日系アメリカ人の歴史 (にっけいアメリカじんのれきし)では、主に明治維新 から現代にかけて、日本 からアメリカ合衆国 に移住 した、在米日本人 及びその子孫である日系アメリカ人 (ハワイにおける日本人移民 を含める)の歴史について記述する。
移住の始まり
シアトルで開催されたアラスカ・ユーコン太平洋博覧会 (英語版 ) の「日本日」におけるパレードの様子(1909年9月4日撮影)
記録上残っている北米 に初めて上陸した日本人は、1587年10月にフランシスコ会 の宣教師 であるマルティン・イグナシオ・デ・ロヨラに同行した少年だったとされている。
具体的な氏名が記録されている事例としては、1610年の田中勝介 によるものが、最古のものとされている。
小栗重吉 は、1815年にカリフォルニア州 へ、音吉 を含めた宝順丸の船員3名は、1834年にワシントン州 へあたる地域に降り立った、それぞれ初めての日本人だった[ 1] [ 2] 。
1853年のマシュー・ペリー による黒船来航 を期に、日米両国 は和親条約 と修好通商条約 を締結し、鎖国 は撤廃される事となった。
日本からのアメリカ合衆国への移住は、主に経済的な動機によるものだった。日本の人口密度 は、1872年の91.2人から、1903年の119.3人に増加した事に伴い、労働者の失業率と生活環境は悪化の一途を辿っていた。こうした経済状況の停滞を背景に、多くの日本人がより良い生活を求めて、国外へ新天地を求めるようになった。「理想郷」において、移住者達が相次いで成功を収めているという風聞は、アメリカへの移民 の増加を後押しする事となった。特に、日本では長子相続 の慣例が、根強く残っているという背景もあって、海外で大金を稼ぎ「故郷に錦を飾る」事を目的とした、農家の次男以下による移民が、増加するようになった。1870年の時点で、アメリカに居住している日本人は、僅か55名だったものの、1890年までに約2,000人が、新たに到着する事となった[ 3] 。
1882年に制定され、1902年に恒久的な措置となった『中国人排斥法 』は、日本人が中国人に取って代わる「安価な労働力」としての需要を、高める要因となった。結果として、1901年から1908年にかけて、約12万7,000人の日本人が渡米する事となった[ 4] 。
特に、日露戦争 後に起きた戦後恐慌 の影響により、1907年には1年間当たり3万人もの日本人移民が、アメリカ本土 へ渡った。彼等は、カリフォルニア州を中心とした西海岸 へ居住するようになった[ 3] [ 4] 。
出稼ぎ労働者以外にも、著しい経済発展を遂げるアメリカで、日本の近代化に役立たせる事の出来る知識や技術を習得する事を目的とした「書生 」が、1881年頃から個人で西海岸へ渡航し始めた。1890年には、約4,000人の日本人書生が、主にサンフランシスコやオークランドに居住するようになった。ただ、その大半が所持金もないまま渡米した為、数人で「穴蔵同様の地下部屋」を借りて、労働の合間に勉学を続けるという、苦学生活を送っていた。また彼等は、同地でキリスト教 系の「福音会」や自由民権運動 派の「日本人愛国同盟」をはじめとする、宗教的・政治的な団体を創設した。
こうした書生達は、在米時に学んだ事や体験を活かして、帰国後には日本社会の各方面で活躍するようになった。一方で、アメリカに留まる道を選んだ者達は、総じて日系コミュニティにおける指導者となった。日本人の出稼ぎ労働者が、ハワイや西海岸に定住する覚悟を決めた際、アメリカの事情に精通し、英語に堪能な「居残り書生」が、日系コミュニティにおいて果たした役割は、非常に大きいと言える[ 5] 。
排日機運の高まり
しかしながら、日本人移民を厳しく制限したアメリカの移民法は、法に基づいた同国における差別 の歴史を象徴するものであった。日本人移民の数が増えるにつれ、農業分野において次々と成功を収める姿に対する反感と「黄禍論 」の台頭が、嘗て中国人移民が直面したものと類似した、反日運動の高まりに繋がる事となった[ 6] 。
「アジア排斥同盟 」とサンフランシスコ教育委員会からの圧力により、セオドア・ルーズベルト 大統領は、1907年に「日米紳士協約 」に関する交渉に取り組む事となった。これに伴い、日本国政府は、アメリカへの労働移民を目的とした日本国民には、パスポート を新規発行しない事に合意し、日本からアメリカへの新規移民を、事実上排除する事となった。同時に、アメリカ側は、
既に居住している日本人移民の存在を受け入れる。
日本人移民の妻・子供・両親の移民を許可する。
永住を目的としない、留学生やビジネス関係者の渡米を許可する。
カリフォルニア州の学校における、日系人の子供に対する法的差別を回避する。
事などに同意した。
これに伴い、独身である日本人移民の男性が、アメリカにおいて家庭を築き、日系コミュニティを存続させる為には、写真・履歴書などを交換するだけで、実際には面識のないまま入籍し、ビザ を取得するという法の抜け道を利用した「写真花嫁 」に頼らざるを得なくなった。これにより、1908年から1920年にかけて、『「写真結婚婦人」呼び寄せ証明書』を発給された約2万人の日本人女性が、ハワイを含めたアメリカへ渡る事となった[ 7] 。
しかし、排日論者達はこうした「写真婚」を「愛と道徳に欠けた、野蛮・非文明的・反道徳的な習慣」と非難した。その為「写真花嫁」を呼び寄せようとする1世の男性達は、暫くすると必然的に、自ら日本に一時帰国し、結婚の手続きを行うようになった。
それに伴う形で、日本人移民の家庭に出生する、アメリカ市民権を持つ子供が増加。また、各種宗教施設・婦人会 ・日本語学校などが設立されるようになった事で、日系コミュニティの生活は拡大した。こうした背景を基に、1世達の間には、アメリカに定住する決意が、芽生える事となった。
因みに、アメリカの日系コミュニティにおける女性の比率は、1900年には4%だったものが、1910年には12.6%、1920年には34.5%、1930年には41.1%にまで上昇した[ 7] 。
1924年に連邦議会 において『排日移民法 』が可決された事で、写真花嫁を含めたアメリカへの日本人移民の送出は、事実上停止される事となった。
「日本人会」の取り組み
地方日本人会
日本人移民が、アメリカにおいて「安価な労働力」として歓迎されていた時期は、これといった排日問題は起こらなかった。しかし、日露戦争を境に、日本という国家がアメリカにとっての脅威と見なされるようになると、日本人移民は一転して、排斥の対象となった。こうした情勢に対処すべく、サンフランシスコ の「在米日本人連合協議会」、ワシントン州の「ワシントン州日本人会」[ 注釈 1] に代表される地方日本人会が、各地で多く結成された。
地方日本人会の主な業務としては、
アメリカへの再入国や、親族の呼び寄せに必要となる、証明保証書類の作成
生活困窮者の救済
日本人の為の児童養護施設 や日本語学校への補助
天長節 奉祝行事の主催
日本人墓地 の整備
など、日常生活に密着したものの他、
日本から著名人や帝国海軍の練習艦隊 が来訪・寄港した際、大規模な歓迎会を催す。
独立記念日 をはじめとした、国や州の祝祭日に、日米の友好親善をイメージした山車 を曳き出す。
といった「良き“大日本帝国臣民”かつ“定住外国人”」であろうと心掛けるその姿勢を、日米両国に周知させる為の活動にも、取り組んでいた。
また、シアトルの「北米日本人会」は、1921年にはアメリカにおける初の2世組織となる「シアトル革新市民連盟」の発足を支援。この事が、2世グループによる連絡網の整備を促進しただけでなく、後に「日系アメリカ人市民同盟 (JACL)」が発足するきっかけともなった。
連絡日本人会
アメリカにおける太平洋沿岸地域の日本人会は、管内に住む日本人が、領事館 に願い出る各種証明の保証を請け負うにあたって、互いに連絡を取る「連絡日本人会体制」を築いた。例えば、ワシントン州の地方日本人会は「米国北西部連絡日本人会」に属していたが、同連絡日本人会は、15の地方日本人会を束ねていた。
活動内容としては、第一には、現地の日本人が領事館に提出する各種書類の記載内容を、保証する事であった。大日本帝国憲法 下において、在米日本人はあくまでも「大日本帝国臣民」であった。「日米紳士協約」に基づく厳しい出入国制限を行っていた日本国政府は、在米日本人への監視を怠らなかった。その為、在米日本人は、移民として渡米する事が叶っても、
在留証明書 - 徴兵 猶予を願い出る際、または日本に一時帰国し、アメリカへ再入国する際に必要。
身分証明書 - 家族を日本から呼び寄せるに際して、身分確実である事を示す。
営業証明書 - 家族を呼び寄せる、または一時帰国後に再渡米する際に、願書の住所に居住し、それ相応の事業に従事している事を証明する。
などを、必要に応じて領事館から受ける事が、義務付けられていた。こうした証明書の発行に際して、領事館は記載事項における真偽の確認を、地方日本人会と連絡日本人会に委ねた。これが、日本人会による証明保証制度である。日本人会は、申請者の記載事項に誤り無しと保証する事で、当人が領事館の査定にかなう人物である事を担保。その見返りとして、手数料を徴収した。手数料による収入は、日本人会財政の約70%にまで達し、主要な財源となっていた。こうした制度も、1926年3月を以て廃止される事となった。
第二には、帰化訴訟委員会・米化委員会・教育調査委員会などの専門委員会を設置し、日系コミュニティを取り巻く各種問題への対処にあたった事が挙げられる。帰化訴訟委員会は、上部組織である「太平洋沿岸日本人会協議会」による、小沢孝雄の帰化権訴訟 を支援する決議を踏まえ、設置されたものだった。鈴木音高 委員長のもと、在米日本人のアメリカにおける法的地位の向上を目指した取り組みにあたった。米化委員会は、アメリカニズム (英語版 ) というアメリカの国家主義に対応すべく設置されたものだった。アメリカ社会の文化・価値観・習慣に適応 し、それらを主体的に受容する事で、自己の変革を図っていこうとする運動を進めた。1921年に、ワシントン州において外国人土地法が成立すると、その違憲性を訴える訴訟活動を展開した。教育調査委員会については、後述 を参照されたし。
太平洋沿岸日本人会協議会
1914年には、カナダ からカリフォルニア南部に至る沿岸地域における各連絡団体を結集させる協議機関として「太平洋沿岸日本人会協議会」が発足した。
主な活動内容としては、アメリカに対するものとしては、上述した通り、小沢孝雄の帰化権訴訟への支援であった。日本に対するものとしては、アメリカに居住する「大日本帝国臣民」の法的地位の改善と保護を訴えたものが多かった。特に、アメリカで生まれた2世の日米二重国籍 状態を解決する為の、当時の日本における国籍法の改正運動が、その代表例と言える。この運動は、2世は徴兵義務に関わりなく、本人の意思により、自由に日本国籍 を放棄・離脱できるようにと、同法の一部改正を目指したものだった。1924年の衆議院選挙 にあたっては、自身達の運動に賛同してくれる代議士を送り出すべく、数千枚の応援ビラをアメリカ西海岸から日本に送り届けるなど、地方日本人会→連絡団体→協議会→日本という、移民ネットワークを駆使したロビー活動 を展開した。
こうした取り組みが功を奏し、同年11月に国籍法は「海外でも、生後14日以内に内務大臣 (あるいは日本国政府の現地出先機関 )に届け出なければ、日本国籍は有しない」とされたうえ「14歳未満の2世は両親か保護者代理 が、15歳以上の2世は自らが(国籍の放棄に関する)手続きを出来る」ように改正。2世は自らを「“完全なアメリカ人 ”である」と言い切れる、法的な根拠を得る事となった[ 注釈 2] 。
この協議会も、小沢訴訟での敗訴が確定した事と、日本の国籍法改正という目標を達成した事で、その役割を終了。1929年のJACL発足に伴い、発展的解消を遂げる事となった。
「出稼ぎ」から「定住」へのシフト
上述したような、アメリカ国内における排日感情が高まり始めた情勢の中でも、当初は帰国を前提とした「出稼ぎ 」を想定していた日本人移民の多くが、徐々に「定住」を想定した経済的・家庭的基盤を作る事に努めるようになった。こうした背景には、
日本の農村部における経済事情が、渡米の前と後とでは、大きく変化した。日本人移民達が、当初アメリカで稼ぐ事を想定していた貯蓄額では、仮に帰国が叶っても、渡米前に望んでいた自身や家族の生活向上には「焼け石に水」の状態となった。これにより、目標達成の為に、滞在の延長を余儀なくされた。
日露戦争での戦勝に伴い、日本が「列強 」の仲間入りを果たし、近代化を成功させた、と自負するようになった。これにより、日本人移民達の多くは、黄禍論 に基づく日本人への人種差別 を、そのまま聞き入れる事は、屈辱であると捉えた。加えて、上述した小沢訴訟での敗訴により、日本人は「帰化不能外国人」と認定された事で、「在米日本人 」という新たなアイデンティティを獲得。逆境の中でも、敢えてアメリカに根を下ろす事を決意した。
アメリカ市民権を持つ子供が生まれ、その子供達がアメリカの地で生きる事を望み、ここをおいて自分達の居場所は無いのでは、といった思いが募るようになった。
事などが挙げられる。
ここに至って、「手段」であったアメリカでの生活は、それ自体が長期的視野に立って、生活を維持していくという、一つの「目標」へと様変わりする事となった。
例えば、日本郵船 が定期航路を開設していたシアトル では、1930年代までに全人口368,583人のうち、日系人の人口は8,448人に達し、住民を各々が自認する出身国ごとに区分した場合、非白人としては最大、白人を含めても4番目に多い民族集団であった[ 14] 。第二次世界大戦前の時点で、シアトルの日本町[ 注釈 3] は、北米西海岸では、ロサンゼルス のリトル・トーキョー に次ぐ日本人街 であった[ 16] 。
日本人移民による在米への指向が、「出稼ぎ」から「定住」へシフトするにつれ、日系コミュニティにおいて世代による明確なグループが形成されるようになった。排日移民法が施行される以前は、主に日本で生まれ育ち、移民として渡米した「1世 」と、その1世を親に持ち、アメリカで生まれた「2世 」が存在した。1世と2世は、子供時代に日米のどちらで学校教育 を受けたか、といった事などに起因する母語 や価値観の違い、アメリカ市民権 の有無などの面で、世間一般で言われるジェネレーションギャップ 以上の相違に、苛まれる事となった。そして、異人種間結婚禁止法 (英語版 ) の存在といった法的側面や、人種差別の風潮から、成人した2世の多くが、同胞同士で結婚した[ 注釈 4] 事により、生粋のアメリカ人としての「3世 」が誕生するようになった[ 3] [ 4] [ 20] 。
日本語教育への取り組み
黎明期の在米日本人移民社会では、未成年者は出生地が日本かアメリカかを問わず、居住地の公立学校 に通うのが通例であった。しかし、20世紀に入ると、当時まだ永住目的を持っていなかった日本人の子供達の教育に関して、人種事情・言語・生活習慣が異なる異国の地において、初等教育を現地のそれに一任する事への懸念の声が、親世代から挙がるようになった。その結果、1902年にシアトルで、北米では初となる日本語学校 となる「シアトル日本人会付属小学校」が開校。1907年には「シアトル国語学校 (英語版 ) 」と改称した。こうして、在シアトル日本人移民の子供達の多くが、平日は日中にアメリカ人の育成を目的とする現地の公立小学校、放課後は日本的精神 の涵養を目的とする国語学校に通うといった、二重のナショナリズム 教育を受けさせられる、過酷な生活を送る事となった。
当初国語学校では、国語 と地理歴史 においては、日本の国定教科書 が使用されていた。しかし、アメリカ国内の排日機運の高まりを受け、連絡日本人会の教育調査委員会は、国定教科書に代わる独自の教科書を編纂する事を決定。ワシントン州では、1921年から全8巻に及ぶ『日本語読本』を使用するようになった。同書の特徴は、アメリカで生活する子供達の感覚に合わせた教材を、多く取り入れた事だった。例えば、金額を表記する場合は“弗(ドル) ”・“仙(セント) ”の単位、手紙文に関しては、日本に住む祖父母へ、アメリカの近況を知らせるものが、それぞれ用いられていた。歴史上の人物に関しては、フランクリン やナイチンゲール 、ナポレオン などが取り上げられるなど、日本主義 的なものは極力控えられていた。
その後、日本の文部省 が仮名遣いと常用漢字の改訂を進めた事を受けて、1928年にワシントン州では、『日本語読本』の改訂版が編纂された。こうした、日本人移民による教科書作りから見えてくる事は、
祖国である日本から「棄民 」の烙印を押されまいと、常にその動向を見据え、敏感かつ積極的に対応しながら、アメリカの地で生き抜いていこうとした生き様。
アメリカの教育に適応しつつ、第二言語 として日本語 を学んでいた2世の負担を軽減し、学習意欲を継続させたい。また、彼等を「忠実なアメリカ市民」に育て上げ、アメリカ社会にもその事を認知させたい、という思い。
を体現したものであったと言える。
しかし、戦後になり、日系コミュニティが、アメリカで生まれ育ち、白人社会への同化が進んだ2~3世の世代になると、日本は自分達の故郷ではなく、アイデンティティの拠り所として意識する事も無くなった。その為、日本語で子供達とコミュニケーションを取っていた1世とは異なり、英語 本意で育った2世は、3世となる我が子達に、日本語教育 を施す事は、殆ど無かった。こうした時代の流れから、1950年代に入ると、戦前の日本語学校の姿は、完全に失われる事となった。
農業分野への貢献
アメリカに渡った日本人農民 達は、土壌 ・肥料 ・開墾 ・灌漑 ・排水 といった、栽培 に関する高度な知識と技術を持ち込んだ事により、同国の西海岸地域における農業 の発展に、多大な貢献をもたらした。
ヨーロッパ系の入植者と同様に、大部分が若い成人男性であった1世は、より良い生活を求めてアメリカに移住した。その大半は、西海岸に定住し、鉄道施設 ・製材 所・缶詰 工場・農場 などで働くようになった[ 3] [ 4] 。そして、アメリカでの生活にも慣れ、ある程度の貯蓄が出来ると、その多くが州内の郊外都市 に移り住み、白人地主 から土地を借りる形で、農業を始めるようになった。
しかし期待とは裏腹に、1世達は政治・経済・社会のあらゆる面で、差別に晒される事となった。農業に従事する者達の場合は、外国人土地法 によって、日本人は土地を所有できず、借用も3年以内に制限された。出生地主義 に基づき、アメリカ市民権を持つ子供の名義を用い、土地を購入するといった、法の抜け道 を利用する者もいた。しかし、こうした方法も、アジア系移民の排斥を目的とした各法により、制限される事となった。
土地の所有が困難な日本人移民は、主に花・果物・セロリ ・ジャガイモ ・タマネギ ・カブ ・レタス ・キャベツ といった、短期間で収穫できるものを栽培するようになった。例えばガーデナ は、南カリフォルニア におけるイチゴ の一大産地として知られるようになった。1906年に、ロサンゼルス近郊の日系人農家は、新しい技術・労働力・設備などを共有する為の協会を創設し、1910年には「ロサンゼルス地域の中で、1エーカー 当たり最高の収穫高」を誇るようになった。
このように、それまで荒れ地だった土地を、豊かな農地へと変貌させる事に成功した要因としては、上述した栽培に関する高度な知識と技術だけではなく、自然との共生・勤勉・チームワークを尊重する、日本人の気質も大きかったと言える。中には、資金を出し合って土地をリースする事で、小作農 へと移行する者もいた。また、労働力を配分し、地主に支払う地代 の集金や、労働者への賃金の分配を担当する組織もあった。こうした仕組みは、地主にとっても都合が良く、土地を所有しない日本人にも、農場経営者になる道が開かれる事となった。
ニンニク 畑で除草作業を行う日本人農民(1942年3月30日、ドロシア・ラング 撮影)
1900年の時点では、カリフォルニア州で日本人が経営する農場は37園しかなかった。だが1910年には、同州で働く日系農家は、1816軒にまで増加した。1941年になると、日本人移民と日系人は「カリフォルニア州で栽培される商用作物の、30~35%を生産する」程の成功を収めるようになった[ 23] 。
ところが、太平洋戦争の開戦に伴い、1942年に実施された、日系人に対する強制収容(後述 参照)に伴い、多くの人々がそれまでの事業と農場を失う事となった。それでも、日系人にとっての農業は、収容所においても、強いアイデンティティとしての機能を発揮する事となった。収容所での農業プログラム は、収容者による消費を前提とした食料を、生産する為に設けられた。また、戦争遂行の為の「戦時作物」の栽培という、副次的な目的もあった。収容所は、総じて砂漠 の中の荒涼とした場所に置かれていた。その為、農業を始めるにあたっては、過酷な気候条件をはじめとして、多くの課題に直面する事となった。しかし、1世達による長年の経験に基づいた熟練のノウハウは、そうした困難を物ともせず、収容所における農業への取り組みは、押し並べて成功を収める事となった[ 24] [ 25] 。
こうした背景もあって、当時の収容者達が育てた農地の一部は、戦後敢えて元の居住地に帰還せず、収容所の近郊に居住する事を選択した者達も含めた地元住民によって、現在でも活用され続けている。無論、西海岸に帰還した日系人農業従事者とその子孫達も、各州の農業において、今尚重要な役割を果たしている[ 26] 。
カリフォルニア州における漁業コミュニティの形成と崩壊
アメリカにおける日本人移民による漁業 への従事は、1892年にカリフォルニア州のモントレー湾 から始まった。
これ以降、同州で日本人労働者の斡旋や開墾の請負などに携わっていた、佐賀県 出身の野田音三郎が、1895年に同湾が豊かなアワビ の漁場である事に気付き、和歌山県 出身の漁師を集め、小さな漁村 を創った。そのうえで野田は、日本の農商務省 に、技術者の派遣を要請する手紙を送ったところ、1897年12月に、千葉県 から大日本水産伝習所(現:東京海洋大学 )を卒業した技術者である小谷仲治郎と、3人の男性海人 が渡米。仲治郎は、先に渡米していた兄・源之助と同地の地主であるA・M・アレンの3名で、1902年に湾の南部にあるポイントロボス (英語版 ) で、アワビ缶詰会社を創業。仲治郎自身は、1906年に帰国したものの、以降も南房総の漁業従事者を、アメリカへ送り続けた。
しかし、缶詰会社の事業は、日露戦争において日本が勝利した事で、アメリカ国内で反日感情が高まった事により、1915年にカリフォルニア州外へ、全てのアワビ製品を持ち出す事が禁じられる事となった。しかし、ドイツ系移民のポップ・アーネストが、アワビステーキを開発した事で、当時の牛肉 不足も相まって、アワビ料理が同州に定着。同社は、事業を継続する事が叶った。
結果として、モントレー湾の漁業は、長らく日本人移民が独占するようになった。1930年代半ばには、日本人所有の魚市場 やアワビ加工施設が、モントレー埠頭における事業の8割を占めるまでに至った[ 27] [ 28] [ 29] 。
ターミナル・アイランドにおける記念碑。画像では確認できないが、神額 に「大漁 」 と刻まれている鳥居 のレプリカ と、巽幸雄[ 注釈 5] による「沖は黒潮 魚もおどる 父母の辛苦を 偲びつヽ 永遠に称えん いにしえの里」 という和歌 が記されているガラス製の歌碑も、並び建てられている[ 30] [ 31] 。
また、同じカリフォルニア州のロサンゼルス郡 にある人工島 であるターミナル・アイランド (英語版 ) でも、和歌山県出身者を主とした日本人移民による漁業コミュニティが、1906年頃から形成されるようになった。戦前の最盛期には、約3,500人にも及ぶ漁師や缶詰工場の従業員と、その家族が居住する、アメリカ国内でも最大の日系漁村にまで発展した。
ターミナル・アイランドは、地理的に孤立している事もあって、各種商店や飲食店が軒を並べるようになり、島内で全ての事が足りていたという。また、住民の殆どが日本人移民の家族であった事から、同島で生まれた子供達は、英語と親達が話す紀州弁 が合わさった「ターミナル弁」と呼ばれる、島独自のピジン言語 で会話をしていた[ 32] [ 33] 。
しかし、太平洋戦争が開戦すると、前述した通り、日系漁村の住民達は、収容所へ送致される事となった。特にターミナル・アイランドでは、海軍の乾ドック に程近い場所だった事もあり、1942年2月9日には1世の男性全員が、FBIに逮捕された。その10日後に『大統領令9066号』が発令されると、残る全ての日系人も、48時間以内に退去させられる事となった。また、残された施設の全ては、当局によって撤去・破壊された。その為、戦後に収容所から解放された元漁師達は、庭師 をはじめとする他業種への転職を余儀なくされ、カリフォルニア州における日系漁業コミュニティが、その後再建される事は無かった。
1994年になると、小谷兄弟が嘗てアワビ事業を始めたポイントロボスの居住跡地が、「コダニ・ビレッジ」と命名され、アメリカにおいて日本人の名前に由来する、唯一の州立公園となった[ 34] 。ターミナル・アイランドでも、2人の日本人漁師を象った記念碑が、2002年に建立された[ 35] 。
強制収容の実施
日系人をサンフランシスコから追い出す旨の公報(1942年4月1日撮影)
太平洋戦争 (大東亜戦争 )の開戦に伴い、フランクリン・ルーズベルト 大統領 は、1942年2月19日に『大統領令9066号 』へ署名。これにより、西海岸に居住する約12万人の日本人移民・日系人は、1人当たりに各々が両手で抱えられる荷物の所持だけが許可された以外は、それまでに築いた財産の大部分を放棄せざるを得なくされたうえで、国内10ヶ所に設置された収容所 に抑留される事となった。
日系人に対する抑留は、アメリカ市民権を持つ2~3世の子供までが、その対象となるなど、個々人の政治的な思想や活動ではなく、明らかに人種差別 に基づくものだった。収容所の敷地は、鉄条網 で包囲されているうえ、武装した兵士が監視塔 から常に目を光らせながら、収容者へ向けて銃口を向けているような環境だった。
それでも、日系人達は気力を奮い起こし、殺風景な景観の改善と砂塵の防止を兼ねて、植栽 に取り掛かったほか、上述した通り、野菜の栽培も始めるなど、居住環境の整備に着手した。戦時転住局 は、収容所内に売店を設け、缶詰・新聞・反物などを売った。その収益は、所内の住民達に還元され、様々な活動予算に充てられた。他にも、市民保全部隊 が放出した衣類が配分され、ダルマストーブ も各居所に設置された。
収容所内の設備が整ってくると、日系人達は自治会 を設置するようになった。そのうえで、責任者を選出し、タウンミーティング を適時開催するなどして、機能する社会を収容所内で作り上げた。収容所内の日系人達は、学童を除く全員が労働に従事し、月に12~19ドルの報酬を得た。やがて男性達は、その大半が外出許可証を手に、現行レートの賃金を得るべく、極度の労働力不足に悩む近場の農場へ、働きに行くようになった。また、様々な教育コースを運用したほか、1世の中には、暇に任せて絵画 ・俳句 ・詩吟 ・日本舞踊 などの趣味サークルを立ち上げ、レクリエーション に興じる者も多かった。
また、収容所では周囲が日系人ばかりだった事もあって、戦後には「初めて、周囲からの差別を気にせず生活できた。精神的にここまで楽な生活は、それまで経験した事が無かった」と証言する元収容者も、少なくなかった。特に、戦前は毎日寝る間も無く働いていた1世達は、押し並べて「3年間仕事もせずに、食べさせてもらって、あんなに楽な時期は無かった」と述懐したという。マンザナー収容所 では、有志者の手によって、枯山水 の日本庭園 まで造り上げられた、との記録も残っている。
アマチ収容所 の盆踊り 大会で、太鼓 を叩く日系人達(1943年8月14日撮影)
そうした中で、1942年4月にカリフォルニア州陸運局 (英語版 ) を解雇された遠藤美津江 (英語版 ) が、JACLとジェームズ・パーセル弁護士の支援を受け、陸軍 の違法な拘留により、就労する権利を奪われたとして、同年7月12日に北カリフォルニア地区連邦裁判所 (英語版 ) へ、人身保護令状を請求した。この請求は棄却されたものの、連邦最高裁 に上告され、1944年10月に審議が開始された。同年12月18日に、連邦最高裁は「忠誠な市民の身体を拘束しておく事は、憲法違反である」として、遠藤の主張を全会一致で認めた(エンドウ事件 (英語版 ) )。
これにより、収容所に抑留されている日系人達は、1945年1月2日より、申請した行き先への片道切符と、1人当たり25ドルを渡されたうえで、順次解放され、全米各地で生活の再建を図る事となった[ 20] [ 37] [ 38] 。
日系人部隊
ハワイ全域から集まった2,686名の志願兵の為に、イオラニ宮殿 前で行われた壮行会「アロハセレモニー」の様子(1943年3月28日撮影)
日本軍 による真珠湾攻撃 がなされた12月7日の午後に、ハワイ準州防衛隊 (英語版 ) に所属する日系人兵士達が、海岸の警備・瓦礫の撤去・献血・負傷者の救援などの活動を開始した。しかし、非日系人の間における、日系人に対する不忠誠の嫌疑は、日増しに高まる事となった。1942年1月19日には、ハワイ大学 において予備役将校訓練課程 (ROTC) を受けていた317名の日系人学生を含めた、約2,000人の日系兵が「4-C(徴兵不可の外国人)」という、軍から受け入れを拒否される最低の徴兵資格に落とされ、何の説明もないまま、除隊させられる事となった。
それでも、除隊させられた2世達は、デロス・エモンズ (英語版 ) 中将 に、祖国への奉仕を熱望する旨の嘆願書を送付した。これを受けて、1942年2月25日に「大学勝利奉仕団 (VVV)」が編成される事となった。同年6月5日には、第一陣となる1,432名の日系兵が、ハワイを出発。6月12日にカリフォルニア州オークランド に到着した事に伴い、「第100歩兵大隊 」が創設された。
1943年1月28日には、本土の収容所からも志願を募る方針を掲げた「第442連隊戦闘団 」が、編成される事が発表された。当初、収容所の日系人から志願兵を募集する事は、ドワイト・D・アイゼンハワー 連合国遠征軍最高司令官 によって反対されたものの、最終的にはマーク・W・クラーク 中将が司令官を務める第5軍 が、その指揮を引き受ける事となった。ヨーロッパに到着してから2週間後の1944年6月26日に、100大隊を編入した442連隊は、「失われた大隊 (英語版 ) 」の救出作戦だけでなく、隷下の第522野戦砲兵大隊が、ダッハウ強制収容所 の解放を成功させた事をはじめとして、ヨーロッパ西部戦線 において獅子奮迅の活躍を見せた。
ヴォージュ山脈 で敢行された「失われた大隊」救出作戦にて、ドイツ陸軍 と交戦する442連隊の様子を描いた絵画
結果として442連隊は、兵士個人では、
を獲得。部隊としても、
を授与され、225日という実質戦闘期間と規模に比して、アメリカ史上最も多くの勲章を授与された部隊の栄誉に輝いた[ 41] 。同時に、戦死者が860名、行方不明者が67名、重傷・身体障害を負った者が約1,700人、累積戦死傷率314%を記録し、全米軍部隊中、最も損害を受けた部隊としても、記憶される事となった。
また、442連隊の奮戦ぶりは、在ドイツ日本国大使館 の耳にも届いていた。井上ダニエル建 元大尉の証言によると、終戦直後に発見された機密文書には、大戦中に駐独特命全権大使 を務めていた大島浩 帝国陸軍中将は、ドイツ政府に対して、1人でも日系2世の兵士を捕虜として拘束した場合、ベルリン まで連行して面会させるように要請していた、と記述されていたという。
ビルマ戦線のジャングルにおいて、宮崎ハーバート吉喜(左)と吉村秋治(右)の両技術軍曹と共に、束の間の休息を取るフランク・メリル (英語版 ) 准将 (1944年5月1日撮影)
幼少期に、日本で教育を受けた「帰米2世」の多くは、主に「陸軍情報部 (MIS)」に所属し、太平洋戦線 において戦略的・戦術的情報の収集・分析へ従事した。陸軍航空軍 (USAAF) へ出向した者も多く、爆撃作戦において、日本軍による通信の傍受と、その翻訳にあたった。著名な作戦事例としては、セブ島 の抗日ゲリラが、福留繁 連合艦隊参謀長から奪取した「新Z号作戦 」の計画書を翻訳。帝国海軍が航空母艦の大半を失う事となった、マリアナ沖海戦 やレイテ沖海戦 での勝利に貢献した。他にも、海軍情報局 (ONI) へ派遣されていたMISの無線通信士は、山本五十六 連合艦隊司令長官 が前線視察に赴く旨の暗号電文を傍受。山本が搭乗していた一式陸上攻撃機 を、ブーゲンビル島 上空で待ち構えていたUSAAFのP-38ライトニング 16機により、撃墜させる事に成功した。
ドイツ降伏 後には、442連隊から4名の将校 と194名の下士官 ・兵卒が、MISへの転属を申し出て、語学兵として太平洋戦線へ向かった。中でも、「陸軍情報部日本語学校 (MISLS)」で教育を受けた経験のある十数名は、戦略情報局 (OSS) に抜擢。インド・ビルマ戦線において、秘密作戦 ・翻訳 ・尋問 ・シギント などに従事した。他にも、比嘉トーマス太郎 上等兵をはじめとした、幼少期を沖縄県で過ごした為、英語・日本語・沖縄語 を話す事の出来た、442連隊で兵卒だった者を中心とした170名の非MIS隊員も、通訳兵として沖縄戦 に従軍した。終戦を迎えると、メンバーの多くが「連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ)」の一員として連合国軍占領下の日本 へ渡り、復興支援にあたる事となった。
前線には赴かず、国内でのみ任務を遂行した部隊としては、1944年4月26日にハワイ準州で編成された「第1399建設工兵大隊 」が挙げられる。同部隊は、悪路 や敵の障害物を模したものを含めた、ジャングル を想定した訓練施設をはじめとして、B-17 専用の飛行場 ・大砲 ・弾薬貯蔵庫の建設にあたったほか、塹壕 の掘削、道路 や橋 の修理、採石場 での採掘といった、準州内のインフラ に関するあらゆる日常業務に従事した。また、当時ワヒアワ で建設にあたった、総容量100万ガロンにも及ぶ貯水槽 は、現在でもホノルル水道局によって使用されている[ 43] 。
女性の場合は、軍への志願が認められた1943年11月に、収容所から解放された142名が婦人陸軍部隊 (WAC) に配属される事なった。以降、終戦まで約300人の日系人女性が、WACで軍務にあたる事となった。その殆どは、医療 部隊や戦時情報局 (OWI) において、タイピスト・事務員・調査員としての任務にあたったが、約50人が通訳としてMISに配属され、戦後に日本へ渡った者もいた。
例外的な事例
宜野座 ハーバート静人 (ぎのざ ハーバートせいじん)は、1924年10月3日にハワイ準州カハルウ (英語版 ) で生まれる。ミドルスクール 卒業後にエンジニアになる事を志し、家出同然で本土のカリフォルニア州へ渡った。その後、太平洋戦争開戦に伴い、西海岸において日系人に対する強制収容の実施が決定した際は、これを回避すべく、中西部 へ移り住んだ。1942年の時点では、日系人は徴兵の対象外であった。しかし、宜野座が当時居住していた地域において、インフルエンザ が流行していた事で、選抜徴兵局は想定していた徴兵枠を満たす事が出来ず、宜野座までもが召集される運びとなった。入隊当初は、100大隊ないし442連隊への配属を希望していたものの、USAAFの第15空軍部隊 (英語版 ) 第483爆撃群第815爆撃飛行隊へ配属させられる事となった。B-17 の尾部銃手 として、中央ヨーロッパ における軍事施設やインフラへの爆撃作戦に従事した。1945年2月20日に、ナチス・ドイツ のウィーン にある石油精製 工場への爆撃中に、搭乗機が対空砲火を受け制御不能となり、パラシュート で脱出。ハンガリー のバラトン湖 近くに不時着したところ、4人の地元住民に拘束され、捕虜としてバイエルン州 モースブルクにある捕虜収容所 に送られる事となった。同年5月10日に、友軍によって解放された後は、イギリス のサウサンプトン を経て、8月に帰国。12月に技術軍曹の階級で名誉除隊 となった。最終的には、2つのオークリーフ・クラスター付き航空勲章、名誉戦傷章、戦争捕虜章 (英語版 ) など、累計で5個の勲章[ 注釈 7] を授与される事となった[ 46] [ 47] 。2011年9月2日に、カリフォルニア州リバモア で逝去。86歳没。
ジミー・ドーリットル 中将(右端)が見守る中で、スピーチを行う黒木
黒木 勉 (くろき べん)は、1917年5月16日にネブラスカ州 グーテンバーグ (英語版 ) で生まれる。真珠湾攻撃の直後にUSAAFに志願し、第8空軍部隊 第93爆撃群第409爆撃飛行隊へ配属。B-24 の銃手として、ヨーロッパ西部戦線において30回のミッションをこなし、『TIME 』誌などで大々的に取り上げられる事となった。ヨーロッパにおける最後のミッションで負った怪我の治療の為に帰国した際は、ラジオ番組に出演したほか、スピーチ後に10分間のスタンディングオベーション が起きたコモンウェルス・クラブ・オブ・カリフォルニア (英語版 ) をはじめとする、数多くの公の場に顔を出す事となった。カリフォルニア州のビジネスマン達が、黒木の活躍を称賛した事は、西海岸における対日系人感情が軟化する事への、最初のきっかけとなった。その後は、太平洋戦線へ転属。両親の祖国である日本への本土空襲作戦 を含めた、計28回のミッションをこなし、太平洋戦線におけるUSAAFの戦闘に参加した唯一の日系人となった。これらの功績により、3個の殊勲飛行十字章 、5つのオークリーフ・クラスター付き航空勲章に加え、戦後の2005年8月には、ジョージ・W・ブッシュ 大統領より、陸軍殊勲章 (英語版 ) を授与されている。2015年9月1日に、カリフォルニア州カマリロ で逝去。98歳没。
緒方健二
緒方 健二 (英語版 ) (おがた けんじ)は、1919年6月1日にインディアナ州 ゲーリー で生まれる。幼少期をイリノイ州 スターリング (英語版 ) で過ごし、そこではボーイスカウト活動に勤しむ。ハイスクール卒業後は、ナショナル・マニュファクチャリング・カンパニー(現:NCR )でメッキ工として働く傍ら、民間パイロット操縦プログラムを受けていた。真珠湾攻撃の翌日に、USAAFに志願すべくシカゴ へ向う。一度は門前払いを受けるも、自身のアメリカへの忠誠心を頑なに訴え続け、ロックフォード にあるキャンプ・グラントに、衛生兵 として配属される事となった。その後も、パイロット志願を諦めきれなかった緒方は、故郷であるスターリングの町長・警察署長・弁護士・判事に、陸軍へ自身のUSAAF転属に関する推薦状を、送付する事を嘆願した。結果として、1943年12月31日に、イタリアにある第15空軍部隊第451爆撃群第726爆撃飛行隊へ、転属させられる事となった。B-24のボールターレット 銃手として、計35回のミッションをこなし、2度の撃墜を生還。最終的に、3つのオークリーフ・クラスター付き航空勲章と名誉戦傷章を授与され、2等軍曹の階級で名誉除隊となった。戦後は、G.I.ビル によりイリノイ大学 医学部へ進学。ハワイ準州で1年間、小児歯科医として勤務した後、スターリングで歯科医院を開業した。他にも、グアテマラ へ2度に亘り、ボランティアに赴いた。1996年より引退生活に入る。2012年1月18日に、スターリングで逝去。92歳没[ 48] 。
和田 ダグラス智雄 (わだ ダグラスとしお)は、1910年9月9日にハワイ準州ホノルルで生まれる。ハイスクール中退後に日本へ渡り、5年間滞在した。帰国後の1933年に、ハワイ大学へ入学。1937年に卒業した後は、布哇タイムス社に勤めたものの、日中戦争 の勃発に伴い、日本語専門の特技兵 として、海軍 へ入隊。ONIへ配属された。大戦中は、アメリカ太平洋陸軍 (USARPAC) 司令部の参謀次長補佐官である岩井次郎[ 注釈 8] と共に、太平洋戦争における最初の日本人捕虜 となった、酒巻和男 帝国海軍 少尉 への尋問を担当するなど、対諜報活動 を従事した。終戦 後の東京裁判 に際しては、連合国 検察団の一員として、東條英機 元首相 をはじめとする、A級戦犯 の起訴に貢献した。その後は、朝鮮戦争 [ 注釈 9] の勃発に伴い、アメリカ極東海軍司令部 (COMNAVFE) における日本国政府 ・保安庁 (現:防衛省 )・警察庁 ・海上保安庁 との情報連絡員に就任。足掛け38年間に亘ってONIに務め、中佐 で定年退役を迎えた[ 40] [ 51] [ 52] 。2007年4月2日に、ホノルルで逝去。96歳没。
4名以外にも、
の2世が、それぞれ所属していた事が確認されている[ 40] [ 54] 。
第二次世界大戦中、本来なら日系人に対しては、門戸が閉ざされていた筈の海軍やUSAAFなどにおいて、上述したような事例が生じたのは、開戦直後の混乱期ゆえに、手続き上のミスの頻発したなど、様々な偶然が重なった事による側面が大きかったのではないか、と現在では推測されている。
因みに、太平洋戦争中に日本軍の捕虜となった日系人兵士としては、テキサス陸軍州兵 (英語版 ) 所属のフランク・フジタ 3等軍曹と、陸軍対敵諜報部隊 所属の榊田リチャード元宗 (英語版 ) 少尉[ 注釈 13] の2名がいる。
軍人以外の事例として、OWIは帰米2世である馬場フランク正三 の他、1世の石垣栄太郎 /綾子 夫妻・国吉康雄 ・八島太郎 なども雇用した。八島の場合、日本への理解が浅かったOWI内部から、対日伝単 の改善に尽力。彼が作成したコマ割り漫画『運賀内蔵』は、戦中最も多く撒かれた伝単とも言われ、日本兵の間でも絶大な人気を博した。OSSに移った後は、ビルマ戦線 における対日宣伝工作へ従事するも、間もなく終戦を迎えた。戦後、米国戦略爆撃調査団 の一員として、渡米以来初めて帰国した際は、少佐 相当の軍属 として、米陸軍の将校制服 を着用し、祖国の地を踏む事となった。
また、大戦中に商船 の船員 として勤務していた日系人が、少なくとも19人死亡した事も確認されている[ 40] 。
戦後における評価
大戦中、約33,000人の日系人達が軍務に就いた。しかし、復員した彼等を故郷で待っていたのは、「ジャップ を許すな」「ジャップお断り」といった看板が、此処彼処に置かれる街の風景や、元いた自宅が誹謗中傷の落書きだらけとなっていた様子、レストランや商店での入店拒否だった。復員兵達は、財産も奪われたまま、長らく職や新居を探す事も、困難な状況に置かれ続けた。こうした、アメリカ社会における日系人への偏見が解消されるのには、公民権運動が勃興する1960年代を待たなければならなかった。
旨森貞夫
442連隊の一員で、イタリア戦線 において戦死した旨森貞夫 元上等兵は、アメリカ軍の勲章 としては最高位となる名誉勲章を、1946年3月7日に授与された。旨森の名誉勲章は、第二次世界大戦下で活躍したアジア系 兵士に授与された2つの内の1つで、日系人に授与されたものとしては、初めてだった。
1990年代に入ると、442連隊の元兵士に授与された勲章の再調査が行われた。結果として、西本ジョー真織 元上等兵に授与された殊勲十字章が、1998年に名誉勲章へ格上げされた事をはじめとして、2000年には新たに19名に対して、同等の措置が取られた。最終的に、21個の名誉勲章が442連隊に授与される事となった。その内の1つは、井上ダニエル建連邦上院議員 に対するものだった。
ビル・クリントン 大統領から名誉勲章を授与される井上ダニエル建
2010年 10月5日にバラク・オバマ 大統領 は、442連隊・100大隊・MISに、アメリカ合衆国において最高位の勲章である議会名誉黄金勲章 を授与する法案に署名した。
現在のアメリカにおいて、2世兵士の強さは、
といった要素が、全て見事に噛み合った事に起因するものだと評されている[ 57] 。
日本へ渡った2世達
2世による渡日の始まり
1930年代に入ると、アメリカでの人種問題や日本の地政学上の勢力増大を契機として、1世が祖国との関係を見直すようになり、2世に日本精神を植え付ける事を試みた。結果として、多くの2世が日本の価値体系・言語・国民性の本質を強く求めるようになり、日本へ留学する事を選んだ。
太平洋戦争前の日本には、
1世である親が、アメリカでの生活を畳み、日本へ戻った者達。他にも、親が我が子を日本で初等・中等教育を受けさせるべく、日本の親族へ預ける事例もあった。この種の2世は、「日本人」としての義務を果たした事を理由に、アメリカの市民権を喪失するまでは、二重国籍を維持し、日本社会に順応していた。1930年代には、こうした2世が、日本全国で1万~3万5,000人いると推定された。その殆どは、両親の出身地[ 注釈 14] である農村地帯に居住していた。
高等教育を受けていたり、ホワイトカラーの専門職に就いている者達。この種の2世は、大学を卒業しており、一般的な2世より年齢が高めであった。英語力だけでなく、特殊技能や高い知識を備えており、東京をはじめとする大都市において、財界・マスメディア・学術の分野で、重要な地位を占めた[ 注釈 15] 。こうした状況は、アメリカ経済の主流から、アジア人が人種的に排除された為、高学歴の2世が大学教育や雇用を求めて、日本へ渡った事に起因していた。
日本の学校教育を受ける為に、1人で太平洋を渡った高校生~大学生の年齢の「留学生」。1936年には、日本の中・高等教育機関に2世学生が、約3,700人程在籍していたと推測されている[ 注釈 16] 。そうした者だけでなく、1930年に本派本願寺の教育者である常光浩然 が立ち上げた「日米ホーム」や、1935年に設立された恵泉女学園 の留学生特別科といった、首都圏における外国出生者向けの特殊学校で、基礎的な日本語・日本文化を学ぶ者も多かった。前者が、その多くが卒業後は朝鮮 ・台湾 ・南洋諸島 ・満洲国 を含めた日本各地ないしその植民地 で雇用を求めたのに対し、後者は日本に数年間滞在した後、アメリカへ戻る傾向にあった。この事は、1930年代初頭に、米ドルに対する日本円の価値が急落した事に起因している[ 注釈 17] 。こうした背景をもとに、多くの1世にとって、我が子を日本へ留学させる事が、経済上現実的な選択となった。また、2世の雇用機会を改善する事や、世代間の文化や言葉のギャップを埋めるという目的も、そこには含まれていた。
という3種類の2世がいた。
両親の祖国で暮らすよそ者達
日本に渡った2世の大半は、往々にして頼れる人が誰もいない、慣れない環境に居住している事から、文化の違い・日本語の難しさ・ホームシックといった日常的な問題に悩まされた。また、その国際的な生い立ちの結果、自分ではコントロール出来ない強大な力の板挟みにも陥った。一方で、日本人は人種の不変性を信じ、在日2世を同胞と見なし、日本独自の厳格な文化規範や立ち居振る舞いの作法を押し付けた。 1930年代の日本社会では、物事を「日本的」か「アメリカ的」かに分ける、二極的な思考パターンと価値観が蔓延していた[ 注釈 18] 。当時、恵泉女学園に在籍していた在日2世の女性が、「自分の祖先の国にいる時、その身体的特徴の為に、彼等は日本人と見なされ、異国的と思われるものは、何であっても批判的な目で見られる」と述べていたように、一般的な在日2世の振る舞いは、日本人には粗野かつ鼻持ちならない程に、無礼なように見えた。例えば、東京・横浜・大阪の歓楽街にあるカフェー やダンスホール へ頻繁に通い、アメリカ映画 を鑑賞する、洋食を嗜むといった、昭和モダン を体現した在日2世の生活様式は、アメリカで生まれ育った彼等の文化的常識からすれば、ごく当たり前の事に過ぎなかった。しかし、日本社会で幅を利かせつつあった国粋主義 者の目には、道徳的退廃の極みと映った。
特に、シアトル生まれ・日本育ちの2世である熊谷フランク武比古が、1933年10月に東京のダンスホールで自殺した事件は、日本だけでなく、アメリカの日系コミュニティにおいても、広い関心を集める事となった。事件の2年前程から、京浜地域の社交場では馴染みの顔だった熊谷は、ダンサーやホール支配人、自身の兄弟から金品を恐喝し続けていた。その事から、1933年5月に警視庁は熊谷の犯罪行為を摘発し、国外追放の手続きを進めていた。同年10月に、東京全域でダンスホールへのガサ入れが行われた際、刑事が熊谷を発見。身柄を確保しようとしたものの、熊谷はその場で服毒自殺を遂げた。日本の新聞は、熊谷の犯罪者としての資質は、アメリカで生まれたという生い立ちにあるかのように書き立てた。これ以降、在日2世は警察当局から十把一絡げに犯罪者として扱われ、日本国民の間でも、文化的なはみ出し者であるだけでなく、国家の安全保障上から見ても好ましくない「公共の敵」と見なされるようになった。
1937年に日中戦争が勃発し、1939年には日米通商航海条約が失効した事で、両国の関係は険悪化。日本社会全般が、あらゆる「アメリカ的」なものを排除する情勢になると、1940年には日本から2世の大量脱出が始まった。こうして、母国であるアメリカに戻った2世は、アメリカの一般社会や政府だけでなく、同胞である筈の日系人からも「帰米」と一括りにされ、不信と拒絶に遭遇する事となった。当時のアメリカ人にとって、帰米2世が日本で学校教育を受けた事は、天皇の為に命を擲ち、無差別殺人の敢行すら厭わない、狂気じみた日本兵の分身と見なすのには、十分な理由であった。とある情報専門家は、「このような者達は、合理的な疑いの余地なく無実が証明されるまでは、有罪と見なさなければならない」とまで述べた[ 注釈 19] 。皮肉な事に、日米の架け橋としての役割を追求して、日本で教育を受けた2世は、祖先の国と生まれ育った国の両方から、阻害される憂き目に遭う事となってしまった。こうした帰米2世が、アメリカ社会において日の目を見るには、後にトルーマン大統領をして「人間秘密兵器」と言わしめる程、対日戦において八面六臂の活躍を見せた語学要員部隊であるMISが、編成されるのを待たなければならなかった。
戦時下の日本における2世
太平洋戦争中の日本では、約2万人の2世が、居住していたと推測されている。
彼等が、上述したような事例以外で、日本に渡った・留まり続けた背景としては、
親戚の訪問や、日本で教育を受ける事を目的に、短期で滞在する予定が、日米開戦により、帰国できなくなってしまった。
トゥーリーレイク収容所 で「忠誠登録」に“No-No”と回答し、第二次日米交換船で日本へ渡った。
が挙げられる。
戦時下の在日2世は、軍に召集された者[ 注釈 20] を除いて、その殆どが、英語力を活かした職業に就いた。特に、連合国軍向けプロパガンダ放送『ゼロ・アワー』において、ニュース解説を担当し、「和製ホーホー卿 」とも呼ばれた吉井チャールズ寿雄[ 注釈 21] の他、「東京ローズ 」の通称でDJを担当したアイバ・ダキノ(戸栗郁子)を含めた2世女性達が、著名なケースだと言える。また、同番組を制作した「ラジオ・トウキョウ(現:NHKワールド・ラジオ日本 )」にも、多くの2世が集い、稲田ベティ文子 ・ティーブ釜萢 [ 注釈 22] ・村山有 ・森山久[ 注釈 23] などが在籍していた。他にも、同盟通信社 や外務省 ラジオ室、国内外における日本軍の情報機関、赤十字社 なども2世の多い職場だった。外務省ラジオ室には、同省が創立した2世向けの教育機関「敝之館」の国費留学生が動員された。大戦末期の広島市 [ 注釈 24] では、第2総軍 司令部情報部が2世女性を徴用し、アメリカからの短波放送 を傍受 する「特情班」を設けた。その一方で、戦時下の日本における2世は、そのアメリカ人としての背景の為、「アメリカのスパイ」の可能性がある者と見なされた。警察や一般社会による、絶え間ない嫌がらせや厳しい監視の的となるなど、社会的迫害の憂き目に遭う事となってしまった。
個々人の事例
竹宮 帝次 (たけみや ていじ)は、1923年にロサンゼルスで生まれ、1939年に家族で熊本市 へ引き揚げた。九州学院中学 を経て、1943年に青山学院高等商業学部 へ進学したが、同年の学徒出陣 に伴い、帝国海軍へ入隊し、旅順 へ向かった。1945年3月には、呉鎮守府 の第2特攻戦隊に転属。特殊潜航艇 「蛟龍 」の艦長に任ぜられ、特攻 出撃命令を待っていた。だが、英語力を買われ、1945年7月末に軍令部 へ転属。慶應義塾大学 日吉校舎で、アメリカからの短波放送を傍受する任務に着き、少尉の階級で終戦を迎えた。同年8月27日には、1週間後に控えた、降伏文書調印式に関する事前折衝の通訳を受命。2名の軍令部参謀大佐と共に、駆逐艦 「初桜 」に乗船し、相模湾 沖に停泊中の戦艦 「ミズーリ 」へ乗り付けた。その後は、COMNAVFEの初代司令官となったオスカー・バッジャール2世 (英語版 ) 少将から、専属通訳に指名される事となった。これを皮切りに、以降半世紀に亘って横須賀海軍施設 に勤務し、港湾統制部最高責任者や民事部長などを歴任。1964年11月12日に、日本史上初の原子力潜水艦 寄港となる、「シードラゴン 」の佐世保港 到着に際しては、エドウィン・O・ライシャワー 駐日大使 による記者会見 において、通訳を担当した。また、日本におけるボーイスカウト 活動推進に貢献した事もあり、日本国政府からは、1986年に藍綬褒章 、1994年に勲五等双光旭日章 、世界スカウト機構 からは、1998年に団体史上268人目となるブロンズ・ウルフ章 を、それぞれ授与されている。定年延長を重ねた末、1997年に退官。2010年4月30日に、脳梗塞 の合併症により逝去。86歳没。米海軍は、竹宮による生前の功績を称え、池子米軍住宅 [ 注釈 25] 内にレストラン &バー 「クラブ・タケミヤ」を設置・運営している[ 74] 。
宇野 バディ一麿 (うの バディかずまろ)は、1913年にオークランドで生まれ、ジャーナリスト を志していた事もあり、ハイスクール時代から『羅府新報 』でコラム を執筆していた。1937年には、フリーランス の従軍記者 として、日中戦争 下の中国大陸 へ渡った。取材にあたっては、日本に住む伯父の人脈を利用して、最前線へ度々赴き、各日系紙の英文欄で、詳細な戦況を発信し続けた。また、多くの年長2世リーダー達と同様に、「2世は“日米の架け橋”としての役割を担うべき」という思想を提唱していた。その事から帰国後は、アメリカ社会へ向けては、日本の立場への理解を、若い2世に向けては、日本語と日本の歴史 ・文化 を学ぶべく、日本へ留学する事を、それぞれ呼び掛ける旨の講演を続けた。しかし、アメリカ社会における日系人に対する風当たりが、日を追う毎に厳しいものとなる現状を鑑みて、1939年6月に渡日。この頃から忠誠 の対象が、アメリカから日本へ変わるようになった。1940年1月に帝国陸軍 へ召集されると、大本営 陸軍報道部の記者に抜擢され、上海 へ渡る事となった。1943年4月に東京へ呼び戻されると、捕虜収容所[ 注釈 26] の所長に就任。連合国軍兵士の捕虜を利用して、『ゼロ・アワー』を含めた数々の謀略宣伝工作に携わった。1944年10月には、フィリピン のマニラ へ渡るが、同月のレイテ沖海戦 で日本が大敗するなど、赴任した時点で既に、戦局は絶望的だった。1945年5月に、餓死 寸前のところを抗日ゲリラに拘束され、他の日本人捕虜をと共に、ニュー・ビリビッド刑務所 に収監された。そこでは、MISに志願した弟・ハワード安麿と、再会する事となった。復員後は、1941年に結婚した妻と子供達が待つ日本で暮らす事を選んだが、大戦末期に罹患したマラリア と結核 が原因で、1954年12月10日に神戸市 で逝去した[ 75] 。41歳没。
ワダ・ミノル は、幼少期にアメリカから日本へ渡り、東京帝国大学 を経て久留米第二陸軍予備士官学校 を卒業。予備役 輜重 少尉に任官した。太平洋戦争中に召集され、原田次郎 帝国陸軍中将が率いるフィリピン・ミンダナオ島 所在の第100師団 に配属された。しかし、同島での戦局 が悪化するにつれ、次第に日本軍の姿勢へ疑問を持つようになると同時に、戦争を早期に終結させ、日本の国土・国民が被る無意味な損失を、可能な限り軽減させたい、と考えるようになった。その事から、1945年8月初旬に米軍の捕虜となった際は、海兵隊の情報将校による尋問の過程で、島の地理に明るい下級将校であるワダは、協力者として迎え入れられる事となった。8月10日に、MISの今井チャールズ丈夫技術軍曹を、通訳として帯同させたうえで、海兵隊爆撃隊VMB-611のPBJ-1Dミッチェル哨戒爆撃機 へ搭乗したワダは、同機の無線オペレーター席より、第100師団の本部を爆撃する為の重要な標的を特定。ワダが指定したポイントには、総計22,000ポンドにも及ぶナパーム弾 ・破片爆弾・ロケット弾 の投下と重機関銃 による射撃がなされた。これにより、第100師団の指揮能力は完全に破壊され、ミンダナオ島での戦闘は終結した。ワダの事例は、太平洋戦争中に日本軍の士官が、米軍の航空機に搭乗し、その攻撃を指揮した唯一の出来事だった。因みに、戦後のワダは過去を消すべく、新たな戸籍等を与えられたと推測されており、その消息は不明となっている[ 76] [ 77] [ 注釈 27] 。
日米関係の好転と移民受け入れの再開
終戦 を迎えると、ポツダム宣言 を受諾して敗戦国となった日本は、連合国軍の占領下 に置かれた。そのうえで、GHQの支援を受け、国家の再建に取り組む事となった。因みに、占領期の日本では、元MISLS校長の相磯ジョン藤雄 少佐や、ダグラス・マッカーサー GHQ最高司令官の副官兼個人通訳となった田上寛 中尉を筆頭に、約8,000人の2世[ 注釈 28] が、GHQのスタッフとして勤務していたと、推測されている。そして、その半分にあたる約4,000人は、G2 翻訳通訳部に所属した。部員達は、憲法改正時の日米間折衝・東京裁判・BC級戦犯 裁判・東條元首相の逮捕・真珠湾攻撃の総隊長だった淵田美津雄 元海軍大佐への尋問・豊田副武 元海軍大将の裁判など、占領史のあらゆる場面に立ち会う事となった。
時を同じくして、礼儀正しさ・勤勉さ・賢さ・「和」の精神 といった日本的価値観 が、アメリカでも広く知られるようになり、アメリカ人の対日観は、大きく変わる事となった。
こうした対日感情の好転に伴い、1952年6月27日には『移民国籍法 』が成立。1世に帰化市民権が与えられると同時に、日本からの移民の受け入れが、28年振りに再開される事となった[ 80] 。
1953年8月7日には、『難民救済法 (英語版 ) 』が成立。1956年に失効するまで、所謂「GIベビー 」として生まれた約2,500人の戦災混血児 (英語版 ) と、1,005名の和歌山・広島 ・鹿児島 からの農業移民 が、アメリカへ渡った[ 81] 。
1965年に『移民及び国籍法 (英語版 ) 』が成立した事に伴い、『排日移民法』から引き継がれていた国別割当制度は、撤廃される事となった。エマニュエル・セラー (英語版 ) 下院司法委員長 が提案し、エドワード・ケネディ 連邦上院議員により強く支持された同法は、今日のアメリカにおける移民関係法の基盤となった。
リドレス運動の展開
補償請求に際しての困難
1948年7月2日に、日系人の強制収容 に対する連邦政府 による補償策としては、最初のものとなる『日系人退去補償請求法 (英語版 ) 』が、ハリー・S・トルーマン 大統領によって署名された。しかし、国家補償 の対象となる日系人達の損害・喪失は、文書によって証明できる不動産 ・私有財産に限られ、精神的苦痛 や教育・職業によって見込まれた、逸失利益 に対する補償は否定された。また、1件当たりの補償額の上限は2,500ドル、請求権 の時効 期間も1年半と定められた。
1948年法に基づいた請求は、時効を迎えるまでに22,945件提出され、その4割は限度額である2,500ドルを越えたものだった。しかし、立証責任が請求者に課せられた事から、手続きに時間がかかり、1950年末までに処理された請求は、僅か137件に留まった。それ以降も、1951年の修正法では、補償額を請求額の75%、または限度額より少ない額とする事とされた。更に、1956年の再修正法では、示談により総額10万ドル以内で、補償額を決定する事が基本となり、請求者が不服を申し立てた場合は、合衆国請求裁判所 (英語版 ) [ 注釈 29] において、裁決が行われる事とされた。
同法に基づいた補償処理は、1965年に終了したものの、支払われた約3,800万ドルという賠償金の総額は、請求総額の約25%、日系人達が被った損害総額の10%未満に過ぎなかった[ 83] 。
『市民の自由法』成立に至るまで
そうした中で、1950年代 半ば頃から黒人による公民権運動 が展開され、結果として1964年に『公民権法 』、翌1965年には『投票権法 』が、相次いで制定される事となった。こうした動きに触発された日系人達によって、1948年法では考慮されなかった、無形の損害や日系人の自由及び尊厳の回復を求める「リドレス運動」が、1970年代 から展開されるようになった[ 84] 。
こうした動きを受け、JACLは1970年に、太平洋戦争中における日系人の強制収容に対する、謝罪と補償を要求する為の『全米補償請求委員会 (NCR)』を設立し、同運動の嚆矢となった[ 85] 。
1976年2月19日[ 注釈 30] にジェラルド・R・フォード 大統領は、『大統領令9066号』の正式な終了を確認する布告『アメリカの誓い』に署名。
「我々は、当時から理解するべきだった事を、今日知った。日系人の強制収容は、誤りだっただけではなく、彼らは当時も今も、忠実なアメリカ人である」
と述べた[ 87] [ 88] 。
1979年春にNCRは、強制収容所の実態を調査する為の連邦委員会の設置を提案した。これを受けた、民主党 の井上ダニエル建連邦上院 議員とジム・ライト (英語版 ) 連邦下院 議員によって、
『大統領令9066号』に関する事実と、その影響に関する調査
軍による指令の検証
適切な救済策の提示
を目的とした、『戦時における民間人の転住・抑留に関する委員会 (英語版 ) (CWRIC)』の設置を要求する法案が、連邦議会に提出された。同法案は1980年7月31日に、ジミー・カーター 大統領によって署名された[ 89] [ 90] 。
その後、1981年7月から12月にかけて、ワシントンD.C. を皮切りに、ロサンゼルス・サンフランシスコ・シアトル・アンカレッジ ・ウナラスカ ・シカゴ ・ワシントンD.C.(第2回)・ニューヨーク ・ボストン の順で公聴会が開かれ、計20日間に亘って、750名の関係者が証言する事となった[ 91] [ 92] 。
『市民の自由法』に署名するレーガン大統領と、それを見守る(左から)松永スパーク正幸上院議員、峯田ノーマン良雄下院議員、佐伯パット・ハツエ 下院議員、ピート・ウィルソン 上院議員、ドン・ヤング 下院議員、松井ボブ武男 下院議員、ビル・ローリー (英語版 ) 下院議員、梶原ハリー斉JACL会長。
CWRICは、1982年12月に『拒否された個人の正義 (Personal Justice Denied)』と題した、467ページにも及ぶ報告書を、連邦議会に提出。同報告書の内容は、翌1983年2月24日に公表され、「日系人の強制収容は、軍事的な必要性ではなく、人種差別・戦時中の集団ヒステリー ・政権の失策に基づいた、不当なものだった」と結論付けられた。また、同年6月22日には、存命している約6万人の元収容者に対し、1人当たり2万ドルの賠償金を支払う事を、連邦議会に対して勧告した[ 86] [ 88] [ 89] [ 94] 。
1988年8月10日に、ロナルド・レーガン 大統領は『市民の自由法 (英語版 ) 』に署名。「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と、合衆国憲法 で保障された権利を侵害した事に対して、連邦議会は国を代表して謝罪する」として、強制収容を経験した日系人に対して、公式に謝罪を表明。また、1人当たり2万ドルの賠償金が、存命者にのみ支払われる事と、全米の学校において、日系人の強制収容に関する教育を行う為の、総額12億5,000万ドルの教育基金を設立する事も、同時に発表された[ 89] [ 90] [ 91] 。
「日系アメリカ人」の多様化
世間一般における「日系アメリカ人」とは、戦前からの移民と、その子孫の事を指す。しかし、戦後になると、多くの日本人が定住者・半定住者・一時滞在者として、アメリカへ渡るようになった。
大まかな種類としては、
アメリカで生まれ、幼少期を日本で過ごした「帰米2世」。彼等の多くは、戦後にアメリカへ帰国した。アメリカだけで過ごした2世が、小学校高学年頃から英語が第一言語となったのに対し、幼少期に日本へ渡った2世は、米英を敵視した日本の戦時体制 もあって、自然の流れで日本語が第一言語となり、英語能力は衰退していった。その為「帰米2世」は、英語を第一言語とする一般的な2世ではなく、日本語を第一言語とする1世のコミュニティに溶け込む事となった。
連合国の占領下において、所謂「戦争花嫁 」が夫を追う形で渡米し、アメリカ各地へ定住した。しかし、彼女達の居住地は、日系人の密集する地域とは異なり、日系コミュニティとは隔離された生活を送る事となった。
上述した通り、『移民国籍法』が成立すると、農業移民をはじめとする日本人が、少数ながらもアメリカへ渡るようになった。こうした戦後移民は、戦前と同じく、その多くが西海岸に定住する事となった。
1960年代には、日本の高度経済成長 に伴い、日本企業の駐在員 がアメリカの東西海岸都市に、次々と着任するようになった。70年代に入ると、駐在員とその家族も増え、特にニューヨーク・ロサンゼルス・サンフランシスコ・サンノゼ などでは、その人口が万単位にまで達した。
4.の現象に伴い、駐在員コミュニティによる様々なニーズを満たす必要性が生まれた。その事から、旅行代理店 ・書店 ・日本食材 店・床屋 (美容室 )・土産 物店・中古車 業者・弁護士 ・医療従事者 ・不動産紹介業者 といった業務に従事する人々が、日本から移住するようになった。特にトーランス は、多くの日本企業が事業所を置いた事に伴い、日本食レストランをはじめとする、日本に関連する各種店舗が、国内の他都市と比して、人口当たりにおいて、非常に多く運営されるようになった事から、LAウィークリー (英語版 ) 紙において、「実質的な日本の48番目の県」となぞらえられる事となった。
平成に入ってから増えた、「語学研修」と称しつつ、勉学には力を入れず、日本からの仕送りで気ままな「遊学」生活を送る、20歳前後の若者。
が挙げられる。
こうして、戦後にアメリカへ移住した日本人達は、「新1世」 と呼ばれ、日系コミュニティに新たな要素を加える事となった。戦後からの移住者に共通している点は、日本語が母語であり、英語は後天的に習得 したという事である。その為、彼等と一般的な日系人達との間は、母語や価値観 の違いもあって、必然的に距離が生じる事となった。それでも、程度や形の違いがあるとは言え、どちらも日本文化を受け継いでいる以上は、交流や相互支援を強化する必要に迫られる場合もある。従来の日系コミュニティと、戦後に形成された「新日系社会」の間には、一概には語れない複雑さが横たわっていると言える。
そうした中で、アメリカに適応・同化しつつ、日米を頻繁に行き来する事で、日本社会と強固な繋がりを保持した生活を営む戦後移民も、多く見られる。両国の社会的・文化的習慣や価値観を有する、トランスナショナルな存在 である彼等が、既存の日系人達と如何にして交流を深め、新たなネットワークを構築するのか、アメリカ社会や日米関係に、影響を及ぼす存在となるのかも、注目されている[ 97] 。
年表(江戸時代)
1889年にハワイ島 ヒロ で建てられたハワイ移民集会所。現在では、愛知県 犬山市 の博物館明治村 に移築されている。
19世紀
1868年 - ユージン・ヴァン・リード の手引きにより、149人[ 注釈 33] の「元年者」が、ハワイへ到着。ただし、契約自体は江戸幕府とイギリス人ブローカーとの間で締結された3年間の労働契約であり、日本国政府からは非公認だった。
1869年
旧会津藩 の武器御用商人 だったジョン・シュネルが、日本国政府に無許可で、旧会津藩士ら約40人程[ 注釈 34] を連れ、カリフォルニア州ゴールド・ヒルに移住。茶 と養蚕 を目的とした「若松コロニー 」を作るが、僅か2年で頓挫。シュネルは逃亡し、渡航した日本人は取り残されたが、詳しい消息が判明している事例は、少数である。
「元年者」のうち40人程が、3年の労働契約満了を待たずに、日本へ帰国。
1870年
1871年
1872年 - 在ニューヨーク日本国総領事館 が開設。
1873年 - 6月22日に、若松コロニーの一員だった柳澤佐吉に、長女・米が誕生。事実上、アメリカにおいて初めて「日系2世」として出生した人物となる[ 注釈 36] 。後に、何れも大和民族の女性として初めて、アメリカの大学(カリフォルニア大学バークレー校 )での学位と、カリフォルニア州医師免許を取得する事となる[ 104] 。
1876年
1877年 - 10月に、サンフランシスコ在住の日本人クリスチャンによって、同国では初の日系団体となる「福音会」が設立される。
1879年
1880年 - 7月に、帝国海軍軍艦「筑波 」が、サンフランシスコに入港。同市在住の日本人80名が、歓迎会を催す。
1881年
1884年 - 福沢諭吉が時事新報 (現:産経新聞 )に寄せたコラム『移住論の辨』において、「米国は志士の棲家なり」と記し、若者の渡米を奨励。
1885年
1886年
1月28日 - 『日布渡航条約 』が調印される。同年3月6日より発効。
4月10日 - 中村隼雄が、日本人により日本国外で創刊された日本語新聞としては、最初のものとなる『東雲雑誌』の第7号[ 注釈 40] を、サンフランシスコで発行する。
10月28日 - ニューヨークで、自由の女神像 の除幕式が執り行われる。
1887年
石川県 出身の白山谷喜太郎 (英語版 ) [ 注釈 41] が、オハイオ州 シンシナティ にあるロックウッド製陶に、技師として招かれる。
和歌山県 出身の3名が、カリフォルニア州バカビル に定住。以降、和歌山市 出身の相川直之助が、1890年にバカビルへ移住した事をきっかけに、多くの和歌山県民が、同市で果樹栽培に従事すべく、渡米するようになる。こうした状況を受けた相川は、1896年に日本人向けの食料品を扱う「東洋物産商会」を、サンフランシスコとバカビルに設立。この事がバカビルで、戦前のアメリカでは最大となる日本人移民コミュニティが、形成されるきっかけとなる。
1888年
1889年
本派本願寺 の曜日蒼龍 が、ハワイへ渡航。同地における仏教 の布教が始まる。
10月28日 - 官約移民として初めてプランテーション労働者から商店主となり、ハワイ島における日系コミュニティの指導者でもあった後藤濶 が、白人を頂点とする人種的ヒエラルキーを、恐怖によって維持する事を意図していた白人の有力者達の手により、ホノカア で殺害された挙げ句、遺体を電柱に吊し上げられる事件が起きる。
1890年
カリフォルニア州への日本人による集団移民が、開始される。
在日アメリカ公使館が、現在の赤坂へ移転。
1891年
1892年
福田清次郎が、ハワイで初となる日本語学校 を、マウイ島で開校。
6月3日 - 小野目文一郎 (英語版 ) が、ハワイにおける最初の日本語新聞「日本週報」を創刊。
7月29日 - 横浜正金銀行 (現:三菱UFJ銀行 )が、ホノルル支店を開店[ 108] 。
12月 - 古屋政次郎 (英語版 ) が、シアトルで「古屋商店」を開業。日米両国の雑貨品・食料品の販売に加え、信託部を設置したうえで、日本人移民預金の取り扱いも開始する。後に、シアトルの本店以外にも、同市内の2店舗を含め、タコマ ・ポートランド・バンクーバー・横浜・神戸 にも、支店を展開するようになる。
1893年
サンフランシスコ教育委員会が、日系人子弟の公立学校 への入学を拒否する決議を採択(サンフランシスコ日本人学童隔離事件)。当時の珍田捨巳 総領事の尽力により、撤回される。
ハワイ王国が崩壊。日本国政府は邦人保護を目的に、軍艦「金剛 」と「浪速 」をホノルルへ派遣。約130人がハワイを離れ、グアテマラ へ向かう事を選ぶ。
シカゴ万国博覧会 の万国宗教会議に、本派本願寺の八淵蟠竜・真言宗 の土宜法龍 ・臨済宗 の釈宗演 ・天台宗 の蘆津実全が参加。アメリカ本土における、仏教の布教が始まる。
1894年
7月4日 - ハワイ共和国 の樹立に伴い、官約移民制度が廃止。廃止までの9年半の間に、船が26回渡航。主に、広島 ・山口 ・福岡 ・熊本 の農村部から約3万人が、ハワイ諸島へ渡った[ 注釈 43] 。以降は、民間の仲介業者による移民となる。
11月22日 - 『日米通商航海条約 』が調印される。1899年7月17日より発効。
1896年
1897年
2月27日 - 神州丸でホノルルに入港した日本人665名中587名が、無認可と50ドル不所持を理由に、税関 より上陸を拒否される。再調査の結果、139名は上陸を許可されるも、残る448名は帰途につく事を余儀なくされた[ 注釈 44] 。
12月1日 - 在シカゴ日本国総領事館 が開館。
1898年
ハワイ がアメリカ合衆国の属領となる。以後、ハワイからアメリカ本土への移民制限が緩和される。
本派本願寺が、サンフランシスコに本多恵隆 ・宮本恵順の両布教視察使を派遣。同市を本部とする「米国仏教団 」が設立される。
1899年 - 3月8日に、植田憲三らが北米で初の日系金融会社となる「日米金融社」を、サンフランシスコで設立[ 注釈 45] 。
1900年
この頃から、日本人移民による土地の開墾と入植が、本格的に始まる。
民間業者仲介によるハワイへの移民が、中止される。業者の仲介により、6年間で約3万5,000人が渡航。その後は自由移民となる。
アメリカ本土への日本人移民の数が、初めて年間1万人に達する。
3月12日 - ハワイ準州で、37名の日系人商人によって、「ホノルル日本人商人同志会(現:ホノルル日本人商工会議所 (英語版 ) )」が設立される。
12月22日 - 在シアトル日本国総領事館 が開設。
20世紀
1901年
カリフォルニア州とネバダ州 の議会が、連邦政府に対し、日系人移民を制限する建議書を送る。
4月29日 - 迪宮裕仁親王(後の昭和天皇 )が誕生する。
6月10日 - 副島八郎が、カリフォルニア州バークレー で、北米における初のサケ 醸造所となる「日本醸造会社」を設立。
9月6日 - マッキンリー大統領暗殺事件 が起きる。
1902年
日系人によるアメリカでの初の出版物となる、野口米次郎 による“The American Diary of a Japanese Girl”が、出版される。
当時の東京府 京橋区 築地 で「東京外国人学校(現:アメリカン・スクール・イン・ジャパン )」が開校。
6月 - 日本国政府が、在米日本人によら親族の呼び寄せ渡航を許可する。
7月 - シアトルで、アメリカ本土では初となる日本語学校が開校する。
9月1日 - 隈元清が、シアトルで『北米時事(現:北米報知 )』を創刊。
10月 - 安孫子久太郎 が、カリフォルニア州に日系人専門の人材派遣業 「日本人勧業社」(後の日米勧業社)を設立。
1903年
西原清東 が、テキサス州 に移住。後年、同地における稲作 を成功させる。
4月 - 南カリフォルニア大学 在学中の山口正治・渋谷清次郎・飯島栄太郎によって、『羅府新報 』が創刊される。1922年に、駒井ヘンリー豊策が編集長となって以降は、現在に至るまで、駒井家による家族経営となる。
1905年
1906年
連邦政府 が帰化法を改正。司法省 が全裁判所に対し、日本人の帰化申請を拒否する旨の訓令を発布。
安孫子久太郎により、カリフォルニア州リビングストンに「大和コロニー」が設立される。
ワシントン州の司法試験に合格した愛媛県 出身の山下宅治 が、同州タコマでアメリカ市民権を取得。
日米双方において、公使館が大使館へ昇格。
10月11日 - サンフランシスコ教育委員会により、公立学校に在籍中の日系人学童[ 注釈 46] を、強制的に東洋人学校へ転学させる決議を採択。青木周蔵 駐米大使の抗議を受けたセオドア・ルーズベルト 大統領により、翌年に措置は撤回される。
1907年
2月に施行された大統領令により、日本人によるハワイ準州・メキシコ ・カナダ からアメリカ本土への移住が禁止される。
高見豊彦が、ニューヨーク で「紐育日本人共済会(現:ニューヨーク日系人会)」を設立。
古屋政次郎が、古屋商店信託部を移行させた「日本商業銀行」を創立。後に、「太平洋商業銀行」へ改称。
5月19日 - ニューヨークで「ジャパン・ソサエティー 」が発足。
5月20日 - サンフランシスコで、排日暴動が起きる。
1908年
日米両政府間で、前年から7度に亘り行われた書簡交換により、「日米紳士協約 」に基づく日本人の移民制限が開始される。
写真だけのお見合いをして、在米日本人男性のもとへ嫁ぐ女性、所謂「写真花嫁 」の渡航が始まる。
9月3日 - 住田多次郎がホノルルで、ハワイにおける初のサケ醸造所となる「ホノルル日本酒醸造会社 」を設立。
11月22日 - 戸塚球場 で、3A の選手を中心とした選抜チーム「リーチ・オール・アメリカン」と早稲田大学野球部 の試合が、開催される。この事が、日米野球 の嚆矢となる。
1909年
1910年
8月 - シアトルで、小笹三郎 が設計を手掛けた「パナマ・ホテル 」が開業。同ホテルは、現在でも営業しており、その一角は、シアトルの日本町にまつわる展示を行う「シアトル日系米国人博物館」となっている。
8月 - ミシガン大学ロー・スクール を卒業した2世の小澤アーサー健三郎が、日系人として初めて、ハワイ準州における弁護士資格を取得[ 113] 。
1911年 - アリゾナ州において、アメリカ市民権を持たない外国人による、土地の所有及び一定年数以上の借地が禁止される。
1912年 - 3月27日に、ワシントンD.C.の西ポトマック公園 (英語版 ) で、尾崎行雄 東京市長から寄贈された、3,020本の桜 の苗木の植樹式が執り行われる。
1912年 - 12月7日に、牧野フレッド金三郎 (英語版 ) が、ホノルル で『ハワイ報知 』を創刊。
1913年
住田物産(現:エム・シー・フーズ)初代社長の住田多次郎が、ホノルルで「太平洋銀行」を開業する[ 108] 。
市橋倭 が、アジア出身の博士号取得者として、初めてアメリカの大学(スタンフォード大学 )で教職に就く。
5月2日 - カリフォルニア州で、アリゾナ州と同様の法律(カリフォルニア州外国人土地法 )が成立。1世による、土地の購入及び一定年数以上の借地が禁じられる。5月10日に、珍田駐米大使が抗議声明を出すも、8月10日より施行される。同時期に、アリゾナ州では期限を問わず、1世による一切の借地が禁じられる。その後、ワシントン・オレゴン・アイダホ・モンタナ ・テキサス・カンザス ・ミネソタ にも波及。
1914年 - アメリカ・カナダの日本人会を統括する「太平洋沿岸日本人会協議会」が発足。
1915年
1916年 - 10月2日に、住友銀行 がホノルルで現地法人「布哇住友銀行」を設立[ 116] 。
1917年
4月6日 - アメリカが第一次世界大戦 に参戦。終戦までに、約800人の1世が戦地へ出征した。
4月13日 - 東京で「日米協会 」が発足。
8月16日 - ハワイ準州で、白人兵が西部戦線 へ出征した防衛隊 (英語版 ) において、596名の1世から成る日本人中隊が、留守部隊として組織される。英語を解さない隊員が大半だった為、命令等は日本語で行われた[ 111] 。
1918年
1919年
ハワイ準州で、第一次世界大戦に従軍した、1世の退役軍人約400人に、アメリカ市民権が付与される。しかし、1922年に同措置は無効化された。
10月30日 - 在米日本人会が、写真結婚の廃止を決議。
11月 - 住友銀行が、シアトルで現地法人「沙港住友銀行」を設立。
1920年
1月19日~7月1日 - 第2次オアフ島大ストライキ (英語版 )
2月25日 - 日本国政府が、「写真花嫁」に対するアメリカ行きの旅券発行を停止。
9月1日 - 明治屋 と満平薬局が、日本で初めてコカ・コーラ を販売。
11月2日 - カリフォルニア州において、『対外国人土地法修正法』が成立。アメリカ市民権を持つ未成年の日系人による土地所有も禁止される。1世は、我が子である2世を、抜け道的に土地所有者にする手段も、絶たれる事となった。翌年の1月に、幣原喜重郎 駐米大使が抗議声明を出すも、2月にはワシントン州でも、同様の法案が成立。2州に住む1世達は、一連の差別法の合憲性を巡って訴訟を起こすも、1923年11月に連邦最高裁は、土地法修正法は合憲であると判断。これにより、日本人移民の中には農業を諦め、都市部へ流出していくほか、アメリカでの生活そのものに見切りをつけ、日本へ帰国する人々が、続出する事となった。
11月24日 - ハワイ準州において、『外国語学校取締法』が成立。翌年の7月より、施行される。
1921年
この頃に、2世の誕生がピークを迎える。
5月19日 - 連邦議会 において『移民割当法 (英語版 ) 』(通称:ジョンソン法)が制定される。
6月 - オレゴン州ポートランドのポートランド・ローズ・フェスティバル (英語版 ) で、同市近郊で農業を営む日本人農民が、自分達が栽培した野菜や果物をあしらった山車を作成して参加。動力車により牽引されるものを対象とした部門で、1等賞を授与される。
7月19日 - カリフォルニア州ターロック で、58名の日本人労働者が、白人の自警団により、同市から追放される事件が起こる。矢田七太郎 駐サンフランシスコ総領事は、連邦政府に対して、日本人移民に対する保護を要請[ 117] 。
11月4日 - 原敬暗殺事件 が起きる。
1922年
1月4日 - 日米国際電話が開通。
9月22日 - 『ケーブル法 (英語版 ) 』が制定され、帰化不能外国人である男性と結婚した女性は、アメリカ市民権 を剥奪される事となる。1931年に同法は修正され、1936年に撤廃される。
11月13日 - 小沢孝雄による、アメリカへの帰化を求める請求を、連邦最高裁が棄却(小沢対アメリカ合衆国事件 (英語版 ) )。これにより、日本人は「帰化不能外国人」と規定される[ 111] 。
11月22日 - 山下宅治による、ワシントン州の外国人土地法を不服とした請求を、連邦最高裁が棄却(山下対ヒンクル事件 (英語版 ) )。
1923年
4月15日 - サクラメント仏教会附属桜学園の寄宿舎が、メキシコ系アメリカ人のフォルトゥナート・バレンシア・パディージャにより放火され、11~17歳の日本人児童10名が犠牲となる。パディージャは、同年8月に地元警察へ出頭した後、9月1日に第一級殺人罪で起訴され、終身刑の判決を受ける。1970年に、カリフォルニア州のサン・クエンティン州立刑務所 で獄死。
7月 - 第一次世界大戦にアメリカ兵として出征した、熊本県出身の佐藤市蔵による、ハワイ準州で獲得した市民権が、本土へ渡った際に無効となった事を不服とした請求を、連邦最高裁が棄却。
9月1日 - 関東大震災 が発生。ロサンゼルスでは、「南加日本人救済本部」が設置され、義援金が約85万ドルに達した。全米各地における募金活動においても、約1,200万ドルが集まった。
1924年
埴原正直 駐米大使 が、4月にチャールズ・エヴァンズ・ヒューズ 国務長官へ宛てた『排日移民法 』に抗議する旨の書簡が、アメリカ国内で問題化。これをきっかけに、連邦議会が排日に傾き、5月26日に同法が成立。施行は7月1日からだったものの、事実上本土へは6月24日の「シベリア丸」によるサンフランシスコ入港、ハワイへは6月28日の「笠戸丸」によるホノルル入港を最後に、日本人の移民が全面的に禁止された[ 注釈 48] 。以降の日本人によるアメリカへの入国は、再渡航者・アメリカ出生者・旅行者・官吏及びその家族・通商航海条約の規定の下に商業を行う者・留学生等に限定される事となった。
11月17日 - 日本において、当時の国籍法が改正され、アメリカ生まれの2世による日本国籍の放棄・離脱が認められる事となった。
1925年
1927年
1928年
当時19歳だった福永マイルズ寛が、家庭の貧困 と、両親がハワイ信託会社[ 注釈 52] の集金人から侮辱され続けていた事を苦に、同社への復讐を果たしたうえで、両親を故郷の山口県 へ帰す為の費用を工面する事を計画。9月18日に、同社副社長の息子であるジョージ・ギル・ジェミソン(当時10歳)を誘拐。4,000ドルの身代金 を奪って逃走したうえで、彼を殺害。数千人の群衆が、リンチ を目的に福永が拘留されている警察署 を取り囲むなど、ハワイにおける対日系人感情が、極めて悪化。同年10月に、ホノルル 巡回裁判所は、福永に死刑 判決を下す。弁護側は、心神耗弱を理由に再審を請求するも、翌1929年10月に連邦最高裁は、それを棄却。11月12日に、ローレンス・ジャッド (英語版 ) 準州知事は、死刑執行状へ署名。11月19日に、刑が執行される。日系コミュニティにおいては、実直な文学青年・ホテルマンといった福永の人となりや、犯行に至った背景などから、再審運動が起きたにもかかわらず、判決からあまりにも早く死刑が執行された事に、「ハオレ(白人)は日本人を馬鹿にしている」といった憤りの声が、多く挙がった[ 122] [ 123] 。
1世の森口富士松 (英語版 ) が、ワシントン州タコマで「宇和島屋 」を開業。
古屋政次郎が、個人所有であった古屋商店の事業を、会社組織に変更。これに伴い、同商店を「太平洋商事会社」へ改称する。
1929年
30年代
この頃から、カリフォルニアとハワイの日系人達が、ようやく経済的に安定した生活を送れるようになる。
1930年
この頃から、アメリカで生まれた後に、渡日して教育を受け、帰国した「帰米2世」が増える。
8月29日 - シアトルで、第1回JACL全国大会が開催される。
11月4日 - ハワイ準州で、民主党 の山城アンディ正義と共和党 の岡多作が準州議会の下院議員、共和党の三宅昇 (英語版 ) [ 注釈 53] が郡参事(カウアイ郡 )に、日系人として初めて当選[ 125] 。
1931年
4~5月 - 高松宮宣仁親王 ・喜久子妃 が、昭和天皇の名代として、カナダ とアメリカを訪問。5月27日には、サンフランシスコにおいて、日本人移民達の前でスピーチを行う。帰路途中の6月2日には、ハワイへも寄港。
10月 - 在アメリカ合衆国日本大使館公邸が竣工。1978年まで、大使公邸として使用される。
10月23日 - 太平洋商事会社と太平洋商業銀行が、世界恐慌 の煽りを受け、経営破綻となる。
1932年
1933年
1934年
7月14~18日 - 第1回日米学生会議 が、青山学院 で開催される。
7月23日 - 沖野トム留吉が、アジア系として初めて、ハワイ準州下級判事に就任[ 126] 。
8月13日 - リトル・トーキョーで、第1回「二世週日本祭 」が開催される。
9月9日 - アリゾナ州で、排日暴動が発生。12月28日までに、暴行などの被害を受けた日系人は、69名にのぼった。
11月6日 - 帰米2世の労働運動家である米田カール剛三 [ 注釈 54] が、日系人として初めて、本土の州議会(カリフォルニア州下院) 議員選挙に、共産党の公認候補として出馬。当選には至らなかったものの、1,000票以上を獲得したという結果は、日系コミュニティに小さいながらも、確実に希望の光を灯すものだった[ 127] 。
1935年
1936年
2月5日 - 日本で初のプロ野球機構となる「日本職業野球連盟 」が設立される。これに伴い、若林ヘンリー忠志 や濃人渉 をはじめとする、多くの2世の選手も、同リーグで活躍するようになる。
2月26~29日 - 二・二六事件
5月1日 - ハワイ準州ハワイ島では初のラジオ局となる、KHBC が開局。同時に、日本語放送も開始される。
1937年
この頃から、日本へ留学する2世が、続出するようになる。
映画『妻よ薔薇のやうに 』が、日本映画として初めて、アメリカで商業公開される。
1938年
1月 - コロラド州ピアース (英語版 ) 出身の豊錦喜一郎 が、日系人として初めて、大相撲 で初土俵を踏む。
3月25日 - 日本・ハワイ間通話開通式が執り行われる。
7月 - 廣瀬隆 (英語版 ) と仲間清 (英語版 ) が、全米水泳選手権大会で日系人として初めて、アメリカ代表の一員として出場[ 129] 。
7月15日 - 日本国政府が、1940年に予定していた札幌 ・東京 でのオリンピックと、万国博覧会 の開催中止を、正式に決定する。
7月26日 - 連邦政府が、日米通商航海条約の破棄を通告。翌年1月26日に失効する。
11月 - 山口ラルフ忠が、アジア系として初めて、ハワイ準州の副検事総長に任命される[ 130] 。
1939年
この頃から、3世の誕生が始まる。
4月14日~6月18日 - 宝塚歌劇団 が「訪米芸術使節団」として、全米9都市で公演。
4月30日~10月31日 - ニューヨーク万国博覧会 の第1期が開催される。
7月 - 勝谷富士子が、全米女子水泳選手権大会で日系人女性として初めて、アメリカ代表の一員として出場[ 131] 。翌年6月には、ハワイAAU 水泳選手権大会において、女子200m平泳ぎで、当時のアメリカ新記録を樹立。これに伴い、勝谷は日系人として初めて、オリンピックアメリカ代表 に選出される。しかし、上述した通り、東京オリンピックは開催されず、その夢は打ち砕かれることとなった[ 132] 。
8月17日 - 国際情勢の悪化を受け、日本郵船による定期航路が休止となる。
8月31日 - 前年より外務省 の音楽親善使節として渡米していた古賀政男 が作曲した『緑の月』『ああそれなのに』『男の純情』『酒は涙か溜息か 』『丘を越えて 』を、オーケストラ アレンジ したものが、NBC を通じて全米に放送される。
12月1日 - 外務省 の「日米の親善を増進するには、アメリカで教育を受けた2世を、日本で日本精神を体得させ、良く日本を理解させる為の、適当な機関を設けるべき」という意向に基づき、河相達夫 情報部 長を中心として、同盟通信社 と南満洲鉄道 の支援のもと、東京市 中野区 に設立された2年制の教育機関「敝之館」に、在米の領事館により選抜された16名の第1期生が入校する。
40年代
1940年
ニューヨークで、1世のメソジスト 教会牧師である赤松アルフレッド三郎を代表とした「東部日本人共護委員会」が設立される。
南加中央日本人会が、「米国最大の日本人密集地に相応しい名称とするべき」という名分のもと、「米国中央日本人会 (CJAOA)」と改称される。
1月 - ハワイ準州で、日本語を含めた外国語によるニュース放送が禁止される。
5月11日~10月27日 - ニューヨーク万国博覧会の第2期が開催される。
6月28日 - ルーズベルト大統領が、『スミス法 (英語版 ) 』(正式名称:外国人登録法)に署名。1世を含めた、アメリカ市民権を持たない全ての外国人に、指紋 登録が義務付けられる。
10月16日 - 連邦政府が、日本への屑鉄輸出を禁止する。
11月4日 - 東京で、紀元二千六百年記念行事 の一環としての「海外同胞大会」が開催される。アメリカを含めた海外諸国から、約1,500人の1世が参加。これに伴い、有田八郎 議長・南郷三郎 副議長・丸山鶴吉 事務総長の三役の下で、「海外同胞中央会」が設立される。
11月5日 - 共和党の阿部三次 (英語版 ) が、日系人として初めて、ハワイ準州議会の上院議員に当選[ 133] [ 注釈 55] 。
1941年
6月6日 - FBI が、在ロサンゼルス日本国総領事館駐在の立花止 帝国海軍中佐を、スパイ容疑で逮捕。連邦政府は、立花と在シアトル総領事館駐在の岡田貞外茂 帝国海軍少佐の2名に、ペルソナ・ノン・グラータ を通告し、国外退去 処分を下した(立花事件)。日本による第五列 活動への恐れが、日系コミュニティを含めたアメリカ社会へ広がる[ 134] 。これに伴い、『羅府新報』英文欄編集長の田中董梧 (英語版 ) は、6月15日付の紙面で「今や日本は敵である」 と明言し、2世は日本に銃を向ける覚悟がある事を、アメリカ社会へ向けて発信した。
7月25日 - 連邦政府が、在米の日本資産を凍結。
8月1日 - 連邦政府が、日本への石油輸出を禁止する。
8月18日 - 民主党のジョン・ディンゲル・シニア (英語版 ) 連邦下院議員(ミシガン州 選出)が、ルーズベルト大統領宛に、日本が 「おかしな事」 を仕出かさない為の保証として、ハワイ在住の日系人1万人を、人質として抑留するよう示唆する旨の書簡を送る[ 134] 。
9月17日 - 前年6月から、ハワイ準州内で情報網の構築に取りかかっていた、ロバート・シャイバーズFBIハワイ支局長が、アメリカに忠誠的な日系人のリストを、白人社会から特に信頼が厚いHJCAの幹部である、若山ジャック喜代松会長や坂巻駿三 (英語版 ) ハワイ大学助教授などから入手。同年11月末までに、情報源1,139名・連絡係50名の他、1世ではホノルル日本人商工会議所会頭などを歴任した住田代蔵 (英語版 ) [ 注釈 56] 、2世では日系人として初めてハーバード・ロー・スクール を卒業した弁護士の丸本正二 (英語版 ) [ 注釈 54] [ 注釈 57] をはじめとする、73名の日系人を含めた秘密情報提供者 172名を、協力者として確保した。このようにFBIは、日系コミュニティ内における不穏な言動を把握する準備を、抜かりなく行っていた。当然ながら、日系人自身による情報提供は、日系コミュニティ内に、深刻な相互不信と亀裂を招く事となった[ 134] [ 135] 。
10月 - 田中董梧が、1世の仲村権五郎 CJAOA会長と共に、ワシントンD.C.を訪問。多くの要人達に、日系人の窮状を訴えたほか、日米開戦に至った場合の、日系人に対する措置などを質問した。結果として、ルーズベルト大統領からは、温かい同情の言葉が寄せられ、フランシス・ビドル (英語版 ) 司法長官 からは、文書による「最悪の事態が起きても、善良な市民である日系人は、合衆国憲法 によって身の安全が保障されている」 といった約束を、取り付けるまでに至った。
10月20日 - 日本郵船が、何れも戦前では最後となる、バンクーバー・シアトル向けの氷川丸 を横浜から、ホノルル向けの大洋丸 を神戸から、それぞれ出航させる。
11月1日
11月12日 - リトル・トーキョーにあるCJAOA本部が、FBIの家宅捜査を受け、記録や名簿が押収された[ 57] 。
1941年
12月7日
12月9日 - ハワイ準州では、この日までに地元警察・FBI・軍警察によって、日本国籍者345名が、拘束される事となった[ 注釈 59] 。
12月11日 - 「東部日本人共護委員会」が、「日米民主委員会 (JACD)」へ改称。小室トーマス勉が委員長に就任。日本の軍国主義 体制を真っ向から非難すると同時に、アメリカへの忠誠を誓う。
12月13日 - 真珠湾攻撃の当日に、零戦 でハワイ諸島 のニイハウ島 へ不時着した、空母 「飛龍 」所属の西開地重徳帝国海軍一等飛行兵曹が、島民に殺害される。西開地の通訳兼協力者だった2世の原田義雄は、散弾銃 で自殺 。翌日には、原田の妻・アイリーン梅乃と、1世の新谷石松が逮捕される(ニイハウ島事件 )。
12月22日 - ハワイ軍政府が、新聞に戦時公式政策を発表。「日本と開戦したとはいえ、日系人を解雇する余裕は無い」として、民間企業における彼等の再雇用を促す。同時に、「日系人の逮捕と捜査は継続するものの、集団強制立ち退きを実施する意図は無い」とも明言。
12月23日 - 陸軍を名誉除隊 した田阪ラリー貫一が、ロサンゼルスでフィリピン系住民に刺殺される。同様の日系人を狙った殺害・傷害事件は、同月の24日・25日・29日・30日・翌年1月1日と続く。
12月29日 - カリフォルニア・オレゴン・ワシントン・モンタナ・アイダホ・ユタ・ネバダにおける全ての「敵性市民」に、短波ラジオ ・カメラ ・双眼鏡 ・武器といった禁制品の引き渡しが命じられる[ 137] 。
増田辰郎が、サンフランシスコで自身が経営する湾東商会の店頭に掲げた「私はアメリカ人だ」と書かれた看板(1942年3月13日撮影)
1月6日 - 『ハワイ報知』と『布哇タイムス』の2紙が、軍政府による検閲を受けるという条件付きで、日本語による新聞発行が認められる。
1月19日 - ハワイ準州における約2,000人の日系人兵士が、「4-C(徴兵不可の外国人)」に分類され、事前通告もないまま除隊させられる[ 57] 。
1月26日 - 海軍情報局 (ONI) が、ケネス・リングル少佐[ 注釈 60] による報告書を発表。
2世のうち3/4は、積極的にアメリカへ忠誠を示し、1世の大多数は高齢かつ無気力で、消極的忠誠を示す。
西海岸とハワイで綿密な調査をしたが、2世や居住歴の長い日本人から、妨害行為・破壊行為・スパイ行為・第五列的行為の証拠は、一切出てこなかった。
潜在的にアメリカへ不忠誠な日本人移民・日系人は、3,500人未満である。そして、その殆どが既に拘引されている、若しくはONI・FBIが、事前に把握している者達である。よって、日系人が軍事的安全に及ぼす脅威は、極めて小さい。
と結論付けた[ 注釈 61] 。
2月3日 - ジョン・エドガー・フーヴァー FBI長官 が、ビドル司法長官に、日系人への集団強制立ち退きを、熱烈に求める世論に関する分析を報告。
集団強制立ち退きの必要性は、事実に基づいたデータではなく、主として大衆の圧力と政治的圧力に基づいている。
と結論付けた。
2月8日 - ハワイ準州で、丸本正二を委員長として、日系人のアメリカ化推進により、同コミュニティにおける不安・絶望・混乱を払拭し、軍政当局との連携強化を目的とした「非常時奉仕委員会 (ESC)」が発足する[ 135] 。
2月19日
ルーズベルト大統領により『大統領令9066号 』が、発令される。「保護」の名目で、西海岸に住む日系人全員に加え、ハワイの日系コミュニティにおける指導者と見なされた人々の計約12万人が、全米10ヶ所に建設された収容所に抑留される(日系人の強制収容 )。
ハワイで逮捕され、抑留処分となった日系・ドイツ系・イタリア系をはじめとする「敵性外国人」に対する、最初の本土移送が実施される。 日本人抑留者の移送は、1943年12月2日までにかけて、10回に分けて行われた。
2月25日 - ハワイ準州で、第34戦闘工兵連隊のもとに「大学勝利奉仕団 (VVV)」が編成される。1月30日に、後にESCの副委員長となる吉田繁雄が、除隊させられた元兵士の日系人を代表して、デロス・エモンズ中将に請願書を提出した事に伴うもの。
3月18日 - 収容所に抑留された日系人の管理を担当する「戦時転住局 (英語版 ) (WRA)」が設置される。
4月 - 第一次世界大戦に従軍し、米国在郷軍人会 (英語版 ) の役員も勤めていたハワイ出身の若山アーネスト金蔵と妻・ときが、アメリカ自由人権協会 に対し、強制収容への異議と人身保護礼状の請求を申し立てる。同年10月より、判事による請願内容の聞き取りが始まる。夫妻の弁護団の一員であるヒュー・マクベス・シニア (英語版 ) 弁護士は、補足説明と口頭弁論の際に、「人種に基づく強制収容は、憲法違反であり、差別である」と非難した[ 141] 。
4月2日 - カリフォルニア州人事委員会が、日系人州職員の全員解雇を表明。『エンドウ事件 』の原因となる。
5月 - MISLSにおける最初の卒業生45名が、アリューシャン諸島 ならびに南太平洋 に派遣される。
5月13日 - WRAが、集合センター及び強制収容所で、季節農業労働者を募集することを許可。5月20日に、第1陣がオレゴン州のテンサイ 畑へ向かう[ 137] 。
6月12日 - ハワイ出身の日系人兵士によって、「第100歩兵大隊 」が編成される。
6月17日 - 日本側の第一次日米交換船 ・浅間丸 が、横浜から出航。
6月18日 - アメリカ側の第一次日米交換船・グリップスホルム 号(スウェーデン 船籍)が、ニューヨークから出航。
6月20日 - WRAが、日系人の出所方針を決定する。
7月12日 - 元カリフォルニア州陸運局職員の遠藤美津江 が、「州職員を解雇された事は、アメリカ市民としての公民権侵害にあたる」と主張。遠藤の弁護人であるジェームズ・パーセルは、彼女の身柄を管轄するWRAのミルトン・アイゼンハワー (英語版 ) 局長を相手取って、北カリフォルニア地区連邦裁判所に、人身保護令状を請求を申し立てる。
7月21日 - ESCが、HJCAを吸収合併する事を表明。
7月27日 - ニューメキシコ州 にある司法省 が管轄するローズバーグ抑留所で、何れも1世の小畠都四郎と磯村広太が、クラレンス・バールソン上等兵によって射殺される。後に、バールソンは無罪となる(ローズバーグの殺人 )。
9月14日 - 西部防衛司令部長官のジョン・L・デウィット (英語版 ) 中将が、西海岸における日系人の立ち退き完了を発表[ 57] 。
10月 - 「海外同胞中央会」を母体とした、「敵国在留同胞対策委員会」が発足。太平洋戦争開戦に伴い、アメリカを含めた交戦国に抑留された日本人・日系人の救恤事業に取り組む。
11月14日 - ポストン収容所 で、秘密情報提供者だった西村ケイ一雄が襲撃を受け、2名が逮捕される。被収容者によるハンスト の原因となる[ 137] 。
12月5~6日 - マンザナー収容所 で、WRAとJACLによる収容所の管理体制に反発した、帰米2世の上野ハリー義雄 (英語版 ) を中心とする抑留者達が、JACL幹部の田山フレッド勝を襲撃する暴動を起こす。当局による武力鎮圧の際、当時17歳の伊藤ジェームズ博と21歳の金川ジェームズ克二の2名が死亡。これを受けてWRAは、トラブルメーカーと見なした抑留者を隔離する為の施設を、同月10日よりユタ州 モアブ に設置する事とした[ 注釈 62] 。
12月16日 - 統合参謀本部 が、日系人のみで編成された戦闘部隊の創設を、ジョージ・マーシャル 陸軍参謀総長 に提案。翌1943年1月1日に、マーシャルがそれを承認。1月28日に日系人による連隊 規模の部隊を、編制する事が発表された。
トゥーリーレイク収容所での日系人女性達(1943年8月撮影)
1月4日 - WRAが、シカゴ とソルトレイクシティ に、収容所からの再定住支援を目的としたエリア・オフィスを設置する。
1月5日 - 陸軍が、ミシガン大学 に白人生徒のみを対象とした「アメリカ陸軍日本語学校 (AIJLS)」を設置。
1月31日 - VVVの兵士達の希望に伴い、同部隊は解散となり、100大隊への入隊が可能となる。
2月1日 - 「第442連隊戦闘団 」が編成される。
2月4日 - 若山夫妻に人身保護礼状が付与され、本格的な審理の開始も予定された。しかし、マンザナー収容所における村八分 に憔悴しきっていた夫妻は、日本への帰国を請願。戦後の1945年12月に、妻の祖先の故郷である熊本県に移住した[ 142] [ 注釈 63] 。
2月10日 - 収容所の日系人に、“Application for Leave Clearance(出所申請書)”が、配布される。特に、
質問27:貴方は命令を受けたら、如何なる地域であれ合衆国軍隊の戦闘任務に服しますか?
質問28:貴方は合衆国に忠誠を誓い、国内外における如何なる攻撃に対しても合衆国を忠実に守り、且つ日本国天皇、外国政府・団体への忠節・従順を誓って否定しますか?
と記載された、所謂「忠誠登録」が、論争の的となる。
3月 - ラジオ・トウキョウ(現:NHKワールド・ラジオ日本 )が、アイバ・ダキノをはじめとする、日本に居住する2世女性達で構成された「東京ローズ 」を、DJ に起用した連合国 軍向けプロパガンダ 放送『ゼロ・アワー』の放送を開始(~1945年8月14日)。
4月18日 - 山本五十六 帝国海軍大将が、前線視察中にブーゲンビル島 上空で、搭乗機を米軍機に撃墜され死亡(海軍甲事件 )。第二次世界大戦時の日本軍において、敵襲により戦死した最高位の軍人となる。死後、日本政府より元帥 に叙せられ、大勲位菊花大綬章 を授与される。
5月31日 - 広島県出身でカリフォルニア州医師免許を持つ辰口ポール信夫 帝国陸軍軍医曹長が、アッツ島の戦い で戦死。辰口による日記は、同島での戦闘が終結した後に発見され、MISの梅谷サム保夫3等軍曹が英訳。米軍内で大きな反響を呼び、終戦後にアメリカ国内でも出版される事となった。
6月5日 - ハワイの日系人約1,700人が、連邦政府に「東京爆撃」を要請すべく、1万340ドルの小切手を、中部太平洋陸軍 司令官のロバート・C・リチャードソン・ジュニア (英語版 ) 中将へ贈呈する[ 143] 。
6月21日 - 日系人への強制収容に抗議すべく、夜間外出禁止令に違反した平林ゴードン潔 と安井稔 が、連邦最高裁で有罪判決を受ける(ヒラバヤシ対アメリカ合衆国事件 (英語版 ) 、ヤスイ対アメリカ合衆国事件 (英語版 ) )。
9月2日 - 「忠誠登録」に“No-No”と回答した者の割合が、最も高かったトゥーリーレイク収容所 [ 注釈 64] において、日本への帰国を希望した者達の第1陣が、第二次日米交換船[ 注釈 65] でアメリカを離れる。ただし、帰国希望者が当局側の予想を上回った事から、終戦まで同収容所に留め置かれた者も多かった。以降は、1946年2月23日に最後の送還船が出航するまで、4,724名の「No-No組」が、日本へ帰国する事となった[ 注釈 66] 。
9月13日 - トゥーリーレイク収容所で、「Yes-Yes組」と「No-No組」の隔離が始まる。これ以降「Yes-Yes組」は、他の収容所へ送られる。5日後には、他の収容所における「No-No組」が、同収容所に到着する[ 注釈 67] 。
9月14日 - 日本側の第二次日米交換船・帝亜丸 が、茶 5万斤、味噌 7,000貫、醤油 8,600樽、日本語書籍・囲碁 ・将棋 53トンから成る「敵国在留同胞救恤品」を積載し、横浜から出航。アメリカ国内の日系人収容所へ届けられる。
9月22日 - 100大隊がヨーロッパ西部戦線 に参戦。イタリア やフランス (英語版 ) を転戦し、モンテ・カッシーノの戦い など各地で、その激闘ぶりを賞賛される。
9月29日 - イタリア戦線において、100大隊の高田ジョセフ繁雄3等軍曹が、日系人兵士として初の戦死者となり、殊勲十字章を授与される。
10月
トゥーリーレイク収容所で、被収容者の男性が、トラック事故で死亡。その際、未亡人に対する補償が余りにも少なかった事に、他の被収容者達が反発し、大規模なストライキを起こす。これに対してWRAは、「相場の10倍の賃金を与える」という触れ込みで、他の収容所から234名の日系人を集めて、スト破りを実行。それでも、被収容者達が屈服する様子を見せなかった事から、WRAは軍隊を投入し、収容所の管轄権も軍警察へ移行。11月14日には、軍警察が戒厳令を施行し、約350人が収容所内の営倉に監禁、約1,200人の1世が司法省が管轄する敵国人抑留所へ送致された。その為、翌1944年の年明けに、「これ以上の抵抗は、収容所に対する食糧封鎖すら起こしかねない」と判断した被収容者達は、ストライキを撤回。1月15日に、収容所の管轄権はWRAに戻され、戒厳令も解除された[ 148] 。
同年の晩春にコロラド州のアマチ収容所 を出所した後、州内のタマネギ農園で働いていた、何れも既婚者であるカリフォルニア州出身の設楽3姉妹が、近隣のトリニダード捕虜収容所から、同農園へ労務作業に訪れていたドイツ人捕虜であるハインリッヒ・ヘルダーとヘルマン・ローシャーと、不倫 関係となる。それを期に、ヘルダーとローシャーは同月18日に同収容所を脱走し、民間人に成り済ます為の男性服を用意していた姉妹達と合流。南下を図るも、車がエンストを起こした事を機に、双方は別れる。2名は、ニューメキシコ州ワトラス (英語版 ) へ辿り着いたが、地元の女性達とバー で遊んでいる所を逮捕される。その際、姉妹達が渡したと思われる現金や地図に加え、彼女達とキスや抱擁を交わす写真が、何枚も押収される。当局側は、同収容所からの更なる脱走が起きる事態を防ぐべく、逃走の経緯について詳しく証言すれば、刑を減刑するという司法取引 を2名に持ち掛けたところ、姉妹達による脱走幇助を自供。マスメディアは、一連の出来事を“Japanazi Romance”と銘打ち、前代未聞の醜聞として大々的に報道した。翌1944年5月2日に、コロラド州の連邦大陪審 は、姉妹達を起訴し、8月11日に反逆陰謀罪で有罪が確定。長女・ウォレス鶴子が2年、次女・大谷フローレンス静江と三女・谷越ビリー操が、22ヶ月の実刑判決を受け、ウェストバージニア州 の連邦女性刑務所に収監される。姉妹達は、何れも1946年に刑期満了で出所[ 149] [ 150] [ 151] 。
11月 - トゥーリーレイク収容所において、アメリカ生まれの2~3世が日本へ渡った後に、「日本人」として生活できる下地を整える事を目的とした、収容者達の出資・運営による8校の国民学校 が設置される[ 144] 。
アマチ収容所出身の初戦死者6名を追悼する式典において、半旗 を掲げるボーイスカウト のメンバー(1944年8月5日撮影)
4月26日 - ハワイ準州で「第1399建設工兵大隊 」が編成される。
5月 - トゥーリーレイク収容所で、全ての集会が禁止され、学校・職場・スポーツ・レクリエーションも閉鎖される[ 148] 。
5月10日 - 連邦最高裁が、江見フランク誠之 (英語版 ) をはじめとする、ハートマウンテン収容所 における徴兵忌避 者63名に関する起訴を受理。同年6月24日に、有罪・実刑判決が確定する[ 57] 。
6月11日 - 100大隊が442連隊に統合される。
6月22日 - ルーズベルト大統領が、『1944年復員兵援護法 』に署名。この法案を期に、2世の教育水準は一気に高まる事となった。
6月23日 - ニューギニアの戦い において、MISの水足テリー行隆技術軍曹が、同部隊における初の戦死者となる。死後、銀星章と名誉戦傷章を授与される。
7月1日 - ルーズベルト大統領が、『1944年市民権放棄法 (英語版 ) 』(通称:帰化取り消し法)に署名。アメリカ市民権の放棄を希望する収容者には、その権利が与えられる事となった。
7月9日 - サイパンの戦い が、アメリカ側の勝利により終結。この結果、日本の絶対国防圏 が、事実上破られる事となり、7月22日に東條内閣 が総辞職する。
7月26日 - MISの久保ボブ保一4等技術兵が、サイパン島 で8人の日本兵と、彼等により洞窟 に監禁されていた122人の民間人を、1人の死者も出さず、投降させる事に成功。同年10月18日に、同部隊の隊員としては初となる、殊勲十字章を授与される。
8月8日 - 関門鉄道トンネル が、上下線ともに開通。
10月26日 - ドイツ軍により包囲され、救出困難と判断された事から、「失われた大隊」と呼ばれ始めていた第36歩兵師団 (英語版 ) 第141歩兵連隊 (英語版 ) 第1大隊(通称:テキサス大隊)を救出する為の作戦が、ルーズベルト大統領から442連隊に対して命じられる。10月31日に作戦は成功するも、211名のテキサス大隊員を救出する為に、442連隊は56名の戦死者と約800人の負傷者を出す犠牲を払った。同戦闘は、後に「米陸軍における10大戦闘」の一つとして数えられる事なった。
11月23日 - 戦争省 が、アメリカ市民権を持たない1世でも、所定の条件を満たした者に限り、陸軍へ志願する資格を与える旨を発表。結果として、終戦までに40名の1世[ 注釈 68] が、米陸軍兵として軍務に服した。
11月29日 - オレゴン州フッドリバー で、郡庁舎にある「名誉の壁」から、16名の2世兵士の名前が削除される。しかし、翌1945年1月3日に、同市出身のMIS隊員である蜂谷フランク忠一3等軍曹が、フィリピンの戦い において、勇戦の末に戦死。技術軍曹へ2階級特進したうえで、銀星章を授与される。これを期にフットリバーには、全米中から抗議の声が寄せられる事となり、同年4月29日に、16名の名前は壁に復元された。
12月18日 - 連邦最高裁が、日系アメリカ人抑留そのものの違憲性を訴えた是松フレッド豊三郎 の主張を退ける(コレマツ対アメリカ合衆国事件 )。同日、エンドウ事件においては「忠誠な市民の身体を拘束しておく事は、憲法違反である」と判断する。これらの判決以降、WRAと戦争省は、日系人への強制収容と西海岸における立ち退き命令を継続させる事が困難となる。しかし一方で、この事は一部の収容者の間で、アメリカ市民権放棄の動きを加速させる事態を招き、終戦までに5,589名の日系人が、アメリカ市民権の放棄を申し出た。
年表(朝鮮半島介入期)
442連隊の連隊旗に、自らの手で大統領部隊感状を括り付けるトルーマン大統領(1946年7月15日撮影)
1945年
「在外同胞対策委員会」が、「敵国在留同胞対策委員会」から財産移譲を受ける形で発足。
9月2日 - 戦艦「ミズーリ」における日本の降伏文書 調印に伴い、第二次世界大戦が正式に終結。調印式には、連合国軍側通訳としてMISの坂本トーマス時雄・幸村次郎・吉村登の少尉3名、日本側通訳としてハワイ出身の和田ジミー隆太郎の計4名の2世も同席[ 74] 。
9月27日 - 在日アメリカ大使館 で、第1回昭和天皇・マッカーサー会見 が行われる。以降、1951年4月15日まで、11回に亘って実施される。
9月30日 - ESCが解散。
10月2日 - 「連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ)」が、第一生命館 に設置される(~1952年4月28日)。
10月24日 - ハワイ準州における全ての統治機能が、文民政府に戻される[ 134] 。
11月15日 - 藤井僚一が、シカゴで『シカゴ新報 』を創刊。
1946年
利益代表国 の管理下に置かれていた、全米各地の日本大使館及び総領事館の建物を、連邦政府が接収する。
塚本ウォルター武雄が、日系人として初めて、連邦最高裁判所弁護士会に登録される[ 157] 。
442連隊の2代目土田五郎元技術軍曹が、日系人として初めて、本土(シカゴ )において警察官となる[ 158] 。
ルース・ベネディクト が、アメリカ史上初の日本人論 を題材とした著作となる、『菊と刀 』を発表。日本では、長谷川松治 による邦訳版が、1948年12月28日に出版される。
2月28日~3月4日 - コロラド州[ 注釈 74] デンバー で、戦後初のJACL全国大会が、開催される。
3月7日 - ヨーロッパ西部戦線に従軍し、戦死した100大隊の旨森貞夫 元上等兵に、日系人として初めて、名誉勲章 が授与される。
3月20日 - トゥーリーレイク収容所の閉鎖を以て、全収容所の運営が終了。
5月3日 - 極東国際軍事裁判 (東京裁判)が開廷。G2 翻訳通訳部軍属 の言語裁定官である、MISの伊丹デイヴィッド明 少尉の他、広田弘毅 元首相や東郷茂徳 元外務大臣 の担当弁護人である山岡譲爾 など、多くの2世が同裁判に携わる事となった。
6月 - MISLSが閉校。
6月26日 - WRAが解散。
6月29日 - 進駐軍 として日本に駐留した米兵 と婚約した日本人女性に、アメリカへの渡航を許可する『G.I.婚約者法 (英語版 ) 』が成立。
7月9日 - JACLが、1世の帰化権獲得及び日本への送還の停止、強制立ち退きへの補償などを、連邦議会で立法化させる事を目的とした「反差別委員会」を設立。委員長に就任した正岡マイク優 を、翌年の1月27日に、ロビイスト としてワシントンD.C.へ派遣した。
7月15日 - ホワイトハウス 南側のザ・エリプス (英語版 ) で、トルーマン大統領の主催による、442連隊の歓迎式典が執り行われる。翌月の16日を以て解散。最終的に同連隊は、その活動期間と規模に比して、アメリカ合衆国軍事史上において、最も多くの勲章を受けた部隊となり、歴史にその名を残す事になった。
11月 - 何れも1世の浅野七之助 と安井關治がそれぞれ設立した、サンフランシスコの「日本難民救済会」とニューヨークの「日本救援紐育委員会」が中心となり、「ララ物資 」の提供が開始される。多くの日系人達が、自身の窮状を顧みず、この活動に携わる (~1952年6月)。
11月3日 - 日本国憲法 が公布。翌1947年5月3日より施行。
11月5日 - 戦後初のハワイ準州議会議員選挙において、上院では共和党の築山ウィルフレッド長松 (英語版 ) [ 注釈 57] 、下院では共和党の榊原トーマス為一 (英語版 ) ・板垣ジョセフ梁造、民主党の城戸光之・新城松喜・大上トーマス友一の計6名が、当選を果たす。郡参事選挙でも、ハワイ郡 では民主党の阿部一久 (英語版 ) [ 注釈 57] [ 注釈 75] と共和党の吉田バド義雄、カウアイ郡では共和党の濱本豊が、それぞれ当選[ 161] 。
1947年
1948年
1月4日 - 日米国際電話が再開。
1月19日 - 1世の大山嘉次郎が、長男・フレッド嘉博の名義で購入した土地を、強制収容所に抑留されている最中の1944年に、カリフォルニア州により没収された事を不服として、州を提訴した『オーヤマ対カリフォルニア州事件 (英語版 ) 』において、連邦最高裁が原告側勝訴の判決を下す。これにより、『カリフォルニア州外国人土地法』の執行が、事実上不可能となり、1世による土地購入が可能となる。
4月 - ハワイ準州において、日本語学校の運営再開が始まる。
6月4日 - 戦死した442連隊員のうち、永戸文武・棚町三郎の元上等兵2名が、日系人として初めてアーリントン国立墓地 に埋葬される[ 162] [ 163] 。
6月7日 - 1世の漁師である高橋虎男が、市民権を持たない外国人による漁労 を禁じた、カリフォルニア州における戦時法の撤廃を請求した『トラオ・タカハシ対漁業狩猟委員会事件 (英語版 ) 』において、連邦最高裁が原告側勝訴の判決を下す。
7月2日 - トルーマン大統領が、『日系人退去補償請求法 』に署名。
10月 - 戦時中に、宇佐海軍航空隊 に所属していたハワイ出身の田中昭男が、元神風特別攻撃隊員としては初めて、連邦政府から帰国を許可される[ 164] 。
1949年
1月 - 日米開戦に伴い解散した、CJAOAの実質的な後継団体である「南加州日本人商業会議所」[ 注釈 76] が設立される。
5月 - カリフォルニア州ロサンゼルスにあるエバーグリーン墓地で、ヨーロッパ戦線で戦死した2世兵士を顕彰する「殉国碑」が除幕される。高さ約10メートルの塔の天辺には、旨森貞夫元上等兵を象った像が立っている。
7月5日 - 前年8月に、連邦政府が原告となり、国家反逆罪の容疑で逮捕されたアイバ・ダキノの裁判が、サンフランシスコの連邦地方裁判所で開始される。同年9月29日に、禁錮10年・罰金1万ドル・アメリカ市民権剥奪の判決が下された。
8月 - リトル・トーキョーで、戦後初の「二世週日本祭」が開催される。
11月2日 - 連邦政府が戦後初めて、日本の大学卒業(卒業見込みを含む)者約100人に、アメリカへ1年間留学させる機会を与える事を、GHQ民間情報教育局 を通して発表。同年12月1日に、仙台 ・東京・名古屋 ・京都 ・広島 ・福岡 で行われた選考試験は、約6,000人が受験し、142名が合格した[ 165] 。
1950年
『日本人帰化法案』が、連邦議会の上下両院で可決されるも、トルーマン大統領は署名を拒否[ 57] 。
5月16日~6月19日 - 第100歩兵大隊の退役軍人会である「第100大隊クラブ」が、会館建設の為の基金を募集すべく、美空ひばり と川田晴久 による興行を、ハワイ各島で実施。興行を終えた後の二人は、同地で映画『東京キッド 』の撮影を行う[ 166] [ 注釈 77] [ 注釈 78] 。
8月10日 - 6月25日に朝鮮戦争 が勃発した事を受け、GHQの指令により、日本において警察予備隊 が設立される。
12月 - JACDが解散。
1951年
日本郵船による定期航路が、再開される。
サクラメントで、国内では初となる、日系人を対象とした退役軍人クラブが設立される[ 注釈 79] 。
初の日米合作映画である『東京ファイル212 』が、1月26日に日本、5月31日にアメリカで公開される。
6月19日 - 与那嶺ウォーリー要が、戦後では初めての外国籍選手として、読売ジャイアンツに入団。
1952年
ヘルシンキオリンピック で、ウエイトリフティング の高野トミー民夫 (英語版 ) 、競泳 男子100m背泳ぎ の親川義信 (英語版 ) 、競泳男子1500m自由形 の紺野フォード裕 が、金メダル を獲得。競泳女子4×100m自由形/400m自由形の川本エヴェリン・トクエ が、銅メダル を獲得。
3月1日 - 渡邊道郎が、アジア系として初めて、ハワイ準州司法長官に就任。
4月17日 - 1世の藤井整 が、カリフォルニア州外国人土地法の違憲性を訴えた裁判において、州最高裁 が原告側勝訴の判決を下す。州側は、同年5月12日に連邦最高裁への上告を、断念する事を公表。
4月26日 - 日本において、海上保安庁の下部組織としての海上警備隊 が設立される。同年8月1日の保安庁 設立に伴い、警備隊 に改組。
4月28日 - 『サンフランシスコ平和条約 』の発効に伴い、日米の国交が回復される。
4月29日 - 札幌 と福岡 に、アメリカ領事館が開館。
6月2日 - 戦時中を日本で過ごしていた、カレクシコ 出身の川北友弥が、大阪俘虜収容所大江山分所で通訳を務めていた際、捕虜 を虐待していた容疑で、国家反逆罪に問われた裁判において、連邦最高裁は死刑判決を下す(川北対合衆国事件 )。
6月27日
連邦議会で『移民国籍法 』が可決され、『排日移民法』が事実上撤廃される事となった。
全米の新聞社に、「“JAP ”という差別表現の使用禁止」が勧告される。
7月3~6日 - ホノルルで、第100大隊クラブ会館のオープニングセレモニーが、執り行われる[ 168] 。
10月15日 - 警察予備隊が、保安庁保安隊 に改組。
11月14日 - 住友銀行が、サンフランシスコで戦前とは別法人の「加州住友銀行」を設立。
12月21日 - ハワイ準州で、KGMB がアメリカでは初となる日本語によるテレビ放送を開始。
1953年
2月1日 - 東京で、NHKが日本初のテレビ放送 を開始。
4月2日 - 『日米友好通商航海条約』が調印される。同年10月30日より発効。
7月27日 - 板門店 で、朝鮮戦争休戦協定が調印される。
年表(ベトナム介入期)
(左から)平林ゴードン潔、安井稔、是松フレッド豊三郎
50年代
1953年
1954年
1955年
6月 - 「海外日系人連絡事務局」が、「在外同胞対策委員会」を母体とする形で発足。
11月1日 - ベトナム戦争 が、事実上開戦。
1956年
8月1日 - 丸本正二が、アジア系として初めて、ハワイ準州最高裁判所判事に就任。
11月 - 『カリフォルニア州外国人土地法』が撤廃される。
12月18日 - 日本が国際連合 に加盟。
1957年
1958年
1959年
喜多山トム勉が、カリフォルニア州ユニオンシティ の初代市長に就任。
6月19日 - 1世の福永ピーター秀一や2世の稲葉バロン政人らが、三井銀行 とハワイ大学経済学部の支援を受け、「シティ・バンク・オブ・ホノルル (CBOH)」を開業する[ 176] 。
8月 - 坂上宗雄が、日系人として初めて、駐日アメリカ領事(神戸)に就任[ 177] 。
8月21日 - ハワイ準州が、50番目の州として承認される。同時に、井上ダニエル建が日系人として初めての連邦下院 議員、柏至朗 (英語版 ) [ 注釈 57] が初代州司法長官[ 注釈 83] に、それぞれ就任。
10月5日 - 築山ウィルフレッド長松が、日系人として初めて、州最高裁判所(ハワイ州) (英語版 ) 長官に就任。
60年代
70年代
年表(戦後昭和期)
70年代
80年代
1980年
1981年
1982年
1983年
2月24日 - CWRICが、「大戦下における日系人の強制収容に、軍事的な必要性は無かった」とする結論を発表。
4月15日 - 千葉県 浦安市 に、アメリカ以外では初のディズニー・テーマパークとなる「東京ディズニーランド 」が開園。
11月10日 - 連邦最高裁が、是松フレッド豊三郎の名誉回復を公表。
11月11日 - ロナルド・レーガン 大統領が、アメリカの大統領として初めて、日本の国会 で演説を行う。
1984年
『二つの祖国』を原作としたテレビドラマ 『山河燃ゆ 』が、日米両国で放送される。しかし、アメリカの日系コミュニティからは、「リドレス運動が大詰めを迎えているうえ、貿易摩擦により日米関係が悪化している最中に、本作の描写は“日系人とは、2つの祖国感情によって、祖国に対する忠誠心が二分されている者達だ”といった誤解を、アメリカ社会に与える可能性が高く、反日団体にとってのリドレス運動への反対の口実にすら、なりかねない」として、猛抗議の声が挙がり、同国での放送は中止される事となった[ 187] [ 189] 。
7月28日~8月12日 - ロサンゼルスオリンピック が開催される。
1985年
1986年
1987年
1988年
90年代
2000年代
2010年代
2020年代
脚注
注釈
出典
^ Frank, Sarah., Filipinos in America (Minnesota, 2005)
^ Tate, Cassandra (2009年7月23日). “Japanese Castaways of 1834: The Three Kichis ”. HistoryLink.org . 2016年6月10日時点のオリジナルよりアーカイブ 。2020年6月24日閲覧。
^ a b c d Masakazu, Iwata,. ‘The Japanese Immigrants in California Agriculture’, agricultural history 36.1 (Jan 1996)
^ a b c d Kashima, T., ‘Nisei and Issei’, in. Personal Justice Denied (2nd ed, United States of America, 2000)
^ 独立行政法人国際協力機構 横浜国際センター海外移住資料館展示案内「われら新世界に参加す」(2004年)[5]
^ Anderson, Emily. "Anti-Japanese exclusion movement," Densho Encyclopedia .
^ a b Hoobler, Dorothy and Thomas (1995). The Japanese American Family Album . Oxford University Press. p. 34. ISBN 0-19-512423-5
^ Lee, Shelley Sang–Hee (2011). Claiming the Oriental Gateway: Prewar Seattle and Japanese America . Philadelphia: Temple University Press. pp. 46–47. ISBN 978-1-4399-0215-8
^ “Seattle Chinatown Historic District ”. www.nps.gov . 2020年6月20日閲覧。
^ First Japanese Prisoner of War - Pearl Harbor.org
^ Hapa Soldiers - 100th Infantry Battalion Veterans
^ a b Muller, E. L., The Hunt for Japanese American Disloyalty in World War II (North Carolina, 2007)
^ 2つの世界:松本若次の生涯と写真 第1回 若次の旅立ち - ディスカバー・ニッケイ
^ Lillquist, Karl,. 'Farming the Desert: Agriculture in the World War II-Era Japanese-American Relocation Centers', Agricultural History 84.1 (2010), p. 74-104
^ Telling Our Stories: Japanese Americans in the San Fernando Valley, 1910s – 1970s, (accessed 21 January 2020: http://www.discovernikkei.org/en/nikkeialbum/albums/241/?view=list )
^ Ingram, Scott,. Asher, Robert., 'Immigrants (Immigration To The United States)'(Nov 2004)
^ 太平洋を渡った南房総のアワビ漁師たち - 館山まるごと博物館
^ JACLについて - JACLカリフォルニア州モントレー半島支部
^ 太平洋を渡ったあわびダイバーたち - Descubra Nikkei
^ 押本龍一「私の出会う光景」第144回:ターミナル・アイランドへ
^ ロサンゼルス港 The Port of Los Angeles - アメリカ大自然.com
^ ニッケイがいた街 第3回(前編) ターミナル・アイランド - ディスカバー・ニッケイ
^ 戦後70年・日系アメリカ人インタビュー/巽 幸雄さん&長男の一郎さん
^ 海を渡ったアワビ漁師達 2 -100年の歳月を越え甦る物語 | 無印良品
^ ニッケイがいた街 第3回(後編) ターミナル・アイランド - ディスカバー・ニッケイ
^ 日系米国人の歴史というコモン・グラウンド:全米日系人博物館の開館30周年を前にして(後) - Rafu Shimpo
^ 戦中の日系人弁護士からのサポートの欠如(英語) - ディスカバー・ニッケイ
^ a b c d Nisei Served in All Services During WWII | Discover Nikkei
^
AWARDS & DECORATIONS STATS - Go For Broke - National Education Center
^ 1399th Engineering Construction Battalion | Densho Encyclopedia
^ “Herbert Seijin Ginoza | Japanese American Military Experience Database | Discover Nikkei ”. www.discovernikkei.org . 2017年11月10日閲覧。
^ Second Hand War Stories - Journal | Discover Nikkei
^ Obituary of Kenje Ogata | Schilling Funeral Home
^ Military Intelligence Hall of Famers
^ Ted's Corner *** The Nisei Soldiers of World War Ⅱ
^ Hawaii Times 1945.09.18: Page 8
^ ICARUS ON YAKIMA AVENUE - TACOMA HISTORY
^ 1943 -Nisei in Uniform- Allied POWS in Japan
^ a b c d e f g h i 小林徹「日系アメリカ人小史 」『長崎国際大学論叢』第2巻、長崎国際大学、2002年3月、67-77頁、ISSN 1346-4094 、CRID 1050845763151632256 。
^ a b 歴史余話[第三十四話]戦艦ミズーリ号艦上での太平洋戦争降伏文書調印式および戦後処理に関わった3人の九州学院OB
^ Buddy Uno | Densho Encyclopedia
^ Minoru Wada's Last Combat Mission - Together We Served Army
^ 日本を攻撃させた日本軍士官 ワダ・ミノル - ネイビーブルーに恋をして
^ Hong, Jane. “Immigration Act of 1952 ”. Densho Encyclopedia. 2020年6月14日閲覧。
^ 南川文里「ポスト占領期における日米間の移民とその管理 : 人の移動の1952年体制と在米日系人社会 」『立命館国際研究』第28巻第1号、立命館大学国際関係学会、2015年、145-161頁、doi :10.34382/00002350 、hdl :10367/6445 、ISSN 0915-2008 。
^ 岡本智周「在米日系人強制収容に対する補償法の変遷 」『社会学評論』第54巻第2号、日本社会学会、2003年、144-158頁、doi :10.4057/jsr.54.144 。
^ アメリカ黒人史との関わりでたどる、日系アメリカ人の歴史—その3 - ディスカバー・ニッケイ
^ 安冨成良「日本人花嫁法(1947年)と日系社会 (100周年記念号) 」『嘉悦大学研究論集』第46巻第1号、2003年、125-143頁、NAID 120005538440 。
^ a b アメリカ「追憶の日」から(米国日系移民と人権に関する考察)
^ “President Gerald R. Ford's Proclamation 4417, Confirming the Termination of the Executive Order Authorizing Japanese-American Internment During World War II ” (英語). Gerald R. Ford Presidential Library and Museum (1976年2月19日). 2011年1月6日閲覧。
^ a b 事象の年表 | NVL - Nisei Veterans Legacy
^ a b c アメリカの戦後補償(リドレス) - ディスカバー・ニッケイ
^ a b 駒込希『アメリカにおける日系人差別とユダヤ人 -1906年から1988年を中心に- 』 早稲田大学〈博士(人間科学) 甲第5617号, 早大学位記番号:新8029〉、2019年。https://hdl.handle.net/2065/00062630 。
^ a b Commission on Wartime Relocation and Internment of Civilians | Densho Encyclopedia
^ 三輪昭子「1940年代の日系アメリカ人 ―強制収容所の記憶― 」『教養と教育』第3巻、愛知教育大学、2003年、43-50頁、NCID AA11942585 。
^ Personal Justice Denied: Report of the Commission on Wartime Relocation and Internment of Civilians - Internment archive
^ 日系移民の歴史にみる天理教の北米伝道の様相(36) 現代の北米日系人と天理教①
^ a b * 菅(七戸)美弥「55名の「ジャパニーズ」--1870年米国人口センサスの調査票(population schedule)への接近 」『東京学芸大学紀要. 人文社会科学系. II』第60巻、東京学芸大学紀要出版委員会、2009年1月、137-151頁、hdl :2309/96156 、ISSN 18804322 、NAID 110007030894 。
^ セイヴォリー船長と箱館の商人ウィルキー - 同志社大学学術リポジトリ
^ Spread the Word! - JAVA
^ 日米新聞 = Japanese American News 1934.06.24: Page 4
^ 東京の子孫「やっと会えた!」:佐吉と娘に写真で初対面 若松コロニー【第4話】 - Rafu Shimpo
^ Pan-Asian Metropolis — Japanese Los Angeles - Eric Brightwell
^ コロラド新聞 = The Colorado Shimbun 1916.01.01: Page 28
^ 移民年譜 アメリカの場合
^ a b Hawaii Times 1954.02.12: Page 9
^ Takagi, Shinji (2000). “Tomizo and Tokujiro: The First Japanese Mormons” . Brigham Young University Studies 39 (2): 73–106. ISSN 0007-0106 . JSTOR 43044987 . https://www.jstor.org/stable/43044987 .
^ a b c d e f g 埋もれさせない!アメリカ帰化権がないのに帰化できた日本人一世の挑戦 - READYFOR
^ 矢ヶ崎典隆「カリフォルニアの日本人移民社会における金融の諸問題」 - 横浜国立大学学術情報リポジトリ
^ Hawaii Times 1963.11.29: Page 4
^ Nichibei Shinbun 1916.10.04: Page 3
^ Nippu Jiji 1921.07.20: Page 1
^ Nippu Jiji 1927.06.16: Page 1
^ a b Kinjiro Matsudaira: Mayor of Edmonston, Maryland | Discover Nikkei
^ [6]
^ 新刊紹介:「歴史評論」2月号 - bogus simotukareのブログ
^ 19歳日系2世が誘拐殺人 ギル少年殺し - 昭和の出来事データベース
^ 新世界 = The New World (サンフランシスコ), 1929.01.07: Page 2
^ Nichibei Shinbun 1930.11.07: Page 3
^ Hawai Mainichi 1934.07.23 Edition 02: Page 3
^ Karl Yoneda | Densho Encyclopedia
^ Nippu Jiji 1936.01.01 Edition 02: Page 8
^ 新世界朝日新聞 = The New World Sun (サンフランシスコ), 1938.07.13: Page 2
^ Kona Hankyō 1938.11.02: Page 4
^ ハワイ報知 = The Hawaii Hochi (ホノルル), 1939.07.29: Page 5
^ ハワイ報知 = The Hawaii Hochi (ホノルル), 2022.07.26: Page 14
^ Maui Shinbun 1940.11.08: Page 2
^ a b c d e f 日系人封じ込め - 天理大学
^ a b 白水繁彦「ハワイ日系社会の文化変化ー第二次大戦下二世の米化運動ー」 - 成城大学
^ a b c Timeline: Japanese Americans during World War II - National Park Service
^ 第二次世界大戦中の日系アメリカ人抑留の法的経済的分析 - A Law and Economics Analysis of Japanese-American Internment during WWII
^ Kenneth Ringle | Densho Encyclopedia
^ 日系アメリカ人の辿ってきた道を追うオンライン歴史資料館 第2章:緊迫 ②第二次世界大戦前の情報報告 - Densho.org
^ Wakayama Case - Densho Encyclopedia
^ [7]
^ Hawaii Times 1943.06.05: Page 5
^ a b 篠田左多江「日系アメリカ文学 : 強制収容所内の文学活動 ② トゥーリレイク収容所 」『東京家政大学研究紀要 人文社会科学・自然科学』第29巻、東京家政大学、1989年3月、11-21頁、ISSN 0385-1206 、CRID 1050001338248004992 。
^ 移動する人々:戦後帰米と戦後の日系移民 清野敏幸さん— その2:ローワー強制収容所からツールレイク強制収容所へ - ディスカバー・ニッケイ
^ a b ツールレイク収容所の日系アメリカ人 - 大阪経済法科大学論集 111号
^ “Little Benedict Arnolds in Skirts”: The Shitara Sisters’ Scandalous WWII Treason Trial - Discover Nikkei
^ Prosecution of the Shitara Sisters - Densho Encyclopedia
^ Kakushu Jji = Colorado Times, August 12, 1944
^ Kashino, Shiro (1922-1997) - HistoryLink.org
^ Thompson, William Y. (1998年5月6日). “The Last Battle of Shiro Kashino” . Hawaii Herald . http://www.javadc.org/kashino.htm 2024年7月17日閲覧。
^ Mitsuyoshi Fukuda - 100th Infantry Battalion Veterans
^ Walter Tsukamoto | Densho Encyclopedia
^ シカゴ新報 = Chicago Shimpo (シカゴ), 1946.05.23: Page 4
^ 「あなたの親切を忘れない」:カー知事没後70周年、日系住民擁護し立ち上がった人々 - Rafu Shimpo
^ Hawaii Times 1946.11.06: Page 6
^ Kakushu Jiji = Colorado Times, Volume 34, Number 5151, June 5, 1948
^ Fighting on Two Fronts: The 442nd Regimental Combat Team - ANC
^ Hawaii Times 1948.10.09: Page 6
^ 第13回 日系人の入学した学校と日本からのアメリカ留学 | 北米報知
^ Hawaii Times = 布哇タイムス (ホノルル), 1950.04.27: Page 10
^ ハワイ報知 = The Hawaii Hochi (ホノルル), 1950.09.27: Page 3
^ Hawaii Times = 布哇タイムス (ホノルル), 1952.07.02: Page 6
^ Hawaii Times 1953.09.22: Page 9
^ Distinguished Service Cross Recipients, Korean War,1950-1953
^ Hawaii Times 1954.02.12: Page 11
^ Hawaii Times 1954.11.03: Page 12
^ 「ノーノー・ボーイ」の世界を探る 第20回 新たな訳で日本で出版 - ディスカバー・ニッケイ
^ Hawaii Times 1959.06.18: Page 9
^ Hawaii Times 1968.02.13: Page 6
^ Hawaii Times 1960.03.19: Page 6
^ Rocky Mountain JIHO, Number 41, January 9, 1963
^ Hawaii Times 1967.10.26: Page 7
^ Hawaii Times 1968.06.17: Page 10
^ Vincent Okamoto -Hall of Valor- Military Times
^ County's Newest Judge Sworn In, Promises to Protect Rights
^ Hawaii Times 1969.01.03: Page 4
^ Donald Kimura -Hall of Valor- Military Times
^ a b 佃陽子「日本の大衆メディアにおける日系人の表象 」『成城法学.教養論集』第27巻、成城大学法学会、2018年3月、69-85頁、ISSN 0389-8075 、CRID 1050282812451428096 。
^ ハワイ報知 = The Hawaii Hochi (ホノルル), 1980.06.17: Page 4
^ なぜ『山河燃ゆ』は全米放映中止になったのか?柳田由紀子『二世兵士 激戦の記録 日系アメリカ人の第二次大戦』 新潮社『波』
^ ハワイ報知 = The Hawaii Hochi (ホノルル), 1990.10.30: Page 1
^ RangerHallofFame - Fort Moore
^ Inscription, Brothers in Valor World War II memorial monument - Densho Digital Repository
^ 第二次世界大戦の勇者を称える碑 - アロハプログラム
^ ハワイ報知 = The Hawaii Hochi (ホノルル), 1998.07.01: Page 3
^ ララ物資伝える“遺産” 横浜新港ふ頭 祖国思う日系人の軌跡 - カナロコ
^ 旧日東倉庫に保存されていた、戦後の日本を変えた「ララ物資」とは? - はまれぽ.com
^ 山栄恵「2世通訳兵に感謝状 41人に知事手渡す」『琉球新報 』琉球新報社、2006年6月6日、夕刊、1面。
^ 【アメリカ】貴い命を救った 知事が元通訳兵に感謝状 - 琉球新報
^ Savage, David G. (2011年5月24日). “U.S. official cites misconduct in Japanese American internment cases” . ロサンゼルス・タイムズ . http://articles.latimes.com/2011/may/24/nation/la-na-japanese-americans-20110525
^ Yukio Kawamoto Obituary - Fairfax Memorial Funeral Home
^ シマさんに米大統領勲章 県系2世、日系人部隊で参戦 - 琉球新報
^ VETERANS OF 442ND REGIMENTAL COMBAT TEAM AWARDED FRENCH LEGION OF HONOR MEDAL - Nisei Veterans Legacy
^ 北岡理事長がハワイを訪問:日本人の海外移住から150年 - JICA
^ “One Really Good Thing in the Supreme Court's Travel-Ban Ruling: Korematsu Is Gone” . ザ・ニューヨーカー . 26 June 2018.
^ 総領事館活動 | 在ホノルル日本国総領事館
^ Japanese Americans who Served in Merrill’s Marauders - JAVA
^ Assistance for 442nd Veterans to Apply for the French Legion of Honor - Sons and Daughters of the 442nd
^ 【プライド月間】本日のGoogleロゴは、「全米LGBTQ名誉の壁」に殿堂入りしたキヨシ・クロミヤ - PRIDE JAPAN
^ “バイデン氏、アジア系標的のヘイトクライムを非難 「米国らしくない」 ”. AFP (2021年3月12日). 2021年3月14日閲覧。
^ “NYで暴行され重傷の日本人ピアニスト、手術受け回復中 ”. CNN (2020年10月12日). 2021年3月14日閲覧。
^ “日本の寺 放火などの被害 米・ヘイトクライムの疑い ”. FNNプライム (2021年2月27日). 2021年3月14日閲覧。
^ シアトル日本庭園、パナマ・ホテル(シアトル日系米国人博物館)の令和二年度外務大臣表彰受賞 | 在シアトル日本国総領事館
^ 首都ワシントンの警察官が自殺 連邦議会襲撃対応で計4人に - 東京新聞
^ 日系兵士の記念切手発行:偉業をたたえ全米で式典も - Rafu Shimpo
^ Stamp Design Shiroku “Whitey” Yamamoto - Stamp Our Story
^ “米運輸省ビル名「ミネタ」 大統領署名、功績たたえ” . 日本経済新聞 . (2022年5月7日). https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN070850X00C22A5000000/ 2022年5月7日閲覧。
^ ラーム・エマニュエル駐日米国大使がジョセフ・R・バイデン・ジュニア大統領を歓迎: 大使公邸の一室にミネタ氏の名称を冠し、記念の植樹を行う - 在日米国大使館および領事館
^ “SEC.gov | Mark T. Uyeda ”. www.sec.gov . 2023年3月3日閲覧。
^ Sharpe, Abby (2022年10月4日). “Mark Uyeda (B'92) Brings Years of Experience and Connections as New SEC Commissioner ” (英語). McDonough School of Business . 2023年3月3日閲覧。
^ 日系米兵2人に名誉勲章=ベトナム戦争で活躍―米大統領 - StartHome
^ 442部隊のイーノック・カナヤ氏、フランス政府より最高勲章を受章 - The Chicago Shimpo
^ 真田広之主演ドラマ『SHOGUN 将軍』がエミー賞史上最多18部門受賞! - ディズニープラス
^ 強制収容日系人に市民勲章 共和「反トランプ派」にも授与―米大統領 - 時事ドットコム
^ Military Hall of Honor, "PFC Wataru Nakamura"
^ HALL OF VALOR By Military Times, "Wataru Nakamura - Hall of Valor - Military Times"
^ LA山火事をロス在住女性ライターが現地レポート「日系アメリカ人の歴史が失われた」 - FRIDAYデジタル
^ “米イチロー氏が日本人初の米国野球殿堂入り” . 読売新聞 . (2025年1月22日). https://www.yomiuri.co.jp/sports/mlb/20250122-OYT1T50051/#:~:text=%E3%80%90%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AB%EF%BC%9D%E5%B8%AF%E6%B4%A5%E6%99%BA%E6%98%AD,%E6%AE%BF%E5%A0%82%E5%85%A5%E3%82%8A%E3%82%92%E6%9E%9C%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82&text=%E5%A4%A7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%81%A7%EF%BC%91%EF%BC%90%E5%B9%B4,%E5%80%99%E8%A3%9C%E3%81%AE%E8%B3%87%E6%A0%BC%E3%82%92%E5%BE%97%E3%82%8B%E3%80%82 2025年1月22日閲覧。
参考文献
関連項目