ドイチェ・フースバルマイスターシャフト1907-1908
ドイチェ・フースバルマイスターシャフト 1907-1908 はドイツサッカー協会によって開催された第6回目のクラブチーム全国大会である。ベルリナーTuFCヴィクトリア1899が優勝し、1回目のドイチャー・フースバルマイスターの座に就いた[1][2][3]。 概要1908年1月26日に創設されたバルト芝生・ウィンタースポーツ協会 (BRWV)が、最後の地方協会として新たにDFBに加盟し、初代BRWV王者のVfBケーニヒスベルクが今大会出場を決めた。ドイツ各地域が8つのローカル協会によって統括される体制となり、これは1911年まで続いた。 出場クラブ[2]初めて北東部代表を含む8クラブが出そろい、ドイツ帝国各地域からバランスよく選ばれた。昨季に続きベルリン=ブランデンブルク地域では、両協会王者によるプレーオフの勝者だけが出場を認められた。ベルリン王者ベルリナー・ヴィクトリアがブランデンブルク王者ノルデン=ノルトヴェストSVを4-3で破り、出場権を獲得。短命な統括団体、ベルリン球技協会は参加権を認められなかった。
準々決勝開催日: 1908年5月3日
VfR1897ブレスラウとヴァッカー・ライプツィヒは、ブレスラウが前半ゲームを支配し38分にフリッツ・ラングナーのPKで先制する。対するライプツィヒは62分のアレクサンダー・パルムの同点ゴールを境に主導権を奪い、72分にクルト・グレフナーが逆転弾、77分にオットー・ライスラントが追加点を決め、1-3で勝利した。 初出場のVfBケーニヒスベルクは、昨季準優勝のベルリナー・ヴィクトリアに0-7で完敗した。VfBは前半だけで0-5と大きくリードされたのだが、そのうち最後の一点は得点者不明。最初の四点を決めたのはヴィリ・ヴォアピツキー二点、ヘルムート・レプナック、オットー・ドゥムケである。さらに、後半の二点を決めた選手も不明。 アイントラハト・ブランシュヴァイクとデュイスブルガーSpVの一戦は、デュイスブルクが後半のヴィリ・ファン・デア・ヴェッペンの得点を守り切って0-1で勝った。デュイスブルクの守護神ゴットフリート・ヒンツェは当時現職のDFB会長でもあったが、この試合ではブランシュヴァイクの最大の決定機、エーリヒ・ミュースのPKをセーブし、最少得点差の勝利に貢献した。 再試合開催日:1907年5月17日
試合放棄未遂で再試合を命じられたフライブルガーFCは、前の試合と同じ11人で臨んだ。この再試合でも前半24分アオゴスト・ファルシュルンガーの得点で先制したが、キッカーズは三分後インゴ・ハンゼルマンが同点弾を決め、そこから前半43分までにユリウス・メグナーの逆転弾、ルドルフ・アホルンの追加点、カール・ライヒのPKと畳みかけ、4-1リードで前半を終えた。後半FFCはギップスが決め二点差に追い上げたが、終了三分前にオイゲン・メルクレがとどめの五点目をマークし、5-2で勝利したキッカーズがベスト4進出を決めた。 準決勝開催日: 1908年5月17日・24日[4]
ヴァッカー・ライプツィヒは、ベルリナー・ヴィクトリアに0-4で完敗した。ヴィクトリアは10分・35分にヴィリ・ヴォアピツキーが決めて前半を2-0で折り返し、後半は75分にオットー・ドゥムケ、87分にヘルムート・レプナックが加点した。
決勝
ベルリナー・ヴィクトリアはベストメンバーをそろえたが、対するシュトゥットガルター・キッカーズは兵役中のオットー・レープレと負傷中のカール・ライヒの2名を欠いていた。キッカーズはこの2名の穴を埋められず、また守護神ヘアマン・ビュークレが何度かミスを犯したのに対して、ヴィクトリアは中盤でクネーゼベックとフンダーが経験豊富なプレーを披露する。試合は開始6分にヴィリ・ヴォアピツキーの得点でヴィクトリアが先制、1-0リードで前半を終えた。後半に入って84分にヴォアピツキーの2ゴール目でスコアは2-0、二分後にキッカーズも1点を返すが、89分にヘルムート・レプナックが再度二点差に拡げる駄目押し弾を決め、勝負あり。ヴィクトリアがマイスターシャフト初優勝を飾った[6]。 ベルリナーTuFCヴィクトリア1889のマイスターマンシャフト
得点ランキング[7]ヴィクトリア・ベルリンの3ゴールが得点者不明である。
脚注注釈出典
参考文献
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