1992年の全日本F3選手権
1992年の全日本F3選手権(1992年のぜんにほんF3せんしゅけん)は、1992年(平成4年)3月7日 - 8日に鈴鹿サーキットで開幕し、同年11月14日 - 15日に鈴鹿サーキットで閉幕した全10戦による1992年シーズンの全日本F3選手権である。 シリーズチャンピオンは5勝を挙げたアンソニー・レイド(イギリス)が獲得した。 概要1992シーズン前年に高剛性シャシーによる高いコーナリング性能でシリーズを制したトムス・トヨタは、パウロ・カーカッシが全日本F3000にステップアップ。その後任としてイギリスF3で優勝経験を持つリカルド・リデルと、イタリアF3に参戦していた21歳の若手ジャック・ヴィルヌーヴを起用したトムスは前年に続く連覇を目指した。前年終盤より日本でのレース活動を開始したイギリスのベテラン、アンソニー・レイドは全日本F3を知り尽くす名門東名スポーツより参戦、前年のドイツF3でチャンピオンを獲得した実績を持つトム・クリステンセンがナビコネクションからフルエントリーが決まるなど[1]、ヨーロッパ各国の実力者が多く顔をそろえた[2]。シーズン中盤には全日本F3000に参戦中のミカ・サロがダブルエントリーでF3にも出場した。スコットランド出身の女性ドライバー、ヘザー・ベイリー[3]を起用した「SHE'S F3」の参戦も話題の一つであった[4]。 層が厚くなったヨーロッパ勢を迎え撃つ日本人ドライバーは、SUPER HAKKA RACING WORKS(戸田レーシング)のF3参戦プロジェクト終了により[5]、高村一明が前年ランキング2位となりF3000へステップアップした金石勝智の後任としてCABINホシノレーシングのF3チームに移籍し、王座争いに絡むことが期待された[6]。トムス・トヨタの3台目のマシンに乗る田中哲也、前年トップ集団に加わることが増えた石川朗のほか、本山哲、影山正美、PIAA Nakajimaの中野信治(全日本F3000とダブルエントリー)などがフルエントリーとなった[2]。 2月の事前テストで話題となったのが、最大シェアを持つラルトの新車RT36がその前影投影面積の大きさから致命的なストレートの遅さを抱え、旧車となるRT35よりタイムが出ないことが判明。熟成の域にあるRT35よりも新設計RT36はラップタイムで1秒、直線の長い富士では2秒以上離されることが続いた[7]。このため開幕戦・鈴鹿の予選では旧型RT35で出走するエントラントが続出。RT36の不作を証明するかのように最速タイムでPPを獲得したのはラルトRT35・無限に乗るアンソニー・レイドで、決勝でも優勝。レイドは続く富士、筑波、そして第4戦鈴鹿まで4連勝とポイントリードを築くことに成功[8]。開幕からの4連勝は全日本F3史上初の快走劇であった。この状況を受け高村とクリステンセンはRT36を開幕戦のみであきらめ、第2戦からはRT35での出走を選択する。一方で5ZIGENの土屋圭市、PIAAナカジマの中野、ナウ・モータスポーツの光貞秀俊はRT36での出走を継続したが、いずれも成績が出ず苦戦した。第3戦富士ではRT36での出走は5台のみとなっていたが、予選を通過したのは光貞だけであり、決勝も12位に終わるなど他車のスリップストリームに入ることが出来ない致命的な直線の遅さがユーザーを悩ませた[9]。第3戦富士ではRT35に乗り換えたCABIN IMPULの高村が復調しPPを獲得。決勝でもレイドとバトルを展開しトップで最終ラップに突入したが、レイドが1コーナーで逆転し0.3秒差で勝利した[10]。 レイドの連勝は第5戦仙台ハイランドから流れが変わり、TI英田、MINEと続いたテクニカルコース3連戦でレイドは苦戦。この3戦ではMINEでの2位6ポイントしか獲得できなかった。代わって活躍したのはトムス・トヨタ勢で、開幕戦から全戦ポイント獲得と安定した結果を残していたヴィルヌーヴが第5戦仙台と第7戦MINEで優勝、第6戦TIではリデルが優勝とポイント差を詰めた。しかし、第8戦SUGOではF3初優勝を狙いしつこく追いすがる石川朗とのトップ戦いを制したレイドがシーズン5勝目を挙げ、2戦を残して1992年のチャンピオン獲得を果たした[11]。終盤2戦はトムス勢が連勝しランキング2位ヴィルヌーブ、3位リデルでシーズンを閉めた。リデルはSUGOの決勝レースでデレック・ヒギンズのマシンと絡み、反動でマシンが反転し頭部を路面側に向けたままグラベルで大破する危険なクラッシュに遭うが、幸いにも負傷が無く、次戦からも無事参戦した。 クリステンセンは自身に責任がない形での車両違反による失格(第2戦筑波・タイヤ使用数規定違反、第3戦富士・車両重量規定違反、第6戦TI英田・決勝後再車検でエンジン規定違反失格)で6戦終了時点で半分となる3戦で成績が抹消されるという不運なシーズンを過ごしたが、毎レース表彰台争いに絡み評価を得て翌年のトムス・トヨタ移籍を決めた。 優勝は10戦全て外国籍ドライバーとなり、日本人でのランキング最上位は2位表彰台を二度記録した石川朗の4位となった。石川は翌年のF3000ステップアップの切符をつかんだ。 参戦シャシー
参戦エンジン
エントリーリスト
スケジュールおよび勝者
シリーズポイントランキング
脚注
外部リンク |
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