オリビエ・ベレッタ
オリビエ・アンリ・アルド・レオポルド・ベレッタ(Olivier Henri Aldo Léopold Beretta 、1969年11月23日 - )は、モナコ出身の元レーシングドライバー。1994年にF1世界選手権に出走した。 経歴フォーミュラ31989年に純プライベーターとしてフランスF3選手権に参戦開始。順応したシーズン後半になるとコンスタントにポイントを獲得し、1990年からF3での経験が長いラヴァロット・レーシングに加入する。チーム入りにより参戦体制が向上されると、F1モナコグランプリ前座として開催されたF3カップで3位表彰台を獲得。同年6月4日のフランスF3第4戦ポーでF3初優勝を達成し、フランスF3でエリック・エラリー、リュドヴィク・フォウレに次ぐランキング3位を獲得。4位はオリビエ・パニスだった。1991年も開幕時はフランスF3に参戦していたが、6月より新たにF3シャーシ製造に参入したイギリスのコンストラクター「ボウマン・レーシング」と契約し、イギリスF3へ参戦。ボウマンのF3シャーシ開発を担う。これにより同年のベレッタはラルト、レイナード、ボウマンと3メーカーの車体を乗り換えながらの参戦となったが、フランスF3ランキング9位、イギリスF3ランキングは11位にランクされた。 フォーミュラ30001992年から国際F3000選手権にステップアップ。ネルソン・ピケのチーム、ピケ・レーシングから出走する[1]。1993年はフォルティ・コルセに移籍。ドニントン・パークで優勝するなど、ランキング6位を記録した[1][2]。この活躍でF1ラルースチームとの契約交渉が進み、1993年12月のエストリルテストでLH93を初ドライブする機会を得る。ベレッタは「初めてのF1マシンは素晴らしかった。F3000マシンの延長上にあるのだろうと想像したことはあったが、実際には大違いだった。特にエンジンパワーとブレーキがまるで異次元。これはかなりの筋力と持久力が要求されるなというのが一番の感想だ。」と喜びをコメント[3]。ほかにもF1の数チームと交渉をしたと話しているが、1994年1月6日にラルースと正式にドライバー契約を結んだ。 フォーミュラ1![]() 1994年、開幕戦ブラジルGPでラルースからF1デビューする。競争力に欠けるマシンながら地元の第4戦モナコGPで初完走(8位)し、ドイツGPで自己最高の7位を記録する。 しかし、資金不足のため[1][2]8月のハンガリーGPを最後にチームを離脱する。その後は2003年にウィリアムズのテストドライバーに就任し[4]、2004年まで務めた。ベレッタを最後に長らく生粋のモナコ人フルタイムF1ドライバーは存在していなかったが、2018年にシャルル・ルクレールがF1デビューし、24年ぶりのモナコ人F1ドライバーとなった。 GTチャンピオン![]() 1995年以降はスポーツカーやツーリングカーのレースに転身。ル・マン24時間には1995年から参戦して[1]、クラス優勝を6回記録している。2000年にはデイトナ24時間レースを制した。 FIA GT選手権で1998年にGT2クラス、1999年にGTクラスのチャンピオン。アメリカン・ル・マン・シリーズでは1999年 - 2000年にGTSクラス[5]、2004年から2006年までオリバー・ギャビンとのコンビでGT1クラス(2004年はGTSクラス)チャンピオンを獲得した[5]。 2013年からアメリカン・ル・マン・シリーズにリシ・コンペツィオーネから参戦する[6]傍ら、フェラーリの準ワークスチームのAFコルセからWECに参戦する。また2014年、2015年はAFコルセからフェラーリ458でル・マン24時間レースに参戦し、2015年にはクラス2位を獲得した。 2016年は、AFコルセからブランパン耐久選手権に石川資章らと参戦し、2017年もブランパン耐久選手権とイタリアGT選手権に同チームから参戦した。2018年はFIA 世界耐久選手権に復帰し、引き続き石川とエディ・チーバー3世と参戦。 レース戦績フォーミュラフランス・フォーミュラ3選手権
マカオグランプリF3
国際F3000選手権
F1世界選手権
(key) スポーツカーFIA GT選手権
アメリカン・ル・マン・シリーズFIA 世界耐久選手権
ユナイテッド・スポーツカー選手権
(key) ル・マン24時間レース脚注
外部リンク
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