白昼の死角『白昼の死角』(はくちゅうのしかく)は、高木彬光の推理小説。1959年5月1日から1960年4月22日まで『週刊スリラー』に連載された(連載中は『黄金の死角』)。1960年、カッパ・ノベルス(光文社)刊行。 1979年に映画化、テレビドラマ化されて話題となった(テレビドラマは1963年版もある)。 概要大企業を相手に完全経済犯罪を目論む鶴岡七郎の暗躍を描いたピカレスクロマン。 小説前半の太陽クラブ立ち上げの部分は、実在の事件である光クラブ事件がベースとなっているが[1]、後半の鶴岡の犯罪記録は実在の人物からの取材を基としたオリジナルの物語となっている。 作中、自作『幽霊西へ行く』を引き合いに出している箇所があるが、同作を枕にしている作品として、『読売新聞』1959年5月24日発表の短編『公使館の幽霊』がある。この作品は鶴岡が本作で行った詐欺事件のひとつの原型である(本作での公使館の事件が語られるのは『週刊スリラー』1960年2月19日号から)。 あらすじ戦争帰りの東大法学部生らを中心とする学生金融会社「太陽クラブ」の残党である鶴岡は、法律の盲点(死角)を突き、手形詐欺などを働く。鶴岡の手法は、事前に十分な情報を収集し、「一滴の血も流さず」に行うもの(本人いわく、「イチかバチかの博打ではない」)。しかし、犯罪の成功によって、手形をパクられた被害者ばかりでなく、友人、妻、愛人も不幸になっていく。 書誌情報
作品の評価
映画
1979年4月7日公開。東映東京撮影所製作、東映配給[3]。上映時間154分。 スタッフ
キャスト太陽クラブのメンバー鶴岡の女鶴岡の協力者たち
騙される人々
利用される人々
裏社会の人々
国家権力側の人々その他
ほか 製作角川春樹が『人間の証明』(1977年)、『野性の証明』(1978年)で付き合いの生まれた岡田茂東映社長に[4][5]、「独立プロ(角川春樹事務所)を離れて、メジャー内部に単独で乗り込んでプロデュースをやってみたい」と依頼[4][6][7][8]。他社からは断られたが[6]、岡田から了解を取って[6]東映を単独で訪れ、『悪魔が来りて笛を吹く』(1979年)、本作『白昼の死角』、『魔界転生』(1981年)の3本をプロデュースした[4][6][9][10][11][12][13]。角川自身、「角川春樹事務所を離れて」と語っており[4]、この3本は角川映画ではなく東映映画である[1][4]。角川映画の番頭だった古澤利夫(藤峰貞利)は、「春樹さんはプロデューサーとして参加していますが、製作の主導は東映です」と述べている[12]。 映画の製作が最初に報道されたのは1978年春[14]。当時の『キネマ旬報』には、『白昼の死角』の映画化を構想しているのは東映で[14]、「角川書店が"高木彬光フェア"を予定していることから提携も方法も考えている」と記述されている[14]。この"高木彬光フェア"の計画に東映の岡田社長が乗った[1]。また主役候補として渡哲也が挙げられている[1][14]他、1978年10月の複数の文献には松方弘樹の名前も挙がっている[1][15][16]。松方は1974年のNHK大河ドラマ『勝海舟』で知り合った仁科明子との不倫スキャンダルでマスメディアに大きく取り上げられたが、松方が前妻と1978年7月に離婚したことから、松方+芸能活動を休止していた仁科を芸能界にカムバックさせようという動きが伝えられ、松方の後見人・岡田茂や角川春樹からオファーされたが[15][16]、松方が難色を示し流れていた[1][15][16]。 脚本の神波史男は「元々の原作が長く、シナリオを切るのが困難だった」などと語っている[17]。 1978年12月30日、東京帝国ホテルで記者会見が行われた[9][11]。席上、角川春樹が「高木彬光氏の原作は2000万部売れており、氏は"角川第三の男"です。氏の作品は昔、大映で『密告者』が映画化されて以来のものですが、いい作品になればと思っています」などと話した[9]。高木は「小説を書きだして31年位になりますが、『白昼の死角』程の悪党を書いたことはないです。これまで映画化の企画があり、こんな悪党をスクリーンで見せられないという理由で潰れてきただけに、今回の話はうれしいです」などと話し[9][11]、村川透監督は「今までは3000万円映画しか撮ったことがなかったので、今回の製作費7億円には、ケタが大きすぎるので実感がわきません」などと話した[9]。東映で初めて大作を任され[10]、豪華俳優を使うことに興奮したという[10]。島田陽子は「この作品で清純派のレッテル返上です。第一、私自身は清純派だなんて思っていません」などと話し[1][11]、濡れ場を演じたものの露出は今一つだった[1]。島田は夏八木勲(当時は夏木勲)との濃厚な濡れ場を演じている[18]。また丘みつ子も当時は家庭的な役が多かったが[10]、鶴岡の妻役とはいえ、かなり激しい濡れ場を演じた[10]。 この記者会見の後、東映東京制作所でクランクイン[11]。撮影の仙元誠三は、村川監督が誘った[10][19]。仙元は照明に盟友の渡辺三雄を推薦したが、当時東映東京制作所は、また組合運動が強くなって来ていた時期で、渡辺から「俺が一人で東映に行っても照明部は動いてくれないよ」と断られた[10][19]。また東映のスタッフからかなり抵抗されたという[19]。隅田光一を演じる岸田森の焼身自殺のシーンは、岸田が吹き替えなしで本物の炎に包まれ長回しした[1][10]。仙元は「大作を撮るのは初めてだったからとても印象深い。自分でもよく撮れてると思う」などと話している[10]。 高木彬光は、ニセ会社員の応募に応じる役で出演している。年配者なので課長役になるところだったが、「指を詰めている」ために不採用となる、という役どころである[1]。 原作との違い
宣伝流行語になったキャッチコピー「狼は生きろ、豚は死ね」は[1]、1960年石原慎太郎の戯曲タイトルからの引用である[1][20]。 作品の評価興行成績岡田茂は「予想よりも客は入らなかったが、6億円台であれば角川春樹との提携も一応の成果を挙げた」などと述べている[21]。 角川春樹は、1981年東映発行の『東映映画三十年』で「『悪魔が来りて笛を吹く』『白昼の死角』とも話題性はあり、キャッチフレーズは流行語となり、『悪魔が来りて笛を吹く』の興行は成功したが『白昼の死角』は思ったほど伸びなかった」と述べている[6]。 評論角川春樹は「『白昼の死角』は、ともすれば原作を生かしきれない映像が多々ある中で、私個人は満足する出来ばえだった。マイナー映画の鬼才村川透を監督に、宇崎竜童を音楽に、バイプレイヤーの夏木勲を主役に起用しただけに、密度の濃い作品に仕上がったと思う。一方、社内の機構で映画を作ったことがないだけに、多くの人に迷惑をかけ、当方も苦い思いを味わった。しかし今後の映画作りの方向の中で、宣伝、配給、興行が一体となって、一つのプロジェクト・チームを作らない限り、今後一つの作品をきちっと成功させることは出来ないような気がする」などと述べている[6]。 映像ソフト
テレビドラマ1963年1963年5月1日から6月26日にフジテレビ系で放送された[1]。放送時間は水曜22時15分 - 22時45分。 スタッフ
キャストほか
1979年1979年8月4日から9月29日に毎日放送制作・TBS系で放送された(全9回)[1]。 スタッフ
キャスト
ほか 備考
映像ソフト化
脚注注釈出典
関連項目外部リンク
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