下福元町
![]() 下福元町(しもふくもとちょう[3])は、鹿児島県鹿児島市の町[4]。旧薩摩国谿山郡谷山郷下福元村、谿山郡谷山村大字下福元、鹿児島郡谷山町大字下福元、谷山市下福元町。郵便番号は891-0144[5]。人口は6,985人、世帯数は3,261世帯(2020年4月1日現在)[6]。 地理鹿児島市南部(谷山地区)に位置し、和田川下流域及び万之瀬川の源流域に位置する。町域の北方には鹿児島市中山町、上福元町、南方には鹿児島市平川町、南九州市川辺町清水、東方には鹿児島市谷山中央、西谷山、慈眼寺町、錦江台、坂之上、七ツ島、光山、西方には日置市吹上町与倉、日置市吹上町湯之浦、日置市吹上町和田、南さつま市金峰町大坂がそれぞれ接している。 教育施設は町域の西部に鹿児島市唯一の併置型小中学校である鹿児島市立錫山小中学校が位置している[7]。 また、中央部を南北に指宿スカイライン(鹿児島県道17号指宿鹿児島インター線)が通っており、中央部には錫山インターチェンジが所在している。北部には東西に鹿児島県道20号鹿児島加世田線が通っており、途中で鹿児島県道22号谷山伊作線に分岐し県道20号は進路を南方に変える。南方には国道225号が南北に通っており、影原交差点で西方向に国道226号が分岐している。 河川歴史江戸時代の下福元村下福元という地名は江戸時代より見え、薩摩国谿山郡谷山郷(外城)のうちであった[4]。上福元村(現在の上福元町など)と共に福本村とも称していた[4]。村高(石高)は「旧高旧領取調帳」では3,038石余であったとされ、人口は5,020人、戸数は1,019戸であった[4]。 現在、錫山小中学校が所在する錫山集落の錫山元山峠では、明暦元年(1655年)11月15日、もしくは万治元年(1658年)[8][9][10][注釈 1]、薩摩藩から地下資源開発の命を受けた 1879年(明治12年)には戸長役場が下福元村に設置された[19]。1882年(明治15年)の「県地誌」によれば下福元村に5隻の漁船があったと記載されている[20]。 町村制施行以後1889年(明治22年)に町村制が施行されたのに伴い、下福元村、上福元村、松崎町、塩屋村、和田村、平川村、中村、山田村、五ケ別府村の区域より谷山村が設置され、それまでの下福元村は谷山村の大字「下福元」(1924年の町制施行の際も同様)となった[4]。1897年(明治30年)4月1日に「 1984年(昭和59年)10月15日に慈眼寺団地・ニュー慈眼寺団地・坂之上団地・星和台団地の区域にあたる町域の一部より錦江台一丁目、錦江台二丁目、錦江台三丁目が設置された[21][22]。1996年(平成8年)2月13日には下福元町、上福元町、谷山塩屋町、和田町の区域にあたる谷山第一地区において住居表示が実施されることとなったのに伴い[23]、慈眼寺町、谷山中央五丁目から谷山中央七丁目が設置された[24]。 1997年(平成9年)4月17日には鹿児島営林署跡地に鹿児島市立ふるさと考古歴史館が開館し、町域内から発掘された掃除山遺跡のジオラマが置かれている[25]。 また、2005年(平成17年)には中央慈眼寺台地区が下福元町から慈眼寺町に編入され[23][26]、2008年(平成20年)2月25日には坂之上地区において住居表示が実施されることとなったのに伴い、坂之上一丁目から坂之上八丁目が設置され、同時に錦江台一丁目に一部が編入された[27][28][29]。また同年10月27日には光山地区において住居表示が実施され、光山一丁目及び光山二丁目が設置された[30][27]。2014年(平成26年)2月17日には谷山第二地区土地区画整理事業の事業区域の一部で谷山第二地区(第一期)として住居表示が実施され[27]、下福元町の一部及び上福元町の一部より西谷山二丁目が設置された[31]。2020年(令和2年)2月3日には下福元町の一部より西谷山三丁目が設置された[32]。 字域の変遷
人口以下の表は国勢調査による小地域集計が開始された1995年以降の人口の推移である。2010年以降は住居表示の実施に伴う町域の再編により大幅な人口の減少が発生している。
文化財市指定施設![]() 公共
教育
寺社小・中学校の学区市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[46]。
交通![]() 道路
脚注注釈出典
参考文献
関連項目
|
Portal di Ensiklopedia Dunia