八月十五日、向島之内野尻村燃出ル」と記載されている[12]。 近世の野尻江戸時代には大隅国大隅郡桜島郷(外城)のうちであった[4]。村高は「天保郷帳」では75石余[4]、「郡村高辻帳」では75石余[12]、「三州御治世要覧」では181石余[12]、「旧高旧領取調帳」では184石余であった[4]。 1887年(明治20年)4月2日には「 町村制施行後1889年(明治22年)4月1日に町村制が施行されたのに伴い、桜島の東半分にあたる湯之村、野尻村、古里村、有村、黒神村、高免村、瀬戸村、脇村の区域より北大隅郡東桜島村が成立した[15]。それまでの野尻村は東桜島村の大字「野尻」となった[4]。1897年(明治30年)4月1日には「 1914年(大正3年)1月12日に桜島の爆発が発生し、噴煙は高さ約1万メートルに及んだ(大正大噴火)[17]。爆発当時の大字野尻は人口200人(野尻)・368人(持木)、戸数は35戸(野尻)・40戸(持木)であった[18]。野尻や持木の住民は沖小島を経て対岸の薩摩半島にある谷山方面に避難し[19]、野尻の住民らは鹿児島市の天保山に到着し、持木の住民は鹿児島郡中郡宇村大字宇宿(現在の鹿児島市宇宿)に到着した[18]。野尻などの桜島南部の被害は桜島の他の集落に比べて比較的軽度であり、1寸から2寸(3センチメートルから6センチメートル)程度の火山灰が降り積もった[13]。野尻の10戸は移住を希望し、熊毛郡北種子村(現在の西之表市)に移住した[20]。 第二次世界大戦中には現在の桜島病院の場所に兵舎が置かれ、海岸側に高射砲が設置されていた[21]。1950年(昭和25年)10月1日には東桜島村が鹿児島郡伊敷村とともに鹿児島市に編入された[22]。同年10月18日に鹿児島県公報に掲載された鹿児島県の告示である「 町域の変遷
人口以下の表は国勢調査による小地域集計が開始された1995年以降の人口の推移である。
施設公共
寺社
その他
小・中学校の学区市立小・中学校の学区(校区)は以下の通りである[33]。
交通道路港湾脚注
参考文献
関連項目
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