小山明子
小山 明子(こやま あきこ、1935年(昭和10年)1月27日 - ) は、日本の女優[2]。 千葉県生まれで神奈川県横浜市鶴見区育ち。藤沢市在住[1]。戸籍名は大島 明子(おおしま あきこ)。旧姓・臼井。 来歴・人物
![]() 1950年、男女共学化初年度の神奈川県立鶴見高等学校に入学[1]。靴箱にラブレターがあふれ、通学路で声をかけられた卒業生と交際したこともあった[1]。秋に女子の制服が制定されると、新設された家庭科室で3カ月かけて自分の制服を縫った[1]。進路を決める時期にその経験を思い出し、デザイナーを志して洋裁の大谷学園に進学[1]。学内のファッションショーに出演し、そのときの写真がきっかけで一度だけ『家庭よみうり』のカバーガールとなり、スカウトされて松竹に入社した[1]。1955年、松竹映画『ママ横をむいてて』でデビュー。当時、松竹の助監督だった大島渚と仕事を通じて知り合い1960年に結婚した。大島からのプロポーズの言葉は「百貨店の物を何でも買ってあげるから」。翌年、松竹を退社。 花登筺のテレビドラマ『道頓堀』(1968年)では、往年の浪速情緒あふれる大阪の女性を演じ、同じく花登作の1976年放送のテレビドラマ『あかんたれ』及び1978年の続編『続・あかんたれ』でも、明治大正期に格式の厳しかった大阪船場の成田屋のご寮さん・おひさ役を演じた。 1996年に夫の大島が脳出血で倒れてからは、長時間拘束される女優業から距離を置いて、夫の介護に専念するようになる。介護疲れと大島プロダクションの職員からの介護に関係した暴言を原因とするうつ病を発病するが克服した[2]。 2001年に個人事務所・小山明子事務所を設立し、介護をテーマにした講演会の講師やコメンテーター、執筆を中心に活動している[2]。特に著作では、『パパはマイナス50点』で、2008年、第25回日本文芸大賞エッセイ賞を受賞し、2010年には『小山明子のしあわせ日和』を出版している。 2013年1月15日午後3時25分、大島が肺炎により80歳で死去。小山は大島の亡くなった翌日も、気丈に舞台の主役を務めた。舞台終わりのインタビューでは、時折涙で声を詰まらせながらも亡き夫に対して「ご苦労さまでした。もう何も悔いはありません」と応えている。葬儀では喪主を務め、数多くの参列者へ感謝の言葉を述べていた。 2013年2月23日公開の映画「インターミッション」(樋口尚文監督)で四半世紀ぶりに映画出演を果たしている。 2021年、第44回日本アカデミー賞会長功労賞を受賞[3]。 家族
長男は1963年(昭和38年生まれ)で東京工芸大学教授の大島武、次男は1969年(昭和44年生まれ)で元フジテレビディレクター、映画監督の大島新。 ミュンヘン日本映画見本市
1959年(昭和34年)3月2日から3月6日まで開催された「ベルリン日本映画芸術の日」と3月6日から11日まで開催された「ミュンヘン日本映画見本市」に出席のため、3月1日、山梨稔(新東宝専務)、池広利夫(大映営業渉外部長)や芦川いづみ(日活)、大川恵子(東映)、大空眞弓(新東宝)、司葉子(東宝)、若尾文子(大映)ら他の映画会社各社代表女優たちと共に松竹代表女優としてドイツへ出発。1日、ベルリン着。ベルリンでの宿泊先はヒルトン・ベルリン。3日、記者会見。4日、CCCスタジオ訪問。 5日、ベルリンを出発しミュンヘンに到着。ミュンヘンでの宿泊先はケンピンスキー・ホテル・フィア・ヤーレスツァイテン(Hotel Vier Jahreszeiten (München))。7日、記者会見。9日、女優たちのサイン会が開催された。10日、バヴァリア・スタジオ(Bavaria Film)見学。11日の見本市終了後、ロンドン・パリ・ジュネーヴ・チューリッヒ・ローマ・香港(香港以外順不同)に立ち寄り、26日、山梨(新東宝専務)、芦川、大空と4人で日本航空機で約1か月ぶりに日本に帰朝。帰国時の4人のタラップ(屋根無し)での写真が現存する(小山はファッションとしての帽子と手袋をしている)。 現地で上映された日本映画は『無法松の一生』(第19回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞作品)、『楢山節考』(木下惠介監督版)、『白蛇伝』(アニメーション映画)など。 主な出演![]() 映画
テレビドラマ
テレビ番組
著作単著
共著
関連項目脚注外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia