1987年の世界ツーリングカー選手権
1987年の世界ツーリングカー選手権は、1987年3月22日にイタリアのモンツァ・サーキットで開幕し、11月8日に日本の富士スピードウェイで閉幕するまで、全11戦で争われた。 概要1987年、世界ツーリングカー選手権(WTC)が開催されることになった。これは1986年に行われたFIA・ツーリングカー選手権(TCC)を発展させたもので、ツーリングカー・レースとして初めての世界選手権であった。WTCにはBMW、フォード、アルファロメオ、マセラティがワークスチームを派遣し、ドライバーズ・タイトルはBMWのロベルト・ラヴァーリアが、チームズ・タイトルはエッゲンバーガー・フォード7号車が獲得した。 見落とされがちなことであるが、ヨーロッパツーリングカー選手権については、前年限りで消滅したわけではなく、エントリー費用がより安い(6,000ドル)選手権として、この年も存続した。CiBiEmmeスポーツなど、幾つかのチームはWTCとは別に車両やドライバーをエントリーさせたが、選手権を分割させたこの試みは混乱を助長させたのみで終わり、翌年は再びヨーロッパツーリングカー選手権(ETC)として一本化された。しかしながら、この年に引き起こされた混乱と低迷は尾を引き、ETCは1988年をもってその歴史に一旦幕を下ろすこととなる。 2005年から「世界ツーリングカー選手権(World Touring Car Championship, WTCC)」という同じ名前の選手権が開催されることとなるが、耐久レース色の強いWTCに対してスプリントレースとなっているなど、内容としては大きく異なるものである。 車両
BMW(BMW・M3)、フォード(フォード・シエラRSコスワース、シエラRS500)、アルファロメオ(アルファロメオ・75ターボ、33)、マセラティ(マセラティ・ビトゥルボ)が選手権にエントリーした。 ディビジョン2クラスのBMW・M3は、高いコーナリング性能を追求して前代の主力マシン・635CSiの直列6気筒から直列4気筒へとエンジン変更を行った。またスポイラーを装備して空力性能を向上させていた[1]。 ディビジョン1のフォード・シエラ RSコスワースは直列4気筒エンジンにターボを装備したハイパワー・マシンで、シーズン中盤に大径ターボに換装されたエボリューションモデルのシエラ RS500が投入されると選手権におけるフォードの優位は確実なものとなった。RS500のエンジンは500馬力近いパワーを持ち、またスポイラーのモディファイなどによって大幅な競争力向上を達成していた[2]。 アルファロメオは、ディビジョン2クラスの75ターボのエボリューションモデルを新たに開発した。チンスポイラー、サイドスカートを装備した75ターボのcd値は0.33を記録し、トランスアクスルによるマシンバランスの良さを美点としていた[3]。またアルファロメオはディビジョン1クラスに33もワークスカーとしてエントリーさせた。13年ぶりにワークス活動を再開したマセラティはV6・ツインターボの高性能スポーツカーのビトゥルボを投入したが、マシンのチューンの度合いが低く競争力は不足していた[4]。 エントリー費用値上げの影響により前年度に参戦したチームから選手権への参戦見合わせが相次いだため、前年度参戦していた車の中で、前年のマニュファクチャラーズタイトルホルダーであるトヨタほか、メルセデス・ベンツ、ボルボ、アウディ、フォルクスワーゲンの車両については、ワークスチームも含め選手権非参戦組のみが用いた。 タイヤは、選手権に参戦したチームを含め大部分がダンロップ、ピレリ、ヨコハマのいずれかを装着したが、それ以外ではブリヂストンを履いた車両(日産・スカイライン)もいた。 区分車両区分(ディビジョン)については、排気量1,600cc以下の車両は「ディビジョン1」、1,600ccを超え2,400cc以下の車両は「ディビジョン2」、2,400ccを超える車両もしくは1,800ccを超えかつターボチャージャーを搭載している車両については「ディビジョン3」となっている(右表。太字は選手権参戦車両)。 出場車両一覧ディビジョン3
ディビジョン2
ディビジョン1
エントリーリスト(選手権参戦チームのみ。各チームのドライバーの配列は参戦順)
開催カレンダー
* 斜体のドライバーは2人(3人)の正式ドライバーの中には含まれない3人目(4人目)であるため、選手権ポイントは与えられない(同一レースでも自分が登録されている他の車両で獲得したポイントは有効)。 シーズンレビューTCCはヨーロッパツーリングカー選手権(ETC)が改称されたものだったため、イベントの開催地はヨーロッパのみであったが、WTCではオセアニア・アジア地区でも4戦がカレンダーに組み込まれた。WTCにはBMW、フォード、アルファロメオ、マセラティがワークス参戦したが、TCCに参戦していたローバーとボルボは撤退した[5]。1986年のTCCでローバーのワークス・チームとして活動していたトム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)は、ホールデンのワークスチームとしてWTCに参戦を計画していた[6]。 WTCの開幕戦 モンツァ500㎞ トロフェオ・マリオ・アンジー二は3月22日に行われたが、開幕直前になってFISAが参戦チームに1台あたり6万ドルの登録料を求めたことが波紋を引き起こした。TWRはFISAに抗議の意思を示すためにWTCを撤退を決断し、ホールデンのWTC参戦は取りやめとなった。開幕戦に出場したマシンの中で登録料を払っていたのはBMWのシュニッツァー2台、リンダー2台。アルファロメオの6台、フォード2台、マセラティ、アルファロメオ33の1台に過ぎなかった[7][8]。混乱はさらに続き、フォード・ワークスのエッゲンバーガーのシエラRSコスワースはインジェクションがレギュレーション違反とされ開幕戦を欠場し、決勝で1位から6位までを独占したBMW M3もレース後にトランクリッドの材質がカーボン製であることが違法とされ失格になった[9]。決勝レースはオーストラリアから遠征してきたアラン・モファットのホールデン・コモドアが優勝したが、選手権未登録のためポイントは与えられず[10]、登録車中最上位でゴールした7位のアルファロメオ75が40ポイントを獲得し、最下位に終わったマセラティが登録車中2位に該当したため30ポイントを得ることになった[10][11]。 第2戦 マールボロ・ハラマ4時間ではBMWワークスのシュニッツァーがピロ/ラヴァーリア組46号車、カペリ/ラッツェンバーガー組の40号車の順で1‐2フィニッシュを達成した。またビガッツィのサラ/グルイヤール組も3位に入りBMWが表彰台を独占した。予選でフロントローを占めたエッゲンバーガーは決勝では4、5位に終わった。続くフランス・ディジョンで開催の第3戦 ブルガンディ500でもBMWのシビエムのチェコット/ブランカテリ組42号車、シュニッツァーのラヴァーリア/カぺリ/ピロ組40号車の順で1‐2フィニッシュでゴールした。エッゲンバーガーのシエラは3、4位でゴール、アンディ・ロウズのシエラも5位に入賞した[12]。 ニュルブルクリンクで行われた第4戦 ADAC トゥーレンハーゲンGPにはTWR・ホールデンがスポットで出場した。またアルファロメオとマセラティは、新たな公認パーツを投入しマシンの競争力を向上させた。特にアルファロメオはリアアクスルとギヤボックス、フロントサスペンションが改良され足回りの強化が図られた[13][11]。レースはエッゲンバーガーのルドヴィック/ニーツビーツ組7号車が初優勝し、BMW M3勢が2位から7位に続いた[14]。 第5戦 スパ・フランコルシャン24時間ではRASスポールのトヨタ・スープラがデビューした。レースは予選を1‐2で終えたエッゲンバーガー勢が決勝でもレースをリードした。この2台を追っていたシュニッツァーのラヴァーリア/カぺリ/ピロ組の40号車は11時間が経過した233周目にエンジントラブルでリタイアすると、エッゲンバーガーの優位は確実になった。しかし徐々にデュドネ/ソーパー/ストレイフ組の6号車が遅れだし18時間目、332周でエンジントラブルでリタイアした。替わって2位に浮上したラッツェンバーガー/クェスター/オストライヒ組のシュニッツァー46号車もエンジントラブルで後退した。首位を走っていたルドヴィック/ニーツビーツ/ブーツェン組の7号車だがロウズ/タッサン/パーシー組のロウズ・シエラ8号車と接触した際に冷却系を壊してしまい20時間目・406周でレースを終えた。優勝したのは地元ベルギーのドライバーを揃え、予選14位から順位を上げていたシビエムのM3で、ビガッツィ、フランスのガレージ・デュ・バックのM3が2位、3位でゴールした。出走は61台、完走は28台だった[15][16]。 第6戦 ブルノ・グランプリではフォード・シエラ RSコスワースのエボリューションモデル、シエラ RS500がデビューした。予選でフロントロウを独占したエッゲンバーガーのシエラRS500は決勝でもBMW勢を圧倒し、3位以下を周回遅れにして1‐2フィニッシュでデビューウィンを飾った。BMW勢が3位から5位に続き、アルファロメオのトーマス・リンドストローム/スティーブン・アンドスカー組がBMW勢から1周遅れの6位でゴールし、新パーツ投入によるマシンの性能向上を証明した。 続く第7戦 ツーリスト・トロフィーでもエッゲンバーガーとアンディ・ロウズ、ウルフ・レーシングのシエラ RS500が予選で上位を独占した。しかし決勝レースではフォード勢にメカニカルトラブルが重なり上位入賞を逃してしまった。フォード勢の後退後ビガッツィのサラ/グルイヤール組の43号車が首位に浮上したが、残り2周でスピンアウトし、替わってトップに立った選手権未登録のシビエムM3が優勝した。ラヴァーリア/ピロ/ラッツェンバーガー組のシュニッツァー46号車が選手権登録車中最上位の2位でゴールした。アルファロメオ・75ターボは、フランチア/シュレッサー組の79号車が優勝マシンと同一周回の3位でゴールして、初の表彰台を獲得した[17]。しかしアルファロメオは、1989年からのプロカーの開発と予算の問題を理由にツーリスト・トロフィーを最後にWTCから撤退した[18][11]。第7戦終了時のポイントランキングはチームズ・タイトルの1位はエッゲンバーガー7号車で165ポイント。2位は144ポイントのシュニッツァー46号車で、118ポイント獲得のシュニッツァー43号車が3位で続いていた。ドライバーズ・タイトルは165ポイントのルドヴィック、151ポイントのニーツビーツとフォード勢が1、2位を占め、シュニッツァーのラヴァーリアが140ポイントを獲得し3位となっている。 シエラ RS500のポテンシャルは他車を凌駕しており、第8戦 ジェイムズ・ハーディー1000でもエッゲンバーガーが1‐2フィニッシュを決め、3位にピート・ブロックのホールデン・コモドア、4位に地元チームのM3、5位にピーター・ジャクソンのスカイラインRSターボと地元オセアニア勢が続いた。日本から遠征した中谷明彦/ゲイリー・スコット/ジョン・フレンチ組のスタリオンターボも7位でゴールした[19]。しかし、その後エッゲンバーガーのシエラ RS500はフロントオーバーフェンダーの寸法違反で失格となりホールデンが優勝、以下各車の順位が繰り上がった。エッゲンバーガーはこの件に抗議したため、FISAによる裁定が出るまで第8戦のリザルトは暫定結果として扱われた[20][21]。 第9戦のカルダー500㎞でもエッゲンバーガーが予選でフロントローを独占し、決勝でもデュドネ/ソーパー組の6号車が優勝したが、ドライバーズ・タイトルを争うルドヴィック/ニーツビーツ組は12位(選手権登録車中5位)に終わった。2位から4位に2台のシュニッツァーとシビエムのM3が続き、5位にスカイラインRSターボ、6位にもコモドアの地元勢が入賞した。中谷/スコット組のスタリオンターボは9位でゴールした[22]。エッゲンバーガー・シエラは続くニュージーランド・ウェリントンで開催の第10戦 ニッサン/モービル500もルドヴィック/ニーツビーツ組の7号車がポールトゥフィニッシュで制し、シュニッツァー・BMWのラヴァーリア/ピロ組は前戦に続いて2位でゴールしポイントを加算した[23]。 両タイトル争いは最終戦 インターTECまでもつれ込んだ。BMWはナンバー1ドライバーのラヴァーリアをチャンピオンにするため、シュニッツァーの3台とシビエムの2台をBMWモータースポーツ名義でチーム名で登録し、レース中最上位で走行しているマシンにラヴァーリアを搭乗させる作戦を採用した[24]。決勝レースはルドヴィック/ニーツビーツ組のエッゲンバーガー6号車が優勝し、全日本ツーリングカー選手権(JTC)で活躍するオブジェクトTのトランピオ・シエラも46号車と同一周回の2位と好走した。シュニッツァーのラヴァーリア/ピロ組の46号車は3位でゴールした。日本車トップはリース、/星野薫組のトヨタ・スープラで9位だった[25]。最終戦終了後、第8戦の失格に関するエッゲンバーガーの抗議は却下され、1987年WTCのリザルトが確定した。ドライバーズ・タイトルを獲得したラヴァーリアは、1953年のアルベルト・アスカリ以来のイタリア人世界チャンピオンとなった[26]。 シーズンが佳境を迎えていた10月上旬、FISAはWTCの廃止を決定し、ツーリングカーの世界選手権は1年で終了することになった[27]。 ランキングドライバー
* 各レースの総合順位(選手権ポイントの獲得資格がないチームを除く)と各ディビジョンでそれぞれ上位から20点-15点-12点-10点-7点-6点という形で、6位までにポイントが与えられその合算となる。仮にレース総合で3位で、属するディビジョンで1位だった場合、3位12ポイントと1位20ポイントの合計で32ポイントを得ることとなる。すなわち、1レースにおいて獲得可能な得点は最大で40ポイントとなる。 チーム
参照
関連項目
外部リンク
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