リチャード・ドレイファス
リチャード・ドレイファス[1](Richard Dreyfuss[ˈdraɪfəs]; 旧姓Dreyfus;[2], 1947年10月29日 - )は、アメリカの俳優。身長165cm[3]。 経歴ニューヨーク・ブルックリンにてロシア系ユダヤ人の家庭[4][5]に生まれる。兄のローリンも俳優。一家は、ドレフュス事件のアルフレド・ドレフュスの末裔(あるいは親戚)との言い伝えがあるが[6]、異説もある[7]。9歳のとき、家族と共にロサンゼルスに移り住む。 大戦後の1940年代後半生まれのハリウッド主演男優たちの中ではデビューは比較的早く、1960年代半ばの10代の頃からテレビに出演し始めた。大学に入学したものの1年で中退し、舞台にも立つようになった。やがてそこで名声を得、1967年、20歳の時に映画デビュー。同年のダスティン・ホフマンの『卒業』や往年の大女優スーザン・ヘイワード主演の映画『哀愁の花びら』に端役で出演している。また、往年の人気ドラマ『ベン・ケーシー』『奥さまは魔女』にも出演している。 1972年3月17日、舞台『君が人生の時』(ウィリアム・サローヤン作、エドウィン・シェリン演出)でヘンリー・フォンダ、ジェーン・アレクサンダーらと共演した。 1973年、『デリンジャー』にベビーフェイス・ネルソン役として出演。また同年、ジョージ・ルーカス監督の『アメリカン・グラフィティ』の主人公カートを演じ、映画俳優として脚光を浴び始め、1975年にはスティーヴン・スピルバーグ監督の『ジョーズ』に出演し、本作が全世界歴代興行成績一位を記録したことにより、スターの仲間入りを果たす。 ![]() 1977年公開の『グッバイガール』で第50回アカデミー賞主演男優賞を受賞。30歳156日での受賞は、当時としては史上最年少の記録となった(2002年にエイドリアン・ブロディの29歳343日に最年少記録を更新される)。同年には再びスピルバーグとタッグを組み、『未知との遭遇』にも出演。スターの座を確たるものにしたかに見えたが、ドラッグ依存に陥り、その後のキャリアは低迷した。80年代末ころから復活し、役者として円熟期に入った。 復活の一歩に、1986年『スタンド・バイ・ミー』で監督のロブ・ライナーは自分のビバリーヒルズ高校時代の同級生ドレイファスに大人になった主人公の役を依頼した[8]。この映画で世界的スターになりハードドラッグで命を落としたリヴァー・フェニックスにドレイファスはコメントを寄せた[9]。 私生活これまで3回の結婚を経験し、最初の妻ジェラミー・レインとの間に3人の子供(二男一女)がいる。そのうち息子(長男)のベンはジャーナリスト、俳優として活動している。 主な出演作品映画
テレビシリーズ
日本語吹き替え『未知との遭遇』や『ジョーズ』などの初期の作品から樋浦勉が長年に渡り担当している。ドレイファスについて樋浦は「すごく自分にはまりやすかった」としており[16]、「このしゃべり方をしたら次はこう動くな」と画面を見れば次にドレイファスがどう動くか予測がつくと語っている[17]。ドレイファスを吹き替えた作品の中でもVHS・DVD版、BD新録版、日本テレビ(金曜ロードショー)版の3バージョン全てで担当した『オールウェイズ』のピート・サンディッチ役は自身の代表作であるとも述べた[18]。 樋浦自身、ドレイファスに対する思い入れが非常に強く、かなり入れ込んでいる様子を見せており、2010年の映画『RED/レッド』は樋浦が吹替における持ち役にしていた三人の俳優(ドレイファスとブルース・ウィリス、ジョン・マルコヴィッチ)の共演作であり、樋浦はこの作品においては最終的にマルコヴィッチの声を担当したものの、後のインタビューで本作の三人の内、誰を演じたかったかと問われた際には「正直なところ、僕は全部やってみたかったね」と前置きしつつも、「今思うと、一番やってみたかったのはドレイファスだったのかな…」と証言している[19]。 このほかにも、青野武、田中信夫、古川登志夫、野島昭生、小川真司、堀内賢雄なども複数回、声を当てている。 脚注
外部リンク |
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