PL学園中学校・高等学校
PL学園中学校・高等学校(ピーエルがくえんちゅうがっこう・こうとうがっこう、英: PL Gakuen Junior & Senior High School)は、大阪府富田林市に所在し、中高一貫教育を提供する私立中学校・高等学校。パーフェクト リバティー教団本部敷地内に立地している。 概要中学では英語と数学で習熟度別の授業を導入している。また高校では国公立コース、理文選修コースの2コースを設置し、希望進路に応じた学習を図っている。 中校・高校ともに大半の生徒が寮生活を送っている。かつては全寮制であったが、現在は自宅通学も可能になっている。また、以前は高校に定時制課程、通信制課程も併設されていたが、定時制課程は2000年度に、通信制課程は2009年度に廃止されている。 スポーツ関係の部活動の名門校としても知られており、卒業生の清原和博はグラウンドの大きさは高校随一だと述べている[1]。特に硬式野球部は数々の成績を修め大勢のプロ野球選手を生み出してきた。しかし、インターネットが発達すると、部内の暴行やそれによる自殺など異常な実態が明らかとなり、新人部員が激減。硬式野球部は2015年春に部員募集を停止し[2]、2016年7月から休部となっている。一方、硬式野球部と同じユニフォームの軟式野球部はその後も活動を続け、2017年には全国高等学校軟式野球選手権大会に大阪代表として11回目の出場を果たした[3]。しかし、軟式野球部も部員が減少し、2022年の秋から他校との連合チームとなり、2024年の選手権を最後に休部することとなった[3]。 信者数の減少や受験者の受験意識の変化、硬式野球部の部員募集停止などにより入学希望者が減少し、2015年2月の高等学校受験では、外部受験枠75名に対して受験者は28名[4]、2021年度は、国公立コースが15人の募集に対し3人、理文選修コースは80人に対し7人[5]、2022年度は国公立コースが20人の募集に対し1人、理文選修コースは80人の募集に対し、専願・併願共に1人となるなど[5]、生徒数も年々減少し、学校自体の存続も危ぶまれている[4]。2024年度の生徒数は、高校が3学年合わせて42人、中学校が3学年合わせて39人となっている[6][7]。 入学に際しては、生徒本人と保護者に対してパーフェクト リバティー教団への入会と信仰が必須条件になる[8]。ただ、以前は入学と同時に名目的に入信し、教団のアミュレットを購入する程度でも問題がなかったものが、2016年度より大きく方針を転換し、一般的な仏教における仏壇に相当する「お神霊(みたま)」を自宅に持つ家庭の生徒以外の受験を認めない方針となった(なお、学校側では「入試制度に変更があったわけではありません」としている)[9]。古くからPL学園を取材するジャーナリストからは、入学希望者の急減の理由の一つにこの方針転換があると指摘されており、OBからは「教団は学園を布教師の育成学校にしようとしている」との声もある[10]。 校舎や寮の老朽化も問題となっており、2号館/4号館/図書館/剣道場/金剛寮/葛城寮の6施設が耐震性の基準を満たさないとして文部科学省及び大阪府から改善を求められ、学校側は「寮を除く4施設については2022年度をもって未使用化する」ことを決めている。ただ、寮についてはフロアを限定しつつも使用を継続しており、建て替えの予定もない[11]。 沿革
部活動母体であるパーフェクト リバティー教団は「人生は芸術である」という教義を掲げている。そのため自己表現を重視することが奨励され、野球を始めとしたスポーツにも力が入れられている。 硬式野球部が全国的に有名であったほか、軟式野球部、バトン部、剣道部なども全国大会レベルで活躍していた。 ゴルフ部は、男子が1980年の第1回全国高等学校ゴルフ選手権大会と、翌1981年の第2回全国高等学校ゴルフ選手権大会で優勝を果たした[12]。同部からは高村博美(賞金女王1回)、中嶋千尋(ツアー通算4勝)、谷口徹(賞金王2回)ほか数多くのプロゴルファーを輩出したものの、2001年に廃部となった。 硬式野球部
沿革硬式野球部は1956年(昭和31年)に創部され[13]、綱島新八(立大OB、元プロ野球選手)から井元俊秀(PL学園 - 学習院大OB)に監督が代わった、わずか7年目の1962年(昭和37年)に甲子園大会に初出場(春夏連続。第34回春の選抜・第44回夏の選手権)を果たした。 その後、1960年代から1970年代を通じて甲子園の大阪府代表の常連校7校(私学7強)のうちの1校となり、1977年(昭和52年)の3年生から2001年(平成13年)の3年生までは25学年連続でプロ野球選手を輩出した。 山本(鶴岡)泰監督(法大OB、鶴岡一人の子)の下、1978年夏(第60回)の全国高等学校野球選手権大会で、準決勝の中京戦、および決勝の高知商戦において土壇場の9回裏からの大逆転劇を見せ、「9回裏の奇跡」「逆転のPL」の異名をとり、春夏を通じて甲子園大会初優勝を遂げることとなった。 また、中村順司監督(PL学園 - 名商大OB)の下、1985年夏(第67回)には、全国大会では現在でも唯一の記録である毎回得点を達成した(詳細なスコアはこちらに掲載)。 同部は1990年代末から2000年以降にかけて数々の暴力事件が報告されて問題になった。特に2013年には部内暴力によって対外試合禁止処分を受け、当時の監督が退任した。詳細は後述する。 甲子園大会への最後の出場は2009年夏(第91回)となっている。 2016年(平成28年)に最後の部員たちが夏の大会を終えたことで休部され[13]、2017(平成29年)年には部員が消滅して高等学校野球連盟からも脱退した[14]。以後、部員の募集は再開されていない時期があったが、2023年に1人の入部が許可され7年ぶりに活動を再開した。 特徴「神に依る野球」「世界平和のための野球」を標語(公式HPより)に、甲子園全国大会では人文字での応援(カラーカード〈色画用紙〉やメガホン・ポンポン等を使用)が有名であった。 多くのプロ野球選手を輩出したことをはじめ、2023年時点で日本人のメジャーリーガー挑戦者が最多であることでも知られている[15]。 かつての同野球部は少数精鋭制をとり、完全外部スカウト制であった。中学校時代にリトルシニアやボーイズリーグで優秀な成績を修め、PL学園のスカウトマンに勧誘された者だけが入部を許された部活動であり、在校生からの一般入部は一切受け付けていなかった。 しかし、このスカウト制度は後述のいじめ問題発覚後、野球部専用寮と共に廃止された。以降は部員募集停止までの間、入学後に在校生が入部する一般的な部活になっていた。 いじめと監督後継問題同野球部では数々の暴力事件が報告されており、1986年にはいじめによる死亡事故が起きている[16]。 →詳細は「PL学園高校野球部いじめ死亡事件」を参照
インターネット社会が発達する前までは、外部には上記のようなシゴキの実態がほとんど知られていなかった。それでも部活見学の際の上級生と1年生の様子から異様な雰囲気を感じて同校への進学を見送った人もいる。関本賢太郎はその内の一人であり、父親からPLへの進学を薦められたが、部活見学を行った際に上下関係の厳しさを感じ取り天理高等学校へ進学先を変更したことを語っている[17]。 1997年には、上級生が暴力を加えて重傷を負わせ、2001年には日常的に上級生が下級生をバットで殴るなどのいじめが原因とされる暴行事件で半年間にわたる活動停止処分を受けている。さらに、被害者の家族に訴えられて裁判沙汰になった[18][注 1]。その他の部内の規律として、なきぼくろは、「女を見るのは禁止」という規律が存在していたと語っている[19][20]。2008年も暴力事件が起こり、藤原弘介監督(当時)が辞任。後任として河野有道が監督に復帰したが、2011年には部員の部内暴力と喫煙で1ヶ月の対外試合禁止になった。 2013年4月9日には、高野連・西岡宏堂審議委員長より2013年2月23日午後10時頃、2年生4人が、1年生1人を寮内にて殴る蹴るの暴行を加えたため救急車が出動し、病院送りにしたことが明らかにされた(学年は共に事件当時)。これにより日本学生野球協会審査室会議にて2013年2月24日から8月23日までの6ヶ月間の対外試合禁止処分が決まった[21][22]。河野は2001年の活動停止処分を受けた際の監督でもあったがその後退任し、4月16日付でPL教団職員に異動した。 →「PL学園高校野球部集団暴行事件」を参照
かつての教団や教祖であり野球ファンだった御木徳近は名門野球部を広告塔として最大限に支援していたが、PL教団は度重なる不祥事や教団幹部の代替わりによる内部の運営体制の変化により次第にトラブル続きの野球部に対して厳しい態度で臨むようになり、野球部の体質改善を積極的に行った。まず、野球部専用の寮であった「研志寮」が2001年のいじめ問題発覚後に「閉鎖的な野球部寮に問題がある」という理由で2002年3月末限りで廃止され、同年4月以降は野球部員も一般生徒と同じ寮で生活している。また全寮制の廃止もあり、通学可能な地域に居住している部員は自宅から通学している。研志寮の建物はPL学園小学校の「小学SC寮」に転用され改装されたが、老朽化に伴い2019年に解体された。 また、社会情勢や教育環境の変化から教団の学校運営方針が「スポーツ選手の育成強化」から「在校生徒の学力向上重視」に主軸を置くようになったため、かつて行われてきた有能者を見つけるための外部スカウト制度やスカウトによる推薦入学や特待生の制度も寮の廃止と同時期に全て廃止され、一般入試で合格した在校生が入部する一般的な部活に変更された。毎年恒例となっていた夏季と冬季の合宿制度も全て廃止され、大きな問題となっていた上級生の「説教」制度も一切禁止された。練習時間も大幅に短縮され、それ以外の時間帯の練習は特別な事情や教団・学校の承認が無い限り一切禁止とした。さらに学力維持と向上のため、年間成績や定期テストなどで一定の成績に満たない部員は約1ヶ月間練習禁止処分にして補習を受けさせるようにした他、1週間に1回全員での教団講話の拝聴を義務付けた。部活関係者以外の野球部OBとの接触やOBの学校訪問も一切禁止とした。上級生と下級生が同部屋で生活し、下級生が上級生の雑用等をこなす野球部独自の「付き人制度」も教団や保護者、一般生徒などから生徒間の行き過ぎたプライバシー等の侵害や厳しすぎる上下関係による不祥事を問題視されるようになったため、2013年6月より部活の雑用(食事作り、掃除、洗濯、買い出しなど)は全て寮関係者や教団ボランティアのスタッフが行うように変更され、下級生の雑用を一切禁止とした。同年秋には「付き人制度」そのものが廃止され、全部員が一般生徒と同じ待遇となり野球部の伝統とされてきた厳しい上下関係や規律も大幅に改善され緩和された[23][注 2]。 清原は、この事件の後2013年にテレビ出演した時にPLの暴力は伝統であると語っている[25]。 後継監督候補には複数のOBが浮上しているが、学校・教団側はかねてから野球部OBの多くが卒業後には教団への信仰から距離を置いていることに不満を持っており、野球部OBが監督に就任する条件の1つとして教団への熱心な信仰を求めているが、学校・教団側の要望に該当する野球部OBがいないことから、2013年秋大会から常勤の監督が不在という状況が長期化していた。練習ではOBのコーチがいるものの、OBのコーチの指導はノッカーとしてのみ認められている(このOBは学校側から監督昇格は認められていない[26])。このため公式戦では野球未経験の正井一真校長が登録上の監督に就任し、ユニフォームを着てベンチ入りしているが、試合の中で決断を下せる大人が不在となっており、作戦や選手交代を選手同士で決めていた。2014年10月には監督不在により十分な指導ができないことを理由に、入学を希望する中学3年生の新入部員の受け入れ停止を決定した[27]。 2015年3月16日、同年4月1日付の人事異動で正井が校長職から校外の教団施設への転任が決定し、同時に野球部の監督を退任することが発表された。新たな校長に草野裕樹が就任し[28]、野球部の監督も兼任することとなった[29]。 清原が証言した1983年当時の寮生活前述の暴力問題を裏付けるように、清原和博は、その寮生活について非常に過酷なものだったと後の2021年(令和3年)に語っている。松山秀明と共に回想したという、片岡篤史との談話に基づく[30]。 なお、同校はかつて全寮制であり、野球部員以外も全員が寮に居住していた[31]。
清原が入学した1983年(昭和58年)当時、同野球部の1年生は生活において次のような規則を与えられたという[30]。
また、当時の1年生にとって毎日のスケジュールは以下のものだったという[30]。宮本慎也や坪井智哉も同様の証言を行っている[32][33]。
休部2015年春及び2016年春は新入部員を募集しない方針をとり、2016年2月の時点で2年生部員12人のみが所属していた[37]。 2016年2月、野球部長を兼任する草野校長が同年春に定年退職となるため、同校事務職員の川上祐一が野球部長に就任した[37]。野球部員の募集再開時期は未定となっており、2016年夏の全国高等学校野球選手権大会での現役部員の引退をもってひとまず休部することが決定[37]。 2016年7月15日、第98回全国高校野球選手権大阪大会でPL学園は3年生部員のみの12人(記録員を含む)で臨み東大阪大学柏原高等学校に6対7で敗れ、この試合をもって野球部は休部となった[13]。 2016年休部時点での最後の甲子園出場は2009年の夏であり、創部からの通算成績は、春のセンバツには20回出場して優勝3回(81年、82年、87年)、夏の選手権大会には17回出場して優勝4回(78年、83年、85年、87年)、春夏通算96勝となっている[13]。1982年には史上2校目の春連覇、1987年には史上4校目の春夏連覇を達成した。 2017年3月29日、PL学園側から大阪府高等学校野球連盟に対して脱退届が提出され、大阪府連盟は同日これを受理した。PL学園側では今回の脱退について「平成29年度より本校の部員募集再開が決定するまでの間、大阪府高等学校野球連盟に非加盟とする形である」と説明している[14]。 休部後は、かつての硬式野球部専用グラウンドを、活動継続中の軟式野球部が使用している。 2023年8月、1年生1人が硬式野球部入部を許可され練習を始めていることが報道された[38]。ただし、高野連を脱退しているため合同チームで出場するにも連盟への再加盟が必要になる。 校歌作詞:湯浅竜起、作曲:東信太郎 出身者政治法曹スポーツ野球
剣道ゴルフその他のスポーツ芸能・芸術脚注注釈出典
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