NHKラジオ学校放送
NHKラジオ学校放送(エヌエイチケイラジオがっこうほうそう)は日本放送協会の学校放送ラジオ番組の総称。当時の表記で旧字体の漢字は新字体、歴史的仮名遣は現代仮名遣いで記述する。 番組一覧
学校放送前史ラジオ黎明期に日本放送協会の社会教育課が担当した児童向け教育番組として『子供の時間』、『コドモの新聞』がある。18時台の放送で学校から帰宅した児童が在宅で聴取する番組だった。 ラジオ受信機の普及台数が50万台を超えた1929年、聴取者の増加で教育番組に対する期待と要望が多くなり、第2放送の増設が認められた。1930年12月10日から始まった第2放送(東京中央放送局)の試験放送では小学生向け教育番組を12:05-12:35に編成したが、1931年4月6日に始まった本放送では、小学生向け教育番組が放課後の時間に変更され、学校放送(学校の授業時間に放送される番組)の実施は見送られた。第2放送の教育番組は義務教育を終えた人のための「普通学講座」や、社会人のための「国民講座」が中心となる。 1931年8月、東京中央放送局ではラジオ受信機を東京市内の300余りの小学校に提供し、3週間にわたって「夏季ラジオ体操の会」を開催。終了後もラジオ受信機をそのまま学校に設置することとなり、学校放送の試験番組を実施することとなった。放送期間は1931年9月2日から9月12日。尋常小学校5・6年を対象にした番組で午前の部が「読本の読み方とお話」、午後の部が関東各府県の歴史に関する「我等の歴史」を放送した。 東京・大阪・名古屋・広島・静岡などの放送局では1932年の夏休みに小学生を対象にした「夏季特別講座」を放送しているが、学校の授業時間に活用される本格的な学校放送はまだ実現していなかった。札幌中央放送局では1932年11月から1年間、小学校5・6年を対象にした講話を毎月2回、12:00-12:30の時間に放送したが、教師用テキストを発行せず、学校に対する予告も不十分であった。 大阪独自の学校放送基礎情報
解説日本放送協会の各中央放送局(現在の拠点局)では、それぞれ自主性を持ち、放送番組においても事業運営においても競争していた。特に東京と大阪のライバル意識は強く、第2放送を野球などのスポーツ中継に活用し始めた東京中央放送局に対し、大阪中央放送局は第2放送の開局と同時に本格的な学校放送を開始しようと計画。1932年8月、奈良女子高等師範学校の西本教授を嘱託として第2放送による教育番組の研究を委嘱した。 1933年6月26日、大阪中央放送局の第2放送が開局。2学期開始の9月1日から日本初の本格的な学校放送が開始される。幼稚園・尋常小学校1年向けの「幼児の時間」は授業時間中に放送されるが、「学校へのラジオ体操」は授業時間前、「学校への音楽」は昼休み、「小学生の時間」と「教師の時間」は放課後に放送された。 1934年1月11日から教師用テキスト「教育放送通信」を毎週木曜日に発行することとなった。逓信省から「教育放送」という名称は文部省を刺激するから改題して欲しいという意見が出され、第6号から「教養講座通信」に改題した。その背景にラジオ放送の教育番組に対する、逓信省と文部省の管轄権問題があり、学校放送の本格実施が遅れた一つの原因になっていた。 放送番組
全国学校放送基礎情報
解説1933年4月15日、学校放送の日本全国放送が始まった。当時、東京・大阪・名古屋だけの開局となっていた第2放送ではなく、日本全国同時放送を実現させるため第1放送で放送された。 放送番組
国民学校放送基礎情報
解説1941年4月1日に施行された国民学校令により、「国民学校放送」に改題、戦争色の濃い放送を行った。 1941年9月2日、文部省は学校放送を正式に教材として公認し、その番組を指定した[2]。 戦況の悪化により、印刷用紙統制によって紙の供給が得られなくなり、1944年3月をもって教師用テキストが休刊。また、放送設備と受信機用の真空管が不足し、現存する真空管の寿命を長持ちさせるため、1945年3月31日をもって「国民学校放送」を休止。代わりに18時台の「少国民の時間」で学校向け番組を代替放送することとなった。 放送番組
終戦直後基礎情報解説終戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の民間情報教育局(CIE)の指導、民間検閲支隊(CCD)の検閲下で学校放送の再開が検討され、1945年10月22日から教師向け番組、1945年12月3日からは児童向け番組が再開された。 当時の学校制度では国民学校のままであったが、終戦後の学校放送再開とともに、番組名から「国民」が外れ、「ラジオ学校放送」としていた。また、国民学校高等科(現在の中学校1年 - 2年)を対象にした番組名が「高等科の時間」(1945年12月 - 1946年3月)→「中等科の時間」(1946年4月 - 12月)→「中等高等科の時間」(1947年1月 - 3月)と短期間に改題されていた。 放送番組
1947年度以降の沿革学制改革1947年4月の学制改革により、1947年度1学期から小学校向け、2学期から中学校向けの番組が開始された。1947年度2学期から1948年度1学期にかけて一教科集中編成を実施した後、1948年度2学期より本格的な学校放送を再開することができた。
第2放送に移行学校放送は急速に発展し続け、番組数と総放送時間の増加でNHKラジオ第1放送の一般番組の放送枠を圧迫するまでになった。そこで学校放送番組をNHKラジオ第2放送に移行させる計画が進められる。試験的に1950年4月から学校放送の再放送が第2放送で開始されるが、NHK局内や学校関係者から次のような反対意見が出される。
それらの不安を解消するため、学校放送番組の質的量的の充実、第2放送の未開局地域は札幌・秋田・東京・大阪・熊本の大出力局を受信することの周知徹底を実施。1953年4月、NHKラジオ第2放送への完全移行が実施された。
小学校の時間基礎情報
国語
理科
社会
音楽
道徳
中学校の時間基礎情報解説1947年9月から1948年7月までは小学校高学年の番組枠を間借りしており「七年生の時間」「八年生の時間」「九年生の時間」の番組名で放送していた。1948年9月から1951年3月まで中学校・高等学校向けの「中等高等学校の時間」として放送した後、1951年4月から独立番組枠「中学校の時間」が開始された。 学校放送の中学校向けラジオ番組で学校利用率が最も高かったのは道徳番組であり、1995年3月の中学校向けラジオ番組廃止まで放送し続けた。 国語
理科
社会
英語
音楽
道徳
その他
ラジオクラブ『(夏・冬・春)のラジオクラブ』は1950年7月から2014年3月まで、学校の夏・冬・春休み期間中にNHKラジオ第2で放送されていたラジオ番組。 対象番組枠は幼稚園・保育所の時間、小学校の時間、中学校の時間、高等学校の時間、教師の時間。 学校放送の集中再放送のほかに、通常番組の夏休み特別編(『かんちゃんのえにっき』→『かんちゃんの夏休み』、『健三の日記』→『健三の夏休み』など)も放送していた。 ひる休みのおくりもの基礎情報
概要小中学校の昼食時に音楽を流し休憩時間に楽しく過ごしてもらうためのラジオ番組。NHK全国学校音楽コンクールの課題曲指導や全日本学校関係緑化コンクールの入選作文などを紹介した。 PTAの時間基礎情報
概要番組内容は保護者と専門家の座談会や対談。1950年度は「虎の門小学校PTA」という架空のPTAを舞台にしたドラマを通して正しいPTAの在り方を紹介した。その他「ラジオPTA新聞」「地方PTAだより」などの企画を放送。 1952年9月、『私たちのPTA』に改題。1953年4月から『教師の時間』と統合され『家庭と学校』に改題して、NHKラジオ第2放送へ移行。 家庭と学校基礎情報
概要1953年3月までの放送されていた『教師の時間』と『私たちのPTA』を統合して改題した教員と保護者向け番組。後継番組は『教育相談室』。 内容
教育相談室
勉強のさせ方
教育時評
放送教育相談室
教育界の話題
参考文献
脚注
外部リンク |
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