1952年のロードレース世界選手権
![]() 1952年のロードレース世界選手権は、FIMロードレース世界選手権の第4回大会である。5月にスイス・ブレムガルテンで開幕し、スペイン・モンジュイックで開催される最終戦まで全8戦で争われた。 シーズン概要1952年シーズンから、これまで許可されていなかったドイツ人ライダーとドイツメーカーの参戦が可能になった。戦前のレースで活躍したBMWはワークス参戦を見合わせたが、DKWとNSUがこの年から参戦を開始した[1]。 また、同時にこの年からドイツGPがカレンダーに加わり、40万人の観衆を集めた[2]。但し、前年開催されたフランスGPがカレンダーから消えたため、前年同様に全8戦で争われた。 この年の第6戦アルスターGPの500ccクラスでは、18歳のジョン・サーティースがグランプリデビューを果たしている[3]。 500ccクラス前年に圧倒的な強さを誇ったノートンにとって、一転してこの年は受難のシーズンとなった。チャンピオンのジェフ・デュークとオーストラリアのケン・カバナに加え、新戦力としてデイブ・ベネットを新たにファクトリーチームに迎えたが、ベネットは開幕戦のスイスGPでトップ争いの最中のクラッシュによって命を落としてしまった。ベネットのマシンは当初はプライベーターとして参戦していたレイ・アムに与えられたが、アムはドイツGPの予選で負傷してしまう。そしてエースのデュークも選手権の合間に出場したノンタイトルのレースで足首骨折という重傷を負い、シーズン後半を棒に振ってしまった[4]。 一方のジレラはシーズン中もパワーの強化を続け、シーズン終盤には55ps/10000rpmにまでパワーアップされていた[3]。ウンベルト・マセッティはスイスGPはリタイヤに終わり、マン島にはジレラの伝統として出場しなかったが、オランダ、ベルギーと続けてデュークを降して勝利を収め、デュークが負傷欠場した後半戦では2度の2位表彰台を獲得して1950年に続く2度目のタイトルを獲得した[5][6]。マセッティは最高峰クラスで複数回タイトルを獲得した最初のライダーとなった。 ノートンに代わってジレラのライバルとなったのは、レスリー・グラハムの手によって大きく進化を遂げたMVアグスタだった。グラハムはイタリアGPでMVアグスタにとって500ccクラス初となる勝利を挙げ、続く最終戦のスペインでも連勝を飾ったが、この2戦で2位となったマセッティに3ポイント及ばずランキング2位となった[4]。 350ccクラス350ccクラスでは前年に続いてノートンとジェフ・デュークによる支配が続いた。デュークは開幕から4連勝を飾り、その後の怪我によって後半の3戦に不出場となったにもかかわらず、タイトルを獲得したのである[7]。 残る3戦の勝者も全てノートンのライダーで占められており、アルスターGPで優勝したケン・カバナはグランプリで優勝した最初のオーストラリア人となり、続くイタリアGP勝者のレイ・アムはグランプリで優勝した最初のローデシア人となった[2]。 250ccクラス![]() 250ccクラスも350ccクラスと同様に前年の覇者であるモト・グッツィによって支配されたシーズンであった。ただし主役となったのは前年チャンピオンのブルーノ・ルフォではなく、イタリア人のエンリコ・ロレンツェッティとイギリス人のファーガス・アンダーソンだった。 アンダーソンが開幕から2連勝で選手権をリードしたが、ロレンツェッティは2戦とも2位に入り、第3戦オランダでシーズン初優勝を飾った。ドイツGPでは地元のルディ・フェルデンハイヤーがDKWにグランプリ初優勝をもたらしたが、これは2ストロークエンジンのマシンによるグランプリ初優勝でもあった[2]。 アルスターGPで2位となったロレンツェッティがポイントを逆転してトップに立ち、最終戦ではヴェルナー・ハースとのタイム差が計測できないほどの接戦を制して優勝、初タイトルを決めた[2][8]。 125ccクラス選手権シリーズの開始以来続いていたモンディアルの125ccクラス支配が、このシーズン終わりを迎えた。開幕戦でMVアグスタのセシル・サンドフォードが自身とMVアグスタにとってのグランプリ初勝利を飾ると続くオランダでも優勝、第4戦のアルスターGPで3勝目を挙げて初のイタリア人以外による最小クラスチャンピオンとなった[9]。 ドイツGPではヴェルナー・ハースがNSUに、イタリアGPではエミリオ・メンドーニがモリーニに、それぞれグランプリ初勝利をもたらしている[2]。 グランプリ
最終成績
500ccクラス順位
350ccクラス順位
250ccクラス順位
125ccクラス順位
脚注
参考文献
外部リンク
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