福岡県立修猷館高等学校
福岡県立修猷館高等学校(ふくおかけんりつしゅうゆうかんこうとうがっこう、英: Fukuoka Prefectural Shuyukan High School)は、福岡県福岡市早良区西新に所在する公立高等学校[2]。略称は「修猷館(しゅうゆうかん)」、「修猷(しゅうゆう)」。1784年(天明4年)開館の福岡藩藩校・甘棠館(西学問稽古所)、同修猷館(東学問稽古所)に起源を持つ[3]。 概要組織かつては定時制と通信制も存在した[4][注釈 1]が、現在は全日制普通科のみである。募集定員は11クラス440名。教室設備の都合上、3年に一度は定員を10クラス400名とし、全校で32クラス計1280名の生徒が通う[5]。 2年次から文系・理系のクラスに分かれる[6]。文系・理系普通クラスのほかに、文系・理系英数クラス(通称英数)、医学部進学クラス(通称医進)が設置されている[6]。 かつては補習科(浪人生を対象として普通科の高等学校に設置された学科)を前身とする予備校・修猷学館[注釈 2]が存在した[4]。学校の裏手にある西南学院大学に隣接し、教員や模試も高校と共通であったため、「修猷は四年制高校」とも揶揄されたが、1995年に閉校となり、跡地は西南学院大学により図書館の敷地の一部として買収された。 校名![]() ![]() 修猷館の名は『尚書』「微子之命」の章句「践修厥猷(せんしゅうけつゆう)」から取られた[7]。「微子之命」は周の黄金時代を築いたとされる成王が、殷の王族である微子啓に殷王室の後継者となることを命じた文章である。「践修厥猷」は「
藩校が廃藩置県で閉鎖された後、県立中学として再興されようとした際に、文部大臣から「旧藩校時代の校名は不適切」との理由で校名の変更を迫られたが、旧藩士はこれに猛反発し[9]、旧福岡藩主黒田長溥が「学校経費は全て黒田家が出すから館名を残せ」と決意したことにより館名は守られた[10]。実際に学校の財政は1893年まで黒田家が全額負担しており、黒田家の援助から離れて完全に県費負担となるのは1900年になってからである[10]。 さらに、学制改革に伴い、県立高等学校として再編されようとした際には、GHQから「修猷館」という名が封建的であるとして改名を示唆されたが、修猷館OBの粘り強い努力によって館名は守られた。 このように、藩校設立から現在に至るまで幾度となく改名の危機にさらされながらも、240年もの歴史の中で一貫して校名に「修猷館」を掲げている。 また、生徒を「館生」、校長を「館長」[11]、校歌を「館歌」[12]、校旗を「館旗」[9]と称するなど、「館」にちなんだ呼称が広く浸透している。 校風自由な校風で知られ、校則などを定めず、生徒に学校運営を大きく委ねる自治が認められている。学校の定めた校訓などはないものの、「質朴剛健」「不羈独立」「自由闊達」といった言葉が気風として現在まで連綿と受け継がれている[9]ほか、「世のため人のため」という言葉も大切にされている[13]。また、修猷館をもじった「Sure, you can!」という言葉もよく用いられる。 徽章![]() 六芒星の形をした徽章は「六光星(ろっこうせい)」と呼ばれている。1894年(明治27年)12月、当時の館長隈本有尚によって、朱舜水の「楠公賛」の冒頭の句「日月麗乎天」をもとに制定された[8]。教室棟生徒昇降口(南棟側)の傍の柱には六光星の由来が記されている。内容は以下の通り。 ![]() 六光星は、上下逆転させた2つの正三角形を重ねた形(等辺六芒星)が正式な形であり、各頂点の内角は60°である。制定者の隈本有尚は、1934年(昭和9年)に当時の館長古賀毅への書簡において六光星の由来を記しており、その中でデザインについて、「技術上にも等辺三角形を重ねるのであれば職人に於て手落あるまじく」と述べている[14]。なお、一部の古い旗や制帽では六芒星の各頂点の内角が60°より小さく、鋭くなっているものがある。このようなデザインは校内のデザインやステッカー、刊行物にもしばしば見られた。 ![]() ![]() ![]() ![]() また、1894年(明治27年)には初めて制帽の徽章に六光星が用いられた[15]。(制帽のデザインとしては3代目にあたる[15]。)現在では制帽は廃止されているが、校章や学生服のボタン、セーラー服の襟など、様々なところにその姿を見ることができる。 館旗![]() ![]() 紫紺の地の中央に2本の横線と六光星が白く抜かれたデザインとなっている。館旗は1935年(昭和10年)の創立50周年に先立ち、1934年(昭和9年)9月17日に制定された[16]。9月17日午後1時から館庭で館旗制定式が行われ、古賀毅館長の訓話ののち館旗に対して分列式を行った[9]。 なお、現在資料館にて保存されている旧館旗は、福岡市麴屋町の中牟田喜兵衛から寄贈されたものである[16]。現在は創立200周年の際に同窓会より寄贈された館旗が使用されている[16]。 南棟屋上にある掲揚台には国旗と県旗、そしてこの館旗がはためく。 館歌作詞・作曲は中学修猷館教諭であった藤沢雄一郎、横田三郎(横田は福岡県女子専門学校教授も兼任)がそれぞれ担当した[17]。校閲は1895年(明治28年)卒業の第五高等学校教授、八波則吉に依頼され、さらに宮内省御歌所寄人、武島羽衣が再閲を行った[17]。館歌の歌詞には明治期の修猷館設立理念が込められており、在校生のみならず同窓生にも長く歌い継がれている[17]。 館歌沿革
応援歌音楽の授業も十分でなかった時代に、部活動の試合など学校の名誉をかけて他校と対峙する際に口伝えで伝承された歌が応援歌の始まりである[18]。長い歴史の中で数々の応援歌やエールが誕生し、應援團(後述)が中心となって生徒に指導を行ったり行事で指揮を取ったりしてその伝承に努めてきた[18]。戦後、高等学校になってからは大運動会において部活動紹介の後、全校生徒による全体応援が行われるようになった。そこで、主要応援歌と館歌が披露され、運動部の1年間の健闘を称え、部活動生全員にエールを送るのが伝統として定着した[18]。代表的な応援歌は以下の通り[12]。
「夫れ北筑」で志気を高め、続けて「玄南の海」で選手たちを送り出し、試合後には選手たちの健闘を称えるために、勝った時は「彼の群小」で勝利を祝福し、負けた時は「輿望は重し」で次回の勝利を期した[18]。現在でも部活動の試合や壮行会、試合後の祝勝会などでこれらの応援歌が歌われている。また、卒業式が行われた後、中庭にて「玄南の海」を卒業生全員で歌うことが慣例となっている。 このほかにも「行く手を照らす」、「フレー フレー 修猷の健児」、「立てや修猷」など、様々な応援歌が存在する。 応援団![]() 修猷館応援団は1958年(昭和33年)、執行部内に応援局として発足した[23]。この時から、それまで上級生が主導してきた館歌や応援歌の歌唱指導を応援団が行うようになった[23]。発足後は、旧制高等学校や大学などの様々な応援スタイルを取り入れ、独自のスタイルを整えていった[23]。代表的なものに全校生徒が参加する「エール」などがある[23]。 修猷と福高福岡県立福岡高等学校とは、その前身である旧制福岡中学が1917年に修猷館の寄宿舎の一部を借りて開校した[24]ことや、1927年の火災で福岡中学校舎が全焼した際に全校で復興支援を行ったこともあり特別に関係が深い。 また、武士の町・福岡の代表としての修猷館高校と、対する商人の町・博多の代表としての福岡高校という良きライバル関係を互いに受け継いでいる。ラグビー部では毎年天皇誕生日に福高定期戦を行っているほか、バスケットボール部、バレーボール部、剣道部も福岡高校と、現役選手およびOBを交えた定期戦を行っている。 さらに、東京修猷会の周年行事やラグビー部・野球部などの長い伝統を持つ部の周年行事には良きライバル校として[25]福岡高校の関係者も招待することが慣行となっている。2024年には、福岡高校ラグビー部創部100周年記念試合として、両校の試合がJAPAN BASEで行われた[26]。 また、両校は福岡市にある公立高校の中でも特に入試難易度の高い高校として知られており、福岡県立筑紫丘高等学校とともに御三家と称されている[27][28]。 百道原1900年(明治33年)に修猷館は大名町堀端(現・福岡市中央区赤坂一丁目)から西新町へと移転した[29]。西新移転後の修猷館の敷地は海に近く、学校から少し歩けば百道の浜に行くことができた。百道の浜は海水浴場として1965年(昭和40年)頃まで福岡市民の憩いの場となっており、修猷館の体育の授業も百道の浜で行われていたが、高度経済成長による水質汚濁により遊泳禁止となった[29]。1982年(昭和57年)に埋め立て工事が始まり百道原の風景は大きく変わったが、現在でも百道浜では運動部の練習や大運動会のエール練習などが行われている[29]。また、館歌の2番は「常盤の松の百道原」で始まり、当時の百道原の様子をうかがい知ることができる。 沿革藩校時代![]()
断絶期![]() ![]()
再興![]() ![]() ![]()
戦後
歴代館長→その他の著名な教員については「福岡県立修猷館高等学校の人物一覧」を参照
藩校時代は「総受持(そううけもち)」[35]、再興後は「館長」[36]が正しい呼称である。 藩校時代
再興〜現在![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
200年記念事業修猷館200年記念事業は、1981年(昭和56年)2月の幹事会で図書館の改築・菁莪記念館の建設が了承され、具体化への一歩を踏み出した[37] 。その後、記念事業委員会結成大会を経て、学校・同窓会・父母教師会・修猷協会が一体となって進められた[37]。そして、藩校設立から創立200年を経た1985年(昭和60年)に記念式典や音楽会をはじめとする様々な行事が催され、在校生や同窓生の多くが出席した。200年の歴史をまとめた『修猷館二百年史』も刊行。記念式典の様子は新聞に掲載され、西日本新聞、朝日新聞、読売新聞では、連載記事が組まれた[37]。 ![]() 日程
菁莪記念館![]() 200年記念事業の大きな目玉として、菁莪記念館が建設された。1984年(昭和59年)8月に着工、翌年3月に竣工した。老朽化した菁莪堂は、県費1億3千万円と同窓会募金1億9千万円の総工費3億2千万円を投じて、鉄筋コンクリート造三階建て、延べ1731.31平方メートルの菁莪記念館へと生まれ変わった。同年3月には安全祈願祭や落成式も執り行われた[37]。 図書館沿革
記念音楽会音楽会「カンタータ・修猷讃歌―はるかなる時間の輝きのために―」は2度公演され、在校生全員が参加し、一般公開もされた。九州交響楽団と合唱団により演奏され、指揮は1948年(昭和23年)卒の荒谷俊治が務めた。そのほかにも多くの卒業生が公演に参加した。また、創立200周年を祝して新たな歌も作られた。「修猷館200年讃歌」は1951年(昭和26年)卒の来嶋靖生が作詞、荒谷俊治が作曲し、新応援歌「燃えよ修猷」は来嶋靖生が作詞、佐藤忠邦が作曲したものである[37]。 修猷資料館![]() ![]() ![]() 概要南門そばの雑木林の中に位置し、修猷館の長い歴史を物語る数多くの資料を収蔵している。当時の同窓会長江浦重成の寄贈により1976年(昭和51年)に竣工した[38]。建物の工事は株式会社黒木工務店が請け負った。資料館内の防犯施設・陳列ケースなど、卒業記念品として寄贈されたものも多い。建物は壁式鉄筋コンクリート造平家建で、展示室、管理事務室、収納室からなり、延べ面積は149.5平方メートル[39]。収納室は2階に分かれており、1階は書画、2階は書籍を保管している[39]。展示室の壁面には書画、陳列ケースには記念品類を展示している。展示室は2つあり、第1展示室にはいずれも本校卒業生である、金子堅太郎、広田弘毅、緒方竹虎、田中耕太郎などの書・印、児島善三郎、中村研一、吉田博、和田三造などの絵画・書状などが展示されている[38]。第1展示室を囲むように回廊状に設置された第2展示室では、藩校時代から現在までの修猷館の歴史をたどることができる。1784年(天明4年)の藩校開校の儀式の際に掲げられた孔子像、1885年(明治18年)に英語専修修猷館として再興される前後の諸史料、歴代の生徒手帳や制帽、東京オリンピックで国立競技場に翻った五輪旗など、各時代の様々な資料が展示されている[38]。資料館の前庭には廃止された西鉄路面電車の敷石が配されている。現在の資料館は2016年にリニューアルされたものであり、以前の外観を保ちつつ、展示スペースが2倍となり、空調設備など収蔵品の保全環境も改善されたものとなった[38]。このため、資料館が所蔵する多数の資料がより充実した形で展示されるようになり、一般公開日が設定され、現在では学校外の人も見学できるようになっている。なお、資料館の管理は図書課資料館・菁莪堂係が担当している[39]。 沿革『修猷資料館記』には、修猷資料館の由来について以下のように記してある。
収蔵品資料館創立の趣旨と同窓生の呼びかけにより、収蔵品は増加の一途をたどっている[39]。 孔子像![]() 狩野典信によって描かれ、開校にあたり時の家老大音伊織が藩へ差し出したものである[8]。1784年(天明4年)2月6日に行われた藩校修猷館開校の儀式の際に、初代総受持竹田定良は講堂正面に掲げられた像に礼拝して孔子に告文を捧げた[40]。その後、毎年1月8日の開講式で講堂に掲げ、釈菜の礼を行った[40]。現在でも毎年4月に行われる入学式の際に掲げられる。 五輪旗1964年東京オリンピックにおいて国立競技場にはためいていた五輪旗の実物である。これは、アベリー・ブランデージIOC会長から同校出身の組織委員会会長の安川第五郎に寄贈され、その後安川から母校である修猷館高校へと寄贈されたものである[40]。安川は「若い人たちの奮起のために役立つなら」と寄贈を決め、1965年(昭和40年)1月に行われたオリンピック記念講演会に先立って贈呈された[40]。毎年9月上旬に行われる大運動会の入場行進の際に、先頭に立つ運営委員会がこの五輪旗を掲げて進み、その由来が会場にアナウンスされてきたが、五輪旗の劣化が進んだため現在ではレプリカが使用されている[40]。五輪旗は和田三造が描いた安川の肖像画とともに展示されている[40]。 ワリヤークの鐘1904年(明治37年)、日露戦争仁川沖海戦で日本海軍の瓜生戦隊に攻撃されて大破した際に自沈したヴァリャーグ防護巡洋艦の艦上で使用されていた鐘[40]。戦後、日本海軍によって引き揚げられた際にこの鐘も引き揚げられ、博多の磯野鉄工場の手にわたっていたが、1908年(明治41年)1月21日、修猷館が寄宿舎「報国寮」開設6周年を記念して、当時の鉄工場主であった磯野七平から購入し、明治末から大正年間にかけて寄宿舎の号鐘として用いられた[40]。創立200周年を記念して執り行われた音楽会「カンタータ・修猷讃歌―はるかなる時間の輝きのために―」では演奏の初めにワリヤークの鐘が鳴らされた。 夏目漱石の報告書1897年(明治30年)、当時第五高等学校の英語教授であった夏目漱石が、文部省の依頼を受けて中学修猷館の英語授業を参観した際の報告書[41]。漱石は特に「訳解」の授業について、教師・生徒とも日本語を用いず訳読・会話・文法の授業を行っているとして高く評価した[41]。以下は報告書の一部である。
制帽制帽が制定された当初のものから廃止された時のものまで時代順に1号から7号までの制帽が展示されている。なお、六光星の徽章が用いられたのは3号からである[15]。
母子像![]() 安永良徳作のブロンズ像。高さ120センチメートル[41]。資料館入口左側の庭に設置されている。修猷協会が鋳造したものであり、1950年(昭和25年)には卒業生から卒業30周年記念として台座が寄贈された[41]。 逸話修猷館と甘棠館修猷館が上級武士を対象に幕藩体制を支える理論重視の朱子学を講じたのに対し、甘棠館は下級武士や町人らを対象に朱子学に批判的な実践重視の徂徠学を講じており、前者の系譜は東学、後者の系譜は西学と呼ばれた。 1790年(寛政2年)に江戸幕府老中松平定信が寛政の改革で行った寛政異学の禁による、朱子学以外の学問に対する厳しい圧迫が地方にも及び、藩の上層部は1792年(寛政4年)に亀井南冥を甘棠館総受持から罷免し、長男の亀井昭陽が家督を継いだ。 1798年(寛政10年)には甘棠館校舎が焼失し、遂には再興もならず閉校が決定された[3]。西学は亀井昭陽が開いた私塾「亀井塾」としてその命脈を保ち、日田の広瀬淡窓や秋月の原古処、そして博多の興志塾を開いた高場乱などを輩出した。また、興志塾は後に玄洋社を興す頭山満、箱田六輔なども輩出している。 制禁1784年(天明4年)の藩校創立時に、日常の戒めとして下記の制禁が定められた[42]。
報国寮1902年(明治35年)に通学に不便な生徒のために寄宿舎が設置され、1915年(大正4年)に「報国寮」と名付けられ、寮歌も作られた[43]。最盛期には200人近い寮生が在籍したが、1922年(大正11年)に福岡県が県立高校の寄宿舎廃止を決定し、報国寮は閉舎された[43]。 モーカリ![]() 1975年(昭和50年)頃まで続いた慣習に「モーカリ」というものがあった。これは、担当教員不在の場合、繰り上がりで当日の授業が早仕舞いするというものである。また、変更の都合がつかず自習が生じた場合に自習の後の授業を担当教員と交渉して自習にしてもらい早く放課にしてもらうことを「モーカリ交渉」と称した[9]。生徒は毎朝、時間割変更(モーカリ黒板)を確認してからその日の授業に臨んだ。なお、モーカリによって早仕舞いした分は後日補充され、「ソンカリ」と呼ばれた[44]。もともとこの制度は、戦後食糧難の時代に弁当を持ってくることができない生徒が多かったため、授業を早めに切り上げたのが始まりである[9]。モーカリは1982年(昭和57年)に廃止された[44]。 白木体育1968年(昭和43年)から1988年(昭和63年)まで修猷館に勤めた体育科の白木教諭の授業は肩車でのダッシュや、愛宕山までのランニングなど非常に過酷なものであり、「白木体育」として恐れられた。 投石事件概要![]() 明治時代中期に修猷館が再興されてわずか6年後の1891年(明治24年)3月24日[3]、修猷館の校庭から何者かによって投げられた瓦の破片が、通りを進んでいた歩兵第24連隊の隊列の兵士の小銃に当たったことに端を発し、ついには陸軍省と文部省の対立にまで発展した事件である[45]。当時の尾崎臻館長が辞任、佐藤正連隊長が更迭されるに至った[45]。 本事件は修猷館の歴史の中でも特筆すべき事件であり、修猷館再興の由来を記した『修猷館再興録』には、この事件について「本館の歴史中逸すべからざるものなり」と記されている[45]。 経緯この当時福岡城跡地 (現・平和台陸上競技場)には陸軍の歩兵第24連隊の兵営があり、この兵営が福岡城の堀を挟んで大名町上の橋にあった中学修猷館と向き合っていたので、軍隊が演習などで学校の近辺を行進することは、日常的な光景であった[45]。 1891年(明治24年)3月24日正午過ぎ、1名の軍人が突然館内に入ってきて尾崎臻館長に1個の瓦片を見せ、「いま軍隊が館の前を通っていたところ、館内から飛んできたこの瓦片が行進中の兵卒の銃に当たった。この所為は軽々に扱う性質のものではない。隊伍を整えた軍隊に投石したことは軍隊を軽蔑したことで、天皇陛下に対して不敬の至りである。投石者を調べてほしい。」と要求した。館長はかねてから軍隊を尊敬すべきことは日常よく教えており、生徒が軍隊を蔑視して投石したとは思わなかったが、昼休みに砂利などを投げ合って遊んでいた際にそれが塀を越えたものかもしれないと考え、「生徒を取り調べた上で何分のお答えをしよう。」と答え、軍人は紙片に書きとめて軍曹岡村忠夫とともに帰った[45]。学校は直ちに厳密な調査を行ったが、結局投石者はわからないまま、午後5時頃に生徒を帰宅させた。一方、館長は県庁に赴き、この事件について報告し、帰り道に香川連隊副官に挨拶をして帰宅した[45]。 3月25日副島歩兵少尉が一中隊を率いて来館し、投石者はまだ判明しないのかとしきりに催促し、自分たちが直接取り調べの模様を見なければ納得できないと要求したが、館長と教頭は断固としてこれを拒絶した。校門は軍隊によって封鎖され、生徒は校内に監禁された。引率の兵士は武器を持ったまま館内を徘徊するなど、館内は軍隊によって蹂躙されたため、館長は県庁に連絡したところ、県庁からは後藤課長と属官の2名が来館し現状を視察した。午後5時、館長は明日午後6時までになんらかの確答をすることを約束して副島少尉は士卒2名を残して引き揚げたが、その後大野曹長が来館したので、県庁から山崎書記官が出張してきて、残兵を全て引き揚げるよう要求し、午後11時に軍隊は全て引き揚げた。取り調べは、結局何の証拠もつかめぬまま、生徒一同を帰宅させたのは午前0時を過ぎていた[45]。 3月26日、館長は副島少尉を訪ね、前日の取り調べ状況と結果を報告した。県庁からは山崎書記官が再度来館し、今日からは軍隊と県庁とで交渉するので、軍隊と修猷館とは直接談判はせず、取り調べに尽力するよう指示した。しかし、午後5時までの取り調べでも確たる結果は得られなかったので、館長・教頭・寄宿舎取締一同は進退伺いを提出した[45]。 3月27日、安場保和県知事が来館し、館長・教頭に罰俸、寄宿舎取締一同に譴責処分を行った。尾崎館長はその直後、辞表を提出した。事件の経過について館長から報告を受けた黒田家は4月24日県側の見解を質し、その中で「今回の行動は軍隊の行政干渉のように見受けられるが、陸軍の軍規に背戻しないか、よく審査する必要がある」としている[45]。 その後の経過最終的に学校側から投石者は出なかったが、当初から尾崎館長に投石者を差し出す意思などなかった。尾崎館長には「軍規をもって威圧的に迫る軍隊が国家の干城であるなら、教育勅語を奉ずる学校の生徒もまた国家の干城であり、対等の存在である」という固い信念があったからである。尾崎館長は県知事あてに出した伺書の中で、「当館における軍隊の挙動が、軍規によるものなのか、士官の臨機の処置であったのか」を明らかにするよう求めており、また後日提出した「意見大意」の中でも教育の独立と尊厳を強調している[45]。 投石事件に対する社会的反響は大きく、当時の新聞は筆を揃えて、教育に対する軍隊の態度を非難した。事件は中央にまで及び、文部省は陸軍省に福岡連隊長の更迭を強く要請し、当時の佐藤正連隊長は、10月28日付で歩兵第18連隊に転補となった。その後、尾崎館長は11月27日に依願退職した[45]。学校経費を寄付し、管理を県庁に委任していた黒田家は7か月余りの館長空席の後の第3代館長を黒田家13代目当主黒田長成に決定した[9]。その後、第4代館長には隈本有尚が再任する[9]。 校内概要![]()
教室棟、管理棟、プール棟、講堂、体育館、菁莪記念館、修猷資料館などからなる[46]。校地総面積は58,738平方メートル[46]。校地総面積の3分の2ほどをグラウンドが占め、各棟は校地全体の東側に位置する。各棟は教室棟・管理棟を中心として、プール棟・講堂が北側、体育館・菁莪記念館・修猷資料館が南側に位置する[46]。現在使用されている校舎は菁莪記念館を除き、1998年から2008年まで10年にわたって行われた新校舎建設事業によって建設されたものである。菁莪記念館は修猷館200年記念事業の一つとして1984年に建設されたものであり[37]、現在最も古い建物となっている。 施設
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![]() ![]() このほか校内には、ユーカリやクスの大木、ザクロやレモン、サクランボなどの果樹なども多く植えられており、街中ながら緑豊かな学校である。また。創立記念碑・卒業記念碑などの石碑や、『RYU』・『みち』・『想い』などのアート作品も敷地内に点在している。 ギャラリー
学校生活ルール自主自立の精神と反骨的な校風が受け継がれていることから特に校訓・校則を定めず、生徒による大幅な自治が認められている。生徒心得[48]という明文化されたルールはあるものの、校則とは呼ばれず、風紀検査も行われない。生徒手帳が配布されない代わりにカードサイズの生徒証明書が発行される。 校内での携帯電話の所持・使用は各自の裁量に任せるなど規則は緩やかであるが、私服登校やオートバイ通学は原則認められていない[48]。1985年頃まではオートバイでの通学は許可されていたが、PTAによるオートバイの三ない運動の影響によって廃止された。 2023年に生徒心得の改正が行われ、夏服・冬服着用期間の指定が廃止されたほか、改正手続きについて明記された。 制服男子の冬服は一般的な黒色の学生服に学生ズボン。襟に校章をつける。学生服を脱いで中間服にする場合はカッターシャツを着用する[48]。 男子の夏服は半袖のカッターシャツに学生ズボン。シャツのポケットに校章をつける。ベルトの色や形、インナーなどは自由[48]。 女子の冬服は濃紺のセーラー服に濃紺のジャンパースカート。襟に白い3本線の縁取りがあり、左右の角には六光星の白い刺繍が入っている。襟かポケットに校章をつける[48]。 女子の夏服は白のセーラー服に濃紺の吊りスカート。襟に3本線の縁取りがあり、左右の角には六光星の青い刺繍が入っている。襟かポケットに校章をつける。スカーフは冬服・夏服のどちらも紺色[48]。 男女とも靴、靴下、体操着、鞄の指定はない。また、セーターやカーディガンなども着用できる。 時制2022年度より下記の時間割に変更された[49]。火曜日7限に「総合的な探求の時間」、水曜日7限に「ホームルーム活動」を行う。なお、定期考査・実力考査の実施日は、SHR開始時刻を8時40分、I限開始時刻を9時とする[49]。なお、下校最終時刻は7時30分である。
掃除は上記時制に組み込まれていないが、各クラスに割り振られた場所を放課後に掃除する。 2つの昼休みをそれぞれ一昼(いちひる)・二昼(にひる)と呼ぶ。生徒総会などがあるときには一昼と二昼の時間が入れ替わる。 夏季休業・冬季休業中には夏季・冬季補習がそれぞれ実施されるほか、3年次には選択科目に準じて放課後課外が実施される。なお、自習スペースとして放課後の教室、大講義室、南北棟ホール、教科センター前などが供される。 学級諸委員各学級には以下の委員が置かれる[50]。
修猷二大行事外部に広く公開される大規模な学校行事は年に2回開催される。いずれも企画立案段階から各行事における生徒運営委員会が設置され、生徒主体の運営が行われる。また、これらの行事の直前期には、授業時間が短縮され午後は作業・練習の時間となる。 修猷大運動会毎年9月上旬に開催され、例年一般公開されている。全校生徒が赤・青・黄・白の4ブロックに分かれて競い合う。各ブロックは大幹(だいかん)と呼ばれる幹部を中心に総合優勝を目指して熱戦を繰り広げる。また、運営委員会も生徒のみで構成されており、各ブロックのブロック長や大幹とともに大運動会の開催に向けて業務を行う。なお、運営委員会のカラーは緑である。 競技修猷大運動会で行われる競技には以下のようなものがある[51]。 ![]() ![]()
大運動会の入場行進の際には五輪旗が掲げられる。かつては1964年東京オリンピックにおいて国立競技場に翻った実物を使用していが、現在では劣化したためレプリカを使用し、実物は額に入れられ同校の資料館に展示されている。 →詳細は「五輪旗」を参照
修猷大文化祭毎年6月上旬頃に開催されていたが、2学期制への移行に伴って平成20年度からは3月中旬頃に移行された。例年一般公開されている。なお、3年生は参加しない。 内容を大別すると、各クラスが一体となって展示や劇を行うクラス企画、文化部が部活動の内容や成果を紹介したり部活動に関連した内容の展示や劇を行ったりする文化部企画、展示・バンド・歌・ダンスなど有志が中心となって行う文化祭有志企画、の3つがある。 秀逸だったクラス企画には、館長自らが選ぶ「館長賞」や、来場者からの投票で選ばれる「六光賞」が与えられる。 平成20年度の6月には文化部を中心とした文化祭「春のフェスト」が開催されたが、平成21年度から「春のフェスト」は廃止され、代わりに「文化部発表会」が開催されることとなった。 年間行事上記の二大行事や学年行事、研修旅行を除いてほぼ全ての行事運営を執行部が担っている。年間を通しての行事スケジュールは以下の通り[52]。 4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
1月
3月
生徒会・部活動部活動への加入率が高く、兼部をする生徒も多い。全校生徒からなる生徒会が大幅な自治と学校運営を任されており、どの団体も行事や大会に向けて日頃から盛んに活動している。 生徒会生徒会選挙で選出されるのは下記の三役員のみで、業務のほとんどは執行部が行う。
事業部生徒の学校生活や広報に関わる部で、学校運営の一端を担う[53]。
運動部スポーツ推薦による入学もあり、ラグビー部や陸上部をはじめ多くの運動部がインターハイ出場を目指して盛んに活動している[53]。
文化部文化部活動の成績による推薦入学もあり、多くの文化部で兼部が可能である。全国高等学校総合文化祭などへの出場を目指して盛んに活動している[53]。
文体総合部校内での競技人口などの事情により部活こそ存在しないが、囲碁、将棋、空手など様々な分野で学校を代表して公式大会に出場している。第46回全国高等学校総合文化祭囲碁部門では準優勝を果たしている。 愛好団体まだ部活動として認可されていないが、生徒有志が集まり、大会に出場したり、学校行事に参加したりしている団体。
高校関係者一覧→「福岡県立修猷館高等学校の人物一覧」を参照
修猷山脈修猷館出身の偉人は「修猷山脈」と称されており、大日本帝国憲法起草者の一人である金子堅太郎や、第32代内閣総理大臣・広田弘毅などが名を連ねている[54]。 同窓会1892年(明治25年)に金子堅太郎の勧誘により、教職員と卒業生の会「修猷館館友会」が創設された[4]。この「修猷館館友会」や1899年(明治32年)に広田弘毅ら在京の卒業生が学生生活の拠点として作った「浩々居」が現在の同窓会の前身となる[4]。 その後、各地で多くの同窓会が発足したが、包括的な組織が存在しなかったため、卒業生のつながりを確かなものにするため、1946年(昭和21年)11月3日に「修猷館同窓会」が発足した[4]。 また、同窓会雑誌は広田弘毅らの尽力により1902年(明治35年)12月に第1号が発行され、『学友会雑誌』への改称を経て、1931年(昭和6年)に現在の『修猷』という名称になった[4]。なお、この時に卒業生に関する内容が『菁莪』として別冊子として発行されるようになった[4]。 アクセス最寄りの鉄道駅 最寄りのバス停
最寄りの道路
脚注注釈出典
参考文献
関連書籍
映像作品
関連項目
外部リンク
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