山下町 (鹿児島市)
山下町(やましたちょう[3])は、鹿児島県鹿児島市の町[4]。旧鹿児島府下山下町。郵便番号は892-0816[5]。人口は699人、世帯数は472世帯(2020年10月1日現在)[6]。1965年(昭和40年)より山下町の全域で住居表示を実施している[7][8]。 江戸時代には島津氏77万石の居城である鹿児島城があり、鹿児島城を中心として武家屋敷が広がっていた[9]。明治時代以降には鹿児島市役所や鹿児島地方裁判所などが設置され官庁街となっている[9]。1965年(昭和40年)には山下町の一部より分割され城山町、照国町が新たに設置された[4]。 地理鹿児島市の中心部に位置している。町域の北方には長田町、小川町、南方には金生町、中町、東千石町、西方には城山町、東方には易居町、名山町がそれぞれ接している。 北部には町名の由来である城山があり(但し現在は城山町を挟んでいる)、南側には天文館などの歓楽街が位置している。 また町域の西端(城山町・照国町の境界上)にある照国神社前交差点は九州の大動脈である国道3号及び国道10号、枕崎市から鹿児島市までを結ぶ国道225号、南さつま市から枕崎市、指宿市を経て鹿児島市までを結ぶ国道226号の終点となっている。 また、西郷隆盛銅像前交差点は鹿児島市から種子島、奄美大島を経て沖縄県那覇市までを結ぶ国道58号の起点、桜島と垂水市の境界上にある桜島口までを結ぶ国道224号の終点となっている。国道58号の鹿児島市区間は「朝日通り」の名称で知られる。 町域の東端には鹿児島市役所があり、鹿児島市の行政の中心地となっている。かつては鹿児島県庁舎も設置されていたが、1996年(平成8年)に鴨池新町に移転している[10]。跡地はかごしま県民交流センターとなっている。 町名の由来山下町という町名は町域北部にある城山の麓に位置することに由来している[4]。 歴史山下町の成立から町村制施行まで江戸時代には鹿児島城下士屋敷群であり、鹿児島城付近には藩役所の他に宮之城島津家、垂水島津家、加治木島津家、入来院氏、喜入肝付氏、吉利小松氏など大身層の屋敷が所在しており、岩崎には平士層屋敷群があり、岩崎郷中が置かれた[11]。 明治時代になると、鹿児島県庁の所在地となり、県の行政の中心地となった。1879年(明治12年)には郡区町村編制法が施行され「山下町」として成立した[4]。 町村制施行以降![]() 1888年(明治21年)に公布された市制(明治21年法律第1号)に基づき、1889年(明治22年)2月2日に官報に掲載された「 1962年(昭和37年)に住居表示に関する法律が施行されたのに伴い、鹿児島市は鹿児島市街地域の住居表示に着手した[7]。1965年(昭和40年)には中央地区で住居表示実施に伴い町の再編が行われ、山下町の一部より城山町、照国町が新たに設置された[4]。また、一部の区域が小川町に編入され、六日町(現在の名山町の大部分)の一部を編入した[17]、同時に山下町の全域で住居表示が実施された[7]。 1996年(平成8年)には町域内に明治期より所在していた鹿児島県庁舎が鴨池新町に移転し[10]、2003年に県庁舎跡地にはかごしま県民交流センターが設置された。 町域の変遷
文化財国の登録有形文化財
施設行政![]() 司法![]() 公共
教育郵便局その他
人口資料データ
国勢調査以下の表は国勢調査による小地域集計が開始された1995年以降の人口の推移である。
小・中学校の学区市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[50]。
交通道路鉄道山下町に関係のある人物出身![]() 居住脚注
参考文献
関連項目
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