平之町
平之町(ひらのちょう[3])は、鹿児島県鹿児島市の町[4]。旧薩摩国鹿児島郡鹿児島城下平之馬場町、鹿児島市平之馬場町。郵便番号は892-0848[5]。人口は2,783人、世帯数は1,702世帯(2020年10月1日現在)[6]。平之町の全域で住居表示を実施している[7]。 地理甲突川下流域に位置しており、鹿児島市の中央部に所在している。町域の北から東方にかけて照国町、新照院町、南方に西千石町、西方に鷹師が接している。 町域の南端を東西に鹿児島県道24号鹿児島東市来線(千石馬場通り)が通り、中央部を国道3号が東西に通っており、平田橋交差点で進路を北方に変え以降は甲突川に沿ってほぼ南北に通っている。また、町域内の教育施設は町域の東端に鹿児島三育小学校・幼稚園が所在している。 また、西部に所在する平田公園は薩摩藩の家老であった平田靱負の屋敷跡であり、平田公園の隣には同じく薩摩藩の家老であった調所広郷の屋敷も所在しており、上級武士の居住区であった。 町域の南西端付近にある平田橋の周辺には日本画家の木村探元の誕生地の碑や、1887年(明治20年)に鹿児島 - 川内間(現在の国道3号)の道路建設工事を皮切りに着工され、その後県内六つの幹線道路が開通し、それを記念して道路開鑿記念碑が建立された[8]。 河川町名の由来平之町という町名は町域の北部に傾斜地が広がっており、傾斜地を鹿児島弁で「平」ということに由来している[9]。 歴史江戸時代の平之馬場町江戸時代には薩摩国鹿児島郡鹿児島城下のうちであった。この一帯は鹿児島城下の士屋敷で鹿児島城に近い位置に所在しており、上級武士の屋敷が多く所在していた[4]。現在の平田公園の敷地は宝暦治水事件で指揮をとり、後に宝暦治水の責任をとって自害した平田靱負の屋敷跡であり、鹿児島県の史跡にも指定されている[10]。 また、平田公園内には平田靱負の銅像が1955年(昭和30年)に建立され、現在でも頌徳慰霊祭が行われている[11]。平田靱負の屋敷の隣には調所広郷の屋敷が所在していた[10]。 延宝8年に発生した田尻殿大火では地内にあった田尻殿屋敷から出火し、3,308軒が全焼、54名の死者を出すなど大きな被害を出した[4]。 市制施行以後1888年(明治21年)に公布された市制(明治21年法律第1号)に基づき、1889年(明治22年)2月2日に官報に掲載された「 1962年(昭和37年)に住居表示に関する法律が施行されたのに伴い、鹿児島市は鹿児島市街地域の住居表示に着手した[14]。1965年(昭和40年)には中央地区で住居表示実施に伴い町の再編が行われ、平之町の一部及び山下町の一部より照国町が設置され[4][15][7]、同時に平之町の全域で住居表示が実施された[14][7]。 町域の変遷
人口資料統計
国勢調査以下の表は国勢調査による小地域集計が開始された1995年以降の人口の推移である。
施設公共
教育
企業
平之町に関係する人物出身
一時居住小・中学校の学区市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[21]。
交通道路鉄道(廃止路線)脚注
参考文献
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