北林谷栄
北林 谷栄(きたばやし たにえ、1911年〈明治44年〉5月21日 - 2010年〈平成22年〉4月27日)は、日本の女優・声優。本名は安藤 令子[1][2][3] / 蓮以子(あんどう れいこ)[4][5]。長男は画家の河原朝生。 劇団民藝の創設に参加し、30代から老け役を演じてきた「日本一のおばあちゃん女優」で、老け役の代表格であった。 来歴・人物生い立ち1911年(明治44年)、東京市京橋区竹川町(現在の東京都中央区銀座)の洋酒問屋「大野屋」に生まれる[6]。父方の祖母の手で育てられる。「れいこ」と名付けたのも、「蓮以子」という漢字をあてたのもこの祖母とのこと。北林はこの祖母を終世愛し、強い影響を受けた[7][8]。 幼いころから家族に連れられて寄席、芝居、映画に親しみ、家にあった円本全集等、多種多様な大人向けの本を読みふける。1920年(大正9年)、第一次世界大戦の戦後恐慌の折に銀座の店舗兼自宅は取引先の銀行に取られ、木挽町に転居した。1923年(大正12年)、小学6年生のとき、関東大震災では実家は焼けて火事の中を逃げまどい[9]、虐殺された朝鮮人の遺体を見て強い衝撃を受ける[6]。被災後、実家はさらに傾いていく。1929年(昭和4年)、山脇高等女学校を卒業した。 女優として築地座の舞台を見て演劇に惹かれ、新劇女優を志し1931年に創作座の研究生となる。1935年に初舞台の「温室村」で主役を務める。 1936年、新協劇団へ入団し築地小劇場の『どん底』ナスチャ役(ルカ役は滝沢修、ペペル役は宇野重吉、錠前屋役は小沢栄太郎)で同劇団での初舞台を踏み注目を集める。久保栄を「お師匠さま」と仰ぎ、以前から知り合いであった宇野重吉や、信欣三[10]と3人でサークル「文殊会」を組む。1940年、左翼的とみなされた同劇団は国策により強制的に解散させられた。戦時下の1942年、北林は宇野、信らとともに移動劇団・瑞穂劇団(大政翼賛会傘下の日本移動演劇連盟に加盟)を結成し、各地を巡演した。この時期に『左義長まつり』(とんどまつり、久保田万太郎演出)で、宇野の強い押しで初めて老女役を演じる。戦時中は「帝大新聞」の編集や少女雑誌の記者としても働いていた。 北林谷栄の芸名は20歳の頃に長野県を旅した時に、林、谷川の美しさに感動してつけたという。 1945年に画家の河原冬蔵と結婚し1男1女を儲けたが、北林が仕事で地方に出かけている最中に幼い娘が火傷で不慮の死を遂げ[7][11]、夫とは後に離婚している。 1947年、宇野や滝沢らと民衆芸術劇場を設立した。1950年には劇団民藝創立に加わり、以後幹部女優として『かもめ』、『泰山木の木の下で』など多くの舞台に出演した。 映画デビューは1937年公開の成瀬巳喜男監督の『禍福』だった。黒澤明監督の『醜聞』では志村喬演じる老弁護士の妻を演じた。その後『原爆の子』などで個性的な老婆を演じ評価を高めていった。1956年、市川崑監督の『ビルマの竪琴』には、物売りの老婆役で出演し民衆のたくましさ、豊饒さを演じた[12]。1985年に同監督でリメイクされた『ビルマの竪琴』でも同役で出演している。1959年の『キクとイサム』では混血児の孫を育てる祖母を演じ、第10回ブルーリボン賞主演女優賞を受賞した。そのほか今村昌平監督作『にあんちゃん』、『にっぽん昆虫記』、市川崑監督作『鍵』、今井正監督作『喜劇 にっぽんのお婆あちゃん』、岡本喜八監督作『肉弾』など数多くの名作・話題作に立て続けに出演した。山本薩夫監督の『華麗なる一族』では、他作品でのおしゃべりな印象の演技とは異なり、出番も少なく、台詞は「あっ、そう」の一言ぐらいと笑い声だけという佐橋総理夫人を演じた。 『銀座わが町』(1973年)や『鬼平犯科帳』第1シーズン第13話「笹やのお熊」(1989年)では、本人の生まれ同様の口跡爽やかな江戸っ子も演じた。 1975年には大泥棒ホッツエンプロッツを元にした『お尋ね者ホッツェンプロッツ』を作・演出している。1978年、紫綬褒章を受章した。1980年、半年間ロンドンに留学し、演劇を勉強した。 声優としてはベティ・デイヴィスやヘレン・ヘイズの吹き替えを担当した。また、ディズニー・アニメの日本語版(旧版)では、女王、マレフィセント、トレメイン夫人といった悪役を切れ味鋭く演じた。1988年に公開された宮崎駿監督の『となりのトトロ』では、大垣勘太(カンタ)のおばあちゃん役を担当し、幅広い世代に名前を知られることとなった。 1989年7月19日にドラマ撮影のため滞在していたアメリカ・オレゴン州で脳動脈瘤破裂で倒れ、一時は生死すら危ぶまれた[13][14]が大手術とリハビリが功を奏し、翌1990年に舞台で復帰した。1991年公開の映画『大誘拐 RAINBOW KIDS』で可愛らしくも転んでもタダでは起きない強かで得体の知れない老ヒロイン ・柳川とし子刀自を演じ、映画もヒットし、日本アカデミー賞・最優秀主演女優賞を受賞するなど各映画賞を総なめにするなど、健在振りを示した[15]。 2002年公開の『阿弥陀堂だより』では、既に脚が悪くなり、歩行も覚束ない状態であったが、主演を務めたのが劇団民芸創設時からの盟友であった宇野重吉の息子・寺尾聰であることから出演を快諾し、阿弥陀堂を守る老女を演じ、日本アカデミー賞・最優秀助演女優賞を受賞した。 2003年4月11日から13日まで世田谷パブリックシアターで催された舞台「北林谷栄の世界『蓮以子 93になった』」が公の場に出た最後となった。以後も出演交渉はあったがすべて断り、静かに余生を送った。 2010年4月27日午後8時40分、肺炎のため東京都世田谷区の病院で死去した[16]。満98歳没(享年100)。北林の訃報に劇団民藝の後輩である奈良岡朋子、大滝秀治が哀悼のコメントを発表した[17]。 没時、北林は日本の演劇人の中で長岡輝子に次ぐ高齢者であった。 老け役について若い頃から老け役が多く、30代後半で、既に「老女役は北林」と評され、日本を代表するおばあちゃん役者として知られた(元々1930年代の頃の映画界や演劇界での年寄り役は、重要な役どころは少なく、どちらかというと物語の都合上、辻褄合わせに登場する機会が多かったとされる[18])。年寄り役は台本での書かれ方も役者の年寄りの演技もお粗末なものだったため、北林曰く「当時の女優たちにとっておばあさん役は貧乏くじを引くようなものだった」。加えて「おばあさん役は美人な女優にはオファーされることが少なく、大抵はブスな人が演じていた」とのこと[18]。 このことに不満を持っていた北林は、しょっちゅう宇野に「年寄り役の人物描写をもっと掘り下げるべき」などと述べていた。すると、ある日、宇野から先述の『左義長まつり』で重要な位置づけのおばあさん役[19]を依頼されて出演すると、当時30代だった北林にとって初めての老け役となった[18]。「依頼してくれた宇野に絶対に恥をかかせまい」という一心で懸命に演じると、このおばあさん役が好評を得たという。 これをきっかけに多くの作品で老女役を依頼されるようになり、特に映画・テレビ共に、田舎の農村・漁村・山村で生活するおばあさんを演ずることが多かった。衣装は自前であった。盛岡の朝市のおばさんの着物や朝鮮人のおばあさんの古着など、「生活の苦汁」がしみ込み「生活の垢」がついたキモノを集めて愛蔵し、さまざまな役に応じて着なしていた[20][21]。地方公演の際、農家に案山子の服がほしいと頼んだこともある[22]。また映画『キクとイサム』では、役作りのため前歯を抜いたという。また役作りについても、映画『ビルマの竪琴』のリメイク版にオリジナル版と同じ物売りの老婆役で出演した際は、老婆の芝居に磨きをかけるため、事前に軍事政権下のミャンマー(当時はビルマ連邦社会主義共和国)を訪れて取材するなど、研究熱心な一面もあった[23]。 一時は業界の一部から“バカの一つ覚え”と言われることもあった[18]が、それを意に介さず老女役を演じ続けた。老け役として認知されてきたある日、宇野から「あんたよくババァ役ばっかりやって飽きねーな」と言われ、腹を立てて「ババァ役を初めに依頼したのはあんたでしょ」と言い返したとのことである[18]。 家族
受賞
主な出演舞台戦前 民衆芸術劇場
劇団民藝
映画太字の題名はキネマ旬報ベストテンにランクインした作品 ![]()
劇場アニメテレビドラマ
ドキュメンタリーラジオドラマ
吹き替え俳優アニメエッセイ集折々にエッセイを『世界』『悲劇喜劇』『民藝の仲間』『室内』などに書き、それらをまとめたエッセイ集が2冊刊行されている。
脚註
参考図書
外部リンク
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