毛利氏
毛利氏(もうりし)は、武家・華族だった日本の氏族。本姓は大江氏。家紋は一文字に三つ星(一文字三星)[1]。大江広元の四男で相模国毛利荘を領した鎌倉幕府の御家人・毛利季光を祖とし、子孫は越後国と安芸国に分かれた。 安芸毛利氏は戦国時代に西国の覇者と呼ばれた戦国大名毛利元就を出して安芸を中心に中国地方(山陽道・山陰道)10カ国を領し、江戸時代には長州藩主として長門国・周防国を領し、維新後は華族の公爵家に列した[2]。本稿では安芸毛利氏を中心に解説する。 概要鎌倉幕府政所別当・大江広元の四男で御家人の毛利季光を祖とする一族であり、名字の「毛利」は、季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利荘(もりのしょう、現在の神奈川県厚木市毛利台の周辺)を本貫としたことによる。中世を通して「毛利」は「もり」と読まれたが、後に「もうり」と読まれるようになった。 季光は宝治元年(1247年)の宝治合戦に際して三浦泰村に与して3人の子息とともに敗死。しかし、越後国佐橋荘(現在の新潟県柏崎市)と安芸国吉田荘(現在の広島県安芸高田市)を所領とした季光の四男・毛利経光は、この乱に関与しなかったため、その子孫が越後毛利氏(経光の嫡子・基親の系統)と安芸毛利氏(経光の四男・時親の系統)に分かれて存続した[2]。 安芸毛利氏は、経光から吉田荘を譲与された四男・時親が、南北朝時代の初期に吉田郡山に移住して居城を構えたのに始まる[2]。吉田荘に移った安芸毛利氏は、室町時代に安芸の有力な国人領主として成長し、山名氏および大内氏の家臣として栄えた。 戦国時代、毛利元就が出ると一代で大内氏や尼子氏を滅ぼしてその所領を獲得し、最盛期には山陽道・山陰道10か国と九州北部の一部を領国に置く最大級の戦国大名に成長した[2]。元就の息子たちが養子に入った吉川氏と小早川氏は戦国期に毛利本家の重臣として活躍し「毛利の両川(りょうせん)」と呼ばれた[3][4]。 元就の死後、孫の毛利輝元は将軍・足利義昭を庇護し、織田信長と激しく争った。だが、信長の死後、豊臣秀吉に従属して、安芸ほか8か国で112万石[5]を朱印状で安堵された[2]。また、本拠を吉田郡山城から広島城に移す[2]。輝元はその後、五大老に就任する[6]。 しかし、慶長5年(1600年)、輝元が関ヶ原の戦いで西軍の総大将となったことで、敗戦後に毛利氏は周防国・長門国の2か国36万9000石に減封された[6]。慶長9年(1604年)に輝元は長門国阿武郡の萩城に入城した[6]。以降江戸時代を通じてここを居城とした(ただし幕末に毛利敬親が藩庁を周防国の山口に移している[2])。国主(国持ち)の外様大名として雄藩の一つに数えられた。支藩として長府藩や徳山藩、清末藩があった[6]。吉川家の岩国藩は実質的には他の支藩と同様領地の自治が認められていたが、公的には長州藩主毛利家の家臣として扱われていたため、その領地は「岩国領」と称されていた[7]。 江戸時代末期には、藩主・毛利敬親の改革が功奏し長州藩から数々の志士が現れ、明治維新を成就させる原動力となった。維新後に華族となり、長州藩の毛利宗家は公爵[8]、支藩の毛利家3家は子爵に列し[9]、毛利宗家の分家の毛利五郎家[10]および一門家臣だった右田毛利家と吉敷毛利家が男爵に列した[11]。また、江戸時代初期に無嗣で改易されていた小早川家が毛利元徳の余子を当主にして再興され、この家も男爵に叙されている[12]。明治期には毛利公爵家は島津公爵家、前田侯爵家に次ぐ富豪華族だった[13]。 歴史鎌倉時代から室町時代まで![]() 毛利季光は大江広元の四男で相模国毛利荘を父から相続したため、毛利氏を称するようになった。したがって、毛利家・毛利氏としては季光を初代とするのが相当であるが、毛利家の慣習上、天穂日命を初代とするため、季光は39代とされている。 だが、季光は北条時頼の義父であったにもかかわらず、三浦泰村と結んで北条氏に反旗を翻したため、敗北して一族の大半が果ててしまった(宝治合戦)。越後にいた季光の四男・経光は合戦に関わらず、その家系が残った。同族の長井氏の尽力により越後・安芸の守護職を安堵された経光は、嫡男・毛利基親に越後国刈羽郡佐橋荘南条を譲り、四男・時親に安芸国吉田荘を譲った。 毛利時親は鎌倉時代後期、京都の六波羅探題の評定衆を勤めたが、姻戚関係(義兄)のあった内管領の長崎円喜が執権北条高時に代わり、幕府で政権を握っているのを嫌って隠居し、料所の河内国へ隠棲する。 元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こり、足利尊氏らが鎌倉幕府を滅亡させるが、毛利時親は合戦に参加せず、後醍醐天皇により開始された建武の新政からも距離を置いたため、鎌倉幕府与党として一時領土を没収された[14]。 南北朝時代には足利方に従い、時親の曾孫にあたる毛利元春が、室町幕府より九州の南朝勢力であった懐良親王の征西府を討伐するために派遣された今川貞世(了俊)の指揮下に入り活躍している[15]。元春は安芸に下向し、吉田郡山城にて吉田荘の統治を始め、隠居していた曽祖父の時親が元春を後見した。 戦国時代![]() 安芸国の国人として土着した毛利氏は一族庶家を輩出し、室町時代中期には庶家同士の争いが起きたものの、安芸国内では屈指の勢力になった。しかし、毛利煕元、 毛利豊元、毛利弘元の時代には山名氏・大内氏という大勢力の守護に挟まれ去就に苦労することになる。毛利興元、毛利幸松丸の代には、大内氏と尼子氏とが安芸を巡って争い、安芸国内の国人同士の争いも頻発した。 毛利氏は当主の早死にが続いたこともあり勢力は一時衰えたが、興元の弟である毛利元就が当主となると、元就はその知略を尽くして一族の反乱や家臣団最大派閥の井上氏の粛清、石見国の高橋氏など敵対勢力を滅ぼし[16]、さらに有力国人である安芸国の吉川氏に次男である元春を、小早川氏に三男の隆景を養子に入れて家を乗っ取るなど勢力を拡大する。元就は長男の毛利隆元に家督を譲ったのちも戦国大名として陣頭指揮を続け、大内義隆に謀反し、大内氏を事実上乗っ取った陶晴賢を弘治元年(1555年)の厳島の戦いで破った[17]。 弘治3年(1557年)、晴賢の傀儡であった大内義長を攻め滅ぼし[18]、大内氏の旧領をほぼ手中にする。その後は北部九州に侵入し、筑前国や豊前国の秋月氏や高橋氏を味方につけ[19][注釈 3]、大友氏とも争った。同3年、吉川・小早川が安芸毛利当主家運営への参画、補佐することを条件に隆元(元就の長男)が毛利家の家督を継いだ。こうして、毛利当主家を吉川家と小早川家で支える体制が成立し領国支配を盤石なものとし、これを後世毛利両川体制と呼ばれることになった。永禄3年(1560年)には隆元が幕府から安芸守護に任じられている[20]。 永禄6年(1563年)、隆元が早世し[21]、長男の毛利輝元が若くして家督を継ぐと、元就・元春・隆景が後見した。永禄9年(1566年)に輝元は元就とともに仇敵の尼子氏を滅ぼして[22]、中国路(安芸・周防・長門・備中・備後・因幡・伯耆・出雲・隠岐・石見)を領有し、西国随一の大名となった。さらに旧主家の残党である大内輝弘を退け(大内輝弘の乱)、尼子氏の残党にも勝利した。 さらに、輝元は織田信長に追放された将軍・足利義昭を庇護し、天下統一を目指す信長の西国侵攻に対する最大の抵抗勢力となり、覇を争った。だが、天正10年(1582年)に信長が本能寺の変により自害し、中国攻めの織田軍の指揮を執る羽柴秀吉は中国大返しのために毛利家と和睦を結んだ[23][24][25]。 桃山時代![]() 毛利輝元は秀吉に臣従し、天正13年(1585年)に安芸国、備後国、周防国、長門国、石見国、出雲国、隠岐国に加え、備中・伯耆両国のそれぞれ西部を安堵された[23]。朱印状における毛利家の総石高は112万石であり[23]、ほかに四国と九州で安国寺・小早川が輝元とは別に所領を得た。
「安芸 周防 長門 石見 出雲 備後 隠岐 伯耆三郡 備中国之内、右国々検地、任帳面、百拾二万石之事」[26] 内訳は
豊臣秀吉の天下統一後、輝元は吉田郡山城から地の利の良い瀬戸内海に面した広島城を築城し、本拠を移した[28]。また、文禄4年(1595年)の秀次事件ののち、輝元は豊臣政権の五大老の一人となった[23]。 慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、政権内で台頭する徳川家康と五奉行の石田三成の対立が深まった[29]。翌慶長4年(1599年)に三成が失脚すると権力を増大させた家康が毛利氏の所領問題に介入したため、毛利氏と家康の対立関係が生じた[30]。 福島正則や黒田長政ら豊臣恩顧の有力大名が家康の味方に付く中で毛利輝元の政権内の立場も微妙なものとなっていった[31]。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いにあたって輝元は西軍の総大将に推されて1万の兵を率いて大阪城に入り、西国の大名に回状を送り、徳川方の大名と戦うことを求めた[32][33]。また養子の毛利秀元と一族の吉川広家を出陣させた。しかし広家は黒田長政を通じて決戦への不参加を条件に毛利家の所領の安堵の密約を家康との間に結び、9月15日の関ヶ原の戦いでは動かずに逆に友軍の長宗我部軍や長束軍を牽制して東軍の勝利に貢献した[31]。この密約を輝元や秀元が知らされたのは戦いが終わってのことだった[31]。 関ヶ原の合戦は東軍の勝利に終わるが、大阪城にはその後も豊臣秀頼を擁する毛利輝元が残っており、毛利秀元や立花宗茂らはこの城に籠城して最後の決戦を挑むことを主張した[31]。これを恐れた家康は福島正則や黒田長政、井伊直政、本多忠勝らを通じ、毛利家の本領安堵を条件に輝元の大阪城退去を広家に要求し、広家は輝元を説得。9月25日に約束を信じた輝元は大阪城を退去し、代って9月27日に家康が大阪城に入城し天下に号令する体制を整えた[31]。途端に家康の態度は一変して本領安堵の条件を反故にし[31]、輝元の西軍の総大将としての積極的な活動が明らかになったとして[34][32]、毛利家の所領全域を没収してそのうち一カ国か二カ国を広家に与えると通告してきた[31]。これに驚いた広家は改めて毛利家の所領の安堵を懇願し、受け入れられない場合は自害する決意を示した。結局、家康は毛利家の領国のうち防長二国のみを輝元に保証する誓書を与えた[35]。 家康の欺瞞によって、最盛期には中国地方全域を支配し、120万石を領した毛利家は、四分の一でしかない周防国・長門国(長州藩)2か国29万8千石に領地を削られた[36][37]。輝元はこれと同時に家督を長男の秀就に譲り、仏門に入って法号を宗瑞と名乗ったが、このことは家康への怒りと先祖に詫びる気持ちがあったからだと考えられている[38]。後に西南の雄藩として幕末維新の政局を主導することになる長州藩の実力と気骨の底流には、この苦難の立藩を強いられて以来培われた負けん気と反徳川の精神風土があったといわれる[36]。 江戸時代![]() 1603年(慶長8年)10月に輝元が周防国山口の覚王寺に入った後(まだ城がなかったので)、毛利家は幕府に対して、新しい居城地として防府・山口・萩の3か所を候補地として伺いを出したところ、萩への築城を幕府に命じられた。瀬戸内海に面した便利なところは望ましくないということから萩への築城が命じられたものと思われる[39]。萩は交通に不便な地であった[40]。萩城の工事は埋め立てから始めなければならず難航したが、慶長13年(1608年)に完成した[40]。以降萩城は毛利家の居城・長州藩庁となるが、幕末には多難な国事に対応するため地の利がいい山口に藩庁が移された[40]。 萩城築城と同時に1607年(慶長12年)から1608年(慶長13年)にかけて領内の再検地をおこない、その結果53万9286石余と算出された。しかし幕府は敗軍の毛利家に高い表高は認めず、1613年(慶長18年)に公認したのは30パーセント減の36万9411石余だった[41][42]。以降この表高は明治維新まで変わることはなかったが[41]、その後の新田開発などにより、実高(裏高)は1625年(寛永2年)の第二回検地では本藩と支藩を合わせて66万石[42][43]、1686年(貞享3年)の本藩領だけの検地で63万石[42]、1761年(宝暦11年)には本藩領検地だけで約71万石を検出[42]。この後には検地は実施されていないが、幕末期の内検高は100万石以上だったと推定されている[42]。 1600年(慶長5年)に毛利秀元が長府藩、吉川広家が岩国藩、1617年(元和3年)には輝元の次男・毛利就隆が下松藩(後に徳山藩)、1652年(承応2年)には毛利秀元の三男・元知が清末藩を立藩しており、長州藩の4支藩が成立した[44]。 1719年(享保4年)には毛利吉元により藩校の明倫館が開かれ、長州藩の文教政策の中心的役割を果たすようになった[45]。江戸時代中期、毛利重就が藩主になると、宝暦の改革とばれる藩債処理や新田開発などの経済政策を行われた。 江戸時代後期の1825年(文政8年)には長州藩で戸籍制度が創設された。この制度が明治政府により受け継がれ、京都に始まり、やがて全国民を対象とした戸籍制度が創設されることになる[46]。文政12年(1829年)には産物会所を設置し、村役人に対して特権を与えて流通統制を行っている。 ![]() 毛利敬親(慶親)が藩主となった後の天保8年(1840年)以降、村田清風を登用した天保の改革を行われ、倹約による財政立て直しが図られるとともに下関港に「下関物産総会所」という大阪と北海道、日本海沿岸各地を行き来する他藩の船の積み荷を保管したり、販売を代行したり、資金を融通する公営の公益企業局を設置することで交易を盛んにして長州藩は大きな財力を付けた[47]。すでにこの時期産業革命を達成した西洋列強が日本近海にも勢力を伸ばし始めていたが、本州の西端にあって三方を海に囲まれている長州藩はこうした国際情勢に敏感であり、早くから洋学を積極的に取り入れて西洋医学を教える医学所などを次々と設立した[48]。ペリー来航後には周布政之助が登用されて財政再建とともに西洋列強の外圧に対抗するため西洋の近代的軍制を模範とした軍制改革が実施された(安政の改革、安政の軍制改革)[49]。さらに1865年(慶応元年)には高杉晋作ら討幕派の政権が成立したことで幕府の再征に備えて大村益次郎を登用しての更なる軍制改革が進められた。特に士官教育システムの構築に力を入れ、短期間で優秀な士官を続々と輩出し、この後の対幕府戦でその力を大いに発揮した[50]。 こうした一連の藩政改革が功を奏し、長州藩毛利家は幕末最大の雄藩の一つとなり、吉田松陰や高杉晋作、桂小五郎、伊藤博文などの人材を輩出した。幕府から長州征討などによって圧迫を受けたものの、これを退けることに成功し、幕府は醜態をさらし続ける中で滅亡して明治維新が成就した[51]。 明治以降明治維新後、毛利氏からは7家の華族家が出ている(公爵家1家、子爵家3家、男爵家3家)。 毛利公爵家最後の山口藩主毛利元徳は、明治2年(1869年)6月17日に版籍奉還で山口藩知事に任じられるとともに華族に列した。同年6月、元徳および前藩主毛利敬親の維新への多大な功績により島津家と並ぶ最高額の10万石の賞典禄を下賜された[52]。明治4年(1871年)3月28日に敬親が死去したが、維新の功により従一位[53]、ついで正一位が追贈されている[54][55]。元徳は、同年7月14日の廃藩置県まで山口藩知事を務めた[53]。 版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で2万3276石[56][注釈 4][57]。明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と賞典禄(実額2万5000石)の合計4万8276石と引き換えに支給された金禄公債の額は110万7755円12銭5厘の巨額に及び、この額は島津家(132万2845円)、前田家(119万4077円)に次ぐ第3位の高額だった[58][59]。明治前期の元徳は麝香間祗候を務め、住居は東京府芝区高輪南町にあった。当時の家扶は、東条頼介、井上庸一、笠原昌吉[60]。 明治10年(1877年)に華族たちによって第十五国立銀行が創設された際には、元徳は6425株を保有して島津忠義(7673株)、前田利嗣(6926株)に次ぐ大株主となっている[61]。 明治17年(1884年)7月7日の華族令施行により華族が五爵制になると、元徳は最上位の公爵に叙せられた。叙爵内規上毛利宗家の家格のみでの爵位は旧大藩知事(現米15万石以上)として侯爵だったが[62]、維新への多大な功績が加味されて公爵に列せられた[63]。また従一位勲一等に叙せられた[55]。 元徳は明治29年に死去、維新の功績によりその葬儀は国葬をもって執り行われた[64]。旧大名で国葬を許されたのは彼と島津忠義の2人のみである(敬親の時はまだ国葬制度がなかった)。その後、長男の元昭が爵位を継承した[54]。 明治31年(1898年)の日本国内の高額所得者ランキングによれば毛利元昭公爵の年間所得は18万5069円に及び、7位にランクインしている(華族でこれより上位なのは前田侯爵家の3位26万6442円と、島津公爵家の5位21万7504円の2家のみ)[65]。 明治41年(1908年)、戦国時代に皇室の様々な儀式が金欠で廃絶してしまっていたことを嘆いた毛利元就が朝廷に多額の寄付を行ったことについて勤王の功を称されて、元就に正一位が追贈された[66]。 1920年代以降、毛利公爵家は所有する土地を世襲財産(華族は政府の一定の管理下のもとに差押を受けない世襲財産を設定することができた)から解除して国債や有価証券に変更することで収入基盤を地代から配当収入へと変えていったが、これにより1930年代後半の経済恐慌で収入が縮小した[67]。 昭和13年に元昭が死去し、長男の元道が爵位を継承。彼は陸軍士官学校を卒業し、陸軍中佐まで昇進した陸軍軍人だった[54][55]。 毛利公爵家の邸宅は山口県防府市三田尻町(三田尻御茶屋)と東京府東京市芝区高輪にあったが[55]、大正5年(1916年)には防府市多々良に新たな本邸として多々良邸が建設された。同邸は完成直後に大正天皇の行幸、大正11年(1922年)には貞明皇后の行啓を賜った。昭和22年(1947年)にも全国巡幸中の昭和天皇、ついで昭和31年(1956年)にも昭和天皇と香淳皇后の御宿泊があった。1966年(昭和41年)に明治百年を記念して毛利家から土地・邸宅、伝来の国宝や重要文化財などの家宝の寄付を受けて財団法人防府毛利報公会が発足し、毛利博物館として一般公開されるようになった[68]。 元道の長男は毛利元敬。 毛利子爵家(長府)明治元年3月に隠居した長府藩主毛利元周と、その養子で長府藩主を継承した毛利元敏(長府藩主毛利元運六男)は、幕末に本藩の長州藩を補佐し、戊辰戦争でも戦功を挙げたため、明治2年(1869年)6月2日に賞典禄2万石を下賜された[69]。同年6月20日に藩名を豊浦藩と改名し、26日に版籍奉還で藩知事に転じるとともに華族に列する。明治4年7月14日の廃藩置県まで藩知事に在職[70]。 版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で3997石[56][注釈 4][57]。明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と賞典禄(実額5000石)の合計8997石と引き換えに支給された金禄公債の額は21万7092円9銭(華族受給者中30位)[59]。明治前期の元敏の住居は東京府北豊島区駒込染井町にあった。当時の家扶は、荘原好一[60]。 華族令施行後の明治17年(1884年)7月8日に旧小藩知事[注釈 5]として元敏が子爵に叙された[71]。 元敏は明治41年4月25日に死去し、長男元雄が爵位を継承。元雄は陸軍中尉まで昇進した陸軍軍人だった[72]。元雄の代の昭和前期に子爵家の住居は東京市麻布区材木町にあった[72]。 元雄は昭和20年8月16日に死去し、その孫の元海が爵位を継承[69]。
毛利子爵家(徳山)最後の徳山藩主毛利元蕃は、慶応4年・明治元年(1868年)に鳥羽伏見の戦いや出羽国での戦いで戦功を挙げ、その勲功により、明治2年(1869年)6月5日に賞典禄8000石を下賜され[73][74]、さらに同年の函館の戦いの戦功で更に5000石を3年間の年限で下賜された[73]。同年6月26日に版籍奉還で藩知事に転じるとともに華族に列する。明治4年6月19日に廃藩置県を前に上表して藩知事を辞して廃藩し、藩領は山口藩に合併された[74]。 元蕃は明治4年9月2日隠居し、長府毛利家の毛利元運八男で元蕃の六女壽美と結婚した元功が婿養子として家督相続[75]。 版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で2141石[56][注釈 4][57]。明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と賞典禄(実額2000石)の合計4141石と引き換えに支給された金禄公債の額は12万4174円16銭1厘(華族受給者中59位)[76]。明治前期の元功の住居は東京市芝区高輪南町にあった。当時の家扶は、櫻井蕃香[60]。 華族令施行後の明治17年(1884年)7月8日に旧小藩知事[注釈 6]として元功が子爵に叙された[71]。 元功は明治33年8月8日に死去し、長男の元秀が爵位を継承[75]。彼の代の昭和前期に徳山毛利子爵家の邸宅は東京市目黒区中目黒にあった[77]。 元秀は昭和17年5月30日に死去し、長男の元靖が爵位を継承[75]。 毛利子爵家(清末)最後の清末藩主毛利元純は、明治2年(1869年)6月26日の版籍奉還で藩知事に転じるとともに華族に列し、明治4年7月15日の廃藩置県まで藩知事に在職した[78]。 版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で760石[56][注釈 4][57]。 明治8年3月12日に元純が死去し、長男の元忠が家督相続[79]。 明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は3万3780円96銭2厘(華族受給者中159位)[80]。明治前期の元忠の住居は東京府芝区伊皿子町にあった。当時の家扶は、片見小次郎[81]。 華族令施行後の明治17年(1884年)7月8日に旧小藩知事[注釈 7]として元忠が子爵に叙された[71]。元忠は貴族院の子爵議員に当選して務めた[79]。 大正2年12月17日に元忠が死去し、長男の元恒が爵位を継承[79]。彼は小野田セメント株式会社取締役や三岐鉄道株式会社監査役など実業家として活躍しつつ、貴族院の子爵議員に当選して務めた[82]。彼の代の昭和前期に清末毛利子爵家の住居は東京市渋谷区代々木初台町にあった[82]。 毛利男爵家(五郎)当家は毛利宗家公爵家の分家である。毛利元徳公爵の五男毛利五郎が明治25年3月に分家して別戸を編製し、父元徳の勲功により特旨により男爵に叙せられたのに始まる[83][84][10]。 五郎は明治30年より貴族院の男爵議員に4回当選して大正14年の死去まで務めた[83][84]。また第百銀行取締役を務めた[84]。 五郎の死後の大正15年に元良が爵位を継承[85]。彼の代の昭和前期に男爵家の住居は東京市品川区北品川にあった[84]。 毛利男爵家(右田)→詳細は「右田毛利家」を参照
当家は天野遠景の後裔と伝わり、天野を称して安芸国に住し、戦国時代に毛利氏に仕え、毛利元就の八男元政が養子に入ったことで毛利の家名を許され、江戸時代には周防国右田1万7000石を領する長州藩一門家臣として続いた[86]。 幕末維新期の当主毛利元統の養子毛利親信(藤内)は、幕末に国事に奔走し、鳥羽伏見の戦いや東征でも戦功を挙げた。その後明治4年に家督し、第百十国立銀行を創設してその頭取を務めた[86][87]。 親信が明治18年に死去した後、養子(元統の次男)の祥久が家督相続[86]。祥久の代の明治30年10月に先代親信に維新の功があること、旧万石以上陪臣家であること、華族の体面を保てるだけの財産を保有していることなどから華族の男爵に叙せられた[88]。 昭和10年に祥久が隠居した後、長男の重雄が爵位を継承。彼は野田神社の宮司を務めた[86]。重雄の代の昭和前期の男爵家の住居は山口県佐波郡右田村にあった[87]。 毛利男爵家(吉敷)→詳細は「吉敷毛利家」を参照
当家は毛利元就の十一男秀包を祖とし、13万石を領する久留米城主だったが、関ヶ原後に所領を没収され、宗家の長州藩主毛利家に仕え、江戸時代には周防国吉敷1万1000石余を知行する一門家臣家として続いた[86]。 幕末維新期の当主元一は維新に軍功があった[86]。その養子重輔の代の明治33年5月に至り、旧万石以上陪臣家であること、華族の体面を保てる財産を保有していることなどから華族の男爵に叙された[89]。重輔は米国留学し工部省の鉄道技師を経て、日本鉄道会社社長を務め、日本鉄道界の発展に貢献した[90]。 明治34年に重輔は死去し、養子(右田毛利の親信の次男)の忠三が爵位継承。忠三も京都帝国大学工科卒業後に米国留学し、鉄道院技師となる[90]。大正12年に忠三が死去した後、その長男忠男が爵位を継承[86]。彼の代の昭和前期に男爵家の住居は東京市大森区田園調布にあった[90]。 非毛利姓の分家や非華族の分家毛利氏の庶流に当たる旧岩国藩主家の吉川家ははじめ陪臣系諸侯と見做されて男爵だったが、維新の功により華族の子爵に陞爵している[12]。また戦国時代に吉川家と並んで「毛利の両川」と称されるも、江戸時代初期に無嗣で改易されていた小早川家が毛利元徳の余子を当主にして再興され、この家も華族の男爵に叙されている[12]。 右田毛利家と吉敷毛利家以外の一門家臣だった大野毛利家、厚狭毛利家、阿川毛利家の3家は万石以下だったため授爵されず士族にとどまった[91]。 毛利宗家の旧臣である大村益次郎の養孫・大村寛人子爵の養子に元徳の六男・徳敏が入ったため、これ以降大村益次郎家は実質的に毛利分家となっている[92]。西園寺公望公爵の養子には元徳の八男・八郎が入っており、以降西園寺家も実質的に毛利分家となっている[93]。他に秋元興朝子爵の養子として徳山毛利家の毛利元功子爵の三男・春朝、大岡忠量子爵の養子として元功の末息子の忠礼が養子に入っているので旧館林藩主・秋元子爵家や、旧岩槻藩主・大岡子爵家は実質的に徳山毛利家の分家として続いている[94]。 また長府毛利家の毛利元雄子爵の弟元智は、同家の旧臣だった陸軍大将乃木希典伯爵が明治天皇の崩御の際に殉死したことで絶家した乃木伯爵家の「再興」の御沙汰書を受けて伯爵に列しているが、乃木大将が遺言で養子や絶家再興を断っていたことから、民法上の廃絶家再興の規定ではなく、別の法律に基づく一家創設により毛利家から分家して乃木姓の別戸を編製している。だが、これについて事実上乃木大将の遺志を無視していることへの批判や、分家の際に創氏の自由はあるのかという法律論争が起きたうえ、昭和期には元智の娘の家出事件などがあって世情の批判を買うところが多く、結局昭和9年に至って不肖の自分が軍神の家名を背負うのは荷が重いとして、爵位返上に至っている(詳細は「乃木家 (伯爵家)#毛利元智による乃木伯爵家「再興」について」参照)[95]。その後、元智は長府毛利子爵家の戸籍に復した後、同年中に改めて分家して平民籍の毛利元智家の戸主となっている[96]。 歴代当主毛利宗家
徳山毛利家
長府毛利家
清末毛利家
毛利五郎家
右田毛利家→詳細は「右田毛利家」を参照
吉敷毛利家→詳細は「吉敷毛利家」を参照
厚狭毛利家→詳細は「厚狭毛利家」を参照
阿川毛利家→詳細は「阿川毛利家」を参照
大野毛利家→詳細は「大野毛利家」を参照
系譜
家訓毛利元就が三人の息子に宛て団結の精神を説いた「十四カ条の教訓状」は、三本の矢という逸話が生まれたことで有名である[98]。その団結の精神は家臣にも広げられ[98]、家臣を大切にというのが毛利家の基本方針であり、家臣もまた「殿様」を大切にした。その絆の強さが長州藩の特色だった[97]。萩の菩提寺である大照院と東光寺の藩主たちの墓の前に立ち並ぶ燈篭は、家臣の殉死をやめさせるために殉死の代わりに燈篭を収めさせたのが始まりであったという[97]。藩主と家臣、本家と分家の絆と団結力を支えたのは関ヶ原の戦いで中国地方八カ国120万石支配権の保証の密約が反故にされて防長二カ国36万石に削減された痛恨の歴史からくる「反幕府」の想いがあった[99]。この毛利家と家臣たちの絆の強さが長州藩を薩摩藩と並ぶ近代日本の夜明けをもたらす原動力に押し上げた[100]。 通字と元服時の名前![]() 毛利家では、元服時に通字である「元」(もと)のついた名(諱)を名乗るのが慣例となっていた(家祖である大江広元にちなむ)。家督継承者(当主となる嫡子)は山名氏・大内氏・豊臣家・将軍家(足利・徳川)など有力者の偏諱を受け「○元」(山名時熙の偏諱を受けた熙元、山名是豊の偏諱を受けた豊元、大内政弘の偏諱を受けた弘元、大内義興の偏諱を受けた興元、大内義隆の偏諱を受けた隆元、室町幕府第13代将軍・足利義輝の偏諱を受けた輝元)と名乗り、次男以降は当主となった兄から偏諱(元の1字)を受ける形で「元○」(兄興元の偏諱を受けた元就、兄隆元の偏諱を受けた吉川元春など)と名乗った。輝元の従弟にあたる毛利秀元も一時期輝元の養嗣子であったため「○元」の名乗り方で元服し、豊臣秀吉の偏諱を受けた。その後、輝元には秀元に代わって世子となる実子の秀就が生まれ、豊臣秀頼の偏諱を受けたが、秀元と名乗りの重複を避けるため元就の1字を取っている。また、豊臣政権時代は豊臣の氏・羽柴の名字をともに賜った。 秀就の子・綱広以降の江戸時代には偏諱を受ける相手は徳川将軍となり(称松平・賜偏諱の家格とされた)、世子は元服時に将軍の偏諱(○)を受け、「○元」などと名乗る習わしとなったが、秀就をきっかけに「○元」と名乗る慣例は崩れ、他に「○広」「○就」「○房」「○親」「○熙」など祖先にちなむ字を使用するケースもみられるようになった。ところが幕末には、13代長州藩主・慶親(67代)と世子・定広(68代)が、禁門の変の処分としてそれぞれ慶・定の字(徳川家慶・家定からの偏諱)を剥奪の上、敬親・広封と改名させられた(広封は明治維新後に元徳と改名)。 大政奉還後、華族最高位の公爵を授爵された毛利氏は、身分的に徳川氏の風下に立つことはなくなり、誰からも偏諱を受けることはなくなった。また、明治5年太政官布告149号(通称実名併称禁止)により毛利家においては諱を名乗ることとなり、同年太政官布告235号(改称禁止令)により出生時の命名が基本となり、元服時に新たに名を付けることは禁止された。以後歴代、出生時に(元)を頭に据え「元○」の形で名づけることとなった。 家紋毛利家の家紋は、定紋を「一文字に三つ星(一文字三星)」、替紋を「長門沢瀉」(ながとおもだか)とする[1]。下賜された紋としては、十六菊(正親町天皇から)と五七桐(足利義昭から)がある。具体的な使用は不明であるが、『見聞諸家紋』で安芸毛利として掲載されている紋は「吉文字に三つ星」である。同史料では一文字に三つ星も長井・竹藤・萩とともに連名で掲載されている。 ![]() 定紋の「一文字に三つ星」は別名、長門三つ星ともいうが、同図案の家紋は長門毛利氏に限らず長井氏などの大江氏の氏族によって使用されている[1]。分家筋の徳山藩、府中藩の毛利家も同様の構図で一文字の図案を少し変えた一文字に三つ星を使用している。「一文字に三つ星」を分解すると、一文字は「かたきなし」(無敵)の意味を持ち、三つ星は軍神として信仰のあった将軍星(オリオンのベルト)を表している。全体的な形は、律令制における最高位を意味する「一品」(いっぽん)という文字を表している[101]。 ![]() 替紋の「長門沢瀉」は沢瀉紋の抱き沢瀉であり、中央の花序を抱くように2つの沢瀉の葉が描かれている。毛利元就が戦の前に勝虫であるトンボが勝戦草であるオモダカに止ったことを見て戦勝したことに因んで、家紋として使われたものである。関ヶ原の戦い以降は、定紋の一文字三つ星に替って徐々に使用頻度を増やした[102]。 逸話
家臣団以下、主に戦国期(元就・隆元・輝元期)に毛利氏の家臣であった人物や、毛利氏の麾下にいた国人達を取り上げている。 →「長州藩の家臣団」および「Category:長州藩士」も参照
一門衆庶家衆国人衆
家臣
安芸毛利氏以外の毛利家越後毛利氏安芸毛利氏とは経光を共通の先祖に分かれた同族。経光から越後国佐橋荘を継承した嫡男の基親に始まる。その孫・毛利経高の子孫(佐橋毛利氏)は代々、上杉氏に仕え越後(城主としては上野国沼田など)・会津(城主としては白河小峰)・米沢(城主としては荒砥)と移転した(北条毛利氏・安田毛利氏。江戸後半から安田が毛利を名乗り[注釈 8]宗家となる)。幕末の家老・毛利安積は上杉茂憲が米沢県(のち置賜県)知藩事となると、大参事(知藩事に次ぐ副官。現在の副知事に当たる)に就任した[106][注釈 9][107] 。 佐伯毛利家→詳細は「毛利氏 (藤原氏)」を参照
豊臣秀吉子飼の戦国武将毛利高政を祖とする佐伯毛利氏はもとは「森」という家名であり、安芸毛利氏と同族ではないが、同家の「毛利」の家名は毛利家の人質になっていた高政が毛利輝元から苗字をもらって森から改めたものである[108]。 江戸時代には2万石の豊後国佐伯藩主として続き、毛利高謙の代の明治2年(1869年)に佐伯知藩事に転じたを経て、1871年(明治4年)の廃藩置県を迎えた[109]。毛利高範の代の1884年(明治17年)7月8日に子爵に列した[9]。佐伯毛利子爵家の邸宅は東京市淀橋区柏木にあった[110]。 脚注注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンク |
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