フィラデルフィア・イーグルス
フィラデルフィア・イーグルス(英語: Philadelphia Eagles、略称: PHI)は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアに本拠地をおくNFLチーム。NFC東地区に所属している。ホームスタジアムは、リンカーン・フィナンシャル・フィールド。イーグルスの愛称の由来はニューディール政策で設置された全国復興庁のシンボルである青いワシ[1]。 歴史NFL統合前フィラデルフィアには1924年から1931年までフランクフォード・イエロージャケッツというNFLチームが存在した。イエロージャケッツは1926年にNFLチャンピオンに輝いたが、世界恐慌と本拠地の火災の影響から財政が悪化し、1931年のシーズン中に活動休止し、フランチャイズ権をNFLに返上した。 イエロージャケッツのフランチャイズ権返上以降、フィラデルフィアに本拠地を構えるオーナーを探していたNFLは、1933年、バート・ベル、ラッド・レイに25,000ドルでイエロージャケッツのフランチャイズ権を与える形でフィラデルフィアでのチーム創設を許可し、設立されたのがフィラデルフィア・イーグルスである[1]。チームの愛称は世界恐慌からの回復するためのニューディール政策で設置された全国復興庁のシンボルであった青いワシのようにチームを上昇させたいと願い、ベルが名付けた[1]。10月15日の最初の試合では、ニューヨーク・ジャイアンツに0-56で敗れた。ホームデビュー戦となった翌週のポーツマス・スパルタンズにも0-25で敗れた。11月5日のシンシナティ・レッズ戦で初勝利、この年3勝5敗1分に終わった[1]。 チームは当初、イエロージャケッツのユニフォームを着用してプレーしたものの、あくまでもピッツバーグ・スティーラーズ、シンシナティ・レッズと共にエクスパンションチームとして加入したチームであるので、イエロージャケッツの記録は継承していない。 1934年、開幕から6連敗を喫したが、最後の5試合中4試合に勝ち、4勝7敗で終えた。1935年、2勝9敗と成績は下降した。シーズン終了後、バート・ベルは、ラッド・レイからオーナー権を獲得、単独オーナーとなった[1]。 ベルオーナーは、カレッジフットボールの選手獲得に、ドラフト制度を実施することを提案、1936年、イーグルスは全体1位でハイズマン賞受賞のジェイ・バーワンガーを指名した。しかしバーワンガーは入団を拒否、NFLでプレーすることはなかった。この年チームは、ベイカー・ボウルからフィラデルフィア・ミュニシパル・スタジアムに移った。バート・ベルがヘッドコーチに就任し、開幕戦は勝ったものの残り11試合に敗れ、1勝11敗に終わった[1]。 1937年、開幕から3連敗し、シカゴ・カージナルスの持つ連敗記録に並んだが、ワシントン・レッドスキンズに敵地で勝利、2勝8敗1分で終えた。1938年は5勝6敗と成績を改善させた[1]。 1939年、オールアメリカンのクォーターバック、デイビー・オブライエンと12,000ドルで契約を結んだ。全試合に出場したオブライエンは、1324ヤードを投げてNFL記録を更新した。しかしチームは1勝9敗1分に終わった。10月22日のブルックリン・ドジャース戦がイーグルスの試合としては初めてテレビ放送された[1]。 1940年に本拠地をフィラデルフィア・ミュニシパル・スタジアムからシャイブパーク(1953年にコニー・マック・スタジアムに改称)に移した。この年チームは1勝10敗に終わった[1]。 1941年、本拠地をミュニシパル・スタジアムに戻した。ヘッドコーチには、グリージー・ニールが就任した。チームは2勝9敗に終わった。1942年、チームは本拠地をシャイブ・パークに1年で戻した。チームは2勝9敗で最下位に終わった[1]。 第二次世界大戦中の1943年には所属選手が不足したため、ピッツバーグ・スティーラーズと合同チームとなり、フィラデルフィア=ピッツバーグ・スティーグルス(Philadelphia-Pittsburgh Steagles)となった。この年チームは5勝4敗1分、シーズン終了後、合同チームは解消された[1]。 1946年にバート・ベルはNFLコミッショナーとなった。アール "グリージー" ニールヘッドコーチに率いられたチームはスティーブ・バンビューレンなどの活躍で1947年から3年連続でNFLチャンピオンシップゲームに出場を果たし吹雪の中行われた1948年にはシカゴ・カージナルスに7-0、1949年にはロサンゼルス・ラムズに14-0とNFL史上唯一2年連続相手チームを完封して優勝した。1957年に本拠地をペンシルベニア大学のフランクリン・フィールドに移した。同スタジアムは1969年に人工芝となりNFLチームとしては最初に人工芝球場を本拠地としたチームになった。 1960年、バック・ショウヘッドコーチの下、後にプロフットボール殿堂入りを果たしたノーム・バン・ブルックリン、チャック・ベドナリクらの活躍で3度目NFLチャンピオンとなった。また、この年無敗だったヴィンス・ロンバルディのグリーンベイ・パッカーズを17-13で破った。 1963年、チームはジェリー・ウォルマンに買収されたが1969年にレナード・トースが当時プロスポーツチームとしては最高額の1615万5000ドルで買収した。その後直ちに5シーズンで24勝41敗1分の成績しか残せなかったジョー・クハリッチが解任された。ピート・レツラフがGMにジェリー・ウィリアムズがヘッドコーチに就任した。 統合後1970年のNFLとAFLの統合後、NFC東地区に所属した。その後同地区のライバルであるダラス・カウボーイズ、ワシントン・レッドスキンズの影に隠れプレーオフ出場はなかなか果たせず1962年から1975年に勝ち越したのはわずか1回であった。1976年にUCLAからディック・ヴァーミールをHCに迎えると、1978年には18年ぶりにポストシーズンゲーム出場を果たした。11月19日のニューヨーク・ジャイアンツ戦ではイート・ザ・ボールされれば敗北必至のところ、相手オフェンスのファンブルをCBハーマン・エドワーズがファンブルリカバーTDをあげて勝利した[2]。 →詳細は「メドウランズの奇跡」を参照
1978年から1981年まで4シーズン連続プレーオフに進出した。1980年にはQBロン・ジャウォースキー、WRハロルド・カーマイケルらの活躍で初のNFC東地区優勝を達成、チームは第15回スーパーボウル出場を果たしたがオークランド・レイダースに敗れた。この試合ではジャコウスキーのパスがロッド・マーティンに3回インターセプトされるスーパーボール記録を作られている[3]。 1985年にチームはフロリダ州で自動車販売業で富を築いたノーマン・ブラマンらに6500万ドルで売却された。この際トース前オーナーがカジノでのギャンブルで2500万ドルの借金を抱えたことが報道された。1986年には第20回スーパーボウルを制したシカゴ・ベアーズのディフェンシブコーディネーター、バディ・ライアンがヘッドコーチに就任した。強力ディフェンスなどでチームは1980年代終わりから1990年代初めにプレーオフにしばしば出場を果たした。しかしプレーオフで勝てないライアンは1991年1月7日に解任されオフェンスコーディネーターのリッチ・コータイトが後任となった。1992年のプレーオフでチームはニューオーリンズ・セインツを破ったが1994年に7勝2敗から終盤7連敗して7勝9敗に終わるとコータイトは契約延長されることなくチームを去った。1988年から1996年までチームは9シーズン中6回プレーオフに出場したが地区優勝は1988年の1回のみであった。この時代のオフェンスのスター選手は走れるQBランドール・カニンガム、TEキース・ジャクソン、RBハーシェル・ウォーカーなど、ギャンググリーンと呼ばれたディフェンスはDEレジー・ホワイト、DTジェローム・ブラウン、DEクライド・シモンズ、LBセス・ジョイナー、Sウェズ・ホプキンス、DTマイク・ゴーリック、LBバイロン・エバンズ、CBエリック・アレン、Sアンドレ・ウォーターズなどである。この時代はNFC東地区が非常にハイレベルであり強力な同地区ライバルチーム相手に善戦するものの上位進出を阻まれ続けた。エースQBのカニンガムは並外れた身体能力を生かした次世代のQBとして期待されたが故障も多く、あと一歩の殻を打ち破れずにいた。1993年8月のプレシーズンマッチでは来日し東京ドームで試合を行った。 1994年5月6日、ブラマンオーナーから1億8500万ドルでジェフリー・ルーリーにチームは売却された。フォーブスの2006年版によると評価額は10億2400万ドルでありNFLで5番目に高いフランチャイズとなっている。チームユニフォームのカラーも明るいケリーグリーンとシルバー、ホワイトから濃色のミッドナイトグリーンにブラック、ホワイトへと変更された。レイ・ローズが指揮した4年間は世代交代の時期とも重なり、2度プレイオフに進出したのが限度であった。 アンディ・リードの時代![]() 1999年にアンディ・リードがヘッドコーチに就任し、ドラフト全体2位で獲得したQBドノバン・マクナブの台頭もあってチームは一時期の低迷から脱し、2001年から2004年にかけて4年連続NFCチャンピオンシップゲームに出場した。最初の3回は敗れたが2004年シーズンには第39回スーパーボウルへの出場を果たしニューイングランド・ペイトリオッツと対戦したが21-24で敗れて優勝は果たせなかった。2008年シーズンはぎりぎりでプレーオフ出場を決め前年のスーパーボウル覇者であるニューヨーク・ジャイアンツを敵地で23-11と破ったがNFCチャンピオンシップゲームでアリゾナ・カージナルスに25-32で敗れスーパーボウル出場はならず、リードはまたしてもホノルルでプロボウルの指揮を執る事になった。リードはチャンピオンシップ敗退のヘッドコーチとして4回もプロボウルに出ており元スティーラーズHCのビル・カウアーと並んでアロハコレクターと揶揄された。 ![]() 2009年、5月にジム・ジョンソンディフェンスコーディネーターが癌性腫瘍の治療のため、チームを離脱、トレーニングキャンプ直前の7月にショーン・マクダーモットを昇格させた[4]。7月28日にジョンソンは68歳で亡くなった[5]。開幕直前に、闘犬賭博罪で収監され18ヶ月の刑期を終えたQBマイケル・ヴィックを獲得。11勝5敗で地区2位となりプレーオフ初戦で敗退したシーズン終了後、ドラフト権と引き換えにマクナブをワシントン・レッドスキンズへ放出した。 2010年には、当初ケビン・コルブを先発QBとして開幕戦を迎えたが、負傷のため途中交代。2戦目以後ヴィックを柱としてチームは連勝を重ね、10勝6敗でNFC東地区優勝を果たす。一時はNFLから無期限出場停止処分を受けていたヴィックの活躍は、サクセスストーリとして全米の注目を集めるとともに、オバマ大統領も再起のチャンスを与えたイーグルスに対して賞賛を送った [6]。プレーオフは初戦で敗退した。 2011年には開幕前にCBナムディ・アソムーア、CBドミニク・ロジャース=クロマティ、RBロニー・ブラウン、QBヴィンス・ヤングらプロボウルに出場経験のある選手を多く補強し、ドリームチームと呼ばれたがシーズンは負けが先行し、終盤盛り返すも8勝8敗でプレーオフを逃した。 2012年、ドラフト3巡目にQBニック・フォールズを指名した。この年は開幕から4試合で3勝1敗の成績をあげたが、その後8連敗するなど最後の12試合はわずか1勝で4勝12敗に終わった。[7]この年のチームはQBヴィックが開幕からターンオーバーを連発、ヴィック、RBルショーン・マッコイが脳震盪で数試合欠場、WRデショーン・ジャクソンはシーズン絶望の負傷をしている。10月16日にはホアン・カスティーヨディフェンスコーディネーターが解雇された。[8]。シーズン終了後にリードHCは解任された。リードは14シーズンで130勝93敗1分、地区優勝6回、カンファレンスチャンピオンシップに5回出場、スーパーボウル1回出場の成績を残した[9]。 チップ・ケリーの時代2013年、オレゴン大学のヘッドコーチチップ・ケリーがヘッドコーチに就任した[10]。ケリーは先発QBにニック・フォールズを据えカレッジ仕込みのアップテンポオフェンスと3-4ディフェンスを持ち込み10勝6敗で地区優勝を果たしたが、ワイルドカードプレーオフでニューオーリンズ・セインツに24-26で敗れた。翌2014年には人事権のあるGMを兼務しオレゴン大出身の選手を多く獲得するなど選手を大幅に入れ替えたが、ノーハドルで攻撃を短時間に繰り出す独特な攻撃システムも対策が進み勢いを失い、守備選手の出場時間が長くなり体力を消耗するため終盤に失点を重ねてしまうというデメリットの方が目立っていた。シーズン途中にフォールズは鎖骨骨折で戦線離脱し、前ニューヨーク・ジェッツのQBマーク・サンチェスと契約して10勝6敗をあげたもののプレーオフ進出を逃した。2015年はGMの地位を剥奪されHC専任となる。QBフォールズをラムズへ放出して代わりに獲得したサム・ブラッドフォードを先発QBに据えたが7勝9敗と負け越し、ケリーHCは解雇された ダグ・ピーダーソンの時代2016年にはダグ・ピーダーソンが新HCに就任した。ドラフトでは全体2位でQBカーソン・ウェンツを指名、開幕直前に先発QBのサム・ブラッドフォードをミネソタ・バイキングスへ放出した。新人QBらしからぬ落ち着いたプレイを見せたウェンツと守備をチーム伝統の4-3隊形に戻して安定感も取り戻し開幕から3連勝を飾ったが、その後失速し7勝9敗の成績を挙げながらも地区最下位に終わった。 2017年はベテランのWRアルション・ジェフリー、WRトリー・スミス、RBリギャレット・ブロウント、CBロナルド・ダービーらを獲得、ドラフトでは守備陣を中心に補強してランディフェンスが向上、シーズン途中には負傷で戦線離脱したRBダレン・スプロールズに代わりRBジェイ・アジャイを獲得した。QBウェンツの成長もあってチームは8連勝を記録するなどして首位を独走していたが第14週のロサンゼルス・ラムズ戦でウェンツが左膝の前十字靭帯を断裂しシーズン絶望となり、3年ぶりにチームに復帰したニック・フォールズが先発QBとなった。チームは13勝3敗で地区優勝、NFC第1シードを獲得しホームアドバンテージを獲得した。第1シードを獲得したものの、エースQBのウェンツを失ったチームはフォールズがシーズン終盤に低調なプレーを見せた事もありプレーオフでは苦戦が予想された。ディビジョナルプレーオフではアトランタ・ファルコンズを15-10で、NFC チャンピオンシップではミネソタ・バイキングスを38-7でそれぞれ破りNFCチャンピオンとなり、2004年以来となるスーパーボウル出場を果たした。 ![]() 第52回スーパーボウルではニューイングランド・ペイトリオッツと対戦。戦力的にイーグルスが不利と思われていたが、その評価を覆してペイトリオッツを41-33で破りチーム史上初のスーパーボウルチャンピオンとなった[11]。 2018年は連覇が懸かっていたが主力選手・コーチ陣の移籍、厳しいスケジュール、全体32位の低いドラフト指名順により1巡指名を回避するなど苦戦が予想された。スーパーボウルMVPのフォールズが開幕QBとなるも不調により第3週からウェンツがQBに復帰するが、チームの主力であるRBとDBに怪我人が続出しラン攻撃とパスディフェンスが弱体化した結果プレーオフ出場が厳しい状況に置かれた。シーズン終盤に再びウェンツが負傷してフォールズがスターターに復帰し残り3試合を全勝、最終週で第6シードの座を奪い取り9勝7敗でプレーオフ進出を果たした。ワイルドカードプレーオフでは第3シードのシカゴ・ベアーズと対戦、相手の決勝フィールドゴールをブロックし16-15で勝利、ディビジョナルプレーオフは第1シードのニューオーリンズ・セインツに14-20で敗退した。 2019年はDEクリス・ロングが引退、QBニック・フォールズがジャクソンビル・ジャガーズに移籍。WRデショーン・ジャクソンのチーム復帰、ベアーズからRBジョーダン・ハワードを獲得した。このシーズンは攻撃陣に怪我人が続出、RB、WRは開幕時の先発全員が故障で途中離脱となった。負けが先行する苦しい状態ながらもシーズン終盤の同地区対決を4連勝し最終週に地区優勝を決め、9勝7敗の成績で第4シードでプレーオフに滑り込んだ。プレーオフ初戦ではここまで孤軍奮闘で牽引してきたQBウェンツが脳震盪で退場し攻撃陣が完全に破綻、シアトル・シーホークスに9-17で敗退した。 2020年はSマルコム・ジェンキンスがセインツへ移籍、CBダリアス・スレイを獲得。開幕2連敗の後シンシナティ・ベンガルズと引き分け、4戦目のサンフランシスコ・49ers戦でシーズン初勝利となるが2020シーズンはNFC東地区の全チームが低迷、引き分けの差だけで地区首位をキープする状態が続く。前年地区優勝によるタフなスケジュールも影響し連敗が続き、第14週からはQBウェンツに代わりドラフト2巡ルーキーQBジェイレン・ハーツが先発、ニューオリンズ・セインツ相手に勝利するなどしたが終盤も連敗して同地区が全て負け越す中で4勝11敗1分の成績で地区最下位となり、2021年ドラフトは全体6巡指名となった。チームの地区最下位は決定済みで臨んだ最終戦の対ワシントン戦では第4クォーターで先発QBをベンチに下げ敗北し、ドラフト指名順を上げるために意図的に負けたのではないかと論議を呼んだ[12]。2021年1月11日、ピーダーソンHCは解雇された。 ニック・シリア二の時代2021年、前インディアナポリス・コルツの攻撃コーディネーターであったニック・シリアニが新HCに就任した[13]。ドラフト指名権2つと引き換えにQBウェンツをインディアナポリス・コルツにトレードした。デショーン・ジャクソン、アルション・ジェフリーらの離脱でWRが手薄になり、ドラフトでは全体10位でWRデボンタ・スミスを指名した。FAでQBガードナー・ミンシューやCBスティーブン・ネルソンなどを獲得し、エースQBには2年目の若いジェイレン・ハーツが指名された。"タッシュプッシュ"あるいは"ブラザリー・シャブ"と呼ばれる、QBを後ろから二人の選手が押して短い距離を獲得するプレーを開発して多用し始めた[14]。公式戦が1試合増え選手の移籍や厳しいキャップにも悩まされ劣勢が予想されたがアトランタ・ファルコンズとのシーズン開幕戦を勝利しシリアニHCの初陣を飾った。シーズン途中にTEザック・アーツがアリゾナ・カージナルスに移籍しさらに厳しい戦いを強いられたが終盤連勝して、第17週にプレーオフ進出を決め9勝8敗と勝ち越し、今季より1枠拡大された第7シードとなった。ワイルドカードプレーオフでは第2シードのタンパベイ・バッカニアーズに15-31で敗れた。 2022年はGブランドン・ブルックスが引退、Sロドニー・マクロードがコルツに移籍した他に若手WRを放出。ドラフトでは1巡でDTジョーダン・デービス、2巡でC/Gキャム・ユルゲンスを指名、攻守の主力であるDTコックス、Cケルシーの後継者を獲得した。CBジェームズ・ブラッドベリー、地元テンプル大出身のLBハサン・レディックらがFA加入、トレードでWRのA・J・ブラウン、SのC・J・ガードナー=ジョンソンなどを獲得した。攻守に渡り好調で開幕からリーグ唯一の8連勝を記録し、第10週のワシントン・コマンダーズとの同地区対決にて今季初黒星を喫したものの、その後も勝ち続け第14週にはプレーオフ出場を決めた。終盤でハーツの負傷欠場があり連敗を喫したがハーツは最終週で復帰し勝利を挙げ14勝3敗で地区優勝と第1シードを獲得した。NFCの週間最優秀選手を開幕からの5週連続を含め延べ9人が受賞[15]、QBハーツは9月、LBレディックは12月のNFC月間最優秀選手を受賞した。ディビジョナルラウンドからの登場となったプレーオフ初戦は第6シードのニューヨーク・ジャイアンツに38-7で圧勝、5年ぶりに進んだNFCチャンピオンシップゲームでは第2シードのサンフランシスコ・フォーティナイナーズに31-7で勝利し、第57回スーパーボウルの出場を決めた。だがスーパーボウルでは35-38でカンザスシティ・チーフスに敗れた。 2023年はDCジョナサン・ギャノンがアリゾナ・カージナルスHCに、OCシェーン・スタイケンがインディアナポリス・コルツHCにそれぞれ就任、QBミンシュー、RBサンダース、Sガードナー=ジョンソンなどが移籍。ドラフトでは1巡9位でDTジェイレン・カーター、30位でLBノーラン・スミスを獲得。QBマーカス・マリオタ、RBラシャード・ペニー、地元出身のRBディアンドレ・スウィフトなどが加入した。ミッドナイトグリーン、ホワイト、ブラックのユニフォームに加えて80年代後半から90年代前半に使われたケリーグリーンとシルバーのスローバックユニフォームが復活した。開幕からチーム史上初の2年連続開幕5連勝を飾るなど好スタートを切り、NFCの週間最優秀選手を第1、第4週、第12週のスペシャルチーム部門でKエリオットが、攻撃部門を第2週RBスウィフト、第7週WRブラウン、第8週QBハーツが受賞した。ハーツは10月のNFC月間最優秀攻撃選手にも選ばれた。第12週までは10勝1敗とカンファレンス首位を維持したがその後は1勝5敗と急失速し、第15週にプレーオフ進出を決めたものの地区優勝を逃し11勝6敗で第5シードとなった。ワイルドカードプレーオフでも挽回できずにタンパベイ・バッカニアーズに敗れてシーズン終了となった。 2024年はCケルシー、DTコックスの主力2名が引退し、LBレディック、RBスウィフトらがチームを離れた。OCとDCを刷新し、新OCにはロサンゼルス・チャージャーズからケレン・ムーア、DCにはマイアミ・ドルフィンズからビック・ファンジオを招聘、ドラフトでは1巡22位でCBクイニョン・ミッチェルを獲得した。FAでLBブライス・ハフ、QBケニー・ピケット、LBザック・バウン、地元ペン州立大出身で同地区ライバルのNYGからRBセイクワン・バークリー、WASからWRジャハン・ドットソンが加入、SのC・J・ガードナー=ジョンソンが移籍先のライオンズから1年で復帰した。ブラジル・サンパウロで行われた開幕戦を勝利し、その後も好調でカンファレンス2位の成績を維持。NFC週間最優秀選手の攻撃部門をRBバークリーが第1、第7、第9週、第12週に、守備部門をLBバウンが第10週に、スペシャルチーム部門をP/Kマンが第13週にそれぞれ受賞した。第16週に地区優勝を果たし、第2シードでプレーオフに進んだ。RBバークリーは11月のNFC最優秀攻撃選手も受賞し、チーム記録となるラン2005ydsを走りシーズンのリーディングラッシャーとなって、NFLの最優秀攻撃選手に選ばれた。ワイルドカードプレーオフでは開幕戦ブラジルで対戦したグリーンベイ・パッカーズと再戦し22-10で勝利、ディビジョナルプレーオフでは第12週で対戦したロサンゼルス・ラムズと再戦、激しい雪の中28-22で勝利、NFCチャンピオンシップゲームはホームで第6シードの同地区WASと対戦、55-23でNFCチャンピオンとなり、第59回スーパーボウル出場を決めた。スーパーボウルではカンザスシティ・チーフスと2年ぶりの再戦となった。序盤から攻守でチーフスを圧倒し、40-22で2度目のスーパーボウル覇者となった。前回優勝した第52回スーパーボウルの時にも今回もロースターにいた(つまり2つのスーパーボウル・リングを持つ)選手は、OTレーン・ジョンソン、DE Brandon Graham、K Jake Elliott、LS Rick Lovatoである。 文化ビリーペンの呪いフィラデルフィアにはかつて、フィラデルフィア市庁舎の尖塔に立つウィリアム・ペン像の高さ(167m)を超える建物を建てない、という紳士協定が存在した。しかし、1987年3月に高さ288mのワン・リバティ・プレイスが建設され、それ以来、イーグルスを含むフィラデルフィアに拠点を置くすべての主要なプロスポーツチームが優勝を果たすことができなかった。これは市民の間でビリーペンの呪い(Curse of Billy Penn)と称された。2008年、MLBのフィラデルフィア・フィリーズがワールドシリーズで優勝し、呪いは解けた[注 1]。その後、イーグルスも2018年にスーパーボウル初制覇を果たしている。 ファン![]() イーグルスのファンはNFLの中でもとりわけ熱狂的と言われている[16]。本拠地開催での試合は常に満員であり、2008年8月に71試合連続でチケット完売を記録した。しかしながら、悪評もついており、ファンのマナーについて言及される場合もある。メジャーリーガーのマイク・トラウトも同チームの大ファンとして有名で、イーグルスファンの有名人として真っ先に名が挙がる人物の筆頭格である。エンゼルスがシーズンオフに入ってからは地元に帰省して、イーグルスのホームゲームになると客席からイーグルスに声援を送るトラウトの姿がテレビやスクリーンに映し出されるのが恒例となっている。イーグルスが初のスーパーボウル制覇を成し遂げた第52回スーパーボウルでも会場となったUSバンク・スタジアムに足を運んでおり、歓喜の瞬間を現地で見届けた。『インヴィンシブル 栄光へのタッチダウン』『世界にひとつのプレイブック』『ディア・ハンター』『フィラデルフィアは今日も晴れ』など、映画に取り上げられることも多い。 マスコット![]() チームの公式マスコットは、ワシのスウープ(Swoop)である。ネシャミニー州立公園のワシの森で生まれ、視力と体力が弱い白頭ワシだったが、強く真実のハートを持っていた。イーグルスのファンがスウープに、強さを増強するユニフォームを与えると、体と心が人間のサイズに成長した。スウープは、他者を助けることを望んだため、イーグルスコミュニティの監督者になった、という逸話がある。 1994年にコメディ映画『エース・ベンチュラ』にカメオ出演し、主人公のベンチュラに打ち負かされる役どころを演じた。 チアリーダーチームの公式チアリーダーとして、フィラデルフィア・イーグルス・チアリーダーズ(Philadelphia Eagles Cheerleaders)が活動している。1948年にイーグルッツ(Eaglettes)としてデビューし、1970年代にリバティ・ベルズ(Liberty Belles)となった後、1980年代に現在の名称へと変更された。2012年には、アラバマ州モービルで開催されたシニアボウル(カレッジフットボールのオールスターゲーム)にも出場した。 2025年シーズン
:1度対戦 :2度対戦
2024年シーズン成績
成績NFC東地区(4地区制、2002年-現在)
NFC東地区(3地区制、1970年-2001年)
NFL東カンファレンス・首都地区(1967年-1969年)
NFL東カンファレンス(1953年-1966年)
NFLアメリカン・カンファレンス(1950年-1952年)
NFL東地区(1933年-1949年)
主な選手現役選手
永久欠番
永久欠番にはなっていないものの以下の番号は選手の栄誉を讃え、現在使用されていない。
プロフットボール殿堂入りEagles Hall of Fame→詳細は「イーグルス・ホール・オブ・フェイム(英語版)」を参照
75周年記念チーム歴代ヘッドコーチ
脚注注釈
出典
関連項目
外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia