スティーヴン・スピルバーグ (Steven Spielberg 、1946年 12月18日 - ) は、アメリカ合衆国 の映画製作者。アメリカ映画アカデミー 会員。大英帝国勲章 (KBE) 受章。フォーブスの「アメリカで最も裕福なセレブリティ」 2位の人物である。2018年には総興行収入が100億ドル(約1兆728億円)を超えた初めての映画監督となった[ 1] 。
経歴
生い立ち
オハイオ州 シンシナティ でウクライナ系ユダヤ人 [ 2] の家庭に生まれ、アリゾナ州 に育つ。古い資料では1947年 生まれとなっているが、これはスピルバーグが長年1947年生まれと偽ってきたためで、1946年 生まれが正しい。
Spielberg(シュピールベルク)というドイツ語 の姓は直訳すると「芝居山」という意味で、祖先が17世紀に居住していたオーストリア の町の名前に由来する。英語訳では「Playmount」となり、彼が若い頃の映画製作の社名にしていた。
父アーノルド・スピルバーグ (英語版 ) (1917年 - 2020年)は電気技師 、母リア・アドラー(1920年 - 2017年)はコンサートピアニスト (後にレストラン経営者となり、ロサンゼルスで“The Milk Way”というユダヤの乳製品料理のレストランを始める)であった[ 3] 。妹に脚本家(作品に『ビッグ 』など)のアン・スピルバーグ (英語版 ) (1949年 - )がいる。父の仕事の都合上、引っ越しが多かったという。
幼少時代
ユダヤ人 であったほか、ディスレクシア (失読症もしくは難読症、学習障害 の一種)のために同級生より読み書きを修得する速度が遅く、このためいじめ も受けたこともあった[ 注釈 1] 。また、両親は離婚しており、これらのことが後の作品に大きな影響を及ぼすことになる。
初めて観た映画は5歳の頃に鑑賞した『地上最大のショウ 』。幼い頃から8ミリ カメラで自主的に映画を製作する。きっかけは13歳の頃、家族旅行の際に父親から8ミリカメラを渡され撮影係を頼まれたためだという。
ジョン・フォード 、スタンリー・キューブリック 、デヴィッド・リーン 、黒澤明 、アルフレッド・ヒッチコック 、『ゴジラ 』など様々な映画の影響をうけるが、特にディズニー映画 は初期の彼の作品にさまざまな影響を与えている。雑誌のインタビューで「ウォルト・ディズニー こそ僕の生みの親で、テレビは育ての親だ」と語っている。
少年時代
17歳の時、アリゾナに住んでいたスピルバーグはカリフォルニアに遊びに来た際、ユニバーサル・スタジオ をバスで回るツアーに参加。ツアーの途中でトイレに隠れてバスが去ってからスタジオ内を探索した。スタジオで映像保管係をしていたスタッフと知り合うと、3日間の通行証を作ってもらったためその3日間で人脈を作り、スタジオには顔パスで入れるようになり、通行証なしで出入りできるようになったという[ 5] 。この頃、映画監督のジョン・フォード と出会う。
1965年からカリフォルニア州立大学ロングビーチ校 にて映画を専攻。この頃になると、スピルバーグは大学に通う一方で休みになるとMCA (現ユニバーサル・ピクチャーズ)へ行くようになり、ついには空き部屋だった掃除小屋を自分のオフィスとして使用して居候を始め、ハリウッドの映画界を出入りするようになる。
その後、21歳のときに、オープニングタイトルとオプチカル効果 の会社を経営しているデニス・ホフマン と知り合い、映画製作資金を提供してもらうこととなり、26分の短編「アンブリン」を完成させる。 アトランタ映画祭で最優秀短編映画賞を受賞したこの映画が、ユニバーサルテレビ部門の責任者で後のユニバーサル社長となるシドニー・シャインバーグ (英語版 ) の目に止まり、ユニバーサルと7年契約することとなる。[ 6]
しかし、上記の契約のため大学の卒業は困難になり、1969年にカリフォルニア州立大学は中退した。後に再度入学し卒業、2002年にB.A.(学士号 )を取得。なお、1999年にブラウン大学 から名誉博士号を授与されている。
職歴
(1969年~)1970年代
スタジオと契約し、1969年にプロ監督として初めて手掛けた作品は、ロッド・サーリング が脚本を手掛けたテレビシリーズ『四次元への招待 』パイロット版の一編「アイズ」。1971年には『刑事コロンボ 』の第3作目である「構想の死角」で監督を務めたほか、テレビ映画として撮った『激突! 』が評判を呼び、海外で劇場公開されたことで、スピルバーグの名が世界に知られるようになる。1974年に『続・激突! カージャック 』で、劇場用映画監督に進出する。
1975年に公開された『ジョーズ 』は、それまでの『ゴッドファーザー 』の記録を破り、1977年に『スター・ウォーズ 』に抜かれるまで世界歴代興行収入1位を記録する大ヒットとなり、一流監督の仲間入りを果たす。その年のアカデミー賞 では作品賞 にノミネートされ、作曲賞 を含む3部門で受賞したが、自身の監督賞 ノミネートは逃した。しかし、2年後に公開された『未知との遭遇 』ではノミネートを獲得し、同年に『スター・ウォーズ 』という同ジャンルの映画が公開されていたにも関わらず、埋没することなく興行的にも成功を収めた。
1980年代
初期の頃は、娯楽映画で評価を得ていたが、やがて様々なジャンルの映画を手がけるようになる。1作目が1981年、2作目が1984年、3作目が1989年に公開された、考古学教授でありトレジャーハンターの大冒険を描いた『インディ・ジョーンズ 』シリーズも大ヒットとなった。1982年に公開された、不恰好だが愛くるしい宇宙人と子供たちとの交流を描いたファンタジー作品『E.T. 』では、2度目の世界歴代興行収入1位を記録。
1985年 には『カラーパープル 』で初めてシリアス な作風に挑戦し、第58回アカデミー賞 には作品賞 を含む10部門11候補にあがったが、無冠に終わっている。無冠の候補数としては史上最多記録である。
また1980年頃より、自ら監督を務めない作品でも、プロデューサーとして名を連ねることが多くなった。ただし、必ずしも製作指揮をとっていたわけではなく、製作資金を確保するために名前を貸したケースも多く、その中には興行的に失敗した作品も少なくない(詳細は#製作総指揮作品 を参照)。
1990年代
第61回ヴェネチア国際映画祭 にて(2004年 )
1993年 には『ジュラシック・パーク 』を大ヒットさせ、3度目の世界歴代興行収入1位を記録。1997年に『タイタニック 』に破られるまで続いた。同年のアカデミー賞 では、ホロコースト を描いた『シンドラーのリスト 』で作品賞 、監督賞 を受賞する。スピルバーグは、この作品の製作に意欲的で報酬を断っている。また映画製作と並行し、ホロコーストの生存者が存命のうちに証言を映像で記録し、収集保管を趣旨とする「Survivors of the Shoah Visual History Foundation(ショアー生存者映像歴史財団 )」の創設準備に取りかかり、5万人の証言を集めることを当初目標にかかげる[ 7] 。
1994年 にドリームワークス を設立。1998年の第71回アカデミー賞 では、第二次世界大戦 におけるノルマンディー上陸作戦 を舞台に兵士達の過酷な運命を描いた『プライベート・ライアン 』で、2度目のアカデミー監督賞 を受賞する。1999年4月に南カリフォルニア大学のロバート・ゼメキス・センターに50万ドルを寄付した。
2000年代
2001年 に英国王室 (エリザベス2世 )より、ナイト 爵を授与された。ホロコーストの生存者・目撃者の証言映像作成と収集活動をスピルバーグが評議員を務めた南カリフォルニア大学 に移管、非営利団体「南カリフォルニア大学財団映像歴史教育研究所」としてカリフォルニア州で法人登記が行われる[ 8] 。
ドリームワークスの経営者としての活動が多くなり、監督作品を出すペースもやや遅くなりつつある一方でプロデューサー(製作総指揮)としての活動が盛んになり、『トランスフォーマー 』や『イーグル・アイ 』で大ヒットを飛ばす。3年ぶりの監督作であり19年ぶりの続編となる『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国 』では興行的には成功したものの、ゴールデンラズベリー賞 で最低リメイク及び続編賞 を受賞する不名誉な結果となった。
2010年代
2011年には、第一次世界大戦 を舞台とした演劇の映画化である『戦火の馬 』と、自身にとっては初の3D アニメーション映画 となった『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密 』が公開。前者はアカデミー作品賞 にノミネートされ、後者はゴールデングローブ賞 アニメ映画賞 を受賞。この頃、パラマウント映画 との関係が悪化するなどで契約上のトラブルが多くなり、長年温めている企画であるエイブラハム・リンカーン の映画も制作に取り掛かるまでに時間を要したが、2011年秋にようやく撮影を開始し、2012年に『リンカーン 』が完成。第85回アカデミー賞 では最多ノミネートを記録し、主演を務めたダニエル・デイ=ルイス がアカデミー主演男優賞 を受賞。自身の監督作品の中では初となる演技部門での受賞者を輩出した。
2013年2月には第66回カンヌ国際映画祭 の審査委員長に就任し、5月15日から26日の間で審査員長を務めた。「映画が世界共通の言語であることを長年に渡って証明し続けてきた、最も権威ある映画祭の審査委員長を務めることを大変光栄に思っている」と語っている。
2015年、大統領自由勲章 を受章[ 9] 。同年12月には、新映画会社アンブリン・パートナーズ を設立。パーティシパント・メディア 、インドのリライアンス・グループ 、カナダのメディア企業エンターテイメント・ワンと共同で創設し、アンブリン・エンターテインメント 、ドリームワークス、パーティシパント・メディアの3つのレーベルを用いて映画やテレビ、デジタルコンテンツを製作している。
2016年には『BFG: ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』では初めてディズニー で映画を制作した。
2020年代
2021年に同名ミュージカル映画 のリメイク作品『ウエスト・サイド・ストーリー 』、2022年に初の自伝的作品『フェイブルマンズ 』を監督。両作品ともアカデミー作品賞 ・監督賞 に2年連続でノミネートされ、ゴールデングローブ賞 では2年連続で作品賞を受賞した。
2023年には長年シリーズを監督してきたインディ・ジョーンズ シリーズ の最新作『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル 』が公開。監督は新たにジェームズ・マンゴールド に託し、自身は製作を務めた。
受勲・名誉賞
コーエン国防総省 長官(当時)から功労賞を受けるスピルバーグ。1999年
ハリウッド名誉の小道にあるスピルバーグの記念盤
グローマンズ・チャイニーズ・シアター 前に残るスピルバーグの手形と足形
元アメリカ合衆国大統領ビル・クリントン からフィラデルフィア自由勲章 (英語版 ) を授けられる。(2009年)
スピルバーグが創設した賞
スピルバーグは自身がボーイスカウト を経験したことから、ボーイスカウトアメリカ連盟 のバッジ制度に映画製作のメリットバッジ 創設を支援し、身を立てる技術として映画制作を促進した。このバッジは1989年9月にアメリカジャンボリー で初の授与式が行われ、出席したスピルバーグは、バッジの審査条件である映像作品を持ち寄った少年たちの相談に応じた[ 10] 。
同じ1989年には『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦 』が公開、映画冒頭のシーンにはアメリカのボーイスカウトの制服と記章 (英語版 ) を身につけた10代のインディアナ・ジョーンズが登場し、よく見るとライフスカウト (英語版 ) 記章を身に付けている。スピルバーグはスカウト時代の自分の経験を尊び、インディアナ・ジョーンズをボーイ・スカウトに仕立てたと回想している。 アメリカ連盟は職業人として成し遂げたスピルバーグの功績を認め、他者への奉仕ならびに新しいメリットバッジ創設に献身したことを称えてイーグルスカウト功労者賞 (英語版 ) を授与した[ 11] 。
映画賞
スピルバーグはアカデミー賞を3回受賞した。アカデミー監督賞 は8回ノミネートされ受賞2回(『シンドラーのリスト 』と『プライベートライアン 』)、作品賞 は『シンドラーのリスト』で受賞したほか、ノミネート作は10本を数える。1987年には創作プロデューサーとしてアービング・G・タルバーグ賞 を受けた。AFI生涯功労賞 を受賞したのは1995年である。
2006年にはシカゴ国際映画祭 夏季映画祭(Summer Gala)から7月15日にヒューゴ賞金賞生涯功労賞 (英語版 ) を授与されている[ 12] 。
2007年11月、スピルバーグの生涯功労賞 (英語版 ) 受賞が決定、2009年2月に第6回視覚効果協会賞 表彰式で授与されると発表があった。2008年1月にはゴールデングローブ賞 セシル・B・デミル賞 受賞の報道がありながら、2007年-2008年全米脚本家組合ストライキ があったため授賞式のプログラムが大幅に縮小されてしまい、HFPA は授与を翌2009年の表彰式に延期した[ 13] [ 14] 。
叙勲
1998年、ドイツ連邦共和国功労勲章 を受章している。ローマン・ヘルツォーク 大統領が章を授け、映画『シンドラーのリスト」』とショアー財団 設立の功績を称えた[ 15] 。
2001年、イギリス のエンターテインメント業界への貢献に対し、英国王室(エリザベス2世)よりナイト爵を授与され、イギリス国籍がないため名誉爵位の扱いである[ 注釈 2] [ 17] 。
2004年、ジャック・シラク 大統領よりレジオン・ドヌール 勲章シュヴァリエ(第5の階級)に迎えられる[ 18] 。レジオンドヌール勲章 の叙勲は2008年である[ 19] [出典無効 ] 。
ベルギー から2011年10月22日に贈られた勲章はベルギー王冠勲章 (英語版 ) コマンダー章である。赤い綬にさげた勲章を授けたのはベルギー経済相ディディエ・リンデル (英語版 ) であり、同コマンダー章は同国勲章第3位の高位に当たる。また2013年カンヌ映画祭 審査委員長を務めた[ 20] 。
名誉学位
名誉学位を各校から贈られており、1999年にブラウン大学 から、ボストン大学 からは第136回卒業式(2009年5月17日)において、同年10月にはフィラデルフィア自由勲章 (英語版 ) を前アメリカ合衆国大統領ビル・クリントン から授けられる。授与式の出席者にはウーピー・ゴールドバーグ 、ペンシルベニア 州知事エド・レンデル (英語版 ) およびマイケル・ナッター (英語版 ) フィラデルフィア 市長が顔をそろえた。ハーバード大学 は2016年5月26日付で名誉芸術博士号を授与。
2008年6月アリゾナ州立大学 よりヒュー・ダウンズ優秀コミュニケーション賞(Hugh Downs Award for Communication Excellence)を受ける[ 21] 。
アメリカの各章
1999年8月11日に『プライベートライアン』を称え、国防長官のウィリアム・コーエン (当時)から国防総省 著名公益章 (英語版 ) を贈られた。
また2006年12月3日にケネディ・センター名誉賞 受賞。俳優のリーアム・ニーソン の祝辞、第二次世界大戦 の退役軍人 より映画「プライベートライアン」に寄せる謝意のメッセージが発表されると、レナード・バーンスタイン 作『キャンディード 』(指揮はスピルバーグ作品で多くの主題歌を振ったジョン・ウィリアムズ )の上演で授賞式はお開きとなった[要出典 ] 。
アメリカ国立公文書記録管理局 は2013年11月19日、功労賞(Records of Achievement Award)を贈り、副賞としてアメリカ合衆国憲法修正第13条 の1861年に議会で可決しながら批准されなかった版と、1865年にエイブラハム・リンカーン 大統領が署名して成立した改正案の合計2点の複製品が添えられた。改正案ならびにその批准の過程はスピルバーグの映画作品『リンカーン 』の主題である[ 22] 。
2015年11月24日、バラク・オバマ から大統領自由勲章 を贈られた[ 23] 。
名誉の殿堂入り
SF名誉の殿堂 (英語版 ) 入りを果たすのは2005年であり、文学作品以外として初の事例だった[ 24] [ 25] 。
視聴者賞
テレビの視聴者が選ぶ賞として、2016年7月、BBC テレビの児童番組『ブルーピーター (英語版 ) 』りブルーピーター章 (英語版 ) 金章を受けている[ 26] 。
人物
監督としての功績
監督としては、世界最高のヒットメーカーの一人として挙げられる。監督作品の全米生涯興行収入は2018年現在で計46億3660万ドル(約4974億円)に達しており、歴代1位を記録している[ 27] [ 28] 。また、プロデュース作品の同興行収入は計77億3330万ドル(約8297億円)を記録していて長年歴代1位であったが、2018年にケヴィン・ファイギ が1位となり、現在は歴代2位[ 29] 。
撮影においてリハーサルをほとんど行わないなど、凄まじいほどの早撮りで、3時間近くある自身渾身の大作『プライベート・ライアン』は2か月で撮影を終えたという。また、このために多作である。製作費を安く抑えることでも知られ、製作費が1億ドルを越えたのは『マイノリティ・リポート 』、『宇宙戦争 』、『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国 』、『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密 』。このことに関しては、ルーカスの助言が影響している[ 注釈 3] 。
撮影機材に精通した監督としても知られている。また、多くの監督がデジタルで撮影を行っている中、彼は未だにフィルム を使用している。『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』はモーションキャプチャ によるアニメーションという形となったため、監督としては初となるデジタル撮影かつ3Dでの公開となった。『戦火の馬 』でもフィルム撮影でありながら、編集はAvidを用いてデジタル作業で行われた。
ダニエル・デイ=ルイス が『リンカーン 』で受賞するまで、監督作の出演者はアカデミー賞 演技部門ではノミネートにとどまり受賞には恵まれなかった。その一方で『太陽の帝国 』のベン・スティラー やクリスチャン・ベール 、『フック 』のグウィネス・パルトロウ など、駆け出しの頃にスピルバーグ作品に出演して注目された例もある。
友人
同業のジョージ・ルーカス は長年の親友かつ一番のライバル であり、ルーカスの学生時代の作品『電子的迷宮/THX 1138 4EB 』を観た当時は「彼が大嫌いだった、私よりずっとうまく映画を撮るから」と、純粋な対抗心を持っていたことを打ち明けている。ルーカスとは『インディ・ジョーンズ』シリーズを一緒に製作しているほか、『スター・ウォーズ』でも一部を手伝ったことがある。『レイダース』を生んだ1977年、ハワイでの休暇で、新作『スター・ウォーズ』の失敗を確信していたルーカスは自身が受け取る『スター・ウォーズ』の収益歩合と、スピルバーグが受け取る『未知との遭遇』の収益歩合を交換しようと持ち掛けスピルバーグも了承(正確には印税の2.5%を交換)。『スター・ウォーズ』は『未知との遭遇』を超える大ヒットとなり、現在になってもスピルバーグに利益をもたらしている。また、この『スター・ウォーズ』の収益のお陰で20世紀フォックス は破産を免れたという。
その他にもマーティン・スコセッシ 、フランシス・フォード・コッポラ 、クリント・イーストウッド といった監督と長年の交友があり、トム・ハンクス 、ハリソン・フォード 、リチャード・ドレイファス 、トム・クルーズ などの俳優陣と親交が深く自身の監督作にも頻繁に起用している[ 31] 。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2 』で長男マックスが2015年の世界で『ジョーズ19』(小説版では『ジョーズ14』)を監督しているジョークがあったが、現実ではゲームソフト『メダル・オブ・オナー 』製作に一部関わったり、『ターミナル 』に端役で出演したりしている。『ターミナル』にはサーシャも出演。この後『ミュンヘン 』と『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』にも出演した。トム・ハンクス主演の『ビッグ 』で脚本を書いたアンは実妹。もう一人の妹ナンシーと学生時代のスピルバーグ作品に参加した。また父が『プライベート・ライアン』メイキングに出演している。
常連スタッフ
スピルバーグ自身が監督する作品の製作総指揮は、初期からキャスリーン・ケネディ との連名になっており、キャストのオーディションなどにも同席する。その他、自らの監督作品には作曲家のジョン・ウィリアムズ 、編集のマイケル・カーン ら、多くのスタッフを継続して起用する傾向がある(製作に名を連ねているだけの場合は、現場の監督らに人選を任せる)。それは、気心が知れたスタッフなら、簡単な指示を出すだけで自分の意向に沿った仕事をしてくれるため、時間と資金の節約になるからである。
カーンは、ビデオで編集したくないというスピルバーグの意向から、ノンリニア編集 を使わず極力フィルムによる編集を心がけているという[ 注釈 4] 。2013年にはアメリカ映画編集者協会 (ACE)より第63回ACEエディ賞授賞式にて、監督と編集者の関係を数10年にわたって維持してきた功績を称えられ、特別賞にあたる「ACE Golden Eddie Filmmaker of the Year賞」を授与された[ 32] 。公開直前にカーンが82歳を迎えた『ペンタゴン・ペーパーズ』以降は、サラ・ブロシャー(2011年公開の『タンタンの冒険』、『戦火の馬』以来編集補佐を務めていた)との共同となっている。
撮影監督は1990年代からのヤヌス・カミンスキー との作品が続いている。初期作品を支えた撮影監督はアレン・ダヴィオー であり、また2作で組んだヴィルモス・スィグモンド から受けた影響の大きさも語っている。
新技術に対する姿勢
DVD が新メディア として登場した際、監督、プロデューサー、俳優らによるオーディオコメンタリー の録音が盛んに行われるようになったが、スピルバーグは「コメンタリー嫌い」と公言し、自身の監督作品のDVDにコメンタリーを吹き込むことは一切なく、他のスタッフやキャストによるコメンタリーも入れさせない。その代わりに、特典映像を豊富に提供するという姿勢を取っている。
ジョージ・ルーカスが『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃 』で全編デジタル撮影を行ったのをきっかけに、ハリウッド業界の大勢は安価で増産もしやすいデジタル化に傾いたが、スピルバーグは慎重な態度を示した。2002年末の『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン 』公開時点で全米に36000以上あった劇場映画用スクリーンのうち、デジタル・スクリーンがわずか100以下しか存在しなかったというのが主な理由だが、35ミリのセルロイド・フィルムの絵を好むことでも知られるスピルバーグは、自身をラッダイト運動 にたとえて「デジタル映像化は進歩とはいえない。キズなどが付かない綺麗な映像は作れても、映画製作における芸術性を損なう」「映画というのは、1人でノートパソコンで見るより、知らない者同士が映画館に集まって、一緒にチカチカする映像を見るものだ」ともコメントした[ 注釈 5] 。
第3世代光ディスク (当時の「次世代DVD」)規格をめぐってBlu-ray とHD DVD が競合した際、スピルバーグ作品の配給元・販売元であるパラマウント映画 社は後者を支持したが、スピルバーグ自身は規格争いが終息するまで待つという構えを崩さなかった。そのため、スピルバーグ監督作品は一切、HD DVD化されなかった。
アカデミー賞とヒットメーカー
1981年に「私はアカデミー賞を獲れないだろう」と発言したスピルバーグだが、1998年の『プライベート・ライアン』でアカデミー監督賞(2度目の)受賞スピーチでは「どうしても欲しかった」と語った。
『未知との遭遇 』と『レイダース/失われたアーク《聖櫃》 』で監督賞 、『E.T.』で監督賞と作品賞 にノミネートされたが受賞は出来ず、『カラー・パープル 』では作品、脚色 、主演女優賞 を含む10部門にノミネートされながら全て逃し、自身は監督賞にノミネートもされないという苦い思いを味わった。1980年代はスピルバーグにとって娯楽性の高い作風からシリアス路線へと移行した時期だが、アーヴィング・G・タルバーグ賞 を1987年に40歳という異例の若さで受賞した際には「オスカー が獲れないのはヒット連発に対する嫉み」という噂が立つことになった[ 注釈 6] 。『ジュラシック・パーク 』を大ヒットさせた同じ年に『シンドラーのリスト 』でアカデミー監督・作品賞をダブル受賞。
『マイノリティ・リポート 』と『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン 』(2002年)、『宇宙戦争 』と『ミュンヘン 』(2005年)とシリアスな作品とより娯楽性の高い作品が同じ年に作られた(『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』も2016年の内に実写パートを撮り終えた『レディ・プレイヤー1』のポストプロダクションが長引いている間に短期間で作り上げ、2017年末には限定公開されたある種の並行製作作品)が、3度目の受賞には至っていない。
逸話
親日家
親日家としても有名で、『宇宙戦争 』の日本限定のCMを公開したり、自らの作品及び製作に携わった作品の予告編の前振りに出演することがある。『1941』の日本版サントラの解説によると食べ物の中で寿司が好物とのこと。ウナギの蒲焼きが大好物 [要出典 ] とも言われる。自宅の門には日本語で「スチーブン スピルバーグ」と彫られた木製の表札が掛かっており、これは三船敏郎が『1941』に出演した際にプレゼントしたものである。2001年に『A.I. 』と『鉄腕アトム 』の類似性について尋ねられた際、「日本のテレビ局のインタビューを受けるまで、『鉄腕アトム』という作品の存在すら知らなかった」と答えた[ 33] 。ただし手塚治虫とは一時親交があった。手塚治虫はテレビのインタビューで、スピルバーグ監督からもらった色紙を披露しており、そこにはサインとともに監督直筆のETが描いてあった。また手塚治虫は、自分とスピルバーグとの共通点は黒澤明監督から影響を受けていることだと述べている。
宮崎駿 監督作品にも影響を受けていると述べており、来日した際には、インタビューにて「宮崎駿さんがつくる世界には敬服します」と答え、「特に、『千と千尋の神隠し』は史上最高のアニメーション映画であり、ディズニーのどの作品よりも素晴らしいと思っています」「アニメーションをやっている僕の娘と一緒に、宮崎監督にお会いしたんです。素晴らしい体験でした。」と語った[ 34] [ 35] 。
自ら監督・製作した映画への出演
通行人などとして、数秒カメオ出演 することがある。
影響を受けた作品
スピルバーグが影響を受けた映画は数多く、本人曰く103本くらいあるという。また、テレビやラジオ、家族から聞いたお伽話からも影響を受けている、と語っている[ 36] 。
映画の撮影前や製作に行き詰まったときに、もの作りの原点に立ち戻るために必ず観る映画として、『捜索者 』『七人の侍 』『素晴らしき哉、人生! 』『アラビアのロレンス 』を挙げている[ 37] 。
中でも『アラビアのロレンス』は特に好きな作品で[ 38] 、彼を最も映画監督になりたいと思わせた映画であると語っている。また、この映画は1962年に、ロイヤル・プレミアで公開された際には222分の上映時間であったが、その1か月後には約20分カットされ、以後も上映効率のためなどで次々と短くなっていった。しかし、スピルバーグやマーティン・スコセッシ の働きかけにより、欠落部分を探し出し、監督のデヴィッド・リーン 自身が最終的に216分にまでに編集し、1989年に〈完全版〉として再上映させることに成功した(復元には2年を費やし、費用が掛かりすぎたため、一時は完成も危ぶまれた)。その後、2001年にリリースされたDVDには、特典としてスピルバーグ自身が『アラビアのロレンス』を語るという映像を収録し、「A miracle of a film 」という賛辞をDVDパッケージにコメントしている。また、『インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険』では、若きインディアナ・ジョーンズは、1908年エジプトにて、T・E・ロレンス (『アラビアのロレンス』の主人公)と実際に出会っている。ロレンスはインディにとっても、考古学者としての先輩であり、旧友であったという。
2012年にはEmpire Magazineにて「世界の映画監督が選ぶ好きな映画ベスト10」にて、以下の10作を挙げている。
私生活
妻と子供
1985年から89年までは女優のエイミー・アーヴィング と結婚していた。1989年の離婚調停で、裁判官が弁護士無しでナプキンに書かれた婚前契約書 を無効としたため、アーヴィングはスピルバーグから1億ドルを受け取った。彼らの離婚は史上3番目に高額なセレブ離婚と報じられている[ 40] 。離婚後もスピルバーグとアーヴィングは息子のマックスの親権を共有している。
その後スピルバーグは『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説 』に出演した女優のケイト・キャプショー との関係を深めていった。1991年10月12日に2人は結婚し、キャプショーはユダヤ教に改宗した[ 41] 。
スピルバーグとキャプショーの子供は以下の7名:
ジェシカ・キャプショー (Jessica Capshaw、1976年8月9日 - ) - 娘。ケイト・キャプショーとその前夫ロバート・キャプショーとの子。
マックス・サミュエル・スピルバーグ(Max Samuel Spielberg、1985年6月7日 - ) - 息子。スピルバーグとその前妻エイミー・アーヴィング との子。
セオ・スピルバーグ(Theo Spielberg、1988年 - ) - 息子。キャプショーが結婚前に出産[ 42] 。
サーシャ・スピルバーグ (Sasha Rebecca Spielberg、1990年5月4日 - ) - ロサンゼルスで生まれる[ 43] 。
ソーヤー・アヴェリー・スピルバーグ(Sawyer Avery Spielberg、1992年3月10日 - )[ 44] 。
ミカエラ・ジョージ(Mikaela George、1996年2月28日 - ) - 養子。
デストリー・アリーン・スピルバーグ(Destry Allyn Spielberg、1996年12月1日 - )
資産
『フォーブス 』誌によると、2009年時点でのスピルバーグの個人資産は30億ドルである[ 45] 。
2010年2月、『ヴァニティ・フェア』誌が「2009年に最も稼いだハリウッドの稼ぎ手」のランキングを発表し、8,500万ドルを稼いで2位にランクインした。この収入はユニバーサルスタジオからの著作権料や今までの作品のDVDのロイヤリティの額が半分以上を占めている[ 46] 。同年12月、『フォーブス』誌による「エンターテインメント業界で最も稼いだ人物」では、1億ドルを稼いで7位にランクインした[ 47] 。2011年2月、『ヴァニティ・フェア』誌が「2010年にハリウッドで最も稼いだ人たち」のランキングを発表し、2010年のギャラが推定8,000万ドルになることがわかった[ 48] 。
表彰
2002年、ソルトレイクシティ で行われた冬季オリンピック の開会式ではオリンピック旗手の8人のうち1人を務めた。2006年、『プレミア 』は映画業界 (英語版 ) で最も影響力のある人物の一人としてスピルバーグを挙げた。また『タイム 』では20世紀の最も影響力のある100人 の一人に選ばれた。20世紀末、『ライフ 』は彼の世代で最も影響力のある人物としてスピルバーグの名を挙げた[ 49] 。
政治的言動
スピルバーグとウィリアム・コーエン 国防長官(当時)
趣味
スピルバーグは熱心な映画ファンとして知られており、撮影を行っていない時期には「映画パーティ」を行っている[ 61] 。
熱心なコンピュータゲームプレイヤー としても知られ、1974年に『ジョーズ 』を撮っていた頃にはポン で遊んでいた。Wii 、PlayStation 3 、PlayStation Portable 、Xbox 360 を所有しており、『コール オブ デューティ4 モダン・ウォーフェア 』や『メダル・オブ・オナー 』といったファーストパーソン・シューティング を楽しんでいる。ゲームにカットシーン を使うことに関しては批判的であり、ゲームプレイ中に自然に話の流れを作ることが今後のゲーム開発者の課題だと考えている[ 62] 。『シェンムー 』を高く評価したことで知られ、ディレクターである鈴木裕 にサインを求めたことがある。また、2006年5月10日から12日にかけて開催されたE3では、ゲームデザイナーの宮本茂 と『Wii Sports 』のテニス対決をし、この模様は、AP通信 が伝え、全世界に配信された。
犯罪被害
2001年、スピルバーグは陰謀論者 で元ソーシャル・ワーカーの女からストーカー 被害を受けた。女は洗脳攻撃を受けていると主張し、スピルバーグとジェニファー・ラブ・ヒューイット を非難していた。女はストーキングの罪を認める前に精神病院に予防拘禁 され、その後スピルバーグとヒューイットに近づかないという条件で釈放された[ 63] [ 64] [ 65] [ 66] 。
2002年の白人至上主義者によるテロ計画 (英語版 ) では攻撃対象の一人にされていた[ 67] 。
また、ジョナサン・ノーマンが1997年6月と7月の2度にわたってパシフィック・パリセーズのスピルバーグの自宅に侵入を試みたとして逮捕された。ノーマンはカリフォルニア州で25年の懲役刑に処された。スピルバーグは裁判で「ノーマンがもし実際に私に遭遇していたら、彼は私をレイプするか殺していただろう」と証言した[ 68] [ 69] 。
発達障害
2012年10月、ディスレクシア であることを明かした[ 70] 。
フィルモグラフィー
メジャースタジオのうち、版権分割以後のメトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM。旧ユナイテッド・アーティスツ 時代を含む)とは全く仕事をしていない。版権分割以前のMGMについても『ポルターガイスト 』の1作品のみ。
監督作品
製作作品
製作総指揮作品
スピルバーグは多くの監督作品を手掛けているが、実際には製作総指揮作品の方が圧倒的に多い。「製作総指揮」の明確な仕事の内容は決まってはおらず、スピルバーグやジョージ・ルーカスは製作総指揮作品でも制作に参加することがある。例として、『トランスフォーマー』では主演のシャイア・ラブーフ を始めとして、ほとんどのキャスティングを行い、監督をマイケル・ベイ に頼んだのも彼自身である。特に、自ら経営するアンブリンやドリームワークスの制作作品は多数プロデュースしている。また、クレジットに名前は載っていないが、『ディスタービア 』の監督にD・J・カルーソー を選んだのもスピルバーグである[ 73] 。
テレビシリーズ
製作総指揮を担当したテレビシリーズ作品。
脚本作品
スピルバーグは多くの作品を監督・プロデュースしているが、その一方で、脚本を行った作品は非常に少ない。また、『A.I.』はスタンリー・キューブリック の遺した原案のトリートメントを基に書いたもので、あまり“脚本家”とは肩書きされない。しかし、クレジットされていなくとも脚本の作業に参加することはあるという[ 74] 。
未知との遭遇 (Close Encounters of the Third Kind 、1977年)
ポルターガイスト (Poltergeist 、1982年)
A.I. (A.I. Artificial Intelligence 、2001年)
フェイブルマンズ (The Fabelmans 、2022年)
ミュージックビデオ
スピルバーグは長年、ミュージックビデオを監督したことはなかった。2022年、マーカス・マムフォード (英語版 ) のために「Cannibal (英語版 ) 」のミュージック・ビデオを初めて監督した[ 75] 。スピルバーグ自身がスマホで撮影したワンショットのビデオで、スピルバーグが座っている事務用イスは妻のケイト・キャプショーが動かした[ 76] 。
Cannibal(Marcus Mumford 、2022年)
カメオ出演
ドキュメンタリーへの出演
受賞とノミネート
※本来は別のプロデューサーが受取人である作品賞の受賞・ノミネートも含む。
勲章・称号など
脚注
注釈
出典
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関連文献
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ジョン・バクスター著 『地球に落ちてきた男 スティーブン・スピルバーグ伝』 野中邦子 訳、角川書店 、1998年1月、ISBN 4-04-791289-1
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スピルバーグ関係ブックガイド・フィルモグラフィ: p202 - 208
ダグラス・ブロード著『スティーブン・スピルバーグ シネマの天才』、栗山微笑子訳(『シネマ・スター・ライブラリー』)、シンコー・ミュージック 、1995年11月、ISBN 4401615271
アンドリュー・ユール著『スティーブン・スピルバーグ 人生の果実』、高橋千尋訳、プロデュース・センター出版局、1999年10月、ISBN 4938456540
原著: Andrew Yule, Steven Spielberg: Father to the Man ,Little Brown and Company, 05 Dec 1996, Andrew Yule, Steven Spielberg: Father of the Man: His Incredible Life, Tumultuous Times and Record-Breaking Movies , Warner Little Brown & Co Ltd, Nov 2002, ISBN 0751512907
アンドリュー・アルバネーゼ/ブランドン・トリスラー編『グラデュエーションデイ~未来を変える24のメッセージ』佐々田雅子訳、2007年4月、ISBN 9784903825007 、スピルバーグのスピーチ収録
南波克行責任編集『スティーヴン・スピルバーグ(フィルムメーカーズ18)』宮帯出版社 、2019年2月、ISBN 978-4801601963
KAWADEムック『スティーヴン・スピルバーグ 映画の子』河出書房新社 、2021年11月、ISBN 978-4309980386
『E.T. ビジュアル・ヒストリー完全版 スティーヴン・スピルバーグによる名作SFの全記録』訳:阿部清美、DU BOOKS 、2023年1月、ISBN 978-4866471815 。
関連項目
外部リンク
フィルモグラフィ 監督作品
1960年代
Firelight (1964、兼 脚本)
Slipstream (1967、兼 脚本)
Amblin (1968、兼 脚本)
1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
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