ささきいさお
ささき いさお(1942年5月16日[1][5][6][7] - )は、日本の男性歌手、俳優、声優、ナレーター、ラジオパーソナリティ、司会者。 東京都目黒区[8][9]出身。身長175cm[1][5]、体重70kg[1][5]。血液型はA型[5]。妻は声優の上田みゆき[4]。所属事務所は長良マネジメント[9]。現在は、長良グループ(株)ワン・ペアー[5]。 本名および旧芸名(別名義)は佐々木 功[1][4](読み同じ)。活動内容によって「佐々木功」「ささきいさお」と名義を使い分けていた時期もあったが、現在は活動の区別なく平仮名表記の「ささきいさお」を用いている(詳細は後述)。 代表曲「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」などアニメソングで多くのヒット曲を持つことから「アニメソング界の大王」と呼ばれ[10][11]、水木一郎・堀江美都子・大杉久美子とともに「アニメソング四天王」の一人に数えられている[12][注 1]。 来歴高校時代より歌手として活動。1960年、日本コロムビアより「本命はお前だ」(エルヴィス・プレスリーの日本語カバー曲)でロカビリー歌手としてデビュー[15]。ささきの雰囲気がプレスリーに似ていたことから「和製プレスリー」のキャッチフレーズで売り出していた。 歌手業と並行して俳優活動もはじめ、1960年には大島渚の監督映画『太陽の墓場』の主役に抜擢され、松竹の専属俳優として松竹ヌーヴェルヴァーグの映画に数多く出演[15]。1962年に『この先カーブあり』でテレビドラマ初出演[15]。 1964年、クラウンレコードに移籍[15]。ヌーヴェルヴァーグ路線が終わり、ロカビリーブームも去ると、俳優活動・歌手活動ともに不遇の時代を迎える。この不遇の時期に島田敬穂(島田歌穂の父)から指導を受け歌唱・発声を基礎から学び直す。また、俳優としても1967年から約10年間、金子信雄主宰の演劇人クラブ「マールイ」に参加し演劇の基礎を学ぶ[15]。 1968年、エルヴィス・プレスリーの主演映画『燃える平原児』において、プレスリーの日本語吹き替えを担当[15]。これ以降、声優としての活動も行うようになる。『マイティ・マウス』にてマイティ・マウス役を担当、アニメーション作品初出演[16]。 1969年、テレビドラマ『妖術武芸帳』で主演[15]。1972年、声優としてテレビアニメ『科学忍者隊ガッチャマン』にてコンドルのジョー役を担当、国内アニメーション作品初出演[15]。 1973年、テレビアニメ『新造人間キャシャーン』の主題歌歌手に抜擢。ささきいさおの芸名でアニメソング歌手として歌手活動を再開[15]。以降、数々のアニメ・特撮作品の主題歌を担当することとなる。『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』の主題歌が一世を風靡し、ミリオンセラーを記録。大杉久美子や水木一郎、子門真人、堀江美都子らと共に、アニメソングの黎明期を支えた。 1981年、現在の妻・上田みゆきと結婚。互いに子連れでの再婚となり、そのときの苦労は1986年に出版された『子連れ再婚の片道切符』に描かれている。 1983年に劇場用アニメ作品『宇宙戦艦ヤマト 完結編』が公開され、関連楽曲を発表して以降は数年にわたり楽曲のリリースを一時休止[15]し、俳優業やナレーター、洋画の吹き替えを中心に活動をシフトしていく。 1998年に約10年ぶりにアニメソングを歌唱し、同年ベストアルバム『佐々木功シングルコレクション '73〜'87』をリリース。以降、アニメソング歌手としての活動を本格的に再開する。2004年より定期的に行われているライブイベント「スーパー戦隊“魂”」では、公演座長を務めている。 以降も現在に至るまで俳優(声優)業、歌手業を並行して行い、2011年に「第5回声優アワード」において功労賞[17]を受賞、2015年には「東京アニメアワード2015」において歌手としてアニメ功労賞[18]を受賞している。 2025年1月、東京都内で地下鉄に乗車中に一時意識を失い、自力で帰宅後に医師の診察を受けて間質性肺炎急性増悪と診断された。血中の酸素飽和度が50%台まで落ち、家族には「ステロイド剤が効かなければ死にます」と説明があったほどの重症だったものの、約1カ月の入院とその後のリハビリで復活を遂げ、4月27日に東京・Zepp Hanedaで行われるフェス「スーパーロボット魂2025東京〜stage terra〜」で復帰することを発表した[19]。 人物・エピソード趣味は、オーディオ・ビジュアル[1]、釣り[1]、ゴルフなど[1]。とりわけオーディオやホームシアターへの造詣は深く、専門誌でコラム連載の経験もある[20]。普通自動車運転免許[1]、四級小型船舶操縦士免許所持[1]。 父方曽祖父は海軍主計総監で初代海軍主計学校長の奈良真志[21][22]、見込まれその娘と結婚した祖父は東京帝国大学出身で海軍主計中将の佐々木重蔵[23][24]、父は早稲田大学出身の一級建築士[21]、母方祖父は父方と同じ東京帝国大学出身で朝鮮火薬製造監査役を務めた寺井俊治[25][26]、母方祖母の兄は満州国最高法院院長の井野英一、農林大臣・法務大臣などを歴任した井野碩哉[21][27]というエリート一族で、両親からは両祖父の母校でもある東京大学への進学を望まれていた。本人も東大理・工学部志望で、成績も武蔵で1〜3位と良かった[27]。が、高校二年頃だんだんと勉強が面白く感じなくなっていき、成績も下降気味だった折、友人の薦めで日本テレビののど自慢番組に出た所、審査員長だった服部良一に「君は東京のプレスリーだね」と褒められたことから歌手を志すようになり[28]、当時法務大臣だった井野が日本コロムビアのディレクターと知り合いだったことから、紹介してもらいテストを受ける[27]。その場に立ち会ったのが東洋企画を立ち上げたばかりの堀威夫で、やはりプレスリーに似ていると評価され、そのまま堀のマネージメントを受けることとなった[27]。当時の担当マネージャーには、相澤秀禎もいた[29][30]。 男三兄弟の次男で、小学3年から高校まで男子校生活を送ったこともあり、学生時代は女性との接し方が苦手で、電車に乗っても女性の隣に座れないほどだった[31]。 なお、『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサー・西崎義展、SF設定等を担当した豊田有恒とささきの3人は武蔵高等学校の同窓[注 2]であり、「宇宙戦艦ムサシ」にしておけばよかったのでは、とのジョークすら生まれたとのこと[32]。『ヤマト』の主題歌に関しても、起用の数年前に、イベントの司会をしていた西崎の前で歌唱したことを覚えて貰っており、起用に際して西崎から「何だ、お前か!」と声をかけられてスムーズに決まったという。『ヤマト』の大ヒットとシリーズ化以降、西崎とは良好な関係を続けたが、『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』の制作時には悪化しており、西崎が顔を合わせたささきを睨むこともあった。ささきは「(『ヤマト』で)一番表面に出たのは僕じゃないですか。だから、俺が作った作品なのに彼奴は何だ、みたいな複雑な感情があったんですよ」と、西崎の没後の取材で語っている[31]。 二代目松本白鸚は暁星小学校の同級生[注 3][8][27]。後に蜷川幸雄演出の『ロミオとジュリエット』や、ラジオなどで共演している。 芸名について歌手デビュー以来、俳優・声優業も本名の「佐々木功」で行っていた。アニソン歌手としての名義が平仮名表記となったのは、「漢字表記のままでは(当時ささきが声優を担当していた)コンドルのジョーが歌っているようでまずい」[33]、という理由によるもの。当初は『新造人間キャシャーン』の主人公である「東鉄也」名義にする案も挙がっていたが、ささきが拒んだため平仮名表記に落ち着いた[34]。 アニソン歌手デビュー以後、基本的には俳優・声優として活動する時や、アニメ・特撮に関連しない曲を歌う時は「佐々木功」、アニメソング歌手として活動する時や、主題歌に関わったアニメでの声優出演時は「ささきいさお」と二つの芸名を使い分けていた。しかし1987年の『超人機メタルダー』の主題歌以降は、アニメ・特撮ソング歌唱の際も「佐々木功」の名前を用いるようになったが、1990年代後半には再び「ささきいさお」の表記も使われるようになる。2003年4月からは俳優業等における芸名も「ささきいさお」に一本化している[35]。 歌手として「キーを下げて歌うようならもう現役じゃない」という信条のもと、過去の楽曲も当時のキーのまま(いわゆる原曲キー)で歌うことを貫いており、それに必要な体力や声を保つためにエアロビクス、腹筋の鍛錬、鉄アレイを持ちながらの発声練習などを行っているという[36]。 「和製プレスリー」と称されたデビュー当時のささきについて、草野昌一は「単なる真似ではなく、もって生まれたもの自体が(プレスリーに)似ている」と評していた。一方で、デビューから暫くは基礎的な技術を教わることなく、後年にミュージカルへ出演するようになってから歌唱の勉強を始めた経緯があり、当時マネージメントを担当した堀威夫は著書で「デビュー時の歌唱力はとても人前で披露できるようなものではなかった」と述べており、ささき本人も当時の自らの歌について「気持ち悪い」「プレスリーはこんなに歌がヒドくない」「滅茶苦茶下手くそ。歌に色気がない」などと酷評している[注 4]。作曲家の菊池俊輔も、ロカビリー時代の歌唱力の低さを熟知した1人で、『新造人間キャシャーン』での起用に当初は疑問を呈するも、ささきの修練を積んだ歌唱力に驚き、以降は積極的に楽曲を提供するようになる[31]。 アニメソング主題歌を担当することになったのは『科学忍者隊ガッチャマン』のパーティーでの席上、出席者全員が余興で歌を披露する機会があり、声量が一際大きかったことで[31]、スタッフから「歌手だったし、主題歌を歌ってみませんか?」と声をかけられたことがきっかけ[28][37]であり、ささき自身は「当時、幼稚園に通っていた息子には『パパはアニメの主題歌も歌うんだぞ』というところを見せられるという思いもあった」と語っている[28][33]。 アニソンを歌うことに葛藤はなく、自身の発声方法を見直して正当な歌唱が出来るようになった時期と重なったこともあり、挑戦したいという気持ちが勝っていたという[31]。 アニソン歌手として成功を収めたものの、当初は顔出しの仕事もなく、外を出歩いても、巷から声がかからないので実感が湧かず、レコード会社から売り上げの好調ぶりを聞かされても、他人事のように聞き流していたという。ところが、新宿の伊勢丹屋上で初の単独イベントを開催した際、女子中高生が約500人も集まり、ロカビリー時代にもなかったその盛況ぶりに、バイト感覚で会場に足を運んだささきは驚愕したものの、彼女たちは皆一同に、ささきの名前は一切呼ばず、「(コンドルの)ジョー!」「(宇宙戦艦)ヤマトー!」などと、作品名やキャラクター名を口々に叫んでは黄色い声援を送るため、ささき当人は「何なんだこいつら」という心境で歌っていたという[31]。 2005年9月7日に宮城スタジアムで行われたキリンチャレンジカップ日本対ホンジュラス戦のセレモニーにて国歌「君が代」を独唱したが、これは九里一平のパーティーに参加した際に声をかけられた、望月三起也の推薦によるもの[38]。 役者として基礎訓練を受けないまま、松竹の映画で役者デビューをするが、当時の松竹の監督たちは、劇団仕込みの作り込んだ芝居を重視する派とナチュラルな素人肌の芝居を重視する派に分かれており、受け身で仕事をしていたささきにとって、芝居を学べる環境ではなかった。後に金子信雄が主宰する劇団新演劇人クラブ・マールイに入団するも肌に合わず、「芝居は勉強するものではない」ことを体感して退団している。今でも自身の芝居については、「型通りにしかできない。型通りの芝居は、古い演劇という気がします」と時代遅れを自称している[31]。 本人曰く、若い頃は鼻っ柱が強く、理屈で物事を進める性格が災いして、周りと衝突することが多かった。テレビドラマの出演を巡って、悪役ばかりやらせる金子と対立の末劇団を退団したり、高名な劇作家と喧嘩状態になって東宝のミュージカルから干されるなど、厳しい状況に追い込まれたこともあったが、歳を重ねるにつれて、「理屈も大事だが芝居や歌は体でやるもの、理屈の付けようがない」という心境に変わっていったという[31]。 『宇宙戦艦ヤマト』がヒットした時期に、石原裕次郎と『新・座頭市』で共演したことからか『西部警察』の刑事役のオファーを受けたが、スケジュールを完全拘束され、歌の仕事にほとんど時間を取れなくなるため断ってしまった[31]。 声優として初舞台で舞台監督をしていた水本完が音響監督の仕事を始めた頃に「和製プレスリーなんだから」と言われ、エルヴィス・プレスリー主演の『燃える平原児』で初めて洋画の吹き替えを経験したが、当時は日本のテレビドラマもフィルム撮影のアフレコ方式で、ささきも自身の出演場面を自身で当てていた経緯から苦労はしなかった[31]。『燃える平原児』での演技はプレスリーの芝居と合っていると評判が良く、それから声優の仕事が来るようになる[8][28][31]。『ガッチャマン』も水本に[8][28]大鷲の健役のオーディションに誘われ参加したことからコンドルのジョー役で起用された[39]。 初めて声優としてアフレコしたアニメは『ガッチャマン』だが、初めて出演したアニメは『マイティ・マウス』という外国アニメの吹き替えで、ミュージカル調のため全編が歌だった[40]。当時は権利元からのカラオケ音源提供など無く、小林亜星が採譜し、小林自身が指揮を行いバンドが演奏する中ささきが歌うという収録方法をとっていた[16]。 声優業への葛藤は一切なく、アニメのアフレコについても、普通の人間の役では出ないような台詞に面白さを感じたという。またアニメの声優として初仕事だった『ガッチャマン』の現場は、吹き替えとアニメの双方で仕事をするベテランの役者が多く、当時の反抗的な自身の性格も役にマッチして、安心して仕事に臨めたと述懐している[31]。 主題歌を歌唱していた『ヤマト』では斉藤始役で出演したが、巨漢の役だったため、当時は二枚目役ばかりだったこともあり当初は自分の役では無いと思ったという[41]。また、西崎プロデューサーの意向で『宇宙戦艦ヤマト 完結編』において島大介役をオリジナル声優の仲村秀生と連名で担当。仲村の休業後にもゲームで担当した事がある。宮川彬良との対談で、仮にリメイク版のオファーが来たら艦長役を演じたいものの、『大YAMATO零号』でオズマ艦長役を担当していた事もあって難しい旨を示唆していた[41]が、のちに『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』に安田艦長役で出演することとなった[42]。 洋画の吹き替えでは、シルヴェスター・スタローン[7]、エルヴィス・プレスリー[6]、クリストファー・リーヴなどを演じている。 スタローンの吹き替えは当初テレビ放送版が中心であったが、映像ソフト版で彼の吹き替えを担当していた玄田哲章がアーノルド・シュワルツェネッガーの公式フィックスとなったのを境に、媒体を問わずにほぼ専属で担当するようになった。ささきはスタローンの吹き替えについて「声は作らないと(スタローンの声は)できない」「特徴を出すのが難しい」と語っており、映画『ロッキー』シリーズで吹き替えを務めた当初は、酒を飲んで3日ほど騒いで独特の声を作っていたという逸話がある[43]。また、スタローンを吹き替えることについて「ハッキリ話さないと伝わらない時もあれば、あまりメリハリや滑舌をハッキリさせるとスタローンじゃなくなってしまう」とも語り、「その辺の兼ね合いがディレクターは大変だと思います」と日本語版制作スタッフを労うコメントを残している[44]。 海外ドラマ『ナイトライダー』では主人公マイケル・ナイト(デビッド・ハッセルホフ)の吹き替えを担当しており、以後続編である『ナイトライダーNEXT』でゲスト出演した際の吹き替えも担当している。2014年11月27日にリリースされた『ナイトライダー コンプリートブルーレイBOX』では未収録エピソード及び本編でカットされていたシーンに新たに追加吹き替えを行っており、ささきは「私個人にとっても代表作といえる作品なので、完全版ができるというのはとても嬉しいことです」と述べている。 ハッセルホフとスタローンの共演作である『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』の日本語吹き替え版では、両者の吹き替えを一人二役で担当している。 海外旅行時、アムステルダム空港でハッセルホフと偶然会ったことがある[45]。 その他デビューから暫くは、基礎訓練や勉強なしに仕事をこなしていたが、「(自身の)ルックスがちょっと日本人離れしてたり、脚が少し長かったり、表面的なとこから運を掴んでいったんですけど、メッキが剥げるのは結構早かったですよ」と述懐して、売れない時期は実家から借金をして、小遣いは持たず、生活費は全て前妻の預かりだったという。また釣り好きの趣味を活かし、『宇宙戦艦ヤマト』がヒットする前年まで、自宅近くの夜の釣り場で鯖を釣っては、自給の足しにしていた[31]。 受賞歴
出演(俳優・その他)映画
テレビドラマ
舞台
オリジナルビデオ音楽番組
情報・バラエティ
CM
ラジオ
出演(声優)テレビアニメ
劇場アニメ
OVA
ゲーム
吹き替え担当俳優
映画
ドラマ
アニメ
特撮
ラジオドラマ
パチンコ・パチスロ
CMナレーションテレビ番組
ラジオ番組
映画
作品一般曲
アニメソング
特撮ソング
ゲームソング
CMソング
その他
オリジナルアルバムベスト・アルバム
DVD
著書
脚注注釈
出典
関連項目
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