浅田次郎
浅田 次郎(あさだ じろう、本名:岩戸 康次郎〈いわと こうじろう〉[1]、1951年12月13日 - )は、日本の小説家。 中央大学杉並高等学校卒業。陸上自衛隊に入隊、除隊後はアパレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、『とられてたまるか!』でデビュー。悪漢小説作品を経て、『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、『鉄道員』で直木賞を受賞。時代小説の他に『蒼穹の昴』、『中原の虹』などの清朝末期の歴史小説も含め、映画化、テレビドラマ化された作品も多い。 2011年から2017年に日本ペンクラブ会長。2013年には、柴田錬三郎賞、山本周五郎賞選考委員、2022年現在、直木賞選考委員[2]。 来歴9歳まで東京都中野区鍋屋横丁(旧・上町[3])で育ち、以後、都内を転々とすること18回[4]。エッセイやメディアなどでは神田出身とも述べている[5]。母の実家は奥多摩の御岳山(みたけさん)の宮司を務めていた[6][7]。家業はカメラ屋だった[8]。生家は神田で喫茶店を営んでいた(バブル期に閉店[9])。戦後のどさくさにまぎれて闇市で父が一旗上げて成金になり[10][11]、父の見栄で杉並区の私立のミッションスクールに運転手付きの外車で通い(電車通学もした)、メイドがいる裕福な家庭で育った[12][13]。 9歳の時に家が破産[14]、両親は離婚し[15]、母は失踪[16]、しばらくの間、親類に引き取られた[14]。間もなく、母に兄と浅田を引き取る目処がつき3人暮らしが始まり、貧しいながらも駒場東邦中学校を受験し[17]、第11期生として入学したが、読書の時間が取れないことを理由に[18]高校1年の時に同校を去り[15][19]、2学年より中央大学杉並高等学校へ転入し、1970年(昭和45年)に同校を卒業[20][21](5期生[20][22])。13歳の時に集英社の『小説ジュニア』に初投稿して[23]以降、数々の新人賞に応募と落選を続け、30歳ぐらいの時に群像新人賞の予選を初めて通過した(最終選考には残らなかった)[24]。 人物エッセイなどでは、自身を「ハゲ、デブ、メガネ」と表現する。20代半ば頃から進行し始め[25]、30歳で抵抗を諦めた “ハゲ”を気にしており、夏の外出時にはパナマ帽を被る[5]。頭囲が62cmあるが、それに合う大きさの帽子は国内ではほとんど取り扱われておらず、自分の頭の大きさを気にしている[26]。40歳を過ぎてから近視になり、眼鏡をかけるようになった[27] 。 自宅では、執筆時に限らずあぐらで過ごすことが多く、飛行機や長距離電車に乗った時もあぐらをかく[28]。あぐらをかくのが楽という理由もさることながら、体型の問題もあり、日頃から着物を着る習慣がある[28]が、いかにも「物書き」という着物姿で近所を歩くのは恥ずかしいため、コンビニなどに行く時は着替えるという[29]。 祖先は武士で、家柄は譜代関宿藩の御馬廻役300石であった[30]らしいが、祖父母は関東大震災と東京大空襲で2度焼け出され、古い習わしで幼少期にもみ上げを長く伸ばしていたことや、「御一新の折にはひどい目をついた」という口伝や祖父の口癖[注 1][注 2][11]以外に家紋も伝承もなく、証拠がないという。父と兄が揃って「テキトーに」家紋を決めたため、浅田自身も紋付き袴を仕立てる時に著作『輪違屋糸里』に因んで、二ツ輪違いに決めたという[31]。 祖母は祖父と結婚する前は向島の芸者だったという。河竹黙阿弥の芝居を好んだこの祖母に歌舞伎の観覧によく連れて行かれ、その影響で、黙阿弥を文学の神様のように信奉するようになった[32]が、どういう作家が好きかと問われると、シェイクスピア、谷崎潤一郎、柴田錬三郎……など次々と浮かんできても決められないという[33]。 原稿を書くことについてはマメだが、手紙などは「医者の不養生」ならぬ「作家の筆無精」とも言えるほどで苦手である[34]。 趣味は買い物[35]、読書、競馬。下戸で[36]、愛煙家[37]だったが、2020年時点では禁煙している[38] 。 子供の頃から読書好きで、小学生の頃から図書館で借りた本をその日のうちに読み終えて翌日に返却するというパターンになって以来、1日1冊の読書が生活になった、いわゆる活字中毒である[39][注 3]。1日4時間は読書タイムと決めており、この時間を削るくらいなら、寝るのをやめると言うほど読書が好きである[40]。読む本がなくなったらどうしようという恐怖感が働くため、旅先にも必ず滞在日数分の本を持っていく[41]。気に入った物語に出会うと読むだけでは飽き足らず、学校から帰ると遊びに行くでもなく作品を原稿用紙に書き写して文章力の向上を図り、時には自分好みの結末に改竄したりもしていたほど、小説という虚構の世界が好きだった[34]。 風呂及びサウナを良く好み、サウニストを自負する[42]。一時期は、鞄に常に手拭いと石けん箱を入れ、いつでも銭湯に行けるよう持ち歩いていた[43]。 大の競馬好きとして知られる。競馬予想家として生活し、競馬の収入と小説の収入が拮抗していた時期もあり[44][45]、この方面に関するエッセイも多数ある。父がティンバーカントリー、母がブライアンズタイム産駒のスカイワード号、及びライブインベガス号という名の馬も持っていた[46][47]。芦毛のメダイヨン号は現役引退後に京都・上賀茂神社の神馬「六代目神山号」となっている[48]。実父の葬儀当日など限られた日を除いて週末は競馬場へ通う。自ら、自衛隊除隊後は「ほぼ競馬場に皆勤賞」と語るほど[49]。しかも全国で開催されている全レースの馬券を買い求めるという[50]。 競馬に限らずラスベガスには、健康体を保つために義務として年に1回、権利として年に2回、……、叶うなら年に5回は行きたいというほど、ギャンブルが好きである[51][注 4]。 動物好きで、あわや保健所行きとなりかけた犬や捨て猫など[52]、多い時には最大で13匹の犬猫を飼っていたことがある[53]。家族同然である彼らを「ペット」と呼ぶことに抵抗があり、「飼う」という表現も好まない[54] 。しかしながら、動物を題材とした作品は少なく、愛猫に死なれた女性と神獣・獬(シエ)との奇妙な生活を描いた短編「獬(シエ)」(『姫椿』所収)ぐらいしかなく、浅田自身は同作を失敗作とは言わないまでも書いたことを悔やんでおり、“こういうかわいそうな小説は二度と書くまい”と思ったという[54]。また、『民子』で描かれた、かつて一緒に暮らしていた元野良猫の「斎藤民子」のように、動物たちは浅田家の血縁ではないとの考えから、名前だけでなく名字も与える[55]。民子とのエピソードは、マルハペットフードの創立10周年記念にCMとして映像化された。 乗り物酔いしやすい性質で、遊園地のアトラクション、スキー場のゴンドラ、飛行機のファースト・クラス、自衛官時代には装甲車内でも嘔吐した経験がある。40代頃から、多少改善したという[56][57]。 2008年の夏に狭心症と診断され、ステント留置手術を受けて以来、禁煙、減量、食事のカロリー制限などを申し渡された[58] が、なかなか守られていない[29]。 執筆スタイル・作風400字詰めの原稿用紙に万年筆で[59]、おびただしい種類の辞書に囲まれた書斎で文机にあぐらというスタイルで執筆する[28]。 原稿用紙は、駒形の舛屋(満寿屋)製のもので、中学生の頃に日本近代文学館で見た川端康成の自筆原稿が格好よいと感じ入ったためである。数ある原稿用紙の中から、三島由紀夫と同じ「赤罫」を用いるようになった。最初にその原稿用紙を買ったのは、自衛隊除隊後に貰った退職金でだった[60]。職業作家としてやって行けるという自信を持った時、舛屋に依頼して用紙の左隅に「浅田次郎用箋」と入れてもらった特製の原稿用紙で執筆を始めた[61][注 5]。 400字詰めの原稿用紙でなければ字が書けないという珍しい性質の持ち主で、子供の頃から、授業は面白く聴き学問も嫌いではなかったが、ノートを取るという作業ができず、提出を求められた際には友達から借りたノートを徹夜で丸写ししていたという。以上の性質から、作品の構想をメモに書き留めるということも出来ず、思いついたアイディアは、以前はその場で頭の中で書き始め、後で原稿用紙に書き写すという作業をしていたが[62]、一度すっぽりと忘れてしまったことがあり、家人や秘書、編集者がいれば、彼らに話しておくようになった[34][注 6]。 常に複数の連載を掛け持ちし、その合間に短編小説やエッセイの依頼も受け、ワーカホリックな一面もあるが、急病も含め、いまだに連載原稿を落としたことがない[63][59]。 「小説の大衆食堂」を自称、「書くのは最大の道楽」と語る。現代小説では「平成の泣かせ屋」の異名を持ち、人情味あふれる作風に特徴がある。 自衛隊時代の経験を元に執筆した『歩兵の本領』[64]、祖先が武士であることから時代小説も多く書いており、『壬生義士伝』などの新撰組を材に求めた作品のほか、人間の不変さを描いたという『お腹召しませ』などの作品がある。東京人であることにこだわっているが、ダイナミックな変化により町名の変更など過去を振り捨てて発展する東京のあり方には疑問を持っている。新宿が好きだと言い、『角筈にて』など小説の舞台になることも多い。しかし、かつては悪い思い出が多すぎるためあまり行かなかったという[65]。 暴力団・窃盗犯などのアウトローに対し、ユーモアやペーソスを交えながら、肯定的に描くことが多い。 ヘビースモーカーであり、エッセイ「勇気凛凛ルリの色」のシリーズにて、「喫煙権について」などの稿で、喫煙者の立場から喫煙の権利を訴えている。また前述の競馬以外にもギャンブル全般が趣味で、カジノを題材にした『オー・マイ・ガアッ!』といった小説や、『カッシーノ!』などのエッセイがある。 作品の舞台については、各種資料で調査しているが、現地を訪れることなく書かれた作品も多い(「鉄道員」『蒼穹の昴』など)。現地を見ないで書いた方が、ロマンのある作品になるともいう。 日本航空の機内誌『SKYWARD』に毎月連載されているエッセイ「つばさよつばさ」では他作品の作風とは異なり、土産のキャビアが想像以上に高額だったことに愕然とする話・鹿児島市で名物の白くま(本人曰く「生しろくま」)を食べ損ねた話(後に再び現地へ赴き賞味を果たす)・楽勝だと思って始めた朝カレーダイエットに思わぬ苦慮をさせられる話など、作者の普段の生活をユーモアを交えて紹介している。 受賞歴
作品一覧長編小説きんぴかシリーズ→詳細は「きんぴか」を参照
『プリズンホテル』シリーズ→詳細は「プリズンホテル」を参照
天切り松 闇がたりシリーズ
蒼穹の昴シリーズ
ノンシリーズ
短編集
エッセイ・体験記勇気凛凛ルリの色シリーズ
カッシーノシリーズ
旅エッセイシリーズ
ノンシリーズ
その他極道実録関係
その他
共著・編
オーディオブック漫画原作
メディア化作品映画
Vシネマ(オリジナルビデオ)
舞台
テレビドラマ
CM
トラブル函館朝市の店から個人情報が漏れ、カニの「宅配詐欺」被害に遭ったとする内容のエッセイを日本航空の機内情報誌『SKYWARD』2009年12月号に寄稿したが、このエッセイを知った函館朝市協同組合連合会が2009年12月に調査を実施したところ、浅田の家族が朝市の実在する店からの電話を受けカニを注文していたことが判明した。協同組合連合会が浅田に連絡すると、浅田は謝罪したとされる[74][75]。 脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia